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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ルイセンコ学説

知識は力になる。だがその力よりはるかに危険なのは,知識を抑制することだ。それだけはやるべきではない。結局はわが身が危うくなる。世界の人口を一夜で数千分の一に減らし,農民から搾取する経済に戻るつもりがあれば別だが。科学を支配下に置こうとして悲惨な結果を招き,国の発展が頓挫した例は枚挙にいとまがない。
 いちばん有名な例として,ロシア生物学の歴史を振り返ってみよう。1917年にボリシェヴィキが政権を握った当時,ロシアの遺伝学は欧米より少なくとも10年は進んでいた。ところがマルクス本人はともかく,マルクス主義者たちは遺伝学というものに懐疑的だった。進化の発生論は,教育と経済で社会を変革する可能性——マルクス主義革命の大義名分だ——を損なうものと見なされていたのである。遺伝学の教授たちは閑職に追いやられ,ロシア生物学はトロフィム・ルイセンコなる人物の手にゆだねられた。ルイセンコは,植物を新しい環境に適応させるにはストレスを与えるしかないと信じていた。そのせいでロシアでは大不作が起こり,農民は飢饉に直面した。そのあいだに西欧の研究者は着々と成果を積みかさね,1930年代にはルイセンコ以前のロシアのレベルに追いつき,追いこした。それからは差は開くばかりだった。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.167-168
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マンモス

マンモスの数が激減したのは,やはり生息に適した環境が狭まったせいだろう。さらにここから人類も関わってくる。現生人類は,7万年前にはじめてアフリカを出てからというもの,ずっとマンモスを狩ってきた。ノゲス=ブラーボらは保全生物学にもとづいた数学モデルを使って,狩猟方法や人口密度ごとにマンモスの狩猟圧に対する感受性を推計した。それによると,マンモスの生息数がいちばん多かった4万〜2万年前にマンモスを絶滅させるには,18か月ごとに人口ひとり当たり1頭以上を殺さなくてはならなかった。しかし時代が下って6000年前ごろにはマンモスの数が激減していて,200年ごとにひとり当たり1頭以下でマンモスは絶滅した計算になる。つまりほんのときたましとめただけでも,マンモスを地上から消すには充分だったということだ。
 マンモス狩りが盛んだったことをうかがわせる考古学的な証拠もある。ウクライナにある2万〜1万5000年前の人類の居住跡からは,建材として使われたおびただしい数のマンモスの骨が出土している。テントの重石がわりという単純な用途もあるが,メジリチで見つかった4つの小屋は,マンモス95頭分脚の骨,下あご,頭骨,牙を積みあげたものだった。
 個体数が多かったときは人類による狩猟圧をなんなく吸収できたマンモスだが,気候が変動して数が減ったことで,圧力をはねかえせなくなった。つまり狩猟圧がどんなに小さくても,それで種が絶滅に追いやられる可能性はあるということだ。気候温暖化が進みつつあり,多くの種が危機的状況にある今日,マンモスの前例はとても切実である。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.143

離婚率とレイプ発生率

アメリカ本土州を対象に実施された最近の調査では,離婚率とレイプ発生率のあいだに強い相関関係があることがわかった。ちなみに離婚後の再婚率は女性のほうが低い。ということは離婚したあと次のパートナーを見つけられず,不満をくすぶらせる男性が出てくるということだ。これだけでは根拠が弱いと思う読者のために,イギリスでの調査結果を紹介しよう。青年犯罪者の累犯可能性を予測する最も確実なものさしは,刑期を終えたあとに長期的なパートナーを得たかどうかなのである。はっきり言ってしまえば,彼女のいない男の子は社会の脅威なのだ。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.133-134

父親似?

さらに念には念をということで,心理的な側面でも後押しする。新生児に接する機会があったら——できれば自分の子でないほうがいい——,周囲の人たちの感想に耳を傾けよう。カナダのマクスター大学でマーティン・ダリーとサンドラ・ウィルソンが行なった研究では,新生児と母親,母親の両親がいるところに父親が入ってくると,目・鼻・額・あご……がいかに父親似かという話題に急に切りかわるという。メキシコでの研究でも同様の結果が報告されていた。しかし正直なところ,どう見ても新生児に父親の面影などない。もちろん話すほうもそんなつもりはなくて,お父さんにこれからがんばってもらうための動機づけを提供しているのだ。それでいいのである,きっと。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.121

カーネギー・メダル

実生活での勇敢な行動を,進化論の視点から探る研究も行なわれている。そのひとつが,アメリカのカーネギー・メダルの過去の受賞記録を調べたものだ。カーネギー・メダルとは,緊急事態に際して勇敢なふるまいを見せた民間人に贈られるものだが,記録を分析すると興味深いパターンが浮かびあがってきた。男性受賞者が救出した(あるいは救出しようとした)のは若い女性が多く,女性受賞者が救ったのは血縁関係にある子どもだったのだ。言いかえれば,女性はわが子を生かすため,男性は子づくりのチャンスを増やすためにわが身を危険にさらしたということになる。やはり私の学生だったミナ・ライオンズは,さまざまな救出劇を報じたイギリスの新聞記事を分析した。すると救出者はほぼ全員が男性だが,社会的地位には偏りがあった。ヒーローになるのは裕福な男性ではなく,社会経済的に下層に属する男性なのである。ライオンズはその理由として,ヒーローになることで市場価値が高まり,伴侶を見つけやすくなるからではないかと推測している。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.97

男女の見方

こうした傾向は,恋人募集広告の分析ではない調査からも見て取れる。テキサス大学オースティン校の心理学者デヴィッド・バスは「お相手選び」研究の第一人者だが,1989年,彼は結婚に関するさまざまな好みや傾向を調べる大規模なアンケートを実施した。対象になったのは,オーストラリアからザンビア,中国からアメリカまで37カ国の1万人以上である。アンケート結果を分析したところ,国や文化に関係なく,男性よりも女性のほうが相手選びの好みがうるさく,社会的な条件や本人の性格,資質といった数多くの基準で候補者を評価していることがわかった。女性は候補者の社会的地位や収入を条件からはずすことはぜったいにないのだ。いっぽう男性が相手選びで優先させるのは,女性の若さであり,外見だった。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.82

作曲時期

人間の場合は音楽が尾羽がわりだという説にも,裏づけはたくさんある。人気アーティストはセックス・アピールばつぐんだが,証拠はそれだけではない。進化心理学者ジェフリー・ミラーがジャズとポピュラーのミュージシャン,それにクラシックの作曲家で調べたところ,生殖可能な年齢のあいだがいちばん多作であることがわかった。またヴィヴァルディの献身的な努力も忘れてはならない。彼はピエタ慈善院で親のいない少女たちにヴァイオリンを教え,自らが指揮をして演奏会を開いていた。彼女たちの多くはそこで見初められ,金持ちの男性のもとに嫁ぐことができた。
 私の学生のひとりコスタス・カスカティスは,ミラー説をもっと厳密に検証するため,ヴェートーヴェンからマーラーに至る19世紀ヨーロッパの作曲家と,1960年代ヴィンテージ・ロックのスターを対象に創作活動の変遷を調べた。新曲を書くペースは結婚と同時にがっくり落ちるが,離婚や死別をして次のパートナー探しをはじめると,とたんに上がる。そして新しい人といっしょになると……またペースが落ちるのだ。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.64-65

笑い

笑いというのはとても古い特性ではないだろうか。笑いはヒトとチンパンジーが共有する行動だ。ただし心理学者ロバート・プロヴァインが言うように,笑い方は多少異なる。チンパンジーの笑いは「アーハーアーハー」という呼気と吸気の単純な繰り返しだが,ヒトは呼気の連続で「ハッハッハッハ」と勢いがつく。ちがいはあと2つある。ヒトは誰かといっしょに笑うが,チンパンジーの笑いは単独だ。笑いが見られるのは社会的な状況,とくに遊びがはじまりそうなときやその最中だが,それでも仲間と一緒に笑うことはない。さらに私たちは,言葉を使って笑いを誘発する(要するにジョークだ)。ちょっとしたジョークの入らない会話なんて,砂を噛むように味気ない。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.62-63

おおよそこのくらい

ハイテク素材ゴアテックスの製造・販売を行なってきたビル・ゴアは,世界で最も成功した企業経営者のひとりだ。ゴアテックスの生産量を増やすとき,彼は既存の製造設備を拡大するのではなく,工場を新設する道を選んだ。どれも従業員150人程度の工場だ。それがゴアの成功の秘訣だったのではないかと私はにらんでいる。工場の規模をそこまでに抑えることで,組織内に序列関係を導入したり,管理部門をつくったりする手間を省いているのだ。個人どうしの関係が中心になるため,おたがいへの義務感が生まれ,従業員どうしは競いあうのではなく協力するようになる。
 軍隊の編成にもこのルールが生きている。近代的な軍隊では,最小の独立部隊は中隊だ。中隊はふつう先頭小隊三個と司令部,支援部隊で構成され,ひとつの戦闘小隊は30〜40人の兵士が所属するから,中隊の人数は合わせて130〜150人となる。共和国時代の古代ローマ軍も,基本部隊である歩兵中隊はおよそ130人編成だった。
 学問の世界も同じこと。サセックス大学教育学部のトニー・ビーチャーが理系・文系の12分野を対象に調べたところ,研究者どうしが注目しあえるのは,100〜200人の規模であることがわかった。研究者の数がそれより多くなると,その学問分野はいくつかの領域に分裂する傾向にあるという。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.24

150人

人間の「自然な」集団サイズを知るには,いまだに文明化されておらず,とくに狩猟と採集で生活する集団に着目するのがよさそうだ。狩猟・採集社会はさまざまなレベルで複雑に機能する。食べ物を集めるために泊りがけで移動するときは,30〜50人程度の小さい集団が形成される。この集団は不安定で,途中で人の出入りもある。反対にいちばん大きい集団は部族ということになるだろう。部族とはすなわち同じ言葉を使う言語集団でもあるので,文化的なアイデンティティでまとまっている要素が大きい。部族の規模は,老若男女あわせて500〜2500人といったところ。小集団と部族集団の二層構造は,人類学の世界では常識だが,そのあいだに第三の集団がある。こちらもたびたび論じられるが,具体的な規模が語られることはほとんどない。第三の集団は「氏族(クラン)」というくくりになって,成人儀式など定期的な儀式のときに重要な役割を果たすこともあれば,狩猟場や水源を共有する集団として扱われることもある。
 くわしい人口調査が行なわれた約20の部族社会では,氏族や村といった集団の平均人数は153人であることがわかった。細かく見ると100〜230人まで幅があるが,統計的には150人という平均の範囲におさまる。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.22

ダンバー数

人間以外の霊長類では,集団サイズと新皮質の大きさが比例することがわかった。となると最大級の新皮質を持つ人間は,どれほどの集団を形成するのだろう?サルや類人猿の例から推定すると,その数は約150となる—つまりひとりの人間が関係を結べるのは150人までということで,これを謹んでダンバー数と名づけさせてもらう。だが150という数はほんとうに正しいのだろうか。裏づけはどこにあるのか。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.

集団サイズと新皮質

集団サイズと新皮質の相関関係を進化論的に解説するならば,霊長類は大きな集団で生活する必要があり,そのため脳が大きく発達したということになる。動物が大集団で生活する理由はいくつかあるが,やはり敵から身を守るためというのが筆頭だろう。そのことは,集団のサイズが最大で,新皮質も大きいのがヒヒ,マカク,チンパンジーだと聞けばうなずける。いずれも草原や森のはずれなど開けた場所で生活する種類だ。しかも地上ですごす時間が長いため,敵に襲われるリスクがとても高い。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.21

自然宗教と創唱宗教

ところがである。約70%の日本人が自分は無宗教と思っていても,その人口のうちの70%から80%の人が,「宗教心は大切だ」と回答しているのある。これは「神や仏にすがりたいと思ったことがある」という気持ちを代弁しているとか,あるいはそれと同義と考えてもよく,日本人の約半数の人が「宗教心は大切であるし,神や仏は存在している」と感じているのである。これは先程の電通総研・日本リサーチによるデータからの「神の存在を信じる比率」の35%前後より少し多いが,遠からずの数字である。ここで得られる結論は,日本人は自分を無宗教と思っている人が多数派であるが,かなりの人は宗教心は大切だし,神や仏の存在を認めている,ということになる。
 ここでの結論に関して,宗教思想史学者。阿満利麿は次のような解釈をしている。阿満(1996)参照。宗教には「自然宗教」と「創唱宗教」の2つの種類があり,日本人は前者を信じる人はかなり(約半数ほど)いるが,後者を信じる人は少ない(20〜30%)とされる。ここで「創唱宗教」とは,特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人のいる宗教であり,教祖,経典,教団の存在を前提とする。例えばキリスト教,仏教,イスラム教を考えればわかりやすい。一方「自然宗教」とは,教祖,経典,教団を持たずに自然発生的な宗教であり,具体的な神とは何かを表現できずに,なんとなく世の中には神のいることを想定しながら,そういう神の存在を信じる宗教である。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.175-176

既成と新興

9世紀に始まった天台宗と真言宗,12世紀に始まった浄土宗と臨済宗,13世紀に始まった浄土真宗,曹洞宗,日蓮宗を,現代にあっては一応既成の伝統的な仏教としておこう。平安末期から鎌倉時代に生まれた法然,親鸞,栄西,道元,日蓮などが開祖となった新諸宗派は,最澄による天台宗,空海による真言宗からすれば当時は新興宗教だったのである。すなわち浄土宗,臨済宗,浄土真宗,曹洞宗,日蓮宗は設立当初とその後のしばらくの間は新興宗教だったのである。厳格に定義すれば,日本での伝統宗教は天台宗と真言宗だけである。
 ところがここで書いた仏教の諸宗派(七宗派)は現代では既成の伝統的宗教とみなされており,江戸時代以降に新しく開宗した宗派,例えば天理教や創価学会をはじめ数多くの宗教は新興宗教とみなされている。天理教や創価学会のように信者が比較的多い新興宗教は,これから何百年も生き延びれば,その頃は新興宗教と呼ばれずに,伝統宗教になっているだろう。それと同時にこれから数百年の間に新しい新興宗教の誕生する可能性は十分にある。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.125

困難な時代

上智,同志社,青山学院の例で示されたように,軍国主義・国家主義はますます強くなると,国民の間にキリスト教やキリスト教系の学校は,日本が進もうとしている方向に反旗を翻す宗教や学校という認識が高まることとなった。やや極論すれば,キリスト教は非国民の信じる宗教であり,キリスト教の学校に入学する人は非国民である,との認識が日本中で高まったのである。そうであればキリスト教の学校は入学者が減少し,経営が苦しくなって存立の危ぶまれる学校が出てきても不思議ではなかった。戦争直前,あるいは戦中に廃校,あるいは休止に追い込まれた学校が見られたのである。軍国主義・国家主義が最高潮に達したこの時期にキリスト教系学校は困難を極めたのであった。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.121-122

カトリックとプロテスタント

ここまで議論したことをまとめると,16世紀のカトリックのミッション活動はキリスト教(カトリック)とヨーロッパ文明の絶対的優位を信じた上で,現地の人々はその優位を認めることを説得するという上からの目線であったし,やや押しつけがましい側面があった。一方の19世紀のアメリカを中心にしたプロテスタントにあっては,必ずしもキリスト教や西欧文明の絶対優位をかざさず,現地の宗教・文明をも尊重しながらのミッション活動であった。従って押しつけがましいところはできるだけ避ける方針であったとも言える。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.103

神道の場合

神官を養成する学校として,現代の日本には2つの大学がある。それは東京の國學院大學と三重県・伊勢市の皇學館大学である。ここでは神道では重要な神社である伊勢神宮のある地域の皇学館を述べておこう。創設は1882(明治15)年の神宮興學館である。それ以前には神道・学問の研究・文書の保存を行っていた神宮文庫を1873(明治6)年に神宮教院として神主の養成校へと発展させ,さらに1876(明治9)年に神宮教院本教館となったものが神宮興學館である。もともとは4年制の尋常科とその上の4年制の高等科の学校であったが,1903(明治36)年に官立専門学校となった。神職者の養成を主たる目的としていたが,教員になる学生もかなりいた。官立校となったのは,国家神道を実践する役割を果たす神官を養成する学校なので,国家が運営するのがふさわしい,と考えられたからであろう。
 戦争開始直前の1940(昭和15)年には官立の神宮興学館大学へと昇格するが,敗戦後は GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が国家神道を先駆けした大学として皇學館大学の廃止を命令し,現実に廃校となった。ところが,しばらくしてから今度は私立大学として再興を計り,1962(昭和37)年に新制大学として再スタートする。戦後の教育制度にあっては信教の自由が認められていたので,私立校である限りたとえ戦争責任の一端を担った学校であっても,神道の学校でも開学を阻止することはできないのである。現代では,神道学科(神職養成学科)を含む文学,教育学,現代日本社会学の3学部を擁する大学である。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.94-95

仏教系各派の場合

他の宗派の学校についても述べておこう。これについては井上(1997)と武田(1997)に簡単な紹介がある。1868(明治元)年に知恩院内に仏教研究のための勧学院(後の佛教大学),1887(明治20)年には浄土宗学本校(後の大正大学)を東京・増上寺内に,1873(明治6)年には既に述べた教導職への対応のために,真言宗では小教学院と1875(明治8)年には中教院をつくり,1886(明治19)年には古義真言宗大学林(後の高野山大学)を創設している。曹洞宗では1875(明治8)年に既に紹介した専門学林(後の駒澤大学)を,臨済宗では明治初期からある寮や学林を1907(明治40)年に花園高等学院(後の花園大学)と改称し,日蓮宗では1872(明治5)年に檀林を小教院(後の立正大学)と組織替えした。このようにして仏教の諸宗派は多くの学校を設立してきた。当初は僧侶養成の学校という性格が強かったが,俗人教育にも進出していったことがわかる。とはいえ,谷川(2008)が述べているように,俗人教育(すなわち普通教育)に関しては仏教系の貢献は限定されたものであった。明治,大正,昭和の戦前期にあっては,一般人の教育に関してはその主要な部分は公立学校,そして一部の無宗教とキリスト教系の私学に委任されていて,仏教系の学校の貢献度は限定されていたのである。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.92-93

龍谷大学の前身

僧侶養成か,俗人教育か,という論点は,実際の学校の設立過程を知ることによってわかる。谷川(2008)は浄土真宗本願寺派の僧侶養成学校の設立過程を紹介している。江戸時代には学林と呼ばれる僧侶養成学校を持っていたが,それに替わる新しい僧侶養成方法を模索していた。本願寺派は最初の頃は俗人教育と僧侶養成を兼ねる学校制度を考えていたが,1876(明治9)年に結局は僧侶養成のための「大教校」が学林にとって替わる。1885(明治18)年には俗人教育をも兼ねた「普通教校」を創設するが,これも僧侶養成校へと傾いていく。
 なお京都の現・龍谷大学は,この「大教校」や「普通教校」の後身の学校である。校史によると龍谷大学の創設は1639(寛永16)年に西本願寺境内に学寮を建設してからのスタートである。従って370余年の長きにわたる古い歴史を示す学校であるし,同校はそれを誇りにしている。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.89-90

上智と南山

ちなみに上智大学は創設時はそれほどの名門校ではなかったが,時代の経過とともに女子の優秀な学生が入学するようになり,名門校としての認知度が高まった。現在では早慶・上智と称されるほどの名門校になっていて,日本の私立大学の代表格にまでなっている。さらに,大学が名門校になる手段の1つとして,女性の優秀な学生がまず入学してから始まる,という伝統を生んだ例が上智大である。名古屋の南山大学(カトリック系)も上智大と同じ道を歩み,女子学生に優秀な人がまず入学したので名門度を上げた歴史を有している。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.77

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