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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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スイッチ

皮肉にも,われわれはこれまで生まれか育ちかの区別に躍起になっていたが,じつはまったく逆のことをする必要がある。つまり,生まれと育ちがどのように相互作用するかを正確に理解する努力をしなければいけないのだ。数ある遺伝子のうちどの遺伝子のスイッチが入れられるのか,ひとつひとつの細胞の機能に——また,生体の形質に——いつ,どんな頻度で,どんな順番で違いがもたらされるのか。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.44
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アミノ酸情報のみ

遺伝子と環境の相互作用はきわめて複雑で,一般の人々に理解できるよう説明するのは非常に厄介である。遺伝子の従来の(誤った)概念とは異なって,単純で,ただちにピンとくるというわけにいかないのだ。その点からすれば,相互作用論者にパトリック・ベイトソンがいるのは幸運である。かつて英国王立協会副会長(生物学部門)を務めたベイトソンは,遺伝の仕組みをわかりやすく解説する第一人者であるが,その名前には象徴的な意味で,ある因縁が秘められている。約100年前,彼の祖父のいとこである著名な遺伝学者ウィリアム・ベイトソンは,「遺伝学[genetics]」という造語を編み出し,遺伝子はさまざまな形質を直接につくる情報をすべて含んだ小包であるという単純な概念を世に伝えることに努めていた。そして,その三代目にあたるパトリック・ベイトソンが,広く普及しているその概念を刷新しようとしているのだ。
 「遺伝子にはタンパク質のアミノ酸配列の情報がコードされている」とベイトソンは言う。「それだけである。神経系統や行動パターンの情報はコードされていない」

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.37

材料は同じでも出来上がりは異なる

ケーキ作りのプロセスになぞらえてG×Eの概念を説明しているのが,ケンブリッジ大学の生物学者パトリック・ベイトソンである。100人がほぼ同じ材料を作ってつくりはじめても,,できあがったケーキは100通りになる。材料のごくわずかな違いは,かならず結果に違いをもたらす一方で,その違いを前もって決定しているわけではない。現実に結果としてあらわれる違いは,プロセスから生じる。「発達は化学作用である」とベイトソンは言う。「そして,最終結果を材料に帰してすますことはできない」
 それと同じく,ある遺伝子が存在するからといって,ある種の,もしくはある数のタンパク質が自動的につくられるわけではない。まず,あらゆる遺伝子は,タンパク質の組み立てを開始するにあたり,活性化——スイッチオン,すなわち「発現」——される必要がある。
 さらに,遺伝学の分野で最近わかったことだが,一部の遺伝子——その数は,現時点では不明である——は可変性を持っている。場合によっては,同じ遺伝子が,いつ,どのように活性化されたかによって,異なる種類のタンパク質をつくることがあるのだ。
 これらを考えあわせれば,ほとんどの遺伝子はそれのみで何らかの特徴を直接につくることなどできない。むしろ遺伝子は,発達のプロセスに積極的に関与するとともに,柔軟に変化する構造を持っている。遺伝子を消極的な指示マニュアルだと言いあらわす人びとは,遺伝の仕組みの美しさとパワーを矮小化しているに等しい。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.35

G×E

相互作用論者はそのプロセスを「G×E」と呼ぶ。「遺伝子[gene]かける環境[environment]」を短縮した呼び名である。このG×Eは,あらゆる遺伝現象の理解にもっとも重要な概念になっている。この概念によれば,遺伝子は,瞳の色から知能までのあらゆる特徴の形成に大きな影響を及ぼすが,ある特徴をどう発現させるかを厳密に命令することはめったにない。遺伝子は,受胎の瞬間から,内外のさまざまな刺激——栄養,ホルモン,感覚入力,身体的活動および知能的活動,他の遺伝子——に反応し,それらと相互作用して,ひとりひとりの独特な環境に合わせ,独特な,カスタムメイドのヒト・マシンをつくりあげる。遺伝子はたしかに重要だし,遺伝子の違いは結果的に個々の特徴の違いにつながるが,結局のところ,われわれひとりひとりが動的システムであり,発達する生物なのだ。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.31-32

忘れよ

相互作用論を理解するには,遺伝について知っているつもりのことをすべて忘れる必要がある。
 「遺伝子のみを因子とする一般の概念は,妥当ではない」と,遺伝学者のエバ・ヤブロンカとマリオン・ラムは明言する。「遺伝子は,自律的単位として見ることができない——つねに同じ効果を生み出す1本のDNAだと考えてはいけない。ある1本のDNAが何を生み出すにしても,何を,どこで,いつ産みだすかは,他のDNA塩基配列と環境に依存すると考えられている」
 メンデルはエンドウマメの交配実験のときに気がつかなかったが,遺伝子はいつも同じ口調で同じセリフを言うロボット俳優とは異なる。じっさいには周囲のものと作用しあい,語りかける相手に応じてセリフを変えるのである。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.29

才能はプロセス

現代のわれわれにそれがわかるのは,不変の指標があるからだ。たとえば,いきいきとして弾むようなパガニーニの「バイオリン協奏曲第一番」や,バッハの「バイオリンのためのパルティータ第二番」の終曲——演奏時間が14分に及ぶ,難易度のきわめて高い作品——である。いずれも18世紀には演奏がほぼ分可能だと考えられていたが,現在ではバイオリンを学ぶ学生たちでも弾きこなせる。
 これはどうしてだろう?さらに,陸上選手や水泳選手はより速く,チェス選手やテニス選手はより巧みになっている。人間が,たとえば11日ごとに新しい世代が生まれるミバエならば,理由として遺伝子や進化を挙げたくなるかもしれない。だが,遺伝子や進化はそういう働きを持たないのだ。
 これには単純な,なるほどと思える説明がある。そこに含まれる意味合いは,家庭生活や社会の根本にかかわってくる重大なものだ。つまり,ある人々は他より熱心に——また,他よりも利口に——訓練している。何かをうまくできるのは,うまくなる方法を見つけたからなのだ。
 才能はものではなく,プロセスである。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.18

ネットとベイズ

グーグルは,スパムやポルノを分類し,関連した言葉や言い回しや文書を見つけるのにもベイズの手法を使っている。きわめて大きなベイジアンネットワークを使って,単語や言い回しの同義語や類語を見つけるのだ。さらにまた,スペルチェッカーに必要な辞書をダウンロードする代わりに,インターネット全体に全文検索をかけて,それぞれの単語がどのように綴られる可能性があるかをすべて洗い出す。こうしてできたのが,「sharon」というのはたぶん「Sharon」のことだろうと認識してタイプミスを直す柔軟なシステムなのである。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.438

ノーベル賞とベイズ

2002年にはベイズが,ノーベル賞を丸々1つとまではいかないものの,一部勝ち取った。2002年のノーベル経済学賞受賞者ダニエル・カーネマンは,ノーベル賞の対象になる前に死去した心理学者のエイモス・トベルスキーとともに,人間が合理的なベイズ推定の手順にしたがって意思決定するわけではないことを示した。調査票の質問に答えるときにはその言い回しに影響されるし,医師たちが癌の患者に手術を行うか放射線治療にするかを決める時も,治療の選択を死亡率と関連付けるかそれとも生存率と関連付けるかで判断が違ってくるのだ。おおかたの人はトベルスキーを哲学的ベイズ派と見ていたが,本人は研究成果を頻度主義的な手法でまとめていた。デューク大学のジェームズ・O・バーガーがトベルスキーになぜかと尋ねると,そのほうが都合がよかったから,という答えが返ってきたという。1970年代にはベイズ派の研究を発表することはきわめて難しかったので,「彼は楽な道を選んだんだ」とバーガーは述べている。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.423

テューキーと世論調査

ベイズ統計を用いたテューキーの世論調査は,当時もっとも人気が高かった2人のテレビキャスターのために国際的な鳴り物入りの宣伝付きで行われていた。したがって,この調査がきっかけでベイズの法則の威力や有効性が広く世に知れ渡り,法則そのものが定期的に補強されていくという展開になる可能性もあった。ところがテューキーがこの調査について語ることも書くことも禁じたために,ほとんどの統計学者が,ベイズの法則がテレビで20年近くもスター並みの役割を演じてきたことを知らずに終わった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.318

何でも新しい名前

ウォリスの話によると,たとえきちんと確立されたわかりやすい名前があったとしても,「あの人[=テューキー]は,自分がしたことすべてに,何かしら別の名前をつけた」。新たな名前をつければそのアイデアに注目が集まるというので,ある同僚が教えたところ,テューキーは50もの用語を作り出していたという。そのうち定着したものとしては,たとえば線形計画法やANOVA[分散分析]やデータ解析といった用語がある。モステラーはある論文をまとめる際に,シャープやフラットやナチュラルといった音楽の記号を使うのをあきらめるようテューキーを説得するのに苦労したという。さらに別の同僚は,頻度(frequency)ではなく「フンド(quefrency)」だの,分析(analysis)ではなく「プンセキ(alanysis)」だの,「バカ分解(saphe cracking)」といった妙な造語をするんなら,君のことをテューキーでなくJ・W・キューティーと呼ぶぞ,といってテューキーを脅した。ウォリスが言うように「[こういう造語は]必ずしも友達を作ったり人に影響を及ぼす最良の方法ではなかった……それでもテューキーと話すときは,基本的に彼の言葉を使うように心がけた」。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.311

軍と大学

軍がときにはベイズを受け入れたのに対して,大学の統計学者たちは断固としてベイズを受け入れまいとしてきた。この態度の違いが何に由来するのかは,未だによくわからない。軍がこの手法を信用するようになったのは,第二次大戦や冷戦の間に極秘にベイズを使っていたからなのか。それとも,軍がコンピュータを使うことをあまり恐れなかったからなのか。あるいは,軍のほうが強力なコンピュータを使いやすかったというだけのことなのか。第二次大戦や冷戦を巡る情報の多くが今なお機密扱いであることを考えると,これらの謎はこの先も解けずに終わるのかもしれない。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.385

テューキーとベイズ

では,テューキーはどこに立脚していたのだろう。反ベイズ派でしかも反頻度主義者なのだろうか。友人たちによると,テューキーはモステラー同様,融通の利かない統一的な哲学に反対していたという。ブリリンガーの見るところ,テューキーは「ベイズ派の主張そのものではなく……ベイズ派の一部に」いらだっていた。テューキーにいわせると,「ベイズ派の技法をすべて捨ててしまうのは本物の過ちだが,わたしにいわせれば,ベイズ派の技法をありとあらゆるところで使おうとするのはそれ以上に大きな過ちだ」った。つまり,いつどこで使えばいいかを知っているかどうかがポイントだったのだ。テューキーはしばしば「どの場合にも通用するアプローチをつくろうとする自然ではあるが危険な欲望」に不満を漏らし,「わたしの見るところ,ベイズ解析にとって最大の脅威となるのは,重要なものをすべて単一の定量的な枠組みにはめ込むことができるという信念だ」と述べている。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.309-310

テューキーの業績

テューキーは軍事のほかにも,空気の質や化学汚染やオゾン層の減少や酸性雨や,国勢調査の方法論や教育における試験の問題といった広い範囲の問題について政府に助言を行っていた。
 いったい全体どうやって,こんなにたくさんの仕事をこなしたのだろう。セミナーのときに,後ろの列に腰を下ろして居眠りしたり,郵便物を読んだり,新聞にざっと目を通したり,論文に手を入れたりしていたテューキーが,発表が終わったところでおもむろに立ち上がって論評を加えたという類の伝説は山ほどあった。また,レコードでバロックの管楽合奏を聴きながら鉛筆で論文を認め,一番上に「〜とジョン・W・テューキー著」と書き加えたうえで長い付き合いになる2名の秘書のどちらかに渡し,それからおもむろにその論文を完成させるための共著者を探しに行ったという話もある。テューキーは約800の刊行物に名前を残し,105名以上の著者と共同で著作を発表したが,共著者のなかには国立衛生研究所のジェロム・コーンフィールドも含まれており,もっとも頻繁に共著者となったのはハーバード大学での友人フレデリック・モテスラーだった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.301-302

テューキー

テューキーは,今では「ビット」や「ソフトウェア」という言葉を作った人物として知られているだけで,統計学や工学の業界の外ではほとんど無名に近いが,じつは軍事研究のスパイの世界——とりわけ暗号解読やハイテク兵器の分野で膨大な成果を上げていた。プリンストン大学で統計学の教授を務めながら,30マイル[約50キロ]離れたAT&Tのベル研究所——当時は世界一の工業研究所とされていた——でも仕事をしていた。そしてこのような立場を生かして,5代にわたる大統領,そして国家安全保障局やCIAに助言を行った。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.298

主観主義vs.頻度主義

一方ベイズ派の主観主義者たちは,答えを実際に確率で表したいと考えていた。仮説を受け入れたり却下するだけでは不十分だった。ライファも実感したことだが,事業主にすれば,「それまでの意見に基づいて……また,具体的なサンプル事象に照らして,pが0.25より大きい確率は0.92だと考えられる」というようなことがいえるようになりたかった。
 ところがこれは頻度主義者にとってまさに禁句で,頻度主義者が認めるのは「有意性が0.05レベル」のサンプル事象だけだった。ライファは頻度主義が「分布のごく浅薄な記述を中心に据えている」と見た。「私は学生に(pの分布全体について,また)確かとはいえないpがどのあたりにありそうか(について)確率を使って考えてほしかった。そのうえで意思決定の観点から見て,どのあたりに正しい行動があるのかを解明してほしかった。だから,仮説検定の問題全体が学生をまちがった方向に導くように思われたんだ」

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.266-267

CIAとベイズ

CIAでは,分析官がベイズ法を用いて何十もの実験を行った。CIAは,不完全だったり不確かだったりする証拠から推論で情報を得る必要があるが,1960年代から1970年代にかけて,破滅的な出来事を少なくとも12回は予測し損なっていた。北ベトナムの南ベトナム侵攻も,OPECによる1973年の原油価格つり上げも予測できなかったのだ。CIAの分析官たちは,通常何らかの目処が付いたところで作業を終えていた。ありそうもない潜在的な大惨事は無視していたし,新たな証拠を取り入れて最初の予測を更新するわけではなかった。CIAはベイズに基づく分析のほうが洞察に富んでいるという結論に達したが,それにしてもベイズに基づく分析には時間がかかりすぎると判断した。そして,コンピュータに計算力がなかったために実験は放棄された。
 法律の専門家たちは,これとは異なる対応を見せた。ベイズの法則が法的な証拠の評価に役立つのではないかという声があちらこちらで上がったものの,1971年にハーバード大学のロー・スクール教授ローレンス・H・トライブが発表したベイズの法則の応用に関する辛辣な論文が大きな影響を及ぼしたのである。数学士の学位を持つトライブは,ベイズをはじめとする「数学的装置やえせ数学的装置」は「法的な手順を数学的な曖昧さで覆い隠して重要な価値をゆがめ——ときには破壊する可能性がある」と糾弾した。これを受けて多くの法廷が,ベイズの法則を閉め出したのだった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.250

ベイズの復活

1960年代に入ると,まるで雨後の竹の子のようにベイズ派の理論が姿を現しはじめ,ジャック・グッドによると,ざっと勘定したところ地球上の統計学者の総数をはるかに超える「少なくとも4万6656種類の解釈があった」という。主観ベイズに個人論的ベイズ,客観ベイズに経験ベイズ,擬似経験的ベイズに部分的ベイズ,認識様態的ベイズに直観主義的ベイズ,論理的ベイズにファジー・ベイズに階層ベイズ,そしてハイパーパラメトリックなベイズにハイパーパラメトリックでないベイズ等々。これらのバリエーションの多くは,作り出した人間にしかその魅力がわからず,現代の統計学者のなかにも,いくら屁理屈をこねても先駆的なベイズ理論が生まれるわけではないと強く主張する者がいるのは事実だ。ある生物統計学者は,さまざまなベイズ派の理論をどうやって区別するのかと問われて,かすれた声で「汝らはその事後確率によってそれらを見分けるであろう」と答えている[マタイによる福音書7:16「あなたがたは,その実で彼らを見分ける」のもじり]。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.237-238

心臓疾患とベイズ

フラミンガム心臓研究のような長期にわたる研究は,さまざまな変数が発病リスクに単一ないしは合同で及ぼす影響を調べるように設計される。従来疫学者たちは,結果として得られる多重クロス分類のアレイを念入りに調べて——コーンフィールドによれば「熟慮して」——データを検討してきた。たとえば,3つのリスク因子がそれぞれ「低い」,「中程度」,「高い」の3つのいずれかに人々を分類する場合には3×3のシンプルなマス目ができる。ところが変数の数が増えて,しかもそれらの単独の影響だけでなく複合的な影響も考えるとなると,「熟慮」すべきマス目の数はすぐにふくれあがって手に負えなくなる。10のリスク因子をそれぞれ「低い」,「中程度」,「高い」のレベルに分けて行うクロス分類の研究では,検討すべきマス目の数は5万9049[3の10乗]個になる。そこで1つのマス目に10名の患者をあてるとすると,フラミンガムの全人口を上回る60万人の群(コホート)が必要になる。
 ここでコーンフィールドは,「単純な調査ではなく,より探究的な形の分析」が必要だということに気がついた。それには,観察したことを要約するための数理モデルを開発しなくてはならない。そこでコーンフィールドは,心臓血管疾患による死亡率を事前の知識としてベイズの法則を使うことにした。フラミンガムの研究からは心臓疾患で死んだ人とそうでない人の2つのグループに関するデータが得られていた。各グループの,7つのリスク因子に関する情報が手に入っていたのだ。そこでベイズの法則を使って計算したところ,ロジスティック回帰関数の形をした事後確率が得られたので,それを使って心臓血管の疾患のもっとも重要な4つのリスク因子を突き止めた。それによると,年齢そのものはさておき,問題なのはコレステロールと喫煙と心臓の異常,そして血圧だった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.215-216

道化

結局のところ,フィッシャーは道化を演じただけだった。コーンフィールドが冷淡に指摘したように「[批判を受けて]ひっきりなしに仮説が変更されていってまじめに考慮することが難しくなったときに……1つの結論に達した」のである。観察されたデータの関連についての実際的な説明がたった1つしか見つからないのであれば,科学者たちはその原因を見つけたといえるはずだ。これに対して,ほかのやり方でも説明できるのであれば,原因はまだ見つかっていないことになる。コーンフィールドはこうして,その先の喫煙と肺がんの研究のためのロードマップを明らかにしてみせた。
 この時点で,歴史学専攻だったコーンフィールドは,アメリカでもっとも影響力の強い医療統計学者となっていた。1964年にアメリカ軍医総監が,「たばこの喫煙と男性の肺がんとは原因という形で結びついている」と結論したときに引き合いに出されたのはコーンフィールドの業績だった。実験ではない研究が,喫煙と肺がんとの関係を確認するのに役だったのだ。コーンフィールドは,ラプラスが「過去の出来事から得られた,原因の確率と未来の出来事の確率」と呼んだベイズの法則の力を借りて,症例対照研究を通して汚染や暴露と疾病の結びつきの強さを評価することの正当性を理論的に裏付けた。コーンフィールドのおかげで,今や症例対照研究は疫学者が慢性病の原因を突きとめる際の主要なツールとなっている。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.212-213

タバコとベイズ

1950年代の半ばに,イギリスとアメリカにおける2つの壮大な取り組みによって,コーンフィールドの見解が裏付けられた。過去を振り返る形の研究(遡及研究)で得た成果が多くの人に退けられるのを見たヒルとドールが,今度は直接的なアプローチとして,将来に向けての追跡研究(前向き研究)を行ったのである。2人はイギリスの4万人の意志に現在の喫煙癖について質問し,その後5年間追跡を続けて,誰が肺がんになったのかを調べた。これと平行してアメリカでは,E・カイラー・ハモンドとダニエル・ホーンが3年半以上にわたって,ニューヨーク州の50歳から69歳までの18万7783人の男性の追跡調査をした。どちらの国でも,死亡率は同じようなものだった。ヘビースモーカーが肺がんになる可能性は,喫煙しない人に比べて22倍から24倍にのぼり,しかももう1つ意外なことに,心臓や循環器系の病気になる可能性も42パーセントから57パーセントほど高かった。さらに,パイプより紙巻たばこのほうが危険だが,紙巻たばこの喫煙をやめればリスクは下がるということがわかった。
 これに対して,反ベイズ派のフィッシャーやネイマンは,たばこが肺がんの原因であるという研究結果を受け入れることができなかった。この2人はヘビースモーカーで,フィッシャーはタバコ会社のコンサルタントとして謝礼をもらっていた。だがそれよりも大きかったのは,2人そろって,疫学的な研究には説得力がないと考えていたことだった。たばことがんに関係があるからといって原因であるとは限らない,と言われれば,たしかにそれはその通り。2人は1955年にそろって激しい反撃を開始した。今後の疾病率を予測するには,厳密に管理された実験室での実験で得られたデータや実地の実験が必要だ,というのがその主張だった。さらにこの反撃に,当時全米でもっとも有名だったミネソタ州ロチェスターのメイヨー・クリニックの医療統計学者ジョセフ・パークソンが加わった。たばこががんと心臓疾患の両方を引き起こすとは思えなかったのである。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.210-211

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