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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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自己診断の危険性

つぎに述べるような自己診断のリスクはめったにないが,かなり有害になる恐れがある。一部の人々で,情報の追求が一種の心気症をもたらすことがある。覚えておいてもらいたいのだが,精神障害の各症状はごくありふれていて,生きていれば避けられない。不安,抑うつ,注意欠陥,記憶喪失,むちゃ食いなどの症状がたまに顔をのぞかせることはだれにでもある(ほかにもそういう症状は何十もある)。しかし,ほとんどの人は精神疾患ではない。本に載っているすべての疾患を自分が患っているように思えるなら,逆にどの疾患にもいっさいかかっていなくてマニュアルの読み過ぎである可能性のほうがずっと高い。
 最後に,生半可な知識は危険になりうる。自分自身だけでなく,家族,友人,とりわけ上司にまでレッテルを貼るのは楽しいかもしれない。特に争いのさなかでは,それは卑劣な攻撃に繋がりやすい。ダーツのように診断を投げつければ相手は傷つくし,偽の情報が偽の情報を呼ぶという悪循環が生じかねない。しかし,大多数の人々にとっては,自己診断の利益はリスクをはるかにうわまわる。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.358-359
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確認すべきポイント

たしかめるべきおもな点は,あなたの症状がその疾患についての記述と一致するかどうか,無視できないほど長く続いているかどうか,著しい苦痛や機能障害をもたらしているかどうか,そして厄介な出来事に対する単なる一時的な反応に思えるのか,それとも日常生活にもっと深く根を張っているのかだ。最後の点については,早急に判断する必要はない。日記をつけ,推移を記録し,成り行きを見守ればいい。特に長引くことなく自然に症状が改善すれば,答はおのずと出ていることになる。しかし,症状がいつまでも残ったり,悪化したり,問題を引き起こし続けるなら,助けを求めなければならない。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.349

インフレ状態

診断のインフレを助長するDSMのあいまいな基準は厳格にする必要がある。これは容易ではない——30年かけて積み重なり,DSM-5がさらに悪化させている問題だからだ。しかし,過ちは時とともに正されるものであり,いまこそこれを正さなければならない。現在ある診断の数多くはハードルを変えるべきである。より多くの症状が,より長期にわたって現れ,より大きな機能障害を引き起こしているのを条件にするという具合に。そして,よほど説得力のある理由がないかぎり,新しい診断の追加は見合わせなければならない。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.330

ネット依存は病気か

いまにも流行する可能性が最も高いのは「インターネット嗜癖」である。野火が広がるすべての要素が整っている——警報を発するおびただしい数の本,雑誌や新聞に載るべき記事,テレビによる広範な告知,氾濫するブログ,怪しげな治療プログラムの登場,何百万もの患者候補,新たに誕生した「オピニオンリーダー」役の研究者や臨床医による盛んな喧伝などだ。DSM-5は自制を示し,インターネット嗜癖を正式な精神科の診断として認めず,あいまいな補足事項にとどめた。しかし,DSM-5の完全な支持がなくても,インターネット嗜癖が盛りあがることにならないか,注意しなければならない。たしかにわれわれの多くは,映画館のなかや真夜中でもEメールをこっそりチェックしたり,電子の世界の友人たちから少しのあいだ引き離されるだけで寂しくなったり,時間が空けばネットサーフィンやEメールやゲームをしたりする。
 だがこれはほんとうに嗜癖と言えるのか。いや,必ずしも言いきれない。嗜癖と言えるのは,執着が強迫的で,報酬や実益がなく,現実生活への参加やそこでの成功の妨げになっていて,著しい苦痛や機能障害を引き起こしている場合である。ほとんどの人にとって,インターネットとの結びつきは,たとえそれにどれほど夢中でかじりついていようとも,苦痛や機能障害をはるかにうわまわる快楽や効率をもたらしてくれる。それは隷属と言うよりは熱中や道具の活用に近い——精神疾患と見なすのは最善ではない。あらゆる人々の日常生活や仕事の不可欠な部分になっている行為を精神病と定義するのはばかげている。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.296-297

コーヒーを飲むのは病気か

われわれはかつて,カフェインへの依存をDSM-IVの正式なカテゴリーに含めるべきかどうかをめぐって,同様の議論をした。カフェインはニコチン並みの依存性があり,中毒を引き起こして,不安障害や心臓の不具合をもたらす恐れがある。われわれがそれを載せなかった理由はただひとつだけである。カフェインへの依存はきわめてありふれているので(それにほとんどは無害なので),6000万の人々に対して毎日起きるたびにこの朝の楽しみは精神疾患なのだと自覚させる意味はないと思えたからだ。このような謙虚で慎重な姿勢を持っていれば,「行為嗜癖」のカテゴリーは不採用になっただろう。どんな利点があったとしても,大々的に誤用される恐れの前ではかすんでしまう。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.295-296

嗜癖概念の拡大

「嗜癖」という語は,あらゆる熱中や傾倒を含むものへと拡大解釈されつつある。かつてのそれは限定されていて,薬物やアルコールへの身体的な依存のみを指していた——ハイになるための量がしだいに増え,やめれば重い離脱症状が出るような依存だ。その後,「嗜癖」は脅迫的な薬物乱用も指すものへと拡大された。これに陥っている人は,もうなんの意味もないのに,薬物を摂取しなければならないと感じる。快感は消え失せ,重大な悪影響があるだけなのに,つづけずにはいられない。最近では,種類にかかわりなく,頻繁な薬物の使用に「嗜癖」が軽々しく不適当に用いられている——まだ強迫的な使用に至っていない,純粋に快楽を求めての使用であっても。DSM-5は拡大解釈の最後の段階を踏み,われわれはアヘンに病みつきになる人とちょうど同じように,好みの行為に依存しているのだとしている。
 「行為嗜癖」という概念には,われわれはみな「行為依存者」だとする根本的な欠陥がある。快楽を繰り返し求めるのは人間の本質の一部であり,当たり前すぎて精神疾患とは見なせない。何百万もの新しい「患者」が勝手に作り出され,あらゆる熱中を医療の対象にし,刹那主義に「病者役割」という口実を与えてしまうかもしれない。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.292-293

早期診断

無理もないことだが,アルツハイマー病の専門家たちは,早期診断を推し進めたがる。診断や治療の手段の開発が遅々として進まないのは,関係者全員にとって不満の種になっている。ほとんどの医師はいまごろには検査室試験が確立されているはずだと予想していて,薬の開発がこれほど失敗していることに深く失望している。軽度神経認知障害は早期発見の可能性に光を当て,この分野に活を入れてくれるという期待を込めて提案された。だがこれは本末転倒にほかならない。人々の生活や国によるかぎられた医療費の配分に大きな影響を及ぼす新しい診断は,確立された科学と包括的な公共政策論議にしたがわなくてはならない——それに先んじるのではなく。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.281

悪影響

DSM-5には,未来に確実に流行するものがいくつか載っている。どれもが,日常生活の一部になっていて全人口に広く見られる症状をとりあげている。どれもが,現在では正常だとみなされている多数の人々に誤ったレッテルを貼らないですむほど,厳密に定義されていない。どれもが,有効だと証明された治療がない。どれもが,不必要で得てして有害な治療や検査の数々を招きやすい。これらが複合して生み出すのは,過剰な診断,無用な偏見,過剰な治療,資源の誤った配分であり,われわれが個人として,また社会として自分たちをどう見るかにも悪影響が及ぶ。


アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.274

DSM-5の間違い

DSM-5が発した問いはまちがっていた。新しい診断案の信頼性(精神科医たちから同意を得られるかどうか)にばかり注目し,ずっと重要で有用な問いをまるきり避けた。新しい診断は患者によって有益なのか,それとも有害なのか,という問いである。この問いに答えるためには,有病率や正確性や有効性や安全性についてのデータが要る。そして,大学病院に被検者を提供してもらえれば楽だが,そういう被検者は典型的な患者ではないので,現実の環境で基準がどう働くかを調べなければならない。私には理由がまったく理解できないのだが,DSM-5はほんとうに重要なこの問いをはぐらかした。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.271

DSM-5の3つの構想

DSM-5は精神科の診断にパラダイムシフトをもたらすという大きすぎる野心をもっており,それは3つの異なる構想に表れていた。ひとつめは,神経科学のめざましい発見をどうにか土台に持ってきて精神科の診断を変えるという現実離れした目標だった。実現できればすばらしいことだが,当然ながらまだそれは遠すぎた橋であり,試みは失敗した。神経科学は自らの亀の歩みのようなペースでしか,日々の精神科の診断し浸透しない。その時期でもないのに前へ前へと急がせることはできない———そしてその時期はまちがいなくまだ訪れていない。
 野心に満ちた目標のふたつめは,臨床精神医学の領分を広げることだった——ほかの医学分野のまねをして,病気の早期発見と予防医療をおこなうすばらしい新世界を追い求めたわけだ。皮肉なことに,DSM-5が手本とした医学分野の多くで,行きすぎた早期検診に疑いの目が向けられるようになっているのは言うまでもない。
 DSM-5の3つ目の野心は,最も危険が小さくて最も達成がたやすいものだった。疾患にただ名前をつけるのではなく,数量化して精神科の診断をもっと正確にくだすというのがその発想だった。うまくいけばこれは名案になった——が,臨床現場では使いようのない複雑な多元的評価を必要もないのに作っただけで終わった。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.266-267

6つの原因

どうしてこんな事態になってしまったのだろうか。原因は6つある。DSM-IVの表現が変わったこと。医師に対するマーケティングと一般の人々に対する宣伝を製薬企業が盛んにおこなったこと。メディアが詳細に報道したこと。困り果てた親や教師が手に負えない子どもを何とかしたくて社会に圧力をかけたこと。ADHDと診断された子どもは試験時間が延長され,特別な支援を受けられたこと。そして最後に,処方箋の必要な精神刺激薬が,ただ成績をあげたり元気を回復させたりするために広く乱用されたことである。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.223

診断インフレ

診断のインフレを示す証拠は至るところにある。精神疾患の爆発的流行は過去15年間に4度あった。小児の双極性障害は,信じがたいことに40倍に増えた。自閉症はなんと20倍に増えた。注意欠陥・多動性障害は3倍になった。成人の双極性障害は倍増した。有病率が急上昇する時,そこにはそれまで見落とされていた本物の患者がいくらかは含まれている——診断とそれに基づく治療を切実に必要としている人たちだ。しかし,これほど多くの人々,とりわけ子どもが,なぜ突然病気と見なされるのかは,診断が正確になったというだけでは説明できない。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.175-176

立場の弱さ

だれもが病気であるなら,だれもが薬を飲まなければならないことになる。向精神薬の市場はすでに巨大だが,なおも拡大をつづけている。成人向けの市場が飽和状態を呈すると,製薬企業は子どもに製品を売りつけて消費人口を増やした——精神障害の最近の流行がみな,子どもで発生しているのは偶然ではない。それに子どもは格別の上客だ——早いうちに仲間に引き入れてしまえば,生涯にわたって虜にできる。企業はライフサイクルの反対の端にいる高齢者にも狙いを定め,老人ホームでまるでホットケーキのように抗精神病薬うぃ売りさばいている。子どもと高齢者は正確な診断が最もむずかしい人口集団であり,薬の有害な副作用に最も弱く,老人ホームで抗精神病薬を多用すれば死亡率が高まるのに,製薬企業はそういう事実に頓着していない。さらに厄介なのは,最も多くの薬を飲んでいるのが最も立場の弱い子どもたちであることだ——貧しい子どもや,里親に育てられている子どもである。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.162-163

医療保険と診断インフレ

診断のインフレをもたらしているもののなかでも,愚劣きわまるのはアメリカの医療保険の仕組みだ。医師は支払いを避けるために,診断を承認してもらわなければならない。これにはむやみな診察を防ぐ目的がある。しかし,意図せずして,賢明なコスト管理とは正反対の結果をもたらしている。まだ重い症状が出てもいないのに,保険金が支払われる精神科の診断に患者が殺到するため,自然に解消されたはずの問題に不必要な治療をほどこす事態になりがちだからだ。そういう治療は有害になりかねないし,高額な場合が多い。ずっと安上がりで,保険会社にとっても得になるのは,注意深く見守りながらカウンセリングをおこなう医師に保険金を支払うことであって,すぐさま結論に飛びつくのは長い目で見れば非常に高くつくのだから,そういう診断をする医師に報酬を与えないことだ。他国は,このきわめて賢明な解決策を指針にしている。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.148

予防医学の産業化・奴隷化

予防は至るところで誇大宣伝されている。息つく間もなく,毎日のように医学の大躍進が発表されている。新しい検査がつぎつぎに考えだされ,古い検査では異常のハードルが下げられる——それが新しい患者を大量に作り出している。医師は大事を取って,あらゆる患者にあらゆる高額な検査を受けるよう指示している。検診の利点を売りこみ,病気をほうっておいたときの恐怖をあおる宣伝がおこなわれている。
 おどして検診を受けさせる戦術は,その旗振り役には巨大な経済的成功をもたらしているが,少数の例外を除けば(喫煙者に対する肺がん検診とか,すべての人に対する結腸がん検診とかを除けば),検査が患者のためにならないことが多いのは,証拠から明らかだ——結果はたいして改善されないのに,必要のない高額な治療を積極的に受けさせて,よけいな負担を強いることになっている。そしてこの無駄遣いは,社会全体で毎年数千億ドルにも達する。本物の病気にかかっているのに保険にはいっていない人たちの治療に向けるほうが,よほどましな使い道だ。予防医学は目標こそすばらしいが,利益と誇大宣伝のために産業化,奴隷化されて,道を大きく誤っている。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.138-139

DSMの功罪

製薬企業の得になった決定はふたつしかない——ADHDの条件をわずかにゆるめたことと,双極II型障害を導入したことだ。どちらも臨床の重要な隙間を埋めるもので,どちらもじゅうぶんな証拠によって裏付けられ,どちらも決定がくだされた時には明白な商品価値はたいしてなかった。残念ながら,製薬会社が消費者に宣伝する権利を獲得し,高価な新商品を開発するに及んで,どちらの決定も製薬会社の食い物にされた——けれども,そんなことになるとはわれわれに予想できなかったし,防げもしなかった。製薬会社は,DSM-IVの内容に対してはなんの役割も演じなかったが,その乱用に対しては重大な役割を演じた。カエサルの妻たるものは疑念を招いてはならないと私も思う——が,それでもこの件に関しては,いわれのない疑惑だと確信している。
 DSMには功罪がともにある。それは精神科の診断の信頼性を高め,精神医学研究の変革をうながすというきわめて貴重な役割を果たしている。だが同時に,とめどもない診断のインフレを発生させ,その継続にひと役買うという非常に有害な意図せざる結果ももたらしている。診断のインフレは「正常」をおびやかし,精神科医療における著しく過剰な治療へとつながっている。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.134-135

診断インフレの抑制

診断のインフレを抑えるために打てる手はいくつかあった(そして実際に打つべきだっただろう)。何より重要な事として,DSM-IVの診断のハードルをもっと高くして(より多くの症状が,より長期にわたって現れ,より大きな機能障害を引き起こしているのを条件にするという具合に),企業が診断を商品に結びつけにくくすることはできた。しかし,われわれは公平で保守的であろうとするあまり,自縄自縛に陥った——証拠を求める厳格なルールのせいで,説得力のある詳細な科学的データがないかぎり,どちらの方向にも変更することはできなかった。われわれのルールにしたがっているかぎり,診断システムをデフレにするのはインフレにするのと同じくらいむずかしかった。根拠のない決定と,自分の縄張りを広げたがる専門家たちの本能を抑えこむために,ルールは必要な制約だった。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.131-132

誤りだった

DSM-III-Rは誤りであり,混乱のもとだった。DSM-III-Rの目標のひとつは,精神疾患を客観的に定義して,一種のリンネ式の分類を(あるいは「周期表」を)編み出し,それによって臨床研究や基礎科学研究を促進することにあった。自己修正を反復するシステムになるよう意図されていた——DSM-IIIのどうしても作り物になりがちな基準を出発点としつつも,それがうながす研究に基づいて基準を確認したり変更したりするつもりだった。診断システムが気まぐれな意見に基づいていて,むやみに動き続ける研究ターゲットしか提供しなかったら,この循環はけっしてめぐることはできない。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.124

衝撃

ところが,1970年代はじめに突然,診断は精神医学を転覆させかねないアキレス腱だと暴かれた。精神医学は歴とした医学分野であるというお墨付きをもらったばかりだというのに,ふたつの広く出回った文書が,その存立を脅かすことになった。ひとつめの衝撃は——イギリスとアメリカの国際共同研究により,たとえビデオテープで同じ患者を評価する場合であっても,大西洋の両側で精神科医の診断が大きく異なることがわかったのである。ふたつめの衝撃は——頭の切れる心理学者が,精神科医をたやすく不正確な診断へと誘導できるだけでなく,まったく適切でない治療にも誘導できることを示したのである。この心理学者が教える大学院生の数人が,別々の緊急救命室へ行き,幻聴が聞こえると訴えた。するとみな,ただちに精神科病棟に移され,その後は完全に正常にふるまったにもかかわらず,数週間から数ヶ月間も入院させられた。精神科医は信頼出来ない時代遅れの藪医者で,ちょうどそのころ全医学分野を最新化しつつあった研究革命に加わる資格がないかのように見られた。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.113-114

イスラム世界の精神医学

コーランには精神障害者に「衣食を与え,懇切にことばやさしく話しかけなさい」とある。重度の精神障害者に財産関連の決断をさせてはならないという実用的な忠告もあるが,敬意と思いやりを持って精神障害者を扱うよう求めている。これが宗教と全く関係ない,深い洞察を伴う臨床アプローチをもたらした。精神障害者は管理の行き届いた病院で保護観察介護を受けられた。患者の問題を記録し,理解するのも病院の役目だった。705年,精神障害者を専門とする最初の病院がバグダードに開かれ,800年にはカイロがそれにつづいた。やがてほかの大都市の多くもそれにつづいた。イスラム教の病院はしばしばユダヤ教徒とキリスト教徒の医師を雇い,大きな外来患者診療所と薬局を備えていた。
 精神医学の進歩には目を瞠るものがあり,1000年後のヨーロッパの歩みをそっくり先どりしていた。ヨーロッパではそのころになってようやく,独立した精神科病院が設立された。アラブ世界の精神科病院は科学的発見のすぐれた揺りかごになった。精神医学の専門家たちは,多様な患者を詳しく調べて,異なる経過を比較できた。そして正確な臨床観察をおこない,症状を症候群にまとめ,有効な治療法を開発した。アラブ世界の精神医学は,世界に類を見ないほど詳細で実用にすぐれた学問の域に達し,のちの精神医学がふたたびそこまでたどり着くのは,1900年ごろのことだった。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.98-99

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