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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ブラックボックス

とはいえ,「体育会」に所属しているその学生が,少なくとも1社から内定が出て,本人や周りが「体育会だから評価された」と「思い込んでいる」ことはどうやら事実のようだ。ややくどい説明になって恐縮だが,体育会関係者が就活で有利だと言える根拠はそれなりにあるのもまた事実である。ただし,体育会に所属している学生が「必ず」志望する企業に(いや,志望しない企業でさえも)内定するかどうかの確証はない。
 前述したような事例についても,少なくとも個別の事例があるので,そこでその属性が「有利」あるいは「不利」であるかのように,一人歩きしていく。
 ここで,可視化されるのは次のような点である。

 1,人々は就職活動(採用活動)をあたかも大学受験のように考えていて,ある能力などが決定的にはたらくのではないかと期待している。
 2,とはいえ,これが本当に作用したのかどうかはわからない。なぜなら,採用活動はコンフィデンシャルであり,ブラックボックスだからだ。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.58-59
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30万人

ただ,新卒一括採用という慣行の限界,企業にしがみつけない時代と言われている中,それでも毎年,1学年約60万人弱の大学生がいる中,毎年約40万人強の大学生が民間企業への就職を希望し,30万人強が正社員で就職が決定しているというのもまた事実である。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.50

クレームの嵐

現在,学校現場はクレームの嵐のなかにおかれている。しかもそれは年々ひどくなっている。担任や教科の教員の些細なミスに,怒りをあらわにして,「担任を替えろ,教科担当者を替えろ,辞めさせろ,処罰しろ」と教育委員会や校長に怒鳴り込む。
 それは,近隣の住人達も同様だ。「生徒がコンビニの前でたむろっている。公園で騒いでいる」など,学校に頻繁に電話がかかってくる。「気づいたら,お前が注意しろよ!」といいたい気持ちをグッと飲み込み,たびたび謝罪に行った記憶がある。
 つまり,自分の子供しか見ていないうえ,学校が不満のはけ口になっているのだ。

河合敦 (2013). 都立中高一貫校10校の真実 幻冬舎 pp.210

原則6年

都立高校の教員は,原則6年しか同じ高校に在籍できない。とはいっても,「本校在勤務年数3.3年」というのはあまりに異常な数値だといえる。
 都立高校の教員は,特別な事情がない限り,最低3年,同じ学校で勤務しなくてはならない。すなわち「本校在勤務年数3.3年」ということは,着任したとたん,すぐに嫌気がさして最短で異動したいと願っている教員が多くいることを示している。
 その理由の一つに,勤務の多忙さや負担の大きさがあることは間違いないだろう。その結果,今後,中高一貫校がどういうことになるかを一つだけいっておこう。
 明らかに教員の質が低下してくるはずだ。

河合敦 (2013). 都立中高一貫校10校の真実 幻冬舎 pp.196

一貫校の学力差

校内における生徒の学力の差は,公立の中高一貫校ではまことに深刻である。高校入試を経て,比較的均一の学力をもって入学してくる一般の都立高校の生徒と比較して,高校段階で選別されない中入生のトップ層と下位層の学力差は極めて大きくなる。さらに併設型の場合,これに高入生が加わる。そうなると,同じ高校の生徒とは思えないくらい,学力の差が開いてしまうのだ。

河合敦 (2013). 都立中高一貫校10校の真実 幻冬舎 pp.189

学力検査は課さない?

都立中高一貫校では,中学校に入学するさい,学力検査(学力試験)は課さない決まりになっている。すでにこの話は前にも述べたが,やはり,何度聞いてもどうにも納得がいかない方が多いだろう。都内には「都立中高一貫校に受からせます」と堂々とうたう進学塾がいくつもあり,一貫校に合格するための模擬試験が存在し,さらに,問題集や受験対策参考書も書店のお受験コーナーにたくさん並んでいるのだから。
 だが,それでも都立中高一貫校がおこなっている入学試験のようなものは,あくまで自校に入学するのに適しているかどうかを診断する“適性検査”であり,学力試験やテストのたぐいではないというのである。

河合敦 (2013). 都立中高一貫校10校の真実 幻冬舎 pp.142

幸せは

いずれにせよ,ある程度環境や健康に恵まれ,暗記力や理解力に優れていないと,有名大学に合格するのはかなり難しいのである。そもそも,じっと長い間,集中して机に座り続けていること自体,じつは大きな才能なのだ。
 ただ,1つだけつけ加えておきたい。
 学力が高いことや有名大学に入ることが善であり,幸せではないということだ。

河合敦 (2013). 都立中高一貫校10校の真実 幻冬舎 pp.51

幻想である

「学力の低い生徒」とか「決して入学できなかった学力層」という言葉を聞いて,不愉快に思われる読者がいらっしゃるかと思う。また,入学当初はどんなに学力が低くても,まじめにコツコツ努力さえすれば勉強ができるようになり,必ずや有名大学に入れるのだと信じている方もいらっしゃるだろう。そして,「そう導いてやることが,教師の役目ではないのか」と憤りを覚える方もおられることと思う。
 だが,それを承知であえて言わせていただくが,そんなものは全くの幻想である。
 稀にそういう生徒もいることはいる。だが,25年間教育現場で生徒と向き合ってきた私は,努力万能主義は大きな誤りであるとはっきり言い切ることができる。

河合敦 (2013). 都立中高一貫校10校の真実 幻冬舎 pp.50

昭和30年代の様子

昭和31年に相場均氏が長年の米・独留学を終えて帰朝した。特に氏のクレッチメル教授のもとでの研究業績は注目に値する。昭和31年4月より非常勤講師として授業をもたれた。この時期(昭和32年)に京都大学より矢田部達郎教授を迎え,教育学部と大学院の心理学の講義を担当され,刺激を与えた。新しい学識を得て,教室員の若手研究者は大喜びであった。しかし,翌年に急逝され残念なことであった。三島教授は昭和33年12月教育学部へ転出,主任となる。清原教授は赤松体育局長の下で教務副主任に嘱任される。戸川教授は大学の理事に就任,昭和35年に常任となる。昭和34年に小島謙四郎氏は講師,浅井氏は助教授に嘱任された。昭和35年には,新見助教授が教授になり,昭和36年に冨田正利氏が乙種非常勤講師に嘱任された。昭和36年4月において教室員は赤松教授他9名となった。ちなみに昭和36年の一文の卒業生は42名,同二文の卒業生は19名という大世帯になっていた。

(本明寛・浅井邦二記)

「早稲田大学心理学教室五十年史」編集委員会 (1981). 早稲田大学心理学教室五十年史 早稲田大学出版部 pp.22

早大版TAT

研究活動として,昭和27年度に科学研究費(戸川教授)が得られ,「プロジェクティブ・テクニックの基礎的並びに臨床的研究」を他大学の研究者と共に進めることになった。早大版TAT(日本版絵画統覚検査——昭和28年金子書房刊)が開発された。なおこの機会に,戸川先生を会長とする「臨床心理学研究会」を発足させた。この会の当時のメンバーは,戸川,清原,三島,浅井,服部,江川,滝沢,木村,本明の他,他大学より品川不二郎,西谷三四郎,祖父江孝男氏であった。

(本明寛・浅井邦二記)

「早稲田大学心理学教室五十年史」編集委員会 (1981). 早稲田大学心理学教室五十年史 早稲田大学出版部 pp.21

戦争と内田クレペリン検査

次に戦時下の研究活動についてみると,昭和14年以降,内田勇三郎,戸川行男,外岡豊彦。横田(浜野)象一郎,谷村冨男の諸氏等により,心理検査としての標準化が進んでいた内田クレペリン精神作業検査は,昭和16年12月にわが国が第二次世界大戦に全面的に突入した事に伴い,陸軍・海軍の各種戦闘要員選抜検査として全面的に採用され,航空兵操縦・通信・偵察要員,対潜水艦要員,防空監視哨要員等々の他,軍需工場での適正配置,徴用令による徴用工員中の不適応者の選別にまで活用されていた。従って,この検査を育てた本教室関係者はもちろん在学生も,いつ応召し兵役に服しても直ちに心理学専攻者として内田クレペリン精神作業検査の実施と結果判定が,標準に正しく従って模範的に行われるように特別授業課程が心理学演習として組み込まれ,かつ判定技術をあげるための研究が,特に開戦当時から昭和18年末までの主要課題であった。また,昭和18年春には,教室として産業報国会の青少年読書調査の整理を行ったりした。

(佐伯 克記)

「早稲田大学心理学教室五十年史」編集委員会 (1981). 早稲田大学心理学教室五十年史 早稲田大学出版部 pp.15-16

嘘発見器研究

戦前の心理学教室の仕事としてはいわゆる嘘発見器の研究を言及しないで終えるわけにはゆかない。この試みは内田先生が神田の学士会館でアメリカの雑誌ライフに載っていたキーラーの嘘発見器の記事を読んでこられて,これをやってみようといわれたのがふり出しである。ライフの記事には,被験者にトランプのカードを1枚ぬきとらせてそれをキーラー・ポリグラフで当てるということが書いてあるだけだったが,内田先生が思い出されたのは寺田寅彦さんの随筆に,GSR(皮膚の電気抵抗の変化であるが,はじめはPGRとよばれた)の測定で相手の心の中のことが当てられるかもしれないとあったことで,それをやってみろというわけである。もちろん教室にそんな器具があったわけではないので理工科に行って,いろいろと教えてもらい,ミラー・ガルバとブリッジとU字管と硫酸亜鉛とを借りてきて組立てたのが早稲田式嘘発見器といわれた皮膚抵抗の測定器であった。硫酸亜鉛の溶液を2つのU字管に入れ,片手の親指と中指とをそれに入れて1.5ボルト程度の直流電流を通電しブリッジに接続して抵抗器を操作するとガルバノメーターの鏡が正面を向くようになるので,そこで,「あなたの持っているのはハートですか」といった問いを与え,これにすべて「ノー」と答えさせていると,ある問いに際してガルバノメーターの鏡が大きく動く。それがその時の「ノー」という答えが嘘であること,すなわちその人の持っているトランプがそれであることを示す。しかけはこれだけである。ところで後にわかったことはキーラーがポリグラフで計っていたのは呼吸と血圧であってGSRではなかったのであって,内田先生の寺田寅彦崇拝がわれわれの嘘発見法の発見にとどまらずGSR研究の振り出しになった次第である。

(戸川行男記)

「早稲田大学心理学教室五十年史」編集委員会 (1981). 早稲田大学心理学教室五十年史 早稲田大学出版部 pp.10-11

クレッチマー説とクレペリン

内田先生がクレペリン検査にかけた期待の今一つは,クレッチメルの言う分裂性気質の者に精神分裂症に見られるのと同様の意志障害がクレペリン検査によって指摘されるのではないか,という問題であった。そこでキプラーの基質診断表によってクレッチメルの分裂質と躁うつ質との学生を選び出し,これにクレペリン検査を施行することによって,分裂質の学生に意志障害者の作業特徴を指摘することができるかどうかを確かめる研究がなされた。この際,分裂質,躁うつ質の特徴をきわめて顕著に示している学生については上半身裸体の写真をとり,ガルトンの合成写真の手法によって,両気質の体格特性がクレッチメルのいう分裂質——細長型,躁うつ質——肥満型という性格と体格との親近関係を示しているかどうかが調べられた。クレペリン検査で指摘される意志障害と,気質診断表での分裂質と,合成写真にみられる細長型の体格との三者の結びつきがとくに研究の中心とされていた。

(戸川行男記)

「早稲田大学心理学教室五十年史」編集委員会 (1981). 早稲田大学心理学教室五十年史 早稲田大学出版部 pp.8-9

早稲田と内田クレペリン検査

さて戦前のわれわれ心理学教室の仕事は後に内田・クレペリン精神作業検査と呼ばれた連続加算検査の研究から始められた。卒業生名簿によると昭和7年から20年までの卒業生は41人であり,以下に「教室の仕事」と呼ぶ諸研究のどれかに参加して先生の仕事を手つだってくれたのはその半数以下であったと思うが,ともかくも当時はこのクレペリン検査の仕事をはじめとして,教室の仕事というそのときどきの特定の研究課題があり,こういう教室体制が戦争までつづいていたのである。それで連続加算検査の研究であるが,前述のように内田先生は五高時代にその25分法を確立され,その後に正常者定型とされたものを発見されていたのであるが,これを後の1万人の作業定型なるものにまで発展させたのは早稲田においてである。赤松先生が第二高等学院の教務主任であった時かと記憶するが,入学試験の2次試験の口頭試問の前であったか後であったか試験の合否には関係しない旨を明らかにした上で全員のクレペリン検査を行った。当時この検査は1桁の数字が縦に並んでいて,上と下の数字をよせて答を右側に書くのであって,被験者1名ごとに検査者1名というやりかたであり,クレペリン以来これがつづいてきたのであるが。これではとうてい多数のいっせい検査はできないので現行の横書検査用紙をわれわれが開発した。その後のクレペリン検査にはすべてこの横書検査用紙が使用されている。

(戸川行男記)

「早稲田大学心理学教室五十年史」編集委員会 (1981). 早稲田大学心理学教室五十年史 早稲田大学出版部 pp.7-8

書棚の様子

われわれの心理学教室の書棚にはずい分早くから,クレペリンの精神病学教科書全巻や,クレペリン派の研究者の心理学的研究機関誌とでもいうべきPsychologische Arbeiten全巻があり,クレッチメルの「体格と性格」,「医学的心理学」,「ヒステリー論」,「敏感性関係妄想」の原書があり,イェンシュの「知覚世界の構造」,べリンゲルの「メスカリン酩酊」,プリンツホルンの「精神病者の絵画」等の原書があり,ロールシャッハの「精神診断学」の原書とその検査図版があった。クレペリンの教科書や心理学的研究誌はもちろんとして,ロールシャッハ検査の図版も,戦前からそれを心理学研究室にそなえていた大学はきわめてまれであったかと思う。後に本明寛氏がロールシャッハ研究を始めたのもこれが機縁になっているかと思われるし,三島二郎教授が精神テンポの研究に着手されたのも内田先生の好みでクレッチメル派のエンケの運動学やフリシャイゼンケーラーの「個人的テンポ」が教室にあったためかと思われる。

(戸川行男記)

「早稲田大学心理学教室五十年史」編集委員会 (1981). 早稲田大学心理学教室五十年史 早稲田大学出版部 pp.7

早稲田と内田勇三郎

戦前の早稲田大学の心理学教室は内田勇三郎先生の強い影響下にあったと言っていい。前述の増田惟茂先生は東大の助教授であり,ヨーロッパの留学からもどられ学会から嘱望されておられた先生であったが,不幸にして昭和8年に亡くなられたので,先生の教えを受けたのは私のほか数人の人達であったようである。私は仙台で開かれた日本心理学会大会での研究発表についていろいろと教えを受けたのであるが,それが最後であった。さて,増田先生の学風はいうまでもなく実験心理学のいわば主流派ともいうべきものであったが,内田勇三郎先生は今の言葉でいえば生粋の臨床心理学者であり医学的心理学者であった。そのためこの傾向が戦前の早稲田大学心理学教室の学風となり,その影響は筆者らを経て戦後にまで及んでいる。

(戸川行男記)

「早稲田大学心理学教室五十年史」編集委員会 (1981). 早稲田大学心理学教室五十年史 早稲田大学出版部 pp.6

まるで家畜

「同じ。SNSもね……,まるで家畜」
 「そこまで酷くはないでしょう」
 「何でしょう。つながりたいんですよ,人間は」
 「そうそう,絆ね。絆って,牛をつないでおく綱のことでしょう?」
 「ネットというものが,元来そういう装置なのでしょうね」
 「人を縛りつけておく装置?」
 「そうです」
 
森博嗣 (2013). キウイγは時計仕掛け 講談社 pp.77-78

バブル

日本科学大学は,森林に囲まれた高台にある。経済成長の夢が頂点に達した頃に計画され,その夢が消えた頃に完成したキャンパスである。もともとは,都内にあった小さな私学で,前身は専門学校だったのだが,多額の金を集めて大きな夢を見た人間がいたのだろう。そんな人間は,あの時代にはむしろ平均的な人種だった。もっとも,当時は,狭い都内の土地が夢みたいな高い値で売れたので,資金的には一概に無謀な計画と非難することはできなかった。ただ,都心から遠く離れ,こんな僻地にまで学生が来てくれるのか,という小さな心配があっただけだ。当時,その心配は,自然に囲まれた環境,という綺麗な言葉で一蹴されたわけだが,今では,その心配が致命傷と断言できるほど大きくなっていた。

森博嗣 (2013). キウイγは時計仕掛け 講談社 pp.25

直感との決別

最も重要な点は,分岐学者が分類学を根底から揺さぶり,人間のもつ感覚との最後のつながりを論理的に断ち切ったことにある。彼らによれば,分類学とは直感的な秩序感覚を持ったヒトの視点から自然を見るのではなく,自然そのものの視点すなわち何億年にも及ぶ真の進化史の視点に立って見ることである。分岐学者は人間がもつ環世界センスと分類学との最後のつながりを後腐れなく切ってしまった。その結果,分岐学派は分類学にある種の自由を保証した。それは,人間のもつ感覚とは完全に手を切って,望むならば,直感的にどんなに奇妙であろうともお構いなしに,ある群がたどった進化史を忠実にたどる自由である。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.310

魚はいない?

しかし,分岐学者の帝国では事態はさらにおかしなことになる。前に説明したように,ヘニックによれば,命名に値する正当な分類群は系統樹の枝まるごとに相当する子孫すべてを含む群だけである。しかし,系統樹を見ると,ある小さな問題が浮上する。その小さな問題の存在は白黒まだらのウシが声を上げて教えてくれる。ウシは魚の中に入り込んでいる。つまり,すべての魚を含む枝を切り出したならば,ウシはその中に入っているということだ。ウシだけを除外することはできない。2回切り落としたとしても不完全な分類群になるだけだ。要するに,ヘニックの基準に従えば,魚類は真の進化的な分類群ではないということになる。魚類はある共通祖先に由来するすべての子孫から成る群ではない。ウシを含めたときに初めてその条件が満たされる。その結果として,魚類は“実在する分類群”ではない。肺魚やコイやサケが存在しないという意味ではない。分岐学者の基準であれ他学派の基準であれ,これらは確かに実在する。系統樹からある枝を1回切り落せばそれは肺魚だったりサケだったりする。しかし,分岐学者が攻撃するのは魚類全体は実在する群ではなく人為的な群であるという点だ。言い方を換えれば,肺魚やサケやコイをまとめて“魚類”という単一群とみなすためには共通祖先からのすべての子孫を含む必要がある。このとき地球上のすべてのウシは,おなじみのベッシーも1871年のシカゴ大火の原因となったオレアリー夫人のウシもひっくるめて,魚類という群に含まれることになる。
 ウシを含む必要があるというだけではない。この群を“魚類”と呼ぶためにはヒトまで含めてすべての哺乳類を含まねばならない。
 ウシが魚?ヒトも魚?魚という分類群は実在しない?そんな馬鹿なことがあるものか。しかし,ヘニックの方法論に反旗を翻すことはできない。あなたがどのような立場を取ろうが,系統樹の真実と進化史に矛盾しない進化的な分類を目指すならば,ベッシーはもちろん地球上のすべてのヒトを(あなた自身も含めて)魚類の中に含めるしかない。さもなければ,魚類という分類群は実在しない。
 結論。魚類は死んだ。かつてダーウィンが分類学は生命の系譜に基づかねばならないと述べたことの必然的な帰結がこれだ。自然の秩序の背後には巨大な生命の樹があることを,そして生命は進化することをダーウィンが指摘した瞬間から科学はこの逃れられない到達点を目指してきたのだ。ダーウィンが進むべき道を示し,ついにそのときがやってきた。分岐学者は最終的に系統樹が示す類縁関係のみに,すなわち命名されるべき枝のみに目を向けた。ヘニックの分岐学の銃は(彼自身はハエの分類学者として1976年にこの世を去ったので,実際にはその後継者たちが手を下したのだが)魚類にとどめを刺した。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.299-301

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