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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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多すぎる

しかし,そのようなシンプルな時代はやがて幕を閉じた。リンネが登場する18世紀初頭までに,ヨーロッパの帆船は世界を探検し尽くした。そして今度は,そうやって見つけた土地や,そこにあるはずの天然資源や鉱脈をわが物にしようと,宣教師や地図製作者,鉱物学者を乗せた船が,次々に出航していた。同様に,博物学者たちも,未知の世界で珍しい生物を捕らえて故郷へ持ち帰ろうと,大海へ船出していった。誰もがよく知るように,生物界には人間が必要とするすべてのものがある。行く手には,さまざまな,毛皮に覆われた獣,空を飛ぶ鳥,巻きつく植物が待ち受けているだろう。未踏の野生世界は,新しい食料,香辛料,木材,飲料,薬,そして未知の「生きた宝物」をもたらす可能性に満ちていた。
 それゆえ,植物学者や動物学者は危険を冒して出発し,世界中を航海し,生物があふれる熱帯地方や,アジア,アフリカ,アメリカの,見慣れない自然界へ,足を踏み入れていったのだ。そして彼らは,星明かりの草原で,灼熱の砂漠で,荒れ狂う海のそばで,生物界の真の広大さを初めて知り,聞いたこともなければ,夢見たこともない,動物や植物を見つけたのだった。アリストテレスやテオフラストスとは違って,この時代の博物学者はもはや狭い地域にしがみついてはいなかった。500種の動物や550種の植物どころか,数千種もの動物と植物という現実に彼らは直面した。岸に打ち寄せる波のごとく,新たな生物が,次から次へと見つかっていた。
 この新しい生物たちは興奮を巻き起こしたが,同時に混乱も招いた。博物学者たちがあちこちで新たな生物を見つけ,次々に名づけていったが,同じものにいくつもの違う名前がつけられることも珍しくなかった。また,国が違えば,言葉や,参照する図鑑も異なるため,外国の博物学者と動物や植物について話す際には,それが同じものなのか,まったく別のものなのか,はっきりしなかった。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.32-33
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本能的で永続的

分類学が,堅牢な科学とはまったく別の表情を見せ始めた。それは新生児に見られる生命力のように,何か本能的で永続的なものではないのだろうか。生物を分類し,自然の秩序を理解するというのは,組織だった堅実な科学ではなく,生の自然から離れた実験科学の領域をはるかに超えた,人間が生来備えている能力であり,少なくとも人生の初期においては,抑えがたい欲求となって現れるのではないだろうか。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.16

魚類は存在しない

つまりこういうことだ。わたしたちが魚だと思う生物をすべて,ひとつのグループに入れるとしよう。それが「実在するグループ」であるには,進化的につながりのある種がすべて入っていなければならない。そこで「このグループの祖先の子孫で,このグループに入りそこねているものはいないか?}と尋ねてみよう。すると,驚いたことに,魚とはとても呼べない生物がわれもわれもと現れてくるのだ。その中には,爬虫類や,哺乳類,つまり人間のようにまったく魚でない動物も含まれる。そして分岐学の厳密なルールに従えば,それらをすべて——トカゲからカメ,ヘビ,クマ,トラ,ウサギ,そして人間まで——そのグループに入ることになり,もはやそれは魚の集団ではなくなる。すなわち,この新たな分類法によれば,わたしたちが知っている「魚類」というグループは存在しなくなるのだ。かくして,革新的な分岐学者の手により,「魚」は消された。その消滅は,進化のつながりに忠実な新しい分類法がもたらした予想外の結果だった。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.9-11

二者択一

ちょっと想像してみてほしい。あなたの子供が生まれた日,医師から2種類の乳児用サプリメントを差し出され,どちらかを選ぶよう命じられたとする。一方のサプリメントは神童になれるが成長後はただの人になる可能性が高く,感情面に重大な問題が生じる恐れもある。もう一方は感情のバランスが取れた子供になり,幼いうちは運動にも音楽にも秀でたところは見えないが,少しずつツールを集めることで自信を深め,研鑽を積み,人間関係をしっかりと築いて,ハードワークの価値を心から信じるようになる。長い目で見れば,後者のほうは成人後,偉大なことを成し遂げるのに必要な資質を手にしていることになる。
 この二者択一は少々ばかばかしく思えるかもしれないが,多くの親が意識下でこういう選択をしている。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.166

歩み続けて

しかし,これこそが重要なポイントである。偉大さは平凡の一歩先にあるわけではない。平凡の領域から飛び出し,一歩,一歩,また一歩と進み続ける——数千歩,数万歩先へ行ってはじめて,奥行きも深さも測れないほどの場所にたどり着ける。そこに至るには,道理や条理を置き去りにし,誰よりも遠く,激しく,長く前進するしかない。これを簡単だとか,大抵の人にできそうだなどと思う人もいるかもしれないが,本当にそうならば,もっと大勢がそこに到達しているはずだ。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.150

天才たちの後悔

あるいは,いつか後悔するかもしれないという恐れのなかに隠れているかもしれない。ルイス・ターマンの天才遺伝子研究という感心しない名称のプロジェクトで,最期の遺産となったのが「後悔」だった。1995年,コーネル大学の3人の心理学者の研究チームが,かつてターマンの研究に協力した人びと——すでに高齢になっていた——のくわしい追跡調査を行なった。彼らの研究論文は「行動しそびれる——ターマンの天才たちの後悔[Failing to Act: Regrets of Terman’s Geniuses]」と銘打たれていた。その大きな教訓として,ターマンの協力者たちは,晩年にさしかかり,その他の高齢者たちとまったく同じ後悔をしていた。もっとできたはずだ,と彼らは考えていた。もっと勉強し,もっと仕事をし,もっと目的を貫くべきだった,と。
 これこそ,われわれのすべてがルイス・ターマンの研究から学べることである。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.147

神話に頼る

当時4歳だったベートーヴェンは,約20年後には卓越した演奏家になっていて,作曲家としても将来有望だった。しかし,彼もモーツァルトも「どういうわけか昔からよくできた」わけではけっしてない。サーカスのピエロがジャグリングの腕について「どういうわけか昔からよくできた」と言えないのと同じことである。
 それでも,生まれつきの才能という神話はいつまでも廃れないだろう。今日に至っても,生まれつきの才能について論じられることはしばしばで,現実をもっとよく理解しているはずの科学者のなかにも,そういう話題を持ちだす人々がいる。この点は,年齢,階級,地域,宗教にかかわらない。
 どうしてだろう?それは,われわれが神話に頼っているからである。生まれつきの才能と限界を信じるほうが,精神的に楽なのだ。自分がいま偉大なオペラ歌手になっていないのは,そうなる器ではないからだ。自分が変わり者なのは,生まれつきなのだ。能力は生まれたときから決まっていると考えれば,この世はより御しやすく,快適になる。期待という重荷から解き放たれる。また,他人との比較に悩まされることもなくなる。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.141-142

統合主義者と細分主義者

統合主義者は,細分主義者のことをこう批判する。彼らは,例えばデンマークで捕まえたスズメや,南アフリカで採集した植物といったものを観察する際に,細かな特徴——色調が明るいか暗いか,大きか小さいか,スズメなら足のけづめが尖っているか尖っていないか,植物なら葉柄が太いかどうか——に目を凝らし,少しでも違いがあれば,別種とみなすべきだと主張する。そうすることで彼らは,生物界を過剰に分類するだけでなく,分類学の論文に,無益な名前を不当に詰め込んでいるのだ。すべては自分のエゴを満足させるためである。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.106-107

移動しすぎる

われわれは皮膚の色に惑わされる。じつは,民族集団同士,地域集団同士の遺伝子の違いはごくわずかである。あらゆる人間はアフリカ人を祖先に持ち,遺伝学では,異なる集団同士の比較よりも同じ大集団内の比較のほうが,遺伝子の違いの幅が10倍であることが確認されている。クイーンズランド大学の生物哲学者,ジョン・ウィルキンズはこう説明する。「種の分類に,先祖をたどることは有益である(というのも,多くの場合,種は隔離された遺伝子プールだからである)。だが,同一種内の集団の分類には,たいして有用ではない……そして,ヒトの分類には[まったく役に立たない]。われわれ人間は移動しすぎるのだ」

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.130

スポーツ地理学

こういう例は枚挙にいとまがない。スポーツの卓越した能力が1ヵ所にかたまって出現することはしばしばあるのだ。だから,いまや「スポーツ地理学」という小規模な学問分野が出現し,この現象について研究が進められている。それによって判明しているのは,スポーツ選手が地理的なかたまりをなす要因がいくつもあることだ。成功をもたらすのは,気候,生活環境,人口動勢,栄養状態,政治,訓練,気風,教育,経済事情,習俗のさまざまな貢献である。要するに,スポーツ選手の地理的なかたまりは,遺伝的にではなく,体系的につくられる。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.125

スキルセットが異なる

第一に,スキルセットの種類がまるで異なる。ひときわすぐれた子供になるのに必要な属性は,成功した大人になるのに必要な属性とは異なるので,成熟すれば自動的にひときわすぐれた大人になれるわけではない。「IQの高い6歳児は,頭のなかで三桁の掛け算ができたり,代数方程式を解くことができたりすれば,称賛される」とウィーナーは説明する。「だが,青少年になると,数学上の未解決問題を解く新しい方法を考案したり,新しい問題や領域を見つけて研究したりする必要がある。でなければ,数学の世界で名をなすことはできない……。それは,美術の世界でも音楽の世界でも同じことである。神童は完璧であれば称賛されるが,いつかその先へ進まなければ世間に忘れられてしまう」

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.114

お蔵入り

『ニューヨーク・タイムズ』紙の科学記者のナタリー・アンジェはこう付け加える。「一般大衆はあまり聞きたがらない事実だが,双生児同士には一致しない部分が数多くある。テレビプロデューサーが別々に育てられた一卵性双生児のドキュメンタリー番組を企画したものの,ふたりの個性が大きく異るとわかったため——ひとりは話し好きで社交的,もうひとりは内気で臆病だった——説得力がないという理由でお蔵入りした例を,私はふたつ知っている」

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.102-103

集団の数値

しかし,もっと重要な事がある。これらの数値が当てはまるのは集団のみであり,個人には適合しないのだ。マッド・リドレーの説明によれば,遺伝率は「母集団平均であり,個人には無意味である。ハーミアのほうがヘレナよりも遺伝的知能が多い,などと言うことは不可能だ。たとえば,『身長の遺伝率は90パーセントである』と言うときには,身長の90パーセントが遺伝子によって,残りの10パーセントが食べ物によって決まるという意味ではない。ある標本における分散は,90パーセントを遺伝子に,10パーセントを環境に帰すことができるという意味なのだ。個人における身長の遺伝率は存在しない」
 この場合,集団と個人は昼と夜ほど異なる。マラソン選手が本人を除く1万人の選手のタイムを平均しても,自分のタイムを算出することはできない。平均寿命がわかったところで,自分の人生が何年続くかはわからない。全国平均をもとにして考えても,自分が子供を何人持てるかを予見することは不可能だ。平均は平均にすぎない——ある面では非常に便利でも,別の面では無用になる。遺伝子の重要性を知っていることは有益だが,双生児の研究では個人や個人の可能性について何も証明されていない事実に気づくことも,それに劣らず重要である。集団平均は個人能力の指標にはけっしてならない。

・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.100

猫のCc

たとえば,猫のレインボーとそのクローンのCc(「カーボンコピー」の頭文字にちなんだ名前)の例がある。2001年,レインボーからペットでは世界初となるクローンが誕生した。クローン猫のCcはテキサスA&M大学の遺伝学者のチームによってつくられ,検査によって核DNAがレインボーとまったく同じであることが確認された。ところが,カーボンコピーのように瓜ふたつというわけにはいかなかった。まず,外見がまったく異なる。毛色も(レインボーは茶,白,黒の典型的な三毛猫だが,Ccは白と灰色)体形も(レインボーはぽっちゃりと太り,Ccはすらりと痩せている)違うのだ。
 さらに,直接観察した人びとによれば,性格もそれぞれである。レインボーは静かでおとなしく,Ccは好奇心旺盛で遊び好きだという。年齢差を考慮したとしても,遺伝子操作によるクローンは完璧な複製には程遠いことが明らかだ。「もちろん,大切な飼い猫のクローンを作ることは可能である」とAP通信社の記者のクリステン・ヘイズは結論している。「だが複製は,行動も,外見すらも,オリジナルに似るとはかぎらない」

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.93

才能の堂々巡り

どんな人でも,どんな年齢でも,他人の人生に豊かさや美しさを与えられるのは立派なことである。だが,子供が際立った技量を示したとき,大人の判断はつい曇りがちになる。それが,神経科学者で音楽学者のダニエル・J・レヴィティンの言う「才能の堂々巡り」につながる。「われわれがあの人には才能があると口にするときには,あの人は生まれつき素質に恵まれているという意味でそう言っている。だが結局,われわれはその人がいちじるしい成功を遂げたあと,その言葉を遡及的に使っているにすぎない」

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.82

グレートネス・ギャップ

これをグレートネス・ギャップと呼ぼう。つまり,並はずれた成功者とたんなる凡人とのあいだには,埋まることのない,どこまでも深い溝があるという感覚である。自分とは違って,あの人は何かを持っている。あのように生まれついている。生来の才能に恵まれている。
 われわれの文化にはこういう仮定が織り込まれている。「才能[talent]」をオックスフォード英語辞典で引くと「天分。生来の能力」と説明されていて,その出典は『マタイによる福音書』に記された才能についてのたとえ話である。「才能のある[gifted]」「才能のある状態[giftedness]」という言い方は17世紀から使われている。現在の定義での「天才[genius]」が使われはじめたのは18世紀末のことだ。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.74-75

環境の要求

子供は環境が要求する分だけ発達する。1981年,ニュージーランドを拠点にする心理学者のジェイムズ・フリンは,まさにこの言葉どおりであることを発見した。100年以上にわたって測定された生のIQスコアを比較したところ,その数値が少しずつ上昇していた。見かけ上,数年おきに以前よりも賢い受験者集団があらわれていた。つまり,1980年代の12歳のIQは1970年代の12歳よりも高く,1970年代の12歳のIQは1960年代の12歳のIQよりも高かった。あとの時代になるにつれてIQが高くなったのだ。この傾向はある地域や文化にかぎったことではなかった。また,時代間のスコアの差は小さくなかった。平均すれば,IQスコアは10年ごとに3ポイント上昇していた。2世代で18ポイントにのぼるのだから,これはたいへんな違いである。
 この違いはあまりにも大きく,理解しがたいほどだった。20世紀後半の平均値を100とすれば,1900年の平均値は60ほどだったのだ。このことから,ひどくばかばかしい結論が引き出された。「われわれの先祖の大半は知能が遅れていた」というのだ。知能指数が徐々に上昇する現象,いわゆる「フリン効果」に対しては,心理学の認知研究の分野から疑いの声が上がった。どう考えても,人間は100年足らずのあいだに飛躍的に賢くなったとは言えない。もっと別の理由があるはずだった。
 フリンは,IQスコアが上昇しているのは特定の分野に限られることに目をとめ,そこから重要なヒントを得た。現代の子供たちの成績は,一般知識や数学では昔の子供たちとあまり変わらなかった。ところが,抽象的論理の分野では,フリンによれば「困惑するほど大きく」進歩していた。時代をさかのぼるほど,仮言や直観的問題に苦心しているようすがあった。どうしてだろう?それは,世の中がもっと単純だった100年前には,現代のわれわれの頭の中に入っている基本的な抽象概念は,ほとんど知られていなかったからだ。「1900年におけるわれわれの先祖[の知能]は,日常の現実のみに向けられていた」とフリンは説明する。「われわれが彼らと異なるのは,抽象概念,論理,仮説を用いることができる点である……。1950年代以降,われわれは,以前に学んだルールに縛られず,問題をただちに解くことに巧みになった」
 19世紀の人びとの頭の中に存在しなかった抽象概念の例には,自然選択説(1864年に初めて提唱された),対照群の概念(1875年),無作為標本抽出の概念(1877年)などがある。100年前のアメリカでは,化学的な方法論自体,ほとんどの人になじみのないものだった。一般大衆にとって,抽象的に思考する条件がととのっていなかったのだ。
 言いかえれば,IQスコアの劇的な上昇のきっかけは,原因不明の遺伝子変異でもなければ,摩訶不思議な働きをする栄養素でもなく,フリンの言う「全科学的な操作的思考からポスト科学的なそれへの[文化の]移行」だった。20世紀になると,基本的な科学法則が少しずつ大衆の意識に入りこみ,われわれの世の中を変えていった。この変化は,フリンによれば,「人間の心の解放にほかならない」のだった。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.56-57

集団の孤立と反比例

1932年,心理学者のマンデル・シャーマンとコーラ・B・キーは,IQスコアが共同体の孤立の度合いと反比例することを発見した。文化的に孤立すればするほどスコアが低くなるのだ。たとえば,ヴァージニア州の辺鄙な谷間の町コルビンは,成人のほとんどが無教養で,新聞,ラジオ,学校へのアクセスもままならない土地だったが,住民の6歳児のIQを調査したところ,その数値は全国平均に近かった。ところが,その子供たちは成長するにしたがってIQが低くなった——学校教育もい文化になじむ体験も不十分だったために,ついには全国平均を下回ったのである(たとえばイギリスの運河船上で生活する子供たち,いわゆるカナルボート・チルドレンなど,文化的に孤立した地域や集団の子供たちにも,全く同じ現象が見られた)。だから,彼らはこう結論せざるを得なかった。「子供は環境が要求する分だけ発達する」

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.55-56

集団を分類

公然の人種差別を別にして,IQ検査などの知能検査の本当に悲劇は,昔もいまも,それらが発するメッセージにある。高スコアの生徒たちを含むありとあらゆる人びとに向けられるそのメッセージは,つぎのとおりである。「あなたの知能は自分で勝ちえたのではなく,与えられたのである」ターマンのIQ試験は,われわれの大半が感じている根源的な恐怖に,容易につけいった。つまり,われわれには生まれつき,深く,速く思考する能力をあるレベルに抑える,内なる閂が備わっているのではないかという不安に乗じたのだ。これはとんでもないことである。基本的に,IQは集団を分類するツールにすぎないのだ。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.54

スピアマンは,学業評価,教師による主観評価,仲間による「常識」評価の相関関係を確立した。そして,この相関関係によって,知的能力の中核をなす,生来の思考能力の中核をなす,生来の思考能力の存在が証明されると主張した。「gはふつう先天的に決定される。訓練によって背を高くすることが不可能であるのと同様に,訓練によってgのレベルを上げることは不可能である」

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.52

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