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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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就職課へ行こう

学生を採用しようとする企業は,就活の序盤ではナビサイトに求人広告を出す。もちろん,有料である。数十人を採用する企業であれば,就職情報会社に8桁の金額を払っていてもおかしくはない。
 その後,中盤にかけて内定を出すわけだが,当然ながら内定辞退者が出て欠員が発生する。この場合,企業はどうするか?
 まず,最終選考に落ちた学生に声をかけ,再面接をする。もっとも,数はそう多くとれず,欠員はそうそう埋められない。もともと中盤以降に二次募集をかける予定だった企業は,そこで欠員を補充するが,二次募集の予定がなかった企業はどうするのか?
 仮に100人採用する企業に5人,欠員が出たとしよう。序盤であればナビサイトに大金を払ってでも求人広告を出す。
 では,中盤以降は?
 企業からすれば,たかだか5人のためにナビサイトへ求人広告は出せない。費用対効果が悪すぎるからだ。そのため,中盤以降,ナビサイトは開店休業状態が続くことになる。毎日,絶えず見ても出てくるのは公務員試験の案内か,派遣社員の求人広告くらい。前者は多くの就活生には無関係だし,後者は条件を下げてもいいから,とあきらめた学生が殺到。説明会はあっという間に満席となってしまう。
 話を戻すと,欠員が出てもナビサイトに求人広告を出さない企業は,費用がかからない方法を選択する。それが,大学就職課(キャリアセンター)への求人依頼だ。過去に内定者の出た大学や関係の深い大学に,ピンポイントで依頼をする。費用がかからず,しかも大学側もそうそう下手な学生は勧めてこない。初期選考を大学に丸投げしたも同然だ。こういう求人依頼があるのだから,大学就職課も捨てたものではない。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.46-47.
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価値観の押し付け

ところで,学生以外にも,マスメディアの報道や就活マニュアル本における就活生の類型化を,簡単に信じてしまう集団が存在する。それは他ならぬ就活生の親である。親が気にして需要があるからこそ,マスメディアの報道や就活マニュアル本は存続しているのだ。
 後者のマニュアル本については,2000年代に入ってから,就活生向けではなく就活生の親を対象としたものが何冊も刊行されるようになった。
 親は「どこでもいいから就職してくれ」「できれば親戚に自慢できるところに就職してくれ」「安定した仕事を選んでくれ」など,自分の都合や価値観をわが子に押し付けようとする。ついでに言えば,「うるさいことは言わないから好きにしろ」も,親の願望の押し付けを巧妙に隠しているに過ぎない。そして価値観を押し付けるための材料として,マスメディア報道やマニュアル本は欠かせない。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.20-21

「ない」ことの表現

私たちは記憶が「ない」ということを,どのようにして表現できるだろうか。屁理屈のように聞こえるかもしれないが,かつてフランスの哲学者ベルクソンが指摘したように,そこに何かがあったからこそ,そこで何かが失われたことがわかるのである。「ない」ことを表象するには,言語や数字のゼロのような記号の働きによるしかない。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.186

記憶喪失は治るという期待

注意しなければならないのは,物語における記憶喪失が当初から読者=観客に対して「記憶喪失は治るものだ」という期待を持たせることである。しかも逆行性健忘を題材とした多くの物語では,過去の記憶は何らかの出来事をきっかけに一瞬にして回復する。しかし医学的な症例としての健忘では,そのようなケースは稀であることがわかる。
 すなわち表象としての記憶喪失と現実の健忘の違いは,どのようにして記憶を失うかということよりも,むしろどのようにして記憶が回復されるかという点にある。現実の世界では,記憶は回復するとしても,その過程は緩慢で時間がかかったり不完全であったりする。というよりも精神的な障害の多くがそうであるように,健忘についても回復の過程は千差万別で,そう簡単に類型化できないのだろう。少なくとも何かの拍子にパッと記憶が戻るというのは,ど忘れや一過性の健忘の場合はともかくとして,より深刻な症状については虚構の世界の出来事であると考えた方がよい。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.162-163

ソーシャルゲームに記憶喪失

さらに最近ではネットワーク上で複数のプレーヤーが協力するソーシャル・ゲームが広がっている。この種のゲームに記憶喪失というモチーフが導入された場合,物語はさらに多様で複雑なものになる可能性がある。いずれにせよPCゲームにおける物語は,必ずしも虚構の世界だけで完結しない。もちろん現在はシステム的な制約により物語が分岐する可能性は限られているが,それはプレーヤーの数だけ存在するとも言える。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.133

ゲームと記憶喪失

ある種のコンピュータ・ゲームに,記憶喪失というモチーフを導入することには利点がある。なぜならゲームを最初にプレイする人間にとって,そのゲームの世界は未知のものであり,プレーヤーは一種の記憶喪失者だからである。ただしそれは,ゲームの世界がどの程度「物語」を必要としているかによる。たとえばアクション・ゲームのように主としてプレーヤーの反射神経が中心となるゲームでは,記憶喪失というモチーフはほとんど必要とされないだろう。
 これに対してRPG(ロール・プレイング・ゲーム)のように物語性の強いゲームの場合,主人公が存在する世界の外にさらに別の世界があるという空間的な拡張を行うだけでなく,記憶を失った主人公(とその仲間)あるいは敵の過去(および未来)を問題にすることによって,物語の世界を時間的に広げることが可能になる。もちろんゲームの中で本当に過去や未来を行ったり来たりできるわけではないので,そこで拡張されるのは「過去」や「未来」という符牒(タグ)の付いた「空間」である。ただしこの空間は,時間によって相互に関係づけられるので,そこには必然的に何らかの物語が生じることになる(物語の原型は,相互に独立して起こった出来事を時間的な前後関係によって結びつけることだからである)。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.129-130

記憶と歴史

権力者が自分の都合の良いように公的記録=歴史を書き替えることは昔から行われてきた。しかしオーウェルが『1984年』で問題にしたのは,個人的な記憶が集合的な記憶としての歴史の中で果たす役割である。記憶喪失をモチーフとしたそれまでの小説や映画では,個人的な記憶が失われてしまうことは,その個人の問題だった。もちろん『独裁者』における浮浪者チャーリーや『無言の祈り』のハンブルトンのように,記憶を失った主人公が歴史の重大な岐路に直面することはある。ただしそれは,特権的な個人と歴史との関わりとして示された。これに対して「ビッグ・ブラザー」は,人々が持つ膨大な個人の記憶の領域にまで入り込み,それらを改変しようとする。そして模造され,埋め込まれた個人の記憶によって集団の歴史が作られる。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.116

精神分析的

記憶喪失を精神分析と関わらせるという発想は,ウェストの『兵士の帰還』(1918)に見られた。またラインハートのミステリー『破断点』(1922)でも「精神・分析医」が脇役で登場する。ただしこれらはあくまで早い時代における例外的な試みである。欧米では1920年代後半においても,精神分析はまだ一部のインテリの間で知られているにすぎなかった。しかし1940年代になると,精神分析はアメリカで中産階級を中心として広く認知されるようになる。その直接的なきっかけは,精神分析を敵視したナチス・ドイツの迫害によって1930年代後半からフロイトの弟子たちが次々とアメリカに移住したことである。その結果,精神分析の中心地はアメリカへと移った。
 ただしこうした外的な要因は別として,アメリカではすでに戦前から後の精神分析の流行を予感させるような作品が作られていた。それは,ハメットやチャンドラーによって代表されるハードボイルドな犯罪小説に対して,犯罪を心理的な側面から描こうとする犯罪小説であり,さらに映画である。これらは後に「サイコスリラー」(psychological thriller)と呼ばれるジャンルに属する作品である。前者が,産業化が進む都市の周辺部において悪と戦うことにより自らのアイデンティティを見つけようとする主人公を描いていたとすれば,後者における主人公は性的な逸脱を含めた悪へと引き寄せられ,そこで葛藤する。こうした作品が登場した背景には,大恐慌を経て次第に戦争への予感が強まっていく当時のアメリカ社会があり,そこで人々が漠然と抱いていた不安があった。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.97-98

忘却と記憶喪失

神話的・民話的な「忘却」と「記憶喪失」を隔てる最大の要素は,前者で描かれる人物が近代的な意味での「個人」ではないことである。したがってそこで語られる登場人物は,なぜ自分がそこにいるのか,なぜ記憶を失ったのか,あるいは記憶を失うことがもたらす人間関係といったことにほとんど関心を持たない。別の言い方をすれば彼らはある種の役割として存在するのであり,彼ら(より正確に言えば彼らについて語る話者ならびにその聞き手)はこうした役割について疑問を持たない。その意味では昔話や神話における記憶喪失は,現代の漫画やテレビドラマでの用いられ方とよく似ている。そこでは記憶喪失は単に物語を展開させるための仕掛け(ギミック)であり,また神話や昔話に見られるように記憶喪失というモチーフは他のモチーフと交換可能であることが多い(どうしてもそこで記憶喪失が用いられなければならない必然性はない)。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.27-28

記憶喪失というモチーフ

その一方で,何度も繰り返して語られていくうちに新奇さを失い,もはや物語を進める上での約束事のようになっている筋立てもある。こうしたものは,特に神話や伝説のように,数限りなく繰り返して語られてきた物語に見られる。神話学や民話学では物語を構成するこうした要素のことをモチーフと呼ぶ。モチーフは,物語の興味の中心(テーマ)を構成することもあれば,物語を構成する一要素にすぎない場合もある。記憶喪失をめぐる物語についても同様である。記憶喪失が物語のテーマになっていることもあれば,それは物語を進める上での1つの前提でしかない場合もある。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.18

解離性健忘

一方,私たちが映画やテレビドラマで見知っている記憶喪失の多くは,専門的には「解離性健忘」と呼ばれるものに基づいている。これは強いストレスや精神的なショックによってエピソード記憶の一部あるいは全てを失ってしまうものである。こうした現象については19世紀末からフランスのピエール・ジャネ(1859〜1947)らの研究によって明らかにされた。
 ただし小説やドラマではこうした心因性の健忘だけでなく,事故などの外傷による健忘も同じように扱われる。虚構の世界の制作者たちの関心は,医学的な症状を忠実に再現することにないからである。むしろフィクションにおける記憶喪失が現実と大きく異なっている点は,それがあるきっかけによって一気に治ることであろう。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.14

受験競争と就活の混同

この「受験競争」との誤解こそが,日本の就活の問題点の1つではないだろうか。
 発見した法則なのだが,学生は内定を「もらう」と言い,選考に「受かる」と言う。これはよく考えると不思議なことである。内定は互いに決定するものであるから,もらうものではない。第一,学生が「内定」と呼んでいるものは,「内々定」なのだが。「受かる」というのも,少しズレているように感じる。ただ,それだけ学生の立場が劣位で,企業の立場が上になっていると考えられているのだろう。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.206

しょうがない

就活を始めたばかりの学生は有名企業しか知らない。毎年,「学生は大手ばかり受けて」「安定志向でけしからん」という話が出るが,それ以外の企業と出会う場は限られているし,それらの企業の情報開示も十分とはいえず,安心できないのだからしょうがない。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.178

「かわいそうな学生」報道

メディアはかわいそうな話が大好きだ。何社も落ちて疲れている学生の光景ばかりを取り上げる。「就活かわいそう報道」は,実際の就活は多様化しているのに,型にはまった部分だけ取り出して,その型を再生産し,学生を萎縮させているというのが事実ではないだろうか。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.150-151

ミスマッチ

次にミスマッチについてである。まず「マッチング」と言うが,そもそも労働市場において完璧なマッチングなどあり得ない。いくら情報を透明化しても,相手に伝えられないこと,伝わらないことはある。一緒に働いてみないとわからないことはある。その前提がありつつも,学生も企業も最大限の努力をしようとする。とはいえ,それはマッチングということのどちらかというと根本的な問題である。初歩的な問題が起きてしまっているのが,現在の就職ナビの問題である。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.123-124

「就活」が問題

繰り返しになるが,未完成の若者にかけ,定期的に組織に人を迎え入れるという新卒一括採用というシステムは時代遅れではなく,むしろ大学も大学生も増え,レベルも多様化したと言われている中,若者の進路を安定させるという意味でむしろ評価されるべき慣行である。
 問題は「就活」という学生が企業に入るための行為である。肥大化,膨張化,煩雑化し精神的にも肉体的にも負荷のかかるものになっていることである。採用する側の負担も増している。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.117

受験ではない

さらに言うならば,就職活動をめぐる「採用基準を明確にしてほしい」などの声がある。企業には社会的責任があるので,公平・公正な採用をするように努力するべきだというのは正論だが,とはいえ,前述したように企業には企業側の論理がある。学生は,いや,教育機関やメディアもあたかも就活を受験のようなもの,なかでもセンター試験のようなもの,つまりみんなが参加して,ルールが明確で上から順に決まるものだと考えがちだが,そうはならないのである。
 本来,雇用契約であるはずなのにもかかわらず,受験とすり替えられている部分がある。毎年,同時期に定期的に行われているものであるから,受験と似ているのだが,とはいえ,労働力を売る側と買う側の諸活動であるはずである。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.107-108

就活と採用活動

さて,この労と使の関係を考慮すると,就職活動に対する見方も変わってくる。つまり,求職者である学生にとっては就職活動(就活)であるが,採用する側の企業にとっては採用活動なのである。企業とは価値の創造と継続的な利益の追求を目指す組織である。だから,採用活動においては,自社の未来を担う人材を確実に獲得することを目指すのは当然といえば当然だ。採用活動の目的や,何をもって成功とするかは短期・中期・長期で見方が変化するが,短期的には自社の採用目標の達成がゴールとなる。それは,自社がその年,採用ターゲットとした能力・資質を持った学生を,採用目標とした人数だけ獲得できるかどうかということになる。
 ここが,学生の立場とはかみ合わない。学生としては,社会規範上も,仕事がないことによる経済的リスクからも,なんとか在学中に,自分が希望する企業に就職したいと考える。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.106

安くて便利

採用力のある企業なら,中堅・中小企業とはいえ,採用活動に力を入れることによって大手企業と張り合うことができる。実際,世の中全体での知名度はなくても,新卒採用での知名度,学生への知名度が極めて高いがゆえに,大手企業を凌駕する採用活動を行っている企業はある。例えば,ベンチャー企業などの求人が多数掲載されている就職情報会社ジョブウェブの人気企業ランキングなどを見ると,知名度の低いベンチャー企業もランクインしている。もともとこのサイトがこのような企業を中心に掲載しているというのもあるが,ベンチャーでも大手企業に負けない人材を採れる可能性があることの証拠でもある。
 よく,「行動経済成長期に創られた,右肩上がりで,終身雇用,年功序列を前提としたもの」という批判があるが,この言説こそが間違いで,新卒一括採用は採用しやすいし,安くて便利なのである(この書き方には心証を害する方もいるかと思うが,わかりやすいのでそう書く)。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.86-87

学生を口説き落とす

前述したように,新卒一括採用が悪いのか,就活が悪いのかというのも,セットのようで,私は分けて論じないといけないと考えている。未経験者をほぼ定期的に迎え入れるという行為自体は,若年層にとってやさしい慣行だと捉えられるが,実際の学生が取り組む就活の肥大化・煩雑化,さらには企業と学生が出会えない構造こそが問題なのである。学生は毎年,入れ替わる。常に彼らにとっては初体験である。一方で,採用担当者は長年にわたり採用業務にかかわるし,異動したとしても組織に知識は蓄積される。「騙す」とまでは言わないが,学生を口説き落とすためのノウハウ構築は簡単なのである。ベンチャー企業の採用担当者からこんな話を聞いたことがある。「優秀な学生を採用しようと思ったら,やりがいのあるインターンシップを実施して,優秀な社員を貼りつける。グローバル化,新規事業,挑戦などの言葉を連呼して,経営陣に会わせれば,それでOK」。このように,ノウハウは社内に蓄積されていくのである。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.83-84

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