忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

道徳基準

今であれば言えるのだが,実はギリシャ語聖書には同性愛を断罪する聖句がない。少なくともイエスは一切言及していない。イエスが常にヨハネと寄り添っていたので,2人はゲイだったと主張するリベラル派もいるくらいだ。パウロがローマの書で同性愛行為に対して言及している。しかしそれは行為そのものでなく,神殿男娼(異教徒宗教そのもの)を糾弾しているだけであるという見方もある。
 ヘブライ語聖書では同性愛は死刑だとある。しかしイエスの新しい立法の後もモーセの古い立法は有効なのか?という議論がある。もしモーセの立法の規則をそのまま当てはめるべきだというのであれば,反抗的な子供は皆,石打ちの刑にされないといけない。浮気をした人も同様に死刑だ。また,月経の女性は穢れているので7日間,人と接触してはならない。そして当然豚肉は食べてはならない。果たしてすべてのクリスチャンはそうしているのだろうか?ヘブライ語聖書の細かい規定に照らし合わせれば,我々は全て死刑に処せられるべきだ。
 ちなみにタイなどの多神教ベースの国ではゲイが多い。多神教の日本でも戦国時代の名だたる将軍たちはバイセクシャルであった。日本で同性愛行為が異常だと見なされるようになったのは,明治維新後に黒船とキリスト教が入ってきてからである。現在の結婚,婚前交渉,性道徳に関するモラルはこの時に一神教の影響を受けたものである。日本ではもともと祭りなどでお寺での乱交があたりまえであった。
 キリスト教は一夫一婦制を厳しく定めている。しかしヘブライ語聖書の登場人物は皆,好きなように複数の異性と関係を持っていた。ソロモンは1000人の女性を囲ってハーレムをつくっていた。クリスチャンと聖書の提唱する道徳基準には,大きな隔たりがある。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.215-216
PR

強制的な輸血

証人たちからすると,強制的な輸血は身体的なレイプと同じである。だから信者が意識から回復して強制的に輸血をされたと知ると,大きなショックと怒りと悲しみを感じる。これが原因で信者が病院を訴訟したケースは数多くある。読者からすると,狂った人に思えるかもしれないが,世の中には大義のためになら死を厭わない人がいるのだ。自殺テロを志願するイスラム教徒がそうだし,戦時中であれば特攻を志願した勇士もそうだ。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.205

本心から

日本では,オウムの事件があってから宗教団体に対する警戒心が強くなった。それで,いかに宗教色を消して伝道するかが課題であった。ここで説明しておくと,証人たちは自分が宗教をやっているとは本気で思っていない。宗教はサタンのまやかしの道具であって,自分たちはそういう宗教とは一線を引いていると信じている。ではなんなのか?と聞かれると,「聖書を勉強しているだけです」と言う。これは営業トークでもなんでもなく,本心からそう思っているのだ。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.188

共通要素

両者には共通した宗教特有の3つの要素が含まれている。

 1.絶対性(これが絶対の宗教・商品よ!)
 2.純粋性(私たちの教義・商品以外は信用できない!)
 3.選民性(私たちの教団・商品は選ばれている!)

 極端に言えば,ナチスもこの3つの要素を持っている。自分たちによるヨーロッパ支配は絶対に必要,ゲルマン族の血は純粋である,ゆえに自分たちは統治する権利がある。程度を軽くすればマーケティングにおけるブランディング方法もこの方法にのっとっている。この商品は絶対に必要で,ブランドには歴史があり,これを持っている人は選ばれた人たちとなる。
 そしてこの3つの法則に加えて,宗教とマルチには4つ目の条件が備わる。

 4.布教性(弟子をつくろう!)

 つまり「自分たちはこの真理・商品を広めて,弟子をつくっていきましょう」ということ。ただ受け入れるだけではなく,それをさらに広める人を自分の下につけていかないといけない。この4つの点で,私はマルチは証人と変わらないと思った。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.181-182

不道徳な人が創る音楽

この音楽に関して,私を非常に悩ますもう1つの事柄があった。証人たちにとってゲイは不道徳の最たるものである。だからそんな不道徳な人が創る音楽は,不道徳である,というレッテルを貼られる。また歌詞も,クリスチャンから見て不適切な内容になるので罪になるという。困ったことに,私が大好きだったエレクトロ音楽の多くは,ゲイ・アーティストによるものだった。しかし私にはどうしても,ペット・ショップ・ボーイズ,ジョージ・マイケル,ボーイ・ジョージの音楽がサタンのものだとは思えなかった。そこで,こういう音楽を好む自分は,霊的でないのではなかろうか,とかなり深く悩むハメになる。自分の嗜好や感性に問題があると思い込まされてきた。
 組織の幹部は,クラシックのような健全な音楽を聴きなさいと言っていた。しかし私には,これも謎であった。私の知っている限り,モーツァルトは女好きで不道徳であった。ゲイはダメだけど,女にだらしないモーツァルトの作曲する音楽は良しとする理屈が分からなかった。しかし,こういったことが次第に私の中に大きな葛藤をもたらすようになった。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.179-180

真理,真実,本当の答え

一番の問題は,自分たち自身が,外からそう見られていることに気づいていないことだ。だから私には分かる。洗脳されている側には,「洗脳されている」という自覚が全くない。他のカルト教団を見て,「自分たちはカルト教団でなくてよかった」と強く思うのだ。鏡を見て我が身を直せという言葉はカルト教団には通用しない。鏡を見てもうっとりするだけなのだ。興味深いことに,エホバの証人もオウム真理教も「真理」という言葉を使っている。「真理,真実,本当の答え」といった言葉を使う団体は,宗教にかかわらず,ビジネス・セミナーでも,自己啓発本でも,臭いと思った方がいい。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.142-143

広告塔

フェアに言うと,ものみの塔は有名人である信者を看板に使わないという態度を貫いている。有名人ではなく聖書で人に関心を持ってもらうべきだという姿勢だ。組織はどの著名人が証人になったかは告知しない。だから,どの有名人が証人になったのかを確実に確かめる方法は,実際に会わない限りない。それとは反対に,多くのミュージシャンが属していると噂される教団は有名人を看板に立てている。私の知り合いのセレブが教えてくれた。
 「のりちゃん,あそこの教団の人からお金をあげるから広告塔にならないか,って連絡がきたよ」
 どちらの教団がいいか議論をするつもりはさらさらないが,どちらがピュアかは言えると思う。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.139-140

訪問拒否

元信者の立場として言えば,証人たちが家に来ることや記録をつけること自体に害はない。別に高いツボを売りつけにくるわけでもないし,強引に勧誘してくることもない。また,個人情報がよその業者に売り渡されることもない。だから彼らの伝道活動を恐れる必要はない。ただし,自分の身内が聖書研究を始めてしまったらそれは問題になる。外にいれば害のない人たちだが,自分の家庭に入り込まれると様々な問題が起きる。それに関してはこの本で語っている通りである。
 もし絶対に証人たちに家に来てほしくなければ,「訪問拒否にしてくれ」とキツイ態度で直接強く言うといい。すると区域カードに「訪問拒否」と記録される。すると1年は家にやってこない。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.109

会話パターン

この頃から母親は映画でもテレビでもいちゃもんをつけるようになった。何を見ていても横で捨て台詞を吐いていく。例えば戦争映画を見ればこう言う。
 「この人たちは,聖書を知らないからこうなるのよ」
 「暴力はクリスチャンらしくないわ」
 「どうせ楽園がこないと,解決されないのよ」
 私が「だって映画じゃん」というと,「やっぱり世の娯楽はね……」で終わる。
 実際問題,証人である母親たちの会話は投げやりだ。どんな問題でも全て楽園か,サタンか,ハルマゲドンの3つの言葉で片付けてしまう。
 政治問題であれば,「結局サタンの支配だからね」。
 戦争報道を聞けば,「楽園がこないと解決しないのよ」。
 環境問題であれば,「どうせハルマゲドンが来るからね」。
 経済格差であれば,「楽園じゃないと無理よ」。
 こんな調子で全ての問題を安易に片付ける。そして最後に,同じ調子でこう言う。
 「どうせ全ての娯楽は,サタンの産業が作り出すのだから,何も見ない方がいいわ」

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.68-69

妥協なし

日本人的な「郷に入れば郷に従え」といった考え方は一神教には通用しない。神の言葉に対して妥協があってはいけないのである。一神教の強い西洋人から見れば,日本人は宗教的に節操のない国民だ。逆に日本人から見れば「なんでイスラムもキリストもそんなに頑固なんだ?」という話になる。私の母親の「クリスチャンだからできないルール」は親族に一種の緊張感をもたらした。
 しかし広島の地元の会衆の兄弟姉妹たちは母親をこう言って励ます。
 「佐藤姉妹,信仰が試されているのよ!」
 「そうよ,サタンが親族を用いて邪魔をしているのよ」
 こうして証人たちは仲間からの後ろ盾を得て,家族内分裂を推し進めていく。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.63-64

いい加減で緩い

もし道をゆっくりと歩く年配の女性が2人いたら,それは間違いなくエホバの証人である。通常は伝道スタイルと言われる日よけの帽子をかぶっている。80年当時は,創価学会も同じように熱心に布教活動をしていたので,創価学会と証人たちが道でいがみあったというエピソードが残っている。もっとも証人たちからすれば,「そうかがっかり会」はサタンに惑わされている新興宗教だという見方になる。
 他に熱心に伝道をしているのはモルモン教徒である。彼らも聖句を適用して足から足で布教活動をするべきだと信じている。だから車は使わずに自転車を使っている。もし2名の若い男性が白いシャツと黒いズボンで自転車に乗っていたら,それはモルモンだ。日本でも,通常は白人の伝道者が自転車に乗っている。モルモンの場合は,すべての信者にこの伝道活動が課せられているわけではない。だから証人たちの意見では,「モルモンもいいかげんで緩い」ということになる。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.52

叩く

こういった光景は日常的であった。日本の会衆ではムチ用にゴムホースが会衆に置かれていたところもあった。この懲らしめも子供を愛していればこそである。箴言22章15節の聖句には,『愚かさが少年の心につながれている。懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す』と書いてある。さらに,箴言13章24節では『むち棒を控える者はその子を憎んでいるのであり,子を愛する者は懲らしめをもって子を捜し求める』と宣言している。
 だから子供を叩かない親は,「子を愛していないわよ」と姉妹たちから諭される。子供が叩かれると,集会の終わりに姉妹たちが嬉しそうにその母親のもとにやってくる。
 過去にはこの体罰が過度に行われて,子供が病院に運ばれて問題になったケースもある。しかし全ては神と自分の子を愛するがゆえに起きたこととされている。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.42-43

宗教の多様性

アメリカでは,エホバの証人の歴史が長く社会的にも知られていた。だから,先生たちもこういった事態には自然に対応していた。エホバの証人にかぎらず,アメリカでは様々な宗教の人が独自のルールを持っている。ユダヤ教徒はイエスの誕生日は当然祝わないが,ハヌカという独自の休みは取る。またイスラム教徒と同様に,豚肉を食べない。ゆえに日本みたいに,エホバの証人の規則が学校と正面からぶつかることはなかった。それでも子供ながらに普通にみんなとパーティーをできないのは寂しかった。でも子供だったので,それ以上考えることはなかった。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.38

聖書の真理

母親は聖書研究を始めたので,地元の教会の神父さんに褒められるだろうと思って話をした。
 「最近エホバの証人と聖書のお勉強をしているんですよ」
 すると神父さんとシスターの顔つきが険しくなった。「エホバの証人とは!」といった顔だった。それを見て母親は司会者に報告した。
 「エホバの証人の名前を出しただけであの人たち,サタンみたいな怖い顔をしたのよ」
 すると宇野さんはとても嬉しそうに興奮して言った。
 「そうでしょ!だってあの人たちは聖書の真理を持っていないんだから。カトリックは自分たちが聖書の何も知らないことを暴露されたくないの。ちゃんと聖書を研究して理解しているのは証人たちだけだから怒るのよ!これが他の教会とのお勉強だったら彼らもそこまで怒らないわ。だって脅威にならないから」
 確かにそうだ。聖書に書いてある「エホバ」という名前を出すだけで,あの神父は険しい顔をしたのだから。たぶん,彼らは本当にサタンに惑わされている教団かもしれない。母親は証人たちこそが真理を持っているという確信を強めた。そして,週に1度の研究を2度に増やしてくれと頼んだ。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.33

カルトは大変だな

最初は,自分がカルト教団に属しているとは夢にも思っていなかった。1995年のオウムの地下鉄サリン報道があった時も「カルトは大変だな」と思ったぐらいだ。証人たちは聖書の預言にある偽キリストが出てきたと言って騒いでいた。
 「私たちは真の宗教だけど,世の人からオウムと一緒にされなければいいね」
 「サタンも,人間を惑わすのに必死ね」
 「ハルマゲドンが近いと,こういう危険なカルト教団が増えますね」
 「みんな,あんなに出家して。ニュース見てやめようと思わないのかしら」
 「私たちは,エホバと組織に守られているからよかった」
 証人たちは神の真の組織に属しており,真理を持っていると信じて疑わなかった。そして,サタンの罠であるカルト教団から身を守ってくれる組織に感謝した。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.13-14

ネットの世界

ある意味でインターネットも,他の電子コミュニケーションと同じように,空間を狭くするという現象を生じさせる。私たちは実際の距離をまったく気にすることなく,キーボードを叩くだけで,南アフリカの国立公園でひなたぼっこ中のライオンのライブ映像を見ることができるのだ。
 実のところ,クリックをくり返しながらウェブサイトからウェブサイトへと飛んでいく行為には,私たちが頭の中で空間をどう処理しているかが映し出されている。インターネット上の各サイトは,位相の中のノードとして互いにつながっている。私たちがリンク先をクリックするさい,ふつうは見ているサイトの出所がどの方向で,どのくらいの距離が離れたところにあるのかまったくわからないし,それを気にすることもない。これは日常生活の中であちこち移動しているさい,空間の形状をシンプルな位相に還元してしまう私たちの性質の極端な例だ。

コリン・エラード 渡会圭子(訳) (2010). イマココ:渡り鳥からグーグル・アースまで,空間認知の科学 早川書房 pp.239-240

都市のパターン

1000年以上かけてゆっくりと形成された都市には,都市空間が人間の頭の中身を反映する鏡であることを示すおもしろい共通点がある。ヒリアーのグループは,たいていの都市が同じような形に成長することに気づき,その形を「ゆがんだ車輪」と呼んだ。都市の核である中心地と辺縁地域が何本ものスポークでつながったような形で,統合計数が大きい。このパターンはロンドン,ローマ,東京などでは一目瞭然であり,少し細かく調べると,すべての都市で見られる現象だ。

コリン・エラード 渡会圭子(訳) (2010). イマココ:渡り鳥からグーグル・アースまで,空間認知の科学 早川書房 pp.214

5つの要素

パスは人々が通常,ある場所から別の場所へと移動するときに使っている線的なルートのことだ。ノードは人々が集まるところ,何かが起こっている場所,リージョンは,ソーホー,ビーコンヒル,アネックスなど,街の中でひとつの区切られたまとまりとみなされる場所である。バウンダリーは線状の要素ではあるが,パスとして使われるのではなく,湖や川の縁,フリーウェー,鉄道の線路などを指す。最後にランドマークについては前に見たとおり,都市のなかのある場所の意味,使い方,気分を象徴するものであったり,街の多くの場所から見えて道案内の役に立つ大きな建造物(シドニーのオペラハウスやマンハッタンのエンパイア・ステート・ビルなど)であったりする。
 都市のちがいはおもに,これら5つの要素のイメージしやすさのレベルのちがいであるとリンチは主張する。そのうえで都市計画のためのツールを使えば,都市をイメージしやすくできるし,ツールはそのような使い方をされるべきだと述べている。都市の要素がどの程度イメージしやすいかの判断あ医療は,リンチが歩いている人に頼んで描いてもらった街の地図に,それらが登場する頻度だった。リンチが選んだ3つの都市にある多くの特徴は,どれもイメージしやすいことが示されたが,街の人々が描いた地図は計量的にはまったく不正確だった。位相的には正確なのだが,距離についてはめちゃくちゃで,とくにイメージしやすい要素が頭の中で拡大されていることがうかがえた。

コリン・エラード 渡会圭子(訳) (2010). イマココ:渡り鳥からグーグル・アースまで,空間認知の科学 早川書房 pp.200-201

時間という糊

自意識に不可欠な要素は(この自意識とは,ティーンエージャーのぎこちなく頼りない自意識ではない。原因因子,つまり物事を起こせる存在としての自分を客観的に見られるということだ)空間を抽象化する能力である。自分の体の外にある視点に立つことができなければ,自分の目や耳で確認できないところで,物理的な世界が維持されていることを理解することもできないし,自分の体がその世界の中にいるときとのちがいもわからない。自分が実際その中にいる世界と,いない世界のちがいを理解することこそ,人としてのアイデンティティの核心である。
 自分を中心とした視点からではなく,客観的な視点から空間を見る能力がないと(つまり自分がいなくても世界は回るということをわかっていないと),時間の経過についても理解しているとはいえない。心理学的には,時間は動きと密接に結びついている。地平線は未来のどこかを表わし,振り返ればそこに遠い過去からこれまでの道のりがある。時間の概念がなければ,自分もまた個人としての歴史を持つ永続的な存在であると考えるのは難しい。自分のそれまでの経験をひとつの個人史としてまとめられるのは,時間という糊だけなのだ。

コリン・エラード 渡会圭子(訳) (2010). イマココ:渡り鳥からグーグル・アースまで,空間認知の科学 早川書房 pp.133-134

三つ山課題

近代発達心理学の祖ともいえるジャン・ピアジェは,三つ山課題という実験を考案した。子供に3つの山のある風景の三次元模型を見せ,他のところから山がどのように見えるかを尋ねる。たとえば「君の正面に座っている子には,どのような物が見えているだろう?」と尋ねる。ピアジェはこの作業が,特定の発達段階に達する前の子供にはひどく困難なものであることを発見した。現実的な意味で,子供たちは自分の視点に閉じ込められているのだ。年長の子供になると大人に近づいて,他の場所からの視点を取り入れられるようになる。
 私からすると,幼い子供がこの三つ山課題を「できない」ことではなく,大人にはそれが「できる」ことのほうがおどろきである。これはつまり,私たちは物理的な空間という限界から飛び出せるようになったということに他ならない。私の体はパソコンの前のこの椅子に固定されていても,私の頭の中身は廊下を通ってキッチンへ行ったり,道路へ出て海岸に行ったり,空の高いところから地上を見下ろしたりできるのだ。そしてそれぞれの視点から見える光景の中で,自分の「体」がどこにあるのか,だいたいの場所を判断することができるのだ。

コリン・エラード 渡会圭子(訳) (2010). イマココ:渡り鳥からグーグル・アースまで,空間認知の科学 早川書房 pp.132-133

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]