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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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環世界センスの否定

分類学者の逆鱗に触れるには,同時代の分類学者の誰もがもつ環世界センスから導かれた分類が間違っていると否定すれば百発百中である。長期戦にもつれこませたいならば,分類学者が自分自身の種を分類するやり方は正しくないと言えばいい。広大な生命界の中で人間が占めるひときわ高い位置はヒトの持つ環世界センスから確実に導かれる。進化分類学者ならば誰もが地球は太陽の周りを回っていて,人は他の霊長類から進化してきたことを知っている。その一方で,彼らは,一般人と同じく心のなかではわれわれヒトは究極的には別格の存在であると知っている。にもかかわらず,科学者はあろうことか,ヘモグロビン研究によれば,ヒトは「ゴリラの変異型」だと言ってまわる。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.254-256
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数量分類学の勝利

輝かしい勝利だった。ひたすら数字と格闘する日々の末に,大きな跳躍が待っていた。直感に導かれて分類し続けた200年ののち,分類学はやっと定量的科学へと変身できた。説明不能の決定や指示はもはや用なしになった。ソーカルとミチナーは彼らの作業手順を説明可能にした。昨今の官僚の言葉を借りれば,分類の手順を“見える化”したわけだ。実際,彼ら2人はいかにして形質を選択したか,どのようにして形質をコード化したか,どんな解析方法を用いて結論を導いたかを正確に説明した。そこにはいっさいの隠し事はなく,言葉を浪費して弁明する必要もなかった。神秘的な種でさえ,必要とあらば,純粋に数学的定義を与えることができる。ある数値レベルの差異があれば2つの対象物は別種であると規定できる。もっと高いレベルの差異があれば属の違い,さらに高ければ科の違いというふうに,差異を数値化すれば直感などまったく必要ない。こうして産まれたばかりの数量分類学には主観性の泥沼からついに脱出してその向こうへと前進する道が拓かれた。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.235

さらなる間違い

環世界センスに頼ることができない細菌学者はさらなる間違いを犯してしまった。彼らは,細菌のもつ特徴から手当たりしだいに特性を選び出し,好き放題に分類をしてしまった。ある群の最近を研究するたびにいくらでも新しい分類を構築できてしまうという結末にいたった。こうなっては分類そのものが勝手気ままに行えることになる。進化分類学の方法を用いて最近の系統関係を推定し,それに基づいて分類体系を構築するという手も同様に役に立たない。このアプローチは,分類学者の直感と認知に強くアピールし,生物学的によく知られている生物群でさえ適用がきわめて困難であることがわかっているのに,ましてや微生物に当てはめるのは時間の無駄である。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.228-229

生きるために

環世界センスが太古の昔から伝えられたものであることを理解すると,それが長きにわたって博物学者たちの助けとなってきたものの,地球規模で生物学的な探検がなされるようになると急速に力を失っていった理由もわかるようになる。太古に暮らした祖先たちが必要としたのは,広大な生物世界のごく一部に対応する環世界だった。その時代に地球規模の旅をなした人などいなかったし,北極の鳥,熱帯の木,深海の魚を見る機会もなかった。600種の植物と600種の動物を分類し,記憶することができれば十分だったのだ。近辺の動植物に対応する環世界センスは,祖先たちに多大な利益をもたらしたが,仮に何千何万の動物や植物からなる秩序を内包する環世界があったとしても,厳しい生存競争に明け暮れる彼らにとっては無用の長物だっただろう。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.208

一般化

生物を分類する能力が人間にとってとても重要だとしたら,他の動物——大きな動物であれ,小さな動物であれ——にとっても,等しく重要なのではないだろうか?ジョージ・ゲイロード・シンプソンは「分類するということは……生き,生き続けるために,どうしても必要なことだ」と言っている。この言葉はすべての生物について述べたもので,その証拠に彼は,下等生物であるアメーバの分類能力について次のように述べている。「反応を見る限り,1匹のアメーバの体のどこかが,一般化の作業を行っているのは確かだ。つまり,それは個々の食料に個別に反応しているわけではなく,何らかの形で,あるいは何らかの方法で,無数の異なる対象を『食べられるもの』として分類しているのだ」。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.201

世界認識

生物を認識する能力についても同じことが言える。周囲にいる生物を認識することは,自分が何者で,どこにいて,周囲の世界はどんな世界なのかを認識することなのだ。生物を認識する能力を奪われると——顔を認識する能力を失った人がそうなったように——自分が見知らぬ人間になってしまう。そうなると世界は,自分の居場所があるなじみ深い世界から,奇妙で超現実的な世界へと変貌する。そして,中には,人生が味気ない惨めなものになってしまう人もいる。例えばバードウォッチングが趣味だったある人は,かつては鳥たちのさまざまな羽や姿を楽しんだが,いまではどれも同じに見える,と嘆いた。
 これが,わたしたちが生物を分類する理由であり,分類学が誕生した理由である。さらに重要なこととして,いま述べてきたことから,わたしたちが生物を分類・認識・命名するためだけでなく,この世界に碇を下ろすために,何が必要なのかがわかる。それは,環世界センスである。わたしたちは現実世界の重要な要素を知り——石と食べ物を区別して——生き延びるためだけでなく,種として繁栄するためにも,環世界センスを必要としているのだ。環世界にしっかりと碇を下ろすことは,この世界に足を踏み出していくために不可欠なことであり,ゆえに,赤ん坊は,止めようがないほど熱心に,環世界センスを体感しようとするのである。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.188

生物だけを認識する領域

こうして考えると,脳には生物だけを認識する特別な機能があることが,容易に想像できる。それは,包装やブランドで製品を識別するように,対象を形やサイズや色,全体的な外見によって識別する機能である。そこから,脳のある部位がこの機能を果たしていると考えるのは,それほど突飛な飛躍ではない。そして実際,科学者の中には,そう考えた人々がいた。彼らは,人間の頭の中には,生物を識別し,その名を判断するための特別な「領域」がもともと存在するという仮説を立てた。され,彼らは,生物を認識できなくなった患者たちの脳の中をのぞいて,この「民俗分類領域」を発見できたのだろうか。生物を認識する能力の位置,言うなれば,環世界センスの所在地を,突き止めることができたのだろうか。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.178-179

窪みカーブ

横軸,つまりx軸は,属が含む種の数を表し,縦軸,つまりy軸は数を表す。このグラフを見れば,種をひとつしか含まない属が,400位上存在することがわかる。2種を含む属は,200より少なく,3種を含む属は,20ほどで,7種以上含む属は,ごくわずかだ。ごらんのとおり,グラフは右下がりの急なカーブを描く。
 このカーブは,その形から「窪みカーブ」と呼ばれ,特に属と種のグラフのそれは,「ウィリスの窪みカーブ」と名づけられている。このカーブについては,1世紀近くにわたって分類学者の間で議論されてきた。彼らは,自分たちがこのようなパターンで種を属に分類する理由がわからなかった。なぜ分類学者は常にこのような分類を行うのだろう。なぜ民俗分類でも同じような分類がなされるのだろう。その答えは環世界にあると,わたしは考えている。わたしたちは,ウィリスのカーブを知っていてもいなくても,まさにそのカーブが描くとおりに,種が属を満たしている様子を,環世界に見ているのだ。そして,分類学者は,他のすべての人と同じく,自らの認知に支配されており,この世界を見るには,自らの環世界を通じて見るしかないのである。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.165-166

命名の限界

では,民俗分類で分類・命名される属の数に限界があるのはなぜだろう。そう,理屈から言えば,そんなものはなくてもいいはずだ。この地球上にはじつに数多くの植物や動物の種が存在し,それらを人々が自分なりの見方で見ているのだから,属の数に制限があるとする理由はないのである。しかし,これについてもバーリンが確かな証拠を発見した。彼は,幅広い民俗分類において,分類・命名される属の総数が,往々にして600以下になることに気づいたのだ。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.161

鳥っぽい名前

人類学者のブレンド・バーリンが,多くの研究者のお気に入りの被験者,つまり学部生(この場合はカリフォルニア大学バークレイ校の学生100人)を対象として行った実験がある。それは,魚と鳥の名前をひとつずつ組み合わせた50組のリストを学生たちに見せ,発音を耳で聞いて鳥の名だと思うほうを選ばせる,というものだ。魚と鳥の名は,ペルーの熱帯雨林に住むファンビサ族の話し言葉から無作為に選んだ。アメリカのごく普通の学生である被験者たちは,ファンビサ族については何も知らなかった。100人の学生が,50組の名前から鳥の名を選ぶと,回答数は5000個になる。答えが無作為であれば,正解する確率は,49.9〜50.1パーセントという,きわめて50パーセントに近い値が出るはずだ。
 だが,結果は違った。学生たちは58パーセントという高い確率で,鳥の名を識別できたのだ。比較のために,コイン投げについて考えてみよう。ご存じのとおり,どの回でも表が出る確率は50対50だ。2回投げるだけなら,その結果は読めないが,10回投げれば,表と裏の確率は50対50に近づく。そして5000回投げたら,表と裏はそれぞれ限りなく2500回に近づくはずだ。そうでなければ……表が58パーセントだったら,コインを調べてみるべきだろう。その数字は,何か別の力がはたらいていることを意味するからだ。
 この実験では,原因は学生たちにあった。彼らは名前の「鳥らしさ」,あるいは「魚らしさ」を直感することができたのだ。バークレイの学部生はたしかに優秀だが,それはだれにでも不思議なほど簡単にできることなのだ。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.155-156

二名法

あらゆる土地の人々が,二名法によって,変種の多い大集団のメンバーを区別している。人間でさえこの方法で呼ばれている。スミスは,ボブ・スミス,ジョー・スミス,サリー・スミス。リーは,リー・ウェン,リー・チア,リー・チー……。そしてリンネが定めた科学的分類において二名法は,種と,より大きな枠組みである属の組み合わせとして用いられる。すべての種は,二部からなる固有の名によって呼ばれるべきだ,とリンネは言った。前部は属を表し,後部は種を表す(ホモ・サピエンス=ホモ属のサピエンス種,というように)。これもまた,どうしても二名法でなければならないというわけではない。理屈だけ言えば,生物の情報を名前に組み込む方法は無限にある。それでも,あらゆる場所で人間は,二名法によって生物を名づけてきた。またリンネ以降,彼が聡明にも環世界のルールを見抜いて明文化したものではなく,誰もがいちばん筋が通っていると思っていた命名法を,改めて説明しただけのものなのだ。どういうわけか,わたしたちは,環世界センスによって生物の秩序を理解する方法として,二名法は最もふさわしいと感じるのだ。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.153-154

生物に当てはめる言葉

わたしたちが生物について語る言葉にも,共通性が見られる。わたしたち人間は,生物を見て同じように分類するだけでなく,座ってそれらについておしゃべりするときにも,同じように語るのだ。
 その非常にわかりやすい例は,どこに暮らす人も,生物の類似や相違を語るときに,いとこ,父,家族といった人間の血縁関係を表す言葉を用いることだ。わたしたちは,外見や行動や匂いが似た動植物を見ると,人間の家族間に見られる類似を連想する。そのため,幅広い言語圏や文化圏において,よく似た生物を親戚どうしのように表現している。例えば,ある種を他の種の「父」と呼んだり,似たような集団を同じ「血統」と呼んだりするのだ。マヤのツェルタル族は似ている植物を「兄弟」,あるいは「家族」と呼ぶ。英語のくだけた表現でも,ある動物をツチブタの「いとこ」と呼んだり,ある植物を「シダのファミリー・メンバー」と呼んだりする。また,科学者も,「ファミリー」という単語をリンネの階層の一段階(科)として用いており,互いに近縁な種と種を「姉妹種」と呼ぶ。生物の類似を人間の家族になぞらえるのは合理的ではあるが,どこでもそうする理由はない。しかし,世界中でそのような比喩がなされているのだ。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.151-152

概念を知ること

しかし,物語はこれで終わりではない。調べ始めてすぐにわかったのは,民族分類の研究は途方もなく困難な仕事だということだった。この種の情報の収集には,多大な困難が伴う。一見,それは簡単なことのように思える。一本の植物,あるいは一匹の動物をつかんで,「これをあなた方は何と呼ぶのか」と現地の人に尋ね,また別のものをつかんで同じことを尋ね,その答えを書きとめていけばいいのだ。しかし,その分野の研究者が収集しているのは,生物の概念やカテゴリーや言葉であり——それらは,噛みもしないし,逃げもしないが——,それは生物をつかんで名を尋ねるよりはるかに難しい作業なのだ。生物を見つけて瓶や袋に詰め込むだけでは,それらについて理解したことにはならないが,それと同じで,多民族の生物分類法を集めるには,その分類に含まれる生物を熟知するだけでなく,その名前,詳細な描写,分類の土台となっている言語体系と概念のすべてを,正しく理解しなければならない。「この動物をあなた方は何と呼ぶのか」と尋ねて,ある答えを得たとしても,それがすべての哺乳類を指す言葉なのか,それとも小型哺乳類だけを指すのかはわからない。植物についても,民俗分類の名前が,あらゆる種類の植物を意味するのか,それとも森の中で育つ薬草のことなのか,あるいは特定の薬草を指すのかがわからなければ意味はない。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.141-142

種とは何か

だが,またしても,混乱を解消し,秩序をもたらすはずのものが,逆の結果をもたらした。マイアが種を定義しようとしたせいで,「種とは何か」という,これまで最も軽んじられていた進化にまつわる謎に多くの人が注目するようになり,その謎をめぐって数十年にわたって議論が繰り広げられることになったのだ。この問題は,やがて「種問題」と呼ばれるようになり,分類学者たちを大いに悩ませた。
 まず,定義に関していくつかの問題が浮上した。ひとつは実際的な問題である。例えば,パナマの山岳地帯の雨林とハワイの火山地帯で2匹のカブトムシを見つけたとしよう。両者はとてもよく似ているが,同じ種だろうか?マイアの定義を用いるのであれば,それらが交配できるかどうかを調べる必要がある。しかし,おおかたの生物がそうであるように,それらのカブトムシは,実験室ではあまり長生きしないだろうし,交配に適した環境を整えるのも難しい。ペトリ皿で人工授精させたとしても,野生の状態で交配するかどうかはわからない。だとすれば,同じ種といえるのだろうか?それに,博物館の分類学者はどうするだろう?四肢を広げてピンで刺された標本の交配能力を試すのは途方もなく難しいはずだ。
 もうひとつ,より大きな問題も明らかになった。それは,多くの生物は有性生殖をしないということだ。これらの生物,すなわちバクテリア,アブラムシ,ある種のトカゲ,ポプラ,オリヅルランなどは,自分とまったく同じコピー——クローンと呼んでもいい——を生産する。母トカゲのクローンである小さなメスのトカゲや,植物の親株から分離した子株が独自に育ち始めるのである。こうした生物の種を定義するうえで,それらが交配しないことをどう考えればよいのだろう。交配することなく生まれたバクテリアは,どれも新たな種だと言うのだろうか?

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.124-125

視点のシフト

ダーウィンのおかげで進化の真実が明かされたが,それを知った後も,分類学者たちのジレンマは解決せず,分類のあいまいさも解決されなかった。進化の真実は,視点をシフトさせただけだった。分類学者は,進化の系統樹という新たな自然界の秩序に生物を位置づけるための,類似点や相違点を探し始めた。理論としては新鮮だったが,実践の面では,スタート地点,つまりリンネが出発した時点に戻ることになった。数限りない類似と相違が入り乱れ,そのうちの何が重要で何が重要でないかがまったくわからないという状況に戻ってしまったのだ。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.116

類似点と相違点

分類学者が抱えるジレンマの本質は,鳥や植物や昆虫といったバラエティに富む生物を分類しようとすると,たちまち無数の類似点や相違点に直面するところにあった。生物を種や属に分類するときには,多様な類似点と相違点の,どれを基準にすればいいのだろう?当然ながら,類似と相違のすべてが同等の重みをもつわけではない。分類学者は,自らの五感と,それを通じて知る自然界の秩序をよりどころとして,どの相違や類似が重要で,どれが重要でないかを見極めようとしてきた。まず,ある特徴によって——赤い色のものと,緑色のものとで分けるというように——分類してみて,それが間違っているように思えたら,今度は別の特徴によって分類する。その結果が理にかなっているように思えたら,その分け方が正しいということになる。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.115

手に負えない

分類学者が,世界中の鳥を属に分けようとしたとき,事態はますます手に負えなくなった。統合主義者は,すべての鳥を2600属に分けたが,超・細分主義者は,それを1万属に分けたのである。おそらく実際の鳥の世界はそのいずれかによって構成されるのだろう。しかし,鳥の分類が特に難しいわけではない。同じような対立が,生物分類のそこかしこで起きているのだ。それがまさに細分主義者と統合主義者の対立の本質であり,悲惨な状況はピークに達しつつあった。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.108-109

細分化の快感

生物を細分化することには,麻薬のような快感が伴うらしい。生物群から選び出した生物に名前をつけ,「この生物は私が何々と名づけた」と宣言して,その存在と自然界における位置づけを世に知らしめるというのは,かなり気分のいいものだろう。その高揚感は,世界で最も文学に通じ,もっとも有名な鱗翅類学者(チョウを専門とする分類学者),ウラジミール・ナボコフのよく知るところだ。細分主義者として知られるナボコフは,小説を執筆する一方で,「ブルー」と呼ばれる中南米のシジミチョウ科のチョウに夢中になり,次々に新種を見つけては命名した。チョウを捕獲するのは愉快だが,新種を発見して世間の科学者を驚かせるのはもっと愉快だと思っていたからだ。ナボコフはインタビューに応えて,チョウの研究でもっとも大きな喜びのひとつは「分類体系におけるそのチョウの位置を決めること」だと語っている。「ときとして新発見によってそれまでの体系が覆され,ぼんやりとしていた老兵は倒され,花火のように派手な論争が始まる。それを見るのはじつに愉快だ」
 つまり,名前のなかったものに名前をつけることには抗しがたい魅力があるため,細分主義者はそれを繰り返さずにはいられないのだ。統合主義者から見れば,細分主義者ほどたちの悪いものはなかった。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.107

生物は不変?

ダーウィンは,分類学がある基本的な考え——生物は永遠に不変だという考えに基づいていることを,どういうわけか忘れていた。アリストテレスは種は不変だと考えた。リンネが分類したのは単なる種ではなく,神が創造した不変の種,すなわち天地創造の日から変わっていない種だった。当時,世間の人は皆,生物は不変だと考えていた。いったい誰かが,生物が進化することを知っていただろう。不変の種からなる不動の階層構造,それこそが自然界の秩序なのだ。しかしダーウィンは,その分類学の大前提を無視し,種は少しずつ変化して他のものに変わっていくという自らの洞察に導かれるまま,茫洋たる大海に舟を漕ぎ出したのである。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.81

タイプに分ける

実を言えば,だれでも似たような経験をしているはずなのだ。あなたは日々の生活で出会う人々を,カテゴリーに分類しようとするだろう。博物学者が生物界を秩序のある組織として捉えるのと同じく,わたしたちは人間の集団を,一種の組織として捉えている。つまり,人間は異なる個人個人の寄せ集めではなく,いくつかのタイプ(型)に分かれることを知っているのだ。実際,人間は自然発生的なカテゴリーに分類できるように見える。優秀だが人づきあいが苦手な学者肌の人,声が大きくきびきび働く食堂のウェイトレスのようなタイプ,というように。誰もがそうしたカテゴリーを意識し,自分なりにつくっている。仮に,あなたがアイオワの小さな田舎で暮らしていて,数百人程度の人と交流があるとしよう。そうした環境では,整然としたわかりやすいカテゴリーをつくることができ,それがぐらつくことはほとんどないだろう。あなたは,人々の年齢,性別,外見,職業,物腰,能力,親切さ,姓名などを総合的に判断し,堅牢なカテゴリーをいくつか作るはずだ。ごく少数の,普通でない人々には,専用のカテゴリーを設けるかもしれない。あなたは人々の特徴を見て,感じ,分類している。あなたが秩序を組み立てているわけではない。そこに存在する秩序,うっすらと透けて見える秩序に気づき,それを見分けているだけなのだ。命あるものは常に,シンプルで明快である。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.36-37

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