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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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職務給思想

なお不詳の点は多々あろうが,戦前期やその基本を定めた明治期の公務員サラリーは,いわゆる年功賃金という観念とは大分違う。むしろおどろくほどの職務給思想というべきではなかろうか。仕事ごとにサラリーが決まり,その働きぶりでつぎの昇進がきまる。昇進すればサラリーはぴんとはねあがり,昇進しなければサラリーはそのまま,それどころか,早い定年もむかえ,いやそのまえに退職していく。中期からやや短期重視のサラリーではないだろうか。それはまた江戸幕府スタッフのサラリーを多少とも受け継いでもいるようだ。
 ここから,なにをいいたいのか。世界の傾向は,日本でにぎわしい議論とは別に,高度な仕事にはもともと仕事ごとではなく中長期重視のサラリーであって,のちそれを社会資格給というみやすい長期重視のサラリー方式へ,そしてグローバルスタンダードにあう方式へ,移行してきたのではないだろうか。その実態をみのがし,短期重視へと逆行しつつある日本企業の現場を懸念する。
 すぐれた業績をあげた人にいかに報いるかは,古来,肝要な組織のしくみである。ただし,それほど資料がのこっているわけではない。そのかぎりでおおまかにいえば,まずは戦場という勝敗がきわめて明白な,そしてその結果がはっきりとでるばあいには,まさしく戦場の功である。それは打ちとった首の数,それも旗指物の主,さらには大将の首,あるいはすばらしい物見の功などさまざまな事情を考慮した報酬となろう。戦記物語のかぎりでわかるのはそこまでである。
 そのあとはごく一時期,家柄で報酬がきめられた。家柄をしめす禄高を大幅に改定する戦場は島原の乱以降しばらく絶えてなかった。その短い時期を日本古来の文化と誤解したのが教科書的なイメージではないのだろうか。ほんの数十年のあと,職務によるサラリー方式が事実上支配した。それはおそらく18世紀第二次大戦敗戦まで続いたのであろう。いやもっとつづいたかもしれない。そうじて,いわゆる年功賃金が日本の文化の産物というイメージは,おそろしく誤解に満ちたものではなかったか。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.135-136
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誤解

たとえば,「勤続に応じたサラリー」を年功賃金といったりする。だが,それは「上がり方」をいうのであろうか。それならば,くりかえすが米のホワイトカラーのサラリーも右肩上がりであり,日本と区別できない。もし「決め方」をとって定期昇給の有無をいうなら,それもまた米のホワイトカラーに広く普及し,日本と区別できない。それというのも米のサラリーをはなはだしく誤解し,たとえば米はすべて職務給などとみるからであろう。やむなく,米のサラリーの現状を描き,それを基準として説明するほかない。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.103

認識不足

たしかに雇用や企業のシステムが重要という点で,またそのシステムの理解は大筋であたっている,とわたくしもおもう。だが,わたくしからすれば,ここにいささかの認識不足があると考える。認識不足はつぎの2点である。
 第一,日本の職場でのおどろくべき個人間競争の広がりである。この本の第1章で記したように,日本は生産職場でも正社員ならば査定が普及している。それは集団内の個人間競争の激しさである。リンカーンたちは査定の有無まではみているが,それがもたらす激しい個人間競争,それが生産労働者にまで広がっていることの重要性を認識していない。おそらく,ここから日本の働く人があまりハピーでない状況を説明できよう。競争が広まっているとは同時に敗れる人たちもはるかに数多い,ということにほかならない。それならば,ハピーでない人が多いのは,むしろ当然の帰結であろう。
 第二,人材形成の広がりである。その激しい個人間競争が,技能の向上度を基軸として展開されていることへの認識不足である。個人間競争がたんに上長のひいきに堕するようなら,職場の仕事ぶりがよいはずがない。仕事ではなく「ごますり」で出世するような企業が,激しいグローバル競争を勝ち抜けるはずがない。もちろん上長による,あるていどのひいきは避けがたい。それは査定をとる,どの国どの企業どの職場にもあるだろう。だが,それがすべてではとうていよい仕事ぶりを期待できまい。日本の生産職場は技能の向上度を大いに重視し,そのゆえに職場のパフォーマンスが依然高いのではないであろうか。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.67-68

冷めた目

以上の結果からでてくる素直な見方は,日本の働く人が,おどろくほど,そして米にくらべはるかに,冷めた目で会社や仕事をみ,あまりハピーではない,ということであろう。なお「ハピー」ということばを気軽に使っている。日本語の「しあわせ」にくらべ,英語では「それでもいいよ」くらいの意味であろう。いずれにしても,日本はこころから会社が好き,仕事が好きで働いているのではないようだ。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.66

集団と個人

まえもって充分にはわからないとすれば,まえもってだれかに割り当てておくことは難しい。特定個人に割り当てできない以上,それをこなす人が出現すると,一見集団主義,チームワークの成果のように映じよう。もちろん,そうした個人のすぐれた働きは,見る目のある人には歴然とわかる。わかる以上,その働きに報酬を用意しなければならない。それが仕事をよく知る人の査定なのだ。
 逆にいえば,他国はこうした問題や変化への対応を,やや大げさにいえば,生産ライン職場で見逃し検査職場にゆだねるから,個人主義だけの方式にみえる。逆に,一見集団主義にみえる日本職場は,むしろすぐれた個人の働きを認め,それに報酬を払っているのである。西欧の方式は作業を標準化し,標準化しにくい作業をこなすすぐれた個人の働きを,かえって封殺した方式といわねばなるまい。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.57-58

数値で測れない

まず結論から書いておく。高度な作業の働きぶりは——それこそが競争力の源泉でくらしと雇用を守るのだが——とうてい数値であらわせず,仕事をよく知る人の「主観的」な判定によるほかない,これが結論である。主観ゆえに,あるていどの恣意性はやむをえない。そのうえで,その恣意性をなるべくなくする方策を考えるほかないだろう,という提言になる。
 というとみなさんは,それでは「差別」の助長にもなり,なんとかして公正な数値を指標とする方策を提示せよ,と大いに反発されよう。それを十分承知のうえで,なおわたくしはそう考える。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.44

降格者の割合

もうひとつ日本の通念の誤解を正しておきたい。それは降格者である。米企業は「実力主義」であるから,さぞや降格者がぞくぞくとでるであろう,「専門家」と称する人たちは盛んにそういう。だが,もっともたしかな資料にもとづく研究に照らしてみれば,降格者はわずか0.4%にすぎない。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.39-40

早合点

第一,米企業サラリーの基本給はまず下がらない。日本ではその点をはなはだしく誤解している。米企業はいわゆる「実力主義」「業績主義」だから,業績が下がれば基本給は減額される,と解する。早合点というほかない。実際はほとんど逆である。5年間にわたるのべ3万数千の個別人事データで(イグゼンプト層のみ),前年より基本給が下がったのはわずか0.2%しかない。まったく上がらなかった人も1.8%しかいない。あとは大なり小なり昇給する。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.39

査定の割合

ただし,アメリカ風にいえばイグゼンプト(exempt)クラスを対象にした。イグゼンプトとはもともとは除外という意味で,労働基準法の残業手当を払え,という規定の適用を免除する層をいう。つまり残業手当が一切つかない。大卒若手入社でも正社員ならまず最初からイグゼンプトのようだ。日本は課長クラスからようやく残業手当を払わず,ここに大きな違いがあることに注意してほしい。なお,対象時点がやや古いと思われようが,ていねいな研究を重んじるかぎり,ここ2,3年の資料はまず表にでない。もっともこうしたサラリーの構造はあまり変動しないようだが。
 その論文によれば,このイグゼンプト層の査定はAからEの5段階査定で日本と変わらないが,日本と大違いなのは95%以上がBとCであることだ。他方,日本は人事部のガイドラインがあり,AからEまでたとえば10,20,40,20,10%などの分布の標準が示され,それから大きくははずれないようだ。こうした状況への誤解が日本ではつよすぎる。そのことを一瞥するために米ホワイトカラーのサラリーを簡単にみておく。
 まず日本でよく誤解されるのと大違いで,仕事給では断じてない。仕事給とは電車の運転手30万円,車掌25万円など仕事に応じ査定もなく定期昇給もない方式である。上手下手への報酬がないことをよく承知していただきたい(このことを日本の人事労働の方はどうしてかあまりご存じないようだ)。
 もちろん出来高で差をつける方式はある。しかしそれでは品質がもたない。日本でも品質を重視した第二次大戦後は,出来高制度は急速に姿を消していった。つまり仕事給とはおおまかにいえば,品質を気にしないでよく,上手下手の差があまりでない簡単な作業に対して払う仕組みなのである。いまの日本でいえば,多くのアルバイトやパートの方たちに支払う方式である。
 日本でいえば大卒ホワイトカラーにあたる層のサラリーは,米企業でも社会資格給(pay-for-job grade)である。社内資格(job gradeあるいはpay gradeともいう)とは,まずは日本で悪名高い,かの職能資格そのものといってよい。日本企業なら社員1級,2級,3級など年功制度として非難されることのみ多かった方式である。社内資格とは他社に通用せず,その会社内のみで通用し,他方,社内では分野を通じ,あるていど仕事のレベルを反映している。そして勤続を積んだだけれは,上の社内資格には昇給しない。相当の役職に昇進しないと昇給がとまる。それは米企業でも日本企業でも変わらない。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.35-36

個人スポーツ

それに,いいふるされたことだが,もともと日本人の愛好するスポーツは,わたくしの知るかぎりチームスポーツではなく,ほとんど個人スポーツのようにおもう。剣道,柔道,相撲などであって,江戸後期,いったいサッカーやラグビーのようなチームスポーツが愛好されたのであろうか。剣道,柔道の団体戦,駅伝といっても個人戦の連続であって,はたしてチームプレイといえるのであろうか。

小池和男 (2009). 日本産業社会の「神話」:経済自虐史観をただす 日本経済新聞出版社 pp.24

家庭環境

第2原則(共有環境の希少性)と第3原則(非共有環境の優位性)が示唆するのは,1つの家庭が行動の一般的特性の学習の場として均質でもなければ,家庭以外の状況と比べて優位でもないことである。パーソナリティの形成に関して,たとえば外向的あるいは神経質な行動傾向を,家族成員が等しく学習できる機会が家庭内で与えられているわけではない。それは「外向的あるいは神経質な行動」というものが手続き的な知識や技能として,一般的なかたちで学習されるようなシステマティックな環境がないことを意味する。仮に学習され得る手続き的知識や技能として「外向的行動」が表れるとすれば,それはかなり特殊状況(特定の対人関係や問題解決の場面)であり,また個人に特殊(たまたま問題に直面した子どもに対して)なかたちで与えられ,同居する親やきょうだいの行動を見て学ぶというような観察学習に依存するのではないかと考えられる(Jang, 2005)。しかし認知能力に関してはそうではなく,それが一般的な手続き的知識やスキルとして,家族に明示的に,あるいは観察学習を通じて家庭のなかで伝達されている。それはすでに認知心理学や学習心理学で示されてきた効率的な問題解決や知識獲得をうながすメタ認知スキルの具体的教示や,間接的にそれを支える文化的環境(知的なメディアや会話の質や量など),あるいは親自身の知的態度などを通じて学習され得る領域と思われる。

安藤寿康 (2011). 認知の個人差と遺伝 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.103-129

ポリジーンモデル

おそらく一般的な遺伝子に関する理解は,パーキンソン病の遺伝子,モノアミン酸オキシダーゼ分解酵素遺伝子などのように,個々の遺伝子がそれぞれ特定の機能を有する,いわば分解酵素遺伝子などのように,個々の遺伝子がそれぞれ特定の機能を有する,いわば固有名詞化された単位であろう。ポリジーンを構成する遺伝子も,その1つひとつはそれぞれに特定の機能を有するものである。しかしポリジーンモデルにおいては,個々の機能が何かということは考慮されず,すべてが等しくある量的形質に関与する匿名化された集合体として考える。たとえば身長という量的形質は,大腿骨の長さ,脊椎や頚椎の1つひとつの大きさや全体の並び具合など,たくさんの個別要素の総和であり,それぞれに複数の遺伝子が関与していると考えられる。もちろん実際には個々の遺伝子が身長に寄与する量的な程度も質的機能もそれぞれに異なるはずだが,モデルとしては量的な効果についてそれらを平均化して,同義性を持つと考える。ちょうどオーケストラにおけるバイオリンパートが,1人ひとりは個性を持ったバイオリニストの音でありながら,個人は匿名化され1人ひとりの音質や大きさは平均化されて,全体としての和が意味を持つのに似ている。

安藤寿康 (2011). 認知の個人差と遺伝 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.103-129

遺伝的分散の存在

ここで「ある形質が遺伝する」ということは,その形質に関する遺伝的分散が存在することを意味する。つまりTurkheimerの行動遺伝学の第1原則によれば,人間行動のあらゆる形質に遺伝的分散が存在する。この問題は,自然淘汰による進化の原則と並べて考えた時に複雑な疑問をもたらす。なぜなら,先に述べたように,自然淘汰は適応に関する形質について遺伝的に均質な集団(遺伝的分散のない集団)をつくり出すプロセスだからである。もしある形質に関する遺伝的分散が見られるならば,まだ自然淘汰による適応が生じていないのか,または自然淘汰の対象とならない適応度の差がない分散であることが示唆される(Fisher, 1930)。

平石 界 (2011). 認知の個人差の進化心理学的意味 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.76-102

背景要因

進化の視点から人間行動を研究する進化心理学や人間行動生態学であるが,それらの分野において個人差の問題はあまり取り扱われてこなかった。その背景をBuss(2009)は2つ挙げている。
 第1に,個人差を説明予測する強力な進化理論が存在しなかったことがあげられる。実際,動物行動への進化的説明を与える最適採餌理論,性淘汰理論,血縁淘汰理論,互恵的利他主義の理論といった強力な処理論と比べた時に,後述の頻度依存淘汰の理論をのぞき,個人差(個体差)を扱う理論は,少なかったといえる。
 第2に,自然淘汰は適応形質について遺伝的に均質な集団を生み出すものであるという先述の原理から,逆説的に,集団内に維持されている遺伝的な変異は,適応上たいして重要な意味を持たないとするとらえ方があったためである(Tooby & Cosmides, 1990)。

平石 界 (2011). 認知の個人差の進化心理学的意味 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.76-102

個人差を考慮する

個人差を問題にするもう1つの大きな理由は,個人差を検討することによって,イメージに関するより洗練された理論やモデルに到達できる可能性があるからである。個人差を研究のための主要な変数としない場合,個人差によるデータの変動は平均化によって相殺するか,あるいは誤差とみなして処理するような方法がとられる。この結果得られるのは,「平均」的なイメージ処理過程に関する知見ということになる。他の認知機能と同様,イメージの特性や機能も複数の下位過程によって実現されている(Kosslyn, 1980, 1994)。したがって,もし,ある下位過程のはたらき方の違いが個人差を生じさせるのだとすると,上述のような平均化によって得られた処理過程には,この下位過程の存在が十分には反映されていないことになる。前述したように,イメージにはきわめて大きな個人差がある。つまり,個人差を生じさせるような下位過程が,イメージ処理過程全体に占めるウェイトが大きいということである。したがって,個人差を積極的に研究することで,より精巧なイメージ理論の構築も可能になると期待される(菱谷, 1984)。

菱谷晋介 (2011). イメージ能力の個人差 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.52-75

情動知能の人気の理由

では,情動的知性はなぜこんなにも人気があるのだろうか?その背景には,以下のような理由があげられるだろう。

 (1)情動を重視するような時代精神と文化があった。
 (2)情動的知性は,職場,教育現場,社会などの応用場面で重要な役割を果たしているといわれている。
 (3)情動的知性には,一般的な知能(IQ)よりも平等主義的で,平等的社会への希望を抱かせるというような信仰がある。
 (4)情動的知性は,IQよりも変容しやすく,訓練可能であると考えられている。
 (5)IQに対して反感が持たれていた。

 このような理由を背景に,情動的知性は広く人々のなかに浸透していき,その結果,さまざまな分野に応用されている。

Gerald Matthews 小松左穂子(訳) (2011). 情動性知性と知能 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.26-51

局所優先的

もし場依存性と大域優先性が共通のメカニズムに基づいているとすれば,健常者だけでなく,臨床データでも場依存性と大域優先制は同じようなふるまいをすると考えられる。すでに述べたように,健常者では一般に大域処理が局所処理よりも優勢である。そして,その対極にあるのが自閉症患者である。Frith(1989)によれば,自閉症患者は,統合的一貫性(central coherence)が弱いという。通常,私たちは文脈のなかに入力情報を位置づけ,統合しようという傾向がある。ところが,自閉症患者はその傾向が弱く,情報は断片のまま処理する。統合的一貫性が弱いということは,Witkinらの言葉を借りれば場独立的であり,Navonらの言葉を借りれば,局所優先的だということになる。この傾向は自閉症だけでなく,知的障害のない,あるいは知的障害のほとんどない自閉症であるアスペルガー症候群にも認められる。

箱田裕司・小松左穂子 (2011). 認知の個人差の理論 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.2-25

自分で考えるのは死ぬほどイヤ

大勢の人間は自分の意見を通そうとしてケンカから戦争までする。しかし最も基本的なことを考えるのは面倒臭いから政府や教育機関に任せてしまう。人は,他の人を殺してまで自分の考えを主張するが,自分で考えるのは死ぬほどイヤなのだ。親は学校の性教育の内容に関して文句を言うが,自分で子供に性に関して教えることはしない。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.303

主観による世界観

聖典の解釈に客観性を持ってきた宗教は科学的に見える。少なくとも理論的には見える。最近私の知人が「イスラム教はとっても科学的だ」と言ってきたので,非常に驚いた。証人たちも「組織の真理は科学的だ」と同じことを言う。イスラム教の何が科学的なのか聞いてみたら,「答えは明確に全てコーランに書いてあるからだ」と言う。でもその本にそう書いてあるから,というのは科学的な根拠でもなんでもない。ただそう書いてあるだけで神聖さの証にはならない。
 しかし,人間は根拠のないことでも分厚い本に書かれると,「根拠があるに違いない」という錯覚を持つ。私の本だってペラペラのものよりは,辞書のように分厚い方が信憑性が増すだろう。多くのビジネスマンが投資とかで詐欺にやられるのも同じ理由だ。紙一枚だと信じなかっただろうが,分厚い決算書やアナリストのレポートを渡されると信憑性が増す。みんなが揃って分厚い資料にダマサれたのはエンロンやサブプライム問題が表している。
 「地底世界を発見した」「UFOに拉致された」「悪霊に襲われた」「金星からやってきた」。どんなに突拍子もない発言もその人にとっては真実である。聖書が正しいと信じればその世界をその色眼鏡で見る。すべての主観による世界観でしかない。エネルギーは意識を傾けたところに集中して実体化する。だからサタンを信じれば,サタンのような現実が実体化する。少なくとも信じている者には,体験がリアルとなる。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.255-256

だったら

証人たちは,国々の政府はサタンの手先であると信じている。なぜならこの世の支配者の頂点がサタンだからだ。ところが同時に,反対のことを唱える。政府はハルマゲドンが来るまでは一時的に,秩序を保つためにエホバから権限を与えられている。だから教義が対立する場合をのぞいては,全面的に政府に従順であれとする。大きな矛盾である。サタンの手先である政府の指針にそって,従順で模範的な市民になれと言うのだ。
 だから証人たちは政府に逆らうデモ活動は行わない。さらにこれを拡大解釈すると,企業に対するストライキも参加してはいけないという。だから証人たちは,組合運動には参加しないため,仕事を得られないことがしばしばある。この調子だから証人たちは世の革命家を鼻で笑う。ガンジー,マンデラ,マーチン・ルーサー・キングがどう頑張ろうが,「政府に対する反抗でしょ」で片付ける。私が個人的に呆れたのはマルコムXの話である。私は彼の映画が好きだったので,その話を黒人の兄弟にした。すると彼が「そんな反抗的な人の映画を観ない方がいいよ」と軽蔑したように答える。私は言いたかった。
 「だったら奴隷になれ。おまえは彼の恩恵で今自由に伝道してるんだぞ」

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.233-234

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