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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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部分修正

ベイズは,事前の直感に基づく判断と反復可能な実験に基づく確率を組み合わせた。そして,ベイズ派の特徴ともいうべき手法を作り出した。当初の考えを客観的な新情報に基づいて部分修正する,という手法である。これなら,まわりの世界について観察したことから,その原因になりそうなものへとさかのぼることができる。かくしてベイズは長い間探し求められていた確率の聖杯——後の数学者たちが原因の確率,逆確率の原理,ベイズ統計,あるいはシンプルにベイズの法則と呼ぶもの——を発見した。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.36
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メモに挟まれていた

ベイズの着想はロイヤル・ソサエティーの仲間内で議論されたが,本人は自分の着想が正しいと思っていなかったらしく,ロイヤル・ソサエティーに論文を送って発表するでもなく,ほかの書類に紛れたままで10年ほどほったらかしにしていた。ベイズがこの大発見をしたのが1740年代の終わり——おそらくヒュームの小論が発表された1748年のすぐあと——だろうと結論できるのも,この論文が1746年から1749年までのメモの間に突っ込まれていたからにすぎない。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.33

一言でいうと

ベイズのシステムは,概念としては単純だ。客観的な情報を得て自分の意見を変えるだけのことで,つまり「当初の考え(最初のボールが落ちた場所に関する推測)+最近得られた客観的なデータ(直近のボールが最初のボールの左側に落ちたか右側に落ちたか)=より正確な新たな考え」,と表すことができる。やがて,この手法の各部分には名前がつけられ,当初情報がない時点で考えた確率を「事前確率」,観察された客観データに基づく仮説の確率を「尤度」,客観データによって更新された確率を「事後確率」と呼ぶようになった。このシステムを使って再計算をする場合には,すでに得られている事後確率が次回の事前確率になる。これは進化するシステムで,新たな情報が加わるたびに確信へと近づいていく。一言でいうと,

 事後確率は,事前確率と尤度の積に比例する

のである(もっと専門的な統計学者の用語では,尤度というのは観察されてすでに値が定まっているデータを前提とした競合する仮説の確率を示す。だが,南アフリカで統計の歴史を研究しているアンドリュー・デールによれば,「いささか乱暴な言い方をすれば,尤度とは,ベイズの定理を巡る議論から事前確率を取り除いたときに残るものである」こうなると,ことはかなり単純だ)。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.29-30

ビリヤードテーブル

ベイズは逆確率問題の本質を明確に把握したうえで,問題の出来事がこれまでに何度起きたか,あるいは起きなかったかといった過去の事実だけがわかっているときに,その出来事が今後起きる確率がどれくらいかを近似することを目標とした。問題を定量的に扱うには数値が必要だ。ベイズは1746年から1749年のどこかの時点で,この問題のすばらしい解決法を思いついた。出発点として,とりあえず何らかの数値——ベイズがいうところの「推測値」——をでっち上げておいて,情報が得られた時点でその数値を修正すればよい。
 次にベイズは,18世紀版コンピュータ・シミュレーションともいうべき思考実験を行った。余計な条件をすべて取り去った基本的な問題として,まず1つの正方形のテーブルを想定する。テーブルは完璧に水平で,投げたボールがとまる確率はどの点もすべて全く同じだとする。後の世の人々は,ベイズはビリヤード・テーブルを想定したとしているが,非国教徒の聖職者たるベイズがビリヤード・ゲームに賛成したとは思えない。しかもこの思考実験では,ボールがテーブルの縁にあたって跳ね返ったり,ほかのボールにぶつかったりはしない。つまりテーブルの上をでたらめに転がったボールがどこかで止まる確率はすべて等しいと考えるのだ。
 ではここで,テーブルに背を向けて座るベイズの姿を思い浮かべよう。この状態では,テーブルの上がどうなっているかはまるでわからない。ベイズは,1枚の紙にテーブルの表面を表す正方形を描く。そして,架空のテーブルにこれまた架空のまん丸なボールを投げるところを想像する。ただし,テーブルに背を向けているので,ボールがどこに落ちたのかはわからない。
 次に,ベイズが誰かに,ボールをもう1つテーブルに投げて,そのボールが最初のボールよりも右に落ちたのか左に落ちたのかを教えてくれ,と頼んだとしよう。このとき,左という答えが返ってくれば,最初のボールはどちらかというとテーブルの右側にある可能性が高いといえる。逆に右という答えが返ってくれば,最初のボールがテーブルのうんと右寄りにある確率は可能性は低いと考えられる。
 このような手順を踏んで,次から次へとボールを投げてもらう。当時のばくち打ちや数学者たちはすでに,投げるコインの数が多ければ多いほど,得られる結論の信頼性が増すことを知っていた。そしてベイズは,投げるボールの数を増やしていくと,新たに得られる情報の断片が積み重なって,最初に投げたボールが落ちたと思われる場所の範囲が狭められていくことに気がついた。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.27-28

感情の共有

人は,互いをよく知れば知るほど話も気軽にできる。そして互いをよく知るためには,感情を共有することが大切だ。子供が生まれた後,会話が堅苦しくなってしまうのは,この感情の共有が少なくなったせいである場合が多い。夫と妻は互いに感情的なふれあいがなくなっていると感じ,よく知らない者同士で話をするのが難しいように,話すのに困難を感じるようになる。2人が離れはじめる最初の主な原因は,時間がないことだ。四六時中世話を必要とする子供がいるのに,互いの感情をいつもくみとれるほど余裕のある人などいるだろうか?そのうえ移行が進んでいくにつれ,しばしば第二の原因が出てくる。自意識の抑制ともいえるものだ。コミュニケーションが少なくなっているため,夫や妻は今や,以前は躊躇なく分かちあっていた考えや感情を口に出すことを,なれなれしすぎるとか,個人的すぎるとか,悪くとられるのではないか,などと考えるようになる。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.218

破壊的けんか

それでは,破壊的なけんかをする人は,どのような性格が特徴なのだろう?
 彼らの議論もまた,結婚における対立の基本形式にのっとっている。たいていは妻の方が2人の関係についての問題をもちだして議論をはじめ,夫は身を引こうとする。けれども破壊的なけんかをする人が持ちこむ感情は,そのけんかの形式を非常に違ったものにする。彼らの結婚生活は多くの場合,相手を恨んだり腹を立てたりといったことが日常的に数多くあり,またこうしたことをやわらげる互いへの思いやりや愛情が不十分である。とくにこうした否定的な感情をもっていると,配偶者が悩みの危険信号を出しても無視するようになり,相手への配慮や理解のサインにさえ気づかないことがある。この傾向はとくに,破滅的なけんかをする妻によくみられる。録音テープでも,彼女たちは夫の和解の申し出や,ぐち,弁護,身を引くといった悩みのサインを無視し,しだいにいらいらをつのらせるのがわかる。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.202

建設的なけんか

建設的なけんかをする人の良いところは,互いにたいして愛情と敬意をもっていることだ。簡単に言えば,2人は愛しあい,好きあっている。そして議論をしているとき,この感情は2つの重要な役割を果たす。ひとつは議論の限度をわきまえていることだ。意見の表明や議論はエスカレートすると,たんなる解決の場から,相手を断罪することが第一の目的である市街戦へと化してしまうが,このタイプの人はこの不可侵のラインの内側にとどまっているのだ。最近の調査では,戦いでひどく傷ついたり傷つきそうになって争いをやめたいと思ったときには,男女共に特別のサインを発することがわかっている。男性の場合には,哀れっぽい声を出したり,自己弁護をしたり,なんとか撤退しようとしたりする。女性の場合は,寂しさと恐れの表明だ。こうしたサインが無視されると,傷ついたパートナーはしばしば腹を立て,けんかはコントロールがきかなくなる。建設的なけんかをする人は,こうした警告サインのぎりぎりまで議論をするため,2人ともフラストレーションや腹立ちを存分に話すことができる。それでいていったんこうしたサインがあらわれれば,攻撃している側は無意識のうちに危険を感じとり,後退して相手が優雅に撤退する道を開く。
 建設的なけんかをする人の第2の特徴もまた,互いにたいする愛情から出ている。議論で重要なのは勝つことだ。建設的なけんかをする人にとってもこれは同様だが,同じように重要なのは,いま2人の幸福を阻害しているものをなんとか早く終わらせたいという気持ちだ。オランダの心理学者キャス・シャープの研究によると,この気持ちが,建設的なけんかをする夫婦と他の夫婦との違いだという。白熱した議論の最中でさえ,2人は譲歩や妥協のかたちで,互いに和解の糸口を与えあっている。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.198-199

同じ喧嘩の型

建設的なけんかをする人も,破壊的なけんかをする人も,けんかを避ける人も,みんな基本的には同じかたちをとる。妻が対決的で,夫は用心深くなかなか心を開かず,はっきりと不賛成の意をあらわすのを躊躇する。けれどもこのなかで建設的なけんかをする人だけは,以後長期に渡る結婚生活の幸せを促進するために,摩擦を上手に利用する方法を知っている。訓練されていない目と耳には,彼らのけんかは他の人のけんかと少しも変わらないように思える。けれども真剣な議論のなかで,2人はそれぞれこの重要な問題に関する自分の意見や考えをぶちまけ,フラストレーションや苦しみを表にあらわす。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.198

摩擦の原因

雑用を例にとってみよう。家事分担を半々かそれに近くという女性の願望は,摩擦を引き起こすことが多い。というのも,このことは中間型男性の信念(“夫は家庭に貢献すべきであるが,育児,食事の支度,洗濯は本来は妻の仕事だ”)とぶつかるからだ。働いている女性は,子供や家庭に関する精神的な責任も2人の間で分担されるべきだという信念をもっているが,これもよく摩擦を起こす。彼の父親や祖父と違って,中間型の男性は,子供を風呂に入れたり,おむつを取り替えたりといった肉体的な責任の分担はする。けれど相変わらず,家庭と子供に対する精神的な責任分担,たとえば小児科医の検診の日取りを決めたり,保育の手配をしたり,ショッピング・リストをつくったり,といったことは女性の仕事だと信じている,あるいは少なくとも信じているふりをする。これは妻が仕事を持っていても同じだ。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.52

別の物差し

どうして新しい母親は,自分たちに必要な援助や支えが得られないと感じるのだろうか?ひとつには,家事分担の量を,男性と女性はそれぞれ別のものさしで測っているためだ。妻は夫の仕事量を測るのに自分の仕事量を基準に考える。自分を基準にすれば男性がしていることはずっと少ないので,女性は右にあげた妻のように,おもしろくないし不満を抱く。いっぽう男性は家事にたいする貢献度を測るのに,ふつう自分の父親を基準にする。そしてこの物差しで測れば,1週間に15〜16時間というのは父親の世代の30〜40パーセント増しとなるため,右の夫のように自分の家事への貢献度に満足してしまうのだ。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.44

雑用の増加

最近の数字が,子供の誕生によって増える雑用の多さを衝撃的に示している。もともと子供がいなくても行なっていた家事,たとえば皿洗いは1日1〜2回から1日4回へ,洗濯は週に1回から週に4,5回へ,買い物は週に1回から3回へ,食事の支度は1日2回から4回へ,掃除は週に1回からたいていは1日1回へと増える。そのうえ育児の雑用がある。平均して,1日に6,7回はおむつを替えなければいけないし,1日に2,3回入浴させ,ひと晩に2,3回,昼間も5回はあやす必要がある。何もできない赤ちゃんが加わることによって,かつては簡単だったことも,ひどく複雑で時間のかかるものになってしまう。ある父親は憤りを隠さない。「いまではアイスクリームひとつ買いに出るのも月ロケットを飛ばすくらい大変ですよ。まずアレックスのおむつがぬれていないかをチェックし,それから服に押し込んで,次にベビーカーに入れます。そして,ぬらしたときのために余分のおむつをつめ,騒ぎ始めた場合に備えて哺乳瓶も入れなければなりません」
 1960年代の男性とくらべると,この父親のような人は,育児や家事にあきらかにずっと多く関わっている。いくつかの調査によれば,30年前の男性は平均して1周間に11時間を家事と育児に費やしていた。今日では15時間から16時間である。しかしこの増えた分の3,4時間は,母親の負担を目に見えるほど軽くはしてくれない。女性がフルタイムで働いている家庭でも,おむつ替えや食事,入浴など,母親の育児に向ける時間は夫をときに300パーセント近くも上回っている。別の言い方をすれば,夫が3回おむつを替えるとき,妻は8回替えているということだ。家事に費やす時間も移行期間は約20パーセント増える。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.42-43

感情的関わり

もうひとつ女性が重要だと思っているのは,感情的な関わりだ。妻は,夫にも彼なりのやり方で,自分と同じように新しい家族に関わってほしいと思っている。日々の行動で言えば,彼女が自分の疑問や心配,フラストレーションについて話したいと思う時に座って話を聞いてくれ,子供と遊び,世話をしてくれ,店に行く前に冷蔵庫を開けて何が必要なものはないかチェックしてくれることを望んでいる。くりかえして言えば,彼女が基本的に欲しているのはパートナーであって,ヘルパーではない。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.38

努力と発見

移行期の間に二人の結婚生活がどうなるかは,二人がその不和や分極化を解決しようと努力するなかで,互いについてどのような発見をするかにかかっている。こうした努力によって,結婚生活における自己犠牲や思いやり,共感,同情といった,これまでさほど表面に出てこなかった互いの包容力があきらかになるなら,この夫と妻はより親密な関係になる。しかし,これまで気づかなかったわがままや,自己に固執する頑固さなどが出てくるなら,移行期の終わりには多くのカップルがジョン・アップダイクの作品に出てくる中年夫婦のように感じるだろう。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.27

子どもが生まれると

多くの場合,子供の誕生によって広がるギャップは,生物学的な理由と人間形成の過程にその根源がある。一般に,もともとの生物学的特質と育てられ方が重なりあって,男性と女性はその感じ方,考え方,理解の仕方に違いがある。そして次章で見るように,子供の誕生ほどはっきりと,こうした男女の根本的な違いをきわだたせるものはない。似たもの夫婦だと思っている夫婦でさえ,親になってみると,それぞれの優先順位や必要とするものがあまりにもかけ離れているのを知って愕然とする。家族的な背景や個性の違いも移行期には大きな障害となる。2人がどんなに愛しあっていても,まったく同じ価値観や感情をもっていることはないし,人生についてまったく同じ見方をしていることはない。そしてこうした個人的な違いを子供の誕生ほどはっきりと浮き彫りにするものはないのだ。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.20-21

心の理論と神

三次志向意識水準まで発達すると,「神は私たちに正しくあれと望んでいる」という表現になる。これが個人レベルの信仰である。そこへ別の誰かを引きこもうと思ったら,相手の心理的な立場を意識して「神は私たちに正しくあれと望んでおられるのですよ」と語りかけなくてはならない。こうして四次志向意識水準に達したところで,宗教は社会的なものになる。ただこの段階では,相手はこちらの主張を聞きおけばよいだけで,それ以上のことは求められない。五次志向意識水準,つまり「神は私たちに正しくあれと望んでおられるのを,私たちは承知しているはずです」となると,相手がイエスと答えれば,すなわち信念を共有していることになる。ここではじめて宗教は共有されるのだ。相手も自分も神聖な力の存在を信じ,それにしたがって(強制されて)一定の行動をとるようになる。
 宗教を共有するには五次志向意識水準までが不可欠なのだが,ほとんどの人にとって志向意識水準はそこまでが限界である。これもまた偶然ではない。人間の営みは,道具づくりにしても,複雑にからみあった社会で地雷を避けながら渡り歩くにしても,だいたいが二次か三次の志向意識水準までで片がつく。さらに二段階上までの志向意識水準を編み出すのは,並たいていの知的労力ではなかっただろう。進化はむだを嫌う。だから私たちに備わっているものには,かならずれっきとした存在理由がある。高度な志向意識水準を私たちが持っている理由として考えられるのは,いまのところ宗教しかない。そう考えると,信仰心の芽ばえについても答えが見えてくる。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.

連続性が苦手

私達の頭脳は,連続性を扱うことが不得手なのだ。異なる次元でいくつもの変数が相互に作用するときはなおさら苦手になる。単純な二分法に走りたがるのも,そうすれば難しいことを考えなくてすむからだ。日常生活をうまく乗りきる経験則がたくさん身についたのは,ひとえに進化のおかげだろう。けれどもそれはうわっつらだけの話。科学のほんとうの中身はきわめて複雑で,二分法的な思考では歯がたたない。知識の広がりを脅かすのは,ほかならぬ私たちに内在する限界なのだ。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.185

収束するとき

二分法でおいもしろいのは,あれだけ白熱した議論が,どちらの説も正しいと指摘されるときれいに収束することだ。光は場面によって波になったり,粒子になったりする。現実を踏まえて,分析に都合が良いほうを選べばよい。進化の速さも時と場合によって変わる。火山の噴火や隕石の落下が起これば,生物が大量に死滅するのでたしかに進化は加速するだろう。しかしそうでないときは,たまに起こる突然変異を軸にしたのんびりペースで進むだろう。色覚に関する2つの説も,視覚情報を分析するシステムのちがいにすぎない。網膜は三原色で光をとらえるが,脳の視覚皮質は4色で視覚情報を分析するのだ。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.183-184

二分法の氾濫

私はいつも思うのだが,科学の世界でも二分法があまりに氾濫している。光の性質をめぐる有名な論争もそうだ。光は粒子なのか,それとも波なのか?19世紀には,地質学界で天変地異説と斉一説が鋭く対立して大論争になった。天変地異説はフランスの分類学者ジョルジュ・キュヴィエが唱えたもので,洪水や火山噴火といった環境の大激変がそれまでの生物を根絶やしにし,その後新しい生命が出現したというもの。いっぽう斉一説は,地質的な現象は長い時間をかけて少しずつ起こっていったとする考え方だ。こちらの中心人物は,イギリスの地質学者であり,ダーウィンにも影響を与えたサー・チャールズ・ライエルだった。
 生理学の世界でも似たようなことがあった。19世紀なかば,イギリス人のトマス・ヤングとドイツ人のヘルマン・フォン・ヘルムホルツが,いまではおなじみの「色覚三原色説」を提唱した。その後の研究で,赤・緑・青の三原色それぞれに反応する錐体細胞が網膜にあることが確認され,この説は正しいことが証明された。ところが数十年もたって,ドイツの生理学者エヴァルト・ヘリングが,実験結果をもとに「反対色説」を唱えた。視覚システムは青と黄,赤と緑という組みあわせで色を認識しているというものだった。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.182

二分法

人間の知性は詩を生み出し,現代科学をもたらしたが,その知性といえども有限であると思いしらされる時がある。たとえば私たちは,単純な二分法に陥ってしまうことがあまりに多い。「賛成か反対か」「左か右か」「容認か排除か」「敵か味方か」という区別を単純に当てはめてしまうのだ。アフリカ南部で昔ながらの生活を営み,かつてはブッシュマンとも呼ばれていたサン族は,自分たちのことを「ズー・トゥワシ」と称する。これは「ほんとうの人」という意味で,つまりはサン族とそれ以外の人間を区別しているのだ。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.182

能力を発揮できる程度

サル,類人猿,ヒトで異なるのは能力の種類ではなく,むしろ能力を発揮できる程度ではないかと私は思う。それはすべての哺乳類と鳥類が生きていくための基本能力でもある。たとえば因果関係を把握する,類推する,2つかそれ以上の世界モデルを同時に動かす,その世界モデルを未来の状況に当てはめるといったところか。これらの能力があわさって大きなスケールで展開される時に,心を読む能力がふと出現するのではないだろうか。それは特殊な能力のように思えるし,ある意味それは当たっているが,霊長類とかヒトだけに限定されるものではない。ほかのみんながやっていることをもっと上手にやっているだけだ。そう考えると,ネズミからヒトまで,哺乳類を構成するさまざまな種のちがいは,しょせん計算上の「誤差」にすぎないようにも思えてくる。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.182

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