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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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複数の遺伝子

1990年代に遺伝子医学は,デュシェンヌ型筋ジストロフィー,嚢胞性線維症,ハンチントン病などの原因遺伝子を次々と発見し,大きな成果を収めた。この成功が災いし,われわれの考え方は歪んだ。そうした成功は,それらの病気が単一遺伝子疾患であったから可能だったのだ。つまりそれらの病気は,それぞれたった1つの,常に同じ遺伝子に起こる欠陥に起因する。したがって,それらの病気が家族に遺伝する仕組みは,古典的なメンデルの法則に準ずるので,問題となる遺伝子の追跡は比較的容易なのである。
 ところが,他のほとんどの病気が遺伝子要因であるとしても,その中身は一般に複雑だ。というのは他の多くの病気には,たった1つの遺伝子ではなく,複数の遺伝子が介在しているからだ(非常に多くの遺伝子が関係している場合さえある)。したがって,それら個々の遺伝子がおよぼす影響は小さいため,それら1つ1つの働きを明らかにすることはきわめて困難なのだ。また,予測される影響(該当する遺伝子の「悪いバージョン」をもつ人物が抱える発病リスク)を見積もることも,あまり期待できない。単一遺伝子疾患の場合における単純明快な仕組みや,それで病気になった人が辿る,たいていの場合「不可避の結末」のために,遺伝子がわれわれの健康におよぼす影響を正確に判断できなくなってしまったのだ。また,診断ならびに治療の段階においても幻想が育まれた。

ベルトラン・ジョルダン 林昌宏(訳) (2013). 自閉症遺伝子:見つからない遺伝子をめぐって 中央公論新社 pp.6-7
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過去の残像

このような変化の上に,さらに若者の振る舞い方の文脈ごとの変化が重なり合う。このことは若者が何者であるのかについての見通しをさらに不透明にするであろう。そもそもどのような文脈を持っているのかという点で若者は一様ではない上に,文脈ごとの使い分けがどのように行なわれているのかについてもまた一様ではないからだ。若者とは誰のことか,という問いはここでもまた決定的に不十分なのである。
 しかし大人たちはしばしばこの問いの不十分さを認識するかわりに,過去の残像を参照しながら多元性をアイデンティティの喪失として理解しようとしてきた。このような理解は二重の意味で誤っている。第1に,そこで失われたものとしてしばしば参照されるエリクソン的な意味で統合されたアイデンティティは過去にも存在していなかった。それは,何かが失われたという現在の痛切な実感が過去に向けて当社したある種の理想=仮想にすぎない。実際に失われたのは,文脈ごとの振る舞い方の違いを総体として見通し得るような「場」なのである。第2に,多元性とは統合の「喪失」なのではなく,統合がそうであったのと同じ程度には,現実の社会への積極的な適応形態であることを彼らは見落としている。もちろん多元化した自己のあり方についていろいろな問題点を指摘することはできるだろう。それは本章で見てきた通りだ。だが「場」に包摂されたアイデンティティ,あるいはエリクソン型のアイデンティティについても同じように問題点を指摘することはできる。要するにいくつかの問題を抱えながらも現在の社会に適応するための自己の様式であるという点でそれらは等価であるということだ。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.221-222

倫理問題に敏感な恋愛

倫理的な問題が恋愛において切実に感じられるのは,今日の日本において,恋愛がある意味で特権的なものになっているからであろう。すなわち,第1に,恋愛は(おそらく家族関係と並んで)「かけがえのない」ものの代表とされている。第2に,それは,そのかけがえのなさに見合うだけの深さで,そこに関与する当事者が何者であるのかを問うてくるように感じられている。第3に,それは選択的なものと見なされており,そのことと裏腹に,いつ解消されるかわからないという不安を常にともなっている。血縁で結ばれた(と信じられている)家族や親族の場合とは,その点でやや異なっている(もちろん家族も選択的な関係として捉えられる傾向が強まってきているが)。かけがえのなさと自身のアイデンティティへの問いが関係の儚さによって強められているために,恋愛は倫理の問題に敏感な局面となる。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.214

比喩表現

その意味では多重人格といい解離性同一性障害といい,いずれも何かをわかりやすく,かつ生き生きと伝えるために用いられた比喩であるといえる。社会を語るための比喩として病が用いられることは珍しいことではない。例えばある時期,分裂病(現在の統合失調症)が占めていた時代の象徴としての座に1990年代以降,多重人格が座るようになったということができるかもしれない。実際,大澤真幸はきわめて率直にこのことを表現している。すなわちかつて「分裂病」として語られていたことから思弁的で神秘的な衣をはぎとって即物化したものが多重人格なのである,と(大澤・斎藤[2003])。
 それに付け加えていうなら,分裂病の比喩を用いながら時代や社会を語っていたのはいわゆる「知識人」であったが,多重人格は一般の人々が自分たちの振る舞い方や関係のあり方を語る際に動員されることであるという点でも後者はより一般化,「通俗化」されていたといえるかもしれない。それは研究者やジャーナリストが社会を観察する際に用いるものというよりは,観察されている人々が自分たちで使用している語りの道具なのである。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.166-167

受け入れる基盤

整理していえば,多重人格のストーリーを受け入れていく人々の様子は,それの持つ悲劇性を脱色した上で,まるでそれを自分たちの生活と地続きの事態であると考えているようであったということだ。では彼らは多重人格のどこを見て自分たちがその延長線上にあると感じたのだろうか。学生たちの感想から読み取れたのは,多重人格が場面によってまったく異なる顔を見せるというその点において自分の振る舞い方と親近性があるということであった。
 多重人格の場合,場面と場面とをつなぐ記憶の糸が切断されているため,振る舞い方が一貫せず,しばしば致命的なまでにちぐはぐとなる(そしてその結果が「発見」されもする)。学生たちの場合,そのような記憶の断片化が生じているわけではもちろんないだろうが,それでも自分たちの振る舞いをあたかも多重人格の場合のそれと同じであるかのように感じていたのである。これはどういうことであろうか。
 多重人格を自分たちに近しいものと思う感覚。その背景には,多重人格的と表現したくなるような対人関係のある様相の広がりがあったのではないか,というのがここで提起してみたい仮説である。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.165-166

多重人格概念を待ち望んだ日本人

ところで『ビリー・ミリガン』が多重人格という現象を広く日本人に認知させたのはまちがいないのだが,その認知の広さと速さとはむしろ日本人がその言葉,その概念を以前から待ち望んでいたのではないかとさえ思わせるものがあった。つまり,あたかも彼らが欲していながら手にしていなかった何かを多重人格という概念が与えたかのようにさえ見えるのである。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.163

同じことの繰り返し

いつの時代にも若者を語る定番の話法が,1990年代以降にも同じように繰り返されてきた。まずはそのようにいっておくことができる。しかしそれ以前と違う点もある。大きな違いの1つは,1990年代以降に広まったコミュニケーションの希薄化という語りが,それに匹敵する肯定的な点の語りを欠いていたことだ。先ほど触れた中野の「カプセル人間」であれば,ある種希薄にも見える人間関係が,情報の高度な取捨選択,自分自身の趣味や好みによる加工,などといった情報処理に関する肯定的な特性とセットになっていた。同じ時期に一世を風靡した「モラトリアム人間」(小此木啓吾)にしても,批判的な語り口をともないつつも,消費社会化していく当時の社会に対するある種の適応形態として肯定的にも語られていたのである。1990年代以降のコミュニケーション希薄化論は,しかし,そのような肯定的な面への着目を欠いていた点で,それ以前のものとは大きく異なっていた。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.145

オタクの3次元

この点に留意しながら,まずはおおざっぱに把握しておくなら,オタクという言葉は,オタク周辺の狭い範囲を超えて広く流布していくに際して,以下のような3つの次元を混在させていたように思われる。

 (1)彼らが消費している対象(消費次元)
 (2)作品を消費する過程で彼らが展開するコミュニケーションの様式(コミュニケーションの次元)
 (3)そのコミュニケーションの根底にあると周囲から想定される彼らの人格(人格類型の次元)

 オタクという言葉を用いて達成される事柄には多くのものが含まれるが,その中でも重要なのは,誰かを,あるいはときに自分自身を,ある特定の集団に属するものとして切り出すといった操作だろう。ここにあげた3つの次元はそのような切り出しの手がかりとなると同時に,そのような切り出しを正当化するために参照されるものだ。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.106-107

乗るか降りるか

No.1にならなくてもいい
 もともと特別なOnly one

 この曲に癒やされながら人々は,子ども・若者たちの間での「自分探し」と「学校的な価値観」との奇妙な癒着と分離を黙認してきたことになる。藤田や苅谷が強調していたのは,そのような黙認の結果として社会階層にそった学力の格差とその拡大が進行したのだということであった。
 だとすると「個性」という言葉は,学校的な能力主義にのっとってそれなりの成績を挙げられる人とそうでない人とで異なる含意を持つものとなったということもできる。すなわちそれは,成績のよい子たちには能力を徹底的に磨くことを,成績のあまりよくない子たちには成績競争から降りることをそれぞれ推奨していたのである。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.83

自由=個性の尊重?

個性という言葉の導入によって「自由」は,個性の尊重と読み替えられることになり,アメリカやイギリスの新自由主義的な「自由」の概念とは異なった含意をもつものとなった。すなわち後者が自由競争に勝ち抜くための人材を育成するために教育における規律を強化していく方向で教育改革を進めていったのに対して,日本の教育改革はこれ以降,画一化を弱め,個々人の多様性を開放することの方に軸足を置くことになったのである。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.76-77

消費と自分の結びつき

整理しよう。消費と自分の結びつきは,以下のような4つの効果を持った。第1に,それは1960年代以来伏流してきたほんとうの自分,自分らしさという問題系に誰もがアクセスできる手軽な回路を与えた。第2に,その結果,自分というものが自分自身の選択を構成の結果であるという感覚が定着していった。第3に,ほんとうの自分,自分らしさというものが虚構に拮抗する現実の重さとして希求されるが,第4に,いかなる「ほんとうの自分」も結局はもう1つの虚構であるという感覚がそれとともに台頭する。
 考えてみると,1990年代に入ってからの社会学的自己論は,1980年代に醸成されたこの感覚を理論的言語に翻訳することによって成り立っていたようにも思える。すなわち,自己とは社会的に構成されたものであり,また自己について語る物語として成り立つ,といった議論である。社会構成主義や社会構築主義と呼ばれることの多いこういった自己論は,消費という触媒を得て一般化した自己の特定フォーマットを理論化したものだとみることができよう。宮台真司の言葉を借りれば,ここで社会学は自らが対象とする現実と共振してしまっていたわけだ。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.63

屈折した思い

もちろんこの華やかさが独特の残酷さを伴うものであったこともたしかだ。例えば,1980年代のギャグ漫画ブームを牽引した作家の1人,相原コージが執拗に描き出したのも,そのような残酷さであった。彼が描き出す青年は,何とかおしゃれな生活に参加しようとして,例えばおしゃれなお店におしゃれな服を買いにいくのだが,そこで客によってくる店員さん(ちなみにハウスマヌカンなどと当時呼ばれていた)のあまりのおしゃれぶりに,自分がバカにされているのではないかという劣等感や不安に打ちのめされて,必要のないものを買わされたり,あるいはそもそも店に足を踏み入れられなかったりする。このようなシーンがギャグ漫画の定番の位置を占めていたという事実が示唆しているのは,舞台の上で展開されるおしゃれな光景の背後に,あるいはその下に,舞台に上がりたくても上がれなかった多くの人々の屈折した思いが鬱積していたのではないかということだ。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.44

アイデンティティ達成過程

では具体的に,アイデンティティの達成過程は,若者の生活環境にどのように埋め込まれているのだろうか。エリクソンの様々な説明の中から最も基本的と思われる様子を拾い上げると次の3つになる。
 第1に,何らかの職業につくこと。何らかの仕事に従事することを通して人は社会の中に自らの位置を確保する。それによってアイデンティティは社会的にくっきりとした輪郭を得る。
 第2に,結婚と出産。かけがえのない相手との間に親密で安定した関係を築き,また,世代を超えていく関係の中に自らを位置づけることで,アイデンティティはしっかりとした支えを得る。
 第3に,信念の体系あるいは世界観を獲得すること。しっかりとした世界観に帰依することによってアイデンティティは明確な方向性を得ることができる,とエリクソンは考える。
 しかしながら,1980年代以降の日本の若者は,つまるところこれら3つの要素が徐々に確保されなくなっていくような社会を生きているのである。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.19-20

女性の権利の制限

まず制限面をみておこう。イスラム社会一般の特徴として,ここでも,社会生活上の男女の住み分けは明確だった。これは公からの女性の排除とみることもできるし,彼女らが男性中心の社会とは異なる「別の世界」に住んでいたともいえる。オスマン史上,表の政治に登場する女性としては,わずかにスルタンのハレムの女性群が挙げられるのみである。政治の場に宮廷関係者以外の女性の名が登場することは,19世紀後半に至るまでほとんどなかった。
 法的な制限は,父親等からの遺産の相続権が男性兄弟の半分であること,各種の契約や裁判において男性の後見人を必要としたこと,伴侶となる男性が複数の妻や奴隷女性を所有する権利をもち,妻・母としての権利が男性に対し1対1には保障されていなかったことなどが挙げられる。結婚における女性の不利な状況は,男性に対し,先払い婚資金(結納金にあたる)と,後払い婚資金(離婚慰謝料にあたる)が義務づけられていることによって一定程度補われたが,今日の感覚でいえば,不公平な条件下に置かれていたことには疑いがない。離婚の男性のイニシアチブで行われ,女性から要求することは難しかった。
 ただし,前近代の社会の中で,この状況をどう判定するかは議論のあるところである。結婚は,非常にお金のかかることだったため,複数の妻をもつ男性は全体の5パーセント程度と少数だった。むしろ,妻にとっての脅威は夫が所有する奴隷身分の女性の存在であったといわれるが,女性の奴隷は,富裕層のステイタス・シンボルとなるほど「高価」な存在であることから,それをもつ者も富裕層に限られた。なお,奴隷女性から生まれた子供と,妻から生まれた子供は,法的にまったく区別されなかった。これは,妻の立場からは不利なことだったといえよう。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.245-246

ハレムでも生まれより教育成果

ハレムの内部では,16世紀後半以降,母后をトップにした位階的な構造ができあがった。母后に続くのは,現スルタンの子を産んだハセキと呼ばれる女性たちだった。ハレムの女性の大半は,戦争捕虜や献上品として贈られた奴隷身分の女性である。
 しかし,女奴隷という言葉の響きとは異なり,宮廷のハレムは基本的に教育の場だった。その日常は,規律と階層的権力関係に秩序づけられた一種の女学校のようなものだと考えた方がいいだろう。宮廷に残った先輩女性が後輩の教育にあたり,宦官長は寮長のような役回りである。このうち母后の目にとまった成績優秀者には,スルタンの側室への道が開かれた。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.180-181

生まれより努力

トルコでは,すべての人が生まれつきもつ天職や人生の幸運の実現を,自分の努力によっている。スルタンのもとで最高のポストを得ているものは,しばしば,羊飼いや牧夫の子であったりする。彼らは,その生まれを恥じることなく,むしろ自慢の種にする。祖先やぐうぜんの出自から受け継いだものが少なければ少ないほど,彼らの感じる誇りは大きくなるのである。

 これは,ハプスブルグ家のオスマン大使ビュスベックの書簡の一節である(1555年)。ビュスベック自身は,貴族の庶子だったがゆえに多くの苦労をしている。それに比べオスマン帝国はなんと幸せなことよ,という嘆息である。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.122

兄弟殺し

先に紹介したように,オスマン帝国では,即位したスルタンが兄弟を殺すことが慣例化していたが,それが可能なのは,王子たちがいずれも,県軍政官として行政や軍事指揮の経験を積み,即位に備えていたからである。その過程で軍功と有能さを競い,首都イスタンブルの有力者の間にも支持者を増やす努力をしていた。父であるスルタンは,イスタンブルに近い県の軍政官に自らの後継候補を任命することで,後継候補の優先順位を示すことができた。イスタンブルにもっとも早く入った王子が継承権を得たからである。しかし,いずれにせよ自らの死後のことである。最終的には,イスタンブルに支持者のある候補(王子)にだけ即位のチャンスがあった。こうして,イェニチェリなどの首都の常備軍勢力がスルタンの後継争いに重要な役割を演じることになったのである。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.106-107

スルタンの奴隷

ムラト1世の時代のイェニチェリの数は2000人程度,15世紀前半のムラト2世の時代にも3000人程度といわれ,それは,文字どおり少数精鋭の近衛兵だった。彼らは有給で,常にスルタンの周囲をかため,その特権的な地位を誇った。
 その特権は「スルタンの奴隷」(カプクル)という言葉によって表された。カプクルは直訳すると「門の奴隷」となる。門とはスルタンの家を指し,彼らがスルタンの「もの」として扱われる家産的な傭人だったことを意味している。彼らは,イスラム法で定義される奴隷身分にあることになっていたが,それは多分に建前上のことであった。「スルタンの奴隷」は,スルタンに対してのみ奴隷であり,また,宮廷や軍の中で職にある限り解放されることもなかったからである。彼らはスルタンの「もの」であることから,生きる権利をスルタンに握られていたが,スルタン以外に対しては特権的な存在になりえた。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.76

2つの問題

オスマン帝国の過去が,誤ってトルコの国,オスマン・トルコの歴史とされてきたことは,2つの大きな問題を引き起こした。
 1つは,現在のトルコ共和国以外の国々で,オスマン帝国時代が正当に扱われなくなったという問題である。前述のように,バルカン諸国や中東諸国で,オスマン帝国時代はあたかもトルコ人による暗黒の占領時代とされ,それぞれの地域が歩んだ近世の「歴史」が各国の民族主義鼓舞の道具として利用された。
 第2は,「何人の国でもない」オスマン帝国のシステムが十分に理解されず,ましてや,多くの民族を内包する社会が,さまざまな要因で時代と共に移り変わってゆくダイナミズムが無視された点である。その結果,ヨーロッパにとってオスマン帝国がもっとも脅威だった16世紀の像が,「トルコ人の脅威」の名のもとに固定的に想起され,かつてはすばらしかった(強かった)オスマン帝国が(あるいは,イスラム文明が),長い凋落の歴史を経て,西欧諸国家の(あるいは西欧文明の)軍門に降ったというタイプの,西欧中心的な歴史の理解を助長した。その実,オスマン帝国は,14世紀から18世紀の末の間にも変化を繰り返し,そして,近代オスマン帝国も19世紀を通じて,依然,広大な領土を領有する大国として,ヨーロッパの政治の一翼を担っていたのである。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.18-19

デリバティブはギャンブルか

かつてデリバティブは,刑法上の賭博罪にあたるのではないか,と言われた時期がありました。1980年代のことです。賭博とは,刑法の世界では「偶然の事情により勝ち負けを決め,財物のやり取りをすること」と解されています。「デリバティブが賭博とは,そんなばかな」と,筆者が,当時仕事上の必要もあって,法務省の担当官に確認しにいったところ,やはり賭博罪の構成要件(法律の文言に定められた形式要件)に該当するとのことでした。刑法で賭博罪を定めた趣旨から言って,それはおかしいと強く反論しましたが,彼の意見は変わりませんでした。
 構成要件に該当する場合でも,別途法律で認められた行為であったり,正当な業務上の行為である場合には,違法でなくなります。その後の金融関係の法律改訂で,広くデリバティブが認められることになりました。
 デリバティブに失敗して大きな損失を抱えた,そんな話を聞くたびに,あの時,必ずしも金融の専門家ではない法務省の担当官が示した判断は,ある意味正しかったのではと思います。

植村修一 (2013). リスクとの遭遇 日本経済新聞社 pp.142-143

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