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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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チューリングの罪

世界中がマンハッタン計画に関わって原爆や水爆を作った物理学者をもてはやし,ナチの戦犯が自由の身となり,アメリカがドイツのロケット専門家を雇うなか,チューリングは有罪を宣告された。イギリスという国が囚人たちに医学実験を行ったナチを相手に戦ってからまだ10年も経たぬというのに,判事は,獄に下るか女性ホルモン注射による化学的去勢を受けるかどちらかを選べ,とチューリングに迫った。チューリングはエストロゲン注射を選び,1年後には乳房が大きくなった。そして,チューリング自身の助けがなければ不可能だったはずのノルマンディー侵攻の10周年記念日の翌日,つまり1954年6月7日に自ら命を断った。イギリス政府はこの2年後にアンソニー・ブラントを叙勲したが,このスパイは後に,友人だったバージェスやマクリーンに情報を漏らして,同性愛者に対する魔女狩りを引き起こしたことを認めている。チューリングの最期について書いていると——そして読んでいても,今なお悲しくつらい気持ちになる。イギリスの首相——当時の首相はゴードン・ブラウンだった——がチューリングに謝罪したのは,チューリングの死後55年が経った2009年のことだった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.165
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機密扱い

このような機密扱いは,チューリングに破滅的な影響を及ぼした。終戦当時チューリングは「脳を作りたい」といっていた。そしてそのためにケンブリッジ大学の講師の職を退け,ロンドンの国立物理学研究所に入った。公職守秘法の縛りが災いして,当時のチューリングはいわば無名の存在だった。もしも爵位を得るなどして顕彰されていれば,支援スタッフとして割り当てられたたった2人の技師の数をさらに増やすにしても,はるかに楽だったはずだ。ところがこの研究所の所長だったチャールズ・ガルトン・ダーウィン——あのチャールズ・ダーウィンの孫——は,チューリングの業績をまったく知らず,そのためチューリングが前日遅くまで仕事をしていて遅刻をするたびに,叱責を繰り返した。ある日の午後,ダーウィンも参加していた会議がひどく長引くと,チューリングは5時半ぴったりに立ち上がり,「時間通りに」帰ります,とダーウィンに告げたという。
 チューリングは1945年にこの研究所で,世界初の暗号解読用のかなり完成度の高いプログラム内蔵型デジタル電気計算機を設計した。ところがダーウィンは野心的すぎるといってこれを非難し,うんざりしたチューリングはその数年後に研究所をやめた。1950年にようやく研究所がチューリングの設計に基づくコンピュータを作ったところ,その早さは世界一で,なんとまあ,メモリー容量は30年後に作られた初期マッキントッシュの機械と同じだったという。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.162-163

歴史に葬り去る

1945年5月にドイツが降伏すると,チャーチルはその数日後に予想外のショッキングな行動に出た。暗号解読が第二次大戦の勝利に貢献したという証拠をことごとく破棄するよう命じたのである。こうして暗号学やブレッチリー・パークやチューリングやベイズの法則やコロッサスが連合軍の勝利に貢献したという事実そのものが,葬り去られることとなった。チューリングの助手のグッドは後に,「ホレリス[のパンチ]カードから逐次統計,経験的ベイズやマルコフ連鎖や意思決定理論,そして電気計算機に至るまでの」対ユーボート戦や暗号解読に関するすべてのことが超機密にされた,とぼやいている。ほとんどのコロッサスが解体され,見る影もない部品の山となった。コロッサスを作ってタニー暗号を解読した人々は,イギリスの公職守秘法と冷戦とに猿ぐつわを噛まされた格好で,コロッサスが存在したことすら公言できなくなった。イギリスおよびアメリカの対ユーボート戦関係者の著作は即座に秘密指定されて,軍の上層部しか読めなくなり,その公開には何年も,場合によっては何十年もかかった。対ユーボートの暗号解読作戦のことは,機密扱いの戦史にも書かれず,ベイズやブレッチリー・パークのことや,チューリングが国家を救済するために尽力したことが世間に知れたのは,1973年以降のことだった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.161

日本軍の暗号

日本軍の暗号担当は,主要暗号であるJN-25を使うにあたって,メッセージを5桁ずつブロックにして送信した。それぞれのブロックがJN-25のコードブックから引いてきた5桁の数字からなるコードと「添加物」と呼ばれるランダムな5桁の数字を加えたものであることは,イギリスの数学者たちにもわかっていた。したがってイギリスの暗号分析官はこの手順を逆に行えばよいはずだが,肝心のJNコードや添加物が載っているコードブックは手元にない。そこで数学者たちは,まず添加物の5桁の数字と思われるものを絞り込むことにした。そのうえで,暗号の専門家ではない一般人やイギリス海軍婦人部隊からなるチームが標準化された手法で,添加物である可能性がもっとも高い数字を迅速かつ客観的に確認しなければならなかった。特定の添加物が使われているかどうかを判断するには,解読されたコードがその添加物を使って作られている可能性,つまり確率を調べればよい。チームのメンバーは信念の指標として,推測した各コードに,それまでに解読したメッセージにそのコードがどれくらい頻繁に現れたかに応じてベイズ流の確率を割りふった。そのうえで,可能性がいちばん高いブロックや境界線上のブロックや特に重要なブロックをさらに調べていくのだ。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.159

自家製ベイズシステム

チューリングが開発していたのは,自家製のベイズ・システムだった。特定のメッセージを暗号化する際に用いられたエニグマの設定を突きとめるというのは,原因の逆確率の古典的な問題だった。チューリングがどこでベイズの手法を拾ってきたのかは明らかでない。自力で再発見したのか,それともどこかで戦前ケンブリッジ大学で一人孤独にベイズの法則を擁護していたジェフリーズについて聞きかじってそれを取り入れることにしたのか。わかっているのはただ1つ,チューリングもグッドも統計学者ではなく純粋科学者だったから,反ベイズの姿勢にそれほど毒されていなかったということだけだ。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.134

エニグマ

エニグマは,一見,複雑なタイプライターのような形で,通常の26文字分のキーボードと,さらにもう1組,26個の文字が書かれたライトがならんでいる。タイピストが文字のキーを1つ押すと,3枚のホイールを通して電流が流れ,いずれかのホイールが1刻みだけ前に進む。それと同時にランプボード上の暗号化された文字が点灯するので,1人の助手が別の助手にこの文字を読み上げて,得られた無秩序な文字がモールス信号で打電される。メッセージを受けた側は,この手順を逆にたどることになり,暗号を受けた人物がエニグマのキーボードに暗号化された文字を打ち込むと,ランプボードにもともとのメッセージが浮かび上がるというしかけだった。エニグマのオペレータは,配線やホイールや出発点などを変えて,何兆もの組み合わせを作ることができた。
 ドイツ側は,軍の意思伝達の標準手段となる装置をどんどん複雑にしていった。そして約4万個の軍用エニグマを,ドイツ陸軍,海軍,空軍,予備軍,最高司令部,さらにはスペインやイタリアの国粋主義勢力やイタリアの海軍にもばらまいた。1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵入する際に猛スピードで電撃作戦を展開できたのも,充電器つきエニグマのおかげだった。エニグマを装備した指令車両に将校が乗り込んで,援護射撃や飛行機による急降下爆撃や戦車の動きを調整するという未だかつてない作戦を取ったのだ。ドイツ軍艦のほとんどが——なかでも戦艦や掃海艇や補給船や気象通報船やユーボートは全挺が——エニグマを装備していた。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.123-124

p値

厳密にいうと研究室で働く人々はp値を使うことで,実験で得られた結果からある仮説を反証する統計的に有意な証拠が得られたと言明できる。ただし,そういえるのは(その仮説の下で)その結果(あるいは,もっと極端な結果)が偶然のみによって起きた確率[=p値]がきわめて小さい場合に限られる。
 ジェフリーズは,頻度主義者たちが起きる可能性はあっても実際に起きていない結果についてあれこれ考えるのを見て,じつに奇妙な話だと思った。自分だったら,地震で起きた津波の到達時間に関する情報をもとにして,特定の地震の震央に関する自分の仮説が正しい確率がどれくらいになるのかを知りたいところだが……。なぜ結果でありえたが実際には起きていない事柄を拠り所にして,仮設を捨て去らねばならないのだろう。1つの実験を何度でもランダムに繰り返す——というか,繰り返せる研究者はまれで,これを批判して「架空の反復」と呼ぶ者もいるくらいだった。ベイズ派にとって,データはあくまでも固定された証拠であって変わるはずがない。それに,どこからどう考えてもジェフリーズが特定の地震を繰り返すことは不可能だ。しかもp値はデータに関する言明であって,ジェフリーズが知りたいのは,データを前提とした仮説の正しさに関する言明なのだ。かくしてジェフリーズは,観察されたデータだけに基づいて,その仮説が正しい確率をベイズの法則を用いて計算すべきだと提唱することとなった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.112-113

答えは「口論」

ネイマン陣営とフィッシャーの追随者たちとの諍いは,1936年には学界全体が注目する事件になっていた。両陣営は,ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの同じ建物の別のフロアに陣取っていたが,決して交わることはなかった。ネイマンのグループはコモンルームで3時半から4時15分まで紅茶を飲み,フィッシャーのグループはそのあとで中国茶をすすった。この2つの陣営は,じつに些細なことでもめた。統計学部の建物には飲み物がなく,日が落ちると黒板が読めなくなるくらい電灯が暗かった。そのうえ暖房もお粗末で,冬になると建物のなかでもオーバーを着るくらいだった。
 両方のグループに縁があったジョージ・ボックス(エゴン・ピアソンに師事し,ベイズ派になり,フィッシャーの娘と結婚した)によると,フィッシャーとネイマンは「ひじょうに意地悪にもなれれば,ひじょうに寛大にもなれた」ネイマンが意思決定に関心を示していたのに対して,フィッシャーは科学的な推定のほうに興味があったので,両者の方法論も応用のタイプも異なっていた。双方ともに自分が扱っている問題にとって最良のことを行っていたにもかかわらず,どちらも相手のしていることを理解しようとしなかった。当時の統計学界には,この状況を表現した有名ななぞなぞがあった。曰く,「統計学者の集団を表す集合名詞は何か」答えは「口論」。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.104-105

光も通らないジャングル

フィッシャーはベイズの法則を激しく非難し,そんなものは「光も通らないジャングル」であって,「誤り,おそらくは,数学界がこれほど深く関わってしまったただ1つの誤りだ」とした。さらに,事前確率を等しいとすることは「とんでもない欺瞞」だと論じ,「わたしには,逆確率の理論がまちがいの上に組み立てられており,丸ごと却下すべきだという確信がある」と高らかに宣言した。学識豊かな統計学者のアンデルス・ハルトはやんわりと,「フィッシャーの傲慢な文体」を嘆いている。フィッシャーの業績にベイズに通じる要素が多々あったにもかかわらず,本人は何十年もベイズと戦って,ついにベイズを立派な統計学者が口にすべきでないタブーにしおおせた。しかも,口論を起こそうという構えを常に崩さなかったから,意見が対立する人間がフィッシャーと議論をするのはかなり困難だった。ベイズ派以外の人からも,フィッシャーは「絶対に敵と合意したくない一心で」自分の立場を決めることがある,と言われるほどだったのだ。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.100

フィッシャーのおかげ

フィッシャーは長い時間をかけて,ランダム化の手法やサンプリング理論,有意性検定や最尤推定,分散分析や実験計画法を作り出していった。フィッシャーのおかげで,それまで統計的な手法を無視してきた実験科学者たちも,プロジェクトを設計する際に統計的な手法を組み込むことができるようになった。フィッシャーはしばしば20世紀統計学の裁判官として,長々と続く議論をたった一言「ランダム化」という評決で締めくくった。1925年には,この新たな技法に関する画期的な手引書『研究者のための統計学的方法』を発表した。独創的な統計処理を門外漢に詳しく説明したこの著書によって,頻度主義は事実上の標準的統計手法となった。最初の手引書は2万部売れ,2冊目はフィッシャーが亡くなる1962年までに7回版を重ねた。さまざまな処置がもたらす効果を分離するためのフィッシャーの分散分析は,自然科学のもっとも重要なツールの1つになった。さらに,フィッシャーが考案した有意性検定やp値は,長い間にしだいに異論が出てはきたものの,何百万回も使われることとなった。今や誰も,フィッシャーが作り出した語彙抜きで統計——フィッシャーのいうところの「観察されたデータへの数学の応用」——を論じることはできない。フィッシャーの着想の多くは,当時の卓上計算機の能力に限界があるために起きた計算上の問題を解決するためのものだった。じきに統計部では,フィッシャー流の計算が1段階終わるごとに機械式計算機が発するベルの音が鳴り響くようになった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.98-99

いらいら

フィッシャーは,いかなる質問も自分への個人攻撃ととったが,火のついたかんしゃくが破滅のもとになりかねないことは,本人も気がついていた。同僚のウィリアム・クラスカルは,フィッシャーの生涯は「科学を巡る戦いの連続で,科学者の会合や科学論文で一度に複数の戦いを行うことが多かった」と述べている。ベイズ派の理論家ジミー・サヴェッジは,基本的にフィッシャーの仕事ぶりを共感を持ってみていて,「ときとして,聖人でもなければ水に流せないような侮辱を表明することがあった。……フィッシャーは……独創的で正しくて卓越していて有名で尊敬される存在になりたいと,誰よりも強く望んでいた。そして,かなりのレベルでこれらの願いをすべて成し遂げたが,決して心やすらぐことはなかった」と述べている。フィッシャーがいらいらしたのは,ひょっとすると1つには,統計を巡る多くの事柄で自分が正しかったからなのかもしれない。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.96-97

けんか好き

カール・ピアソンは元来けんか好きで,抑えがたい野心を持ち,いかめしくて決然とした人物で,物事に対してあいまいな態度を取ることはまれだったが,ベイズの法則は数少ない例外の1つだった。一様な事前確率や主観性に神秘を尖らせていたのは事実だが,統計学者が使えそうなツールがほかにほとんどなかったために,悲しげに「実際的な人間なら……よりよいツールが登場するまでは,ベイズ—ラプラス印の逆確率の結果を受け入れることになる」と結論した。ケインズが1921年に『確率論』で述べたように,「科学者の目から見れば,これには未だに占星術や錬金術じみたところがあった」さらにその4年後にはアメリカの数学者ジュリアン・L・クーリッジが,これまた「わたしたちはベイズの公式を,今のところ手に入る唯一のものとしてため息混じりに使う」と述べている。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.95-96

三度息絶えた

かくして確率を巡る数学の研究は先細りとなった。ラプラスは死後二世代も経たぬうちに,おもに天文学の業績で記憶されるようになり,1850年には,パリのどこの書店に行っても確率に関するラプラスの分厚い著書は見あたらなくなっていた。物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェルは,ラプラスではなく数学者で社会学者でもあったベルギー人のアドルフ・ケトレー[近代統計学の祖の一人とされる]から確率を学び,頻度に基づくその手法を統計力学や気体運動理論に取り入れた。彼らは確率と名のつくものをなかなか取り入れようとしなかった。一方アメリカの論理学者で哲学者でもあったチャールズ・サンダーズ・パースは,1870年代後半から1880年代初頭にかけて,頻度に基づく確率論を売り込んだ。スコットランドの数学者ジョージ・クリスタルは,1891年にラプラスの方法論の死亡記事をまとめ,「逆確率の法則は……死んだ。これらの法則は人目のつかないところにきちんと埋葬されるべきものであって,そのミイラを教科書や試験用紙に残すべきではない。……偉大なる人々の無分別は,そっと忘却にゆだねるべきなのだ」と記した。
 ベイズの法則は,三度息絶えるに任された。最初はベイズ本人が棚上げし,次にプライスの手で蘇ったものの育児放棄によってすぐに命を落とし,そして今度は理論家達によって埋葬されたのである。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.81-82

数への囚われ

ビクトリア朝初期の人々は,急速な都市化や工業化や市場経済の台頭に不安を感じ,犯罪と堕落と数について研究する私的な統計協会を立ち上げた。スコットランド兵士の胸囲や,馬に蹴られて死んだプロシア将校の数,コレラで命を落とした人の数などなど,統計を集めるのは簡単で,女にもできる仕事だった。数学を使って統計を分析することは,必要でもなければ期待もされていなかった。統計を集める政府官僚のほとんどが,数学の知識もなく,数学に敵意すら抱いていたが,そんなことはどうでもよかった。事実,それも純粋な事実こそが時代の流行だったのだ。
 確率を使って我々の知識がどれくらい足りないかを数値で表すという着想は消え,ベイズやプライスやラプラスが展開した原因の探求もどこかに失せた。ある通信社は1861年に,病院の改革に乗り出したフローレンス・ナイチンゲールに次のように警告している。「ここで今ひとたび,因果関係と統計を混同しないようご忠告申し上げねばなるまい……統計学者は因果関係とは何の関わりもない」
 「主観的な」という言葉も不適切とされるようになった。フランス革命とその余波は,合理的な人々はみな信念を同じくするという思想を打ち砕き,西欧社会は,科学をまったく受け入れないロマン派と,数の客観性——数でありさえすれば,ナイフで刺した数でも,ある特定の年齢で結婚した人の数でも何でもよかった——の虜になって自然科学に確かさを求める人々の二手に分かれた。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.77-78

すべてラプラシアン

1781年には,ラプラスはベイズの法則という名前以外のこの法則のすべてを手中に収めていた。この法則の定式も方法論も見事な活用も,すべてピエール・シモン・ラプラスが成し遂げたものだった。確率に基づく統計がごくふつうに使われるようになったのも,ラプラスのおかげだった。賭け事の理論を実際的な数学に変えたラプラスの業績は,以後100年にわたって確率と統計の世界を支配することになる。ラトガー大学のグレン・シェイファーは,「思うに,すべてを成し遂げたのはラプラスであって,わたしたちがあとからそれをトーマス・ベイズの中に読み取っているだけのことなのだろう。ラプラスはこの法則を近代的な言葉で表現した。ある意味で,すべてがラプラシアンなのだ」と述べている。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.70-71

神の名は

1802年にマルメゾンにある皇后ジョセフィーヌのバラ園で開かれた園遊会で,教皇との和解を考えていたナポレオン皇帝はラプラスに,神や天文学や天体を巡る有名な議論をふっかけた。
 「それで,これらすべてを作ったのは誰なのだ」とナポレオンは尋ねた。
 ラプラスは落ち着いて,天体系を維持しているのは,一連の自然な原因である,と答えた。
 するとナポレオンは不満げに,「ニュートンは著書の中で神に言及している。貴殿の著作を熟読してみたが,一度の神の名が出てこないのはなぜなのだ」と尋ねた。
 これに対してラプラスは,重々しく答えた。「わたくしにはそのような仮説は必要ございませんので」

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.67-68

メートル法

革命政府がほかの君主国に攻撃されると,以後10年間フランスでは戦争状態が続いたが,恐怖政治の時代ですら,ほとんどの科学者,技術者が国内に留まった。科学者や技術者たちは国防のために動員され,徴兵の計画を作成し,火薬の原材料を集め,軍需品の工場を監督し,軍用地図をつくり,秘密兵器の偵察気球を発明した。ラプラスはこの動乱の時代にも仕事の手を休めることなく,革命のもっとも重要な科学プロジェクトの1つである「メートル法による重量と尺度の標準化」で中心的な役割を果たした。メートル,センチメートル,ミリメートルという単位名を考案したのは,ラプラスである。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.65-66

法廷の確率

我が国の法廷の判断はどうも感心できない,とラプラスは考えていた。法医科学はまだ存在しなかったから,どこの法廷でも証人の証言だけが頼りだった。ラプラスは,ある出来事に関する証言を取り上げて,証人や判事が正しい確率,欺かれている確率,単にまちがえている確率を求めた。糾弾されている人物が有罪であるという事前確率を五分五分にして,陪審が誠実である確率は少し高くした。それでも,8名の陪審が単純な多数決をとった場合,まちがった判断を下す確率は256分の65で,4分の1を超えていた。このためラプラスは数学の観点からも宗教的な観点からも,啓蒙運動の最も急進的な要求だった死刑廃止に賛同した。「これらの過誤を埋め合わせられるという可能性は,死刑廃止を求める哲学者たちにとって最大の論拠である」ラプラスはまた,矛盾する証言について法廷が判断しなければならない場合や,証言のたびにその信憑性が下がっていくようなより複雑な事例にも自分が発見した法則を応用した。ラプラスにすれば,これらの問題を見れば,聖書の福音書に見られる十二使徒の叙述も信ずるに足りないことがわかるはずだった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.63-64

ラプラス

原因の確率の理論を最初に考えだしたのは確かにベイズだが,ラプラスが独力でラプラス版の原因の確率の理論を発見したことははっきりしている。ベイズ—プライスの小論が発表されたとき,ラプラスはまだ15歳だった。しかもこの小論は,イギリスの上流階級を読者対象とする英語の雑誌に発表されただけで,以後一度も話題にならなかったらしい。そのため絶えず海外の雑誌に目配りしていたフランスの科学者たちですら,ラプラスが一番乗りだと考えて,その独創性を心から褒め称えた。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.53-54

中心極限定理

ラプラスはアカデミーで朗読された論文で,まずこの新たな原因の確率の理論を2つの賭博の問題に適用した。どちらの場合も,結果そのものは直感的にわかったのだが,数学的な証明は行き詰まった。1つ目の例では,壺に黒と白の切符が入っているが,白と黒の比(原因)はわからないとした。そこから切符を何枚か引いて,その結果に基づいて次の切符が白である確率を求めたい。ラプラスはその答えを何とか数学的に証明しようと,四つ折り判4ページにわたって少なくとも45本の式を書き連ねたが,どうもしっくりこなかった。
 2つ目の例は,運と技術の両方を要求されるピケットというゲームの問題だった。2人ではじめたゲームを途中で中止した場合に,2人の相対的な技量(原因)を評価して場の掛け金を配分するにはいったいどうすればよいか。またしても,答えは直感的にわかったが,数学的に証明することはできなかった。
 大嫌いな賭博の問題を片付けると,ラプラスは嬉々として,天文学者たちが実際に仕事で直面している重要な科学の問題に取りかかった。同一の現象を巡って異なる観測が得られたとき,それらをどのように取り扱えばよいのか。当時の科学における3つの大きな問題として,地球の引力が月の動きに及ぼす影響についての問題,木星と土星の動きについての問題,地球の形に関する問題があった。観測者たちが,たとえ同じ場所でまったく同じ装置で同時に測定を繰り返したとしても,毎回わずかに結果が異なる可能性があった。このような矛盾した観測結果かから中央値を算出するにあたって,ラプラスは観測値が3つの場合に限定して論を進めたが,それでもこの問題を定式化するには,7ページにわたって延々と式を書き連ねなければならなかった。科学的にいって,3つのデータの平均を取ればよいことまではわかったのだが,それが数学的に裏付けられたのは1810年のことだった。この年にようやく,原因の確率を使うことなく,中心極限定理が打ち立てられたのである。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.52-53

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