忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

アラスカ購入

カナダ誕生を急がせたもう1つの要因は,アメリカによるアラスカ購入だった。1867年3月30日,ワシントンの国務省でアメリカ国務長官シュワードとロシアの在ワシントン行使ドゥ・ストッケルとが,720万ドルでのアラスカ委譲に関する露米条約を締結する(Farrar, 1966, p.53)。売却を持ちかけたのはアメリカではなくロシア側だった。ラッコが絶滅に瀕したアラスカは,「吸い尽くされたオレンジのような」無用の長物と化していた(Gibson, 1987, pp.271-294)。露米会社も,政府から多額の助成金を受けてもなお60年代半ばには1000万ルーブル以上の負債を抱え,株価も急落していた。ロシアはクリミア戦争敗北の屈辱に加え,イギリスがアヘン戦争,南京条約,香港割譲で中国市場さえ奪取することを恐れていた。皇帝アレクサンドル2世の実弟で,帝国膨張論の主導者コンスタンチン大公でさえ,アラスカを捨ててでもアムール川流域と沿岸州に,太平洋帝国の全力を傾注すべきと唱えるようになる。アラスカをアメリカ領にすれば,南北をアメリカ領に挟まれた形となるカナダは早晩アメリカに併合され,ロシアは高慢なイギリスの鼻をあかすことができるはずだった。イギリスとカナダが大陸横断版図の確立を急いだのは当然だったろう。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.210-211
PR

人口激減

毛皮交易がもたらした害悪として,銃器,アルコール,タバコの他に,性病や伝染病をあげなくてはならない。性病は1778年のクック隊により,タヒチ,ハワイ,ヌートカ,さらにアラスカ半島西端のウナラスカ島にまで拡大された。1792年にヌートカ湾に上陸したスペイン人は,「先住民はすでに恐るべき梅毒の蔓延を経験し始めている」と記している。1820年ともなれば,ハドソン湾会社のフォート・ジョージでは,10人中9人の従業員が梅毒の水銀治療を受けており,「一夜のヴィーナスは,3年間の水銀」なる警句が生まれた(Merk, 1931, p.99)。部族間戦争による死亡率も,銃器のために増大した。ヌートカ湾でのインディアン人口は,これらの理由のため,1788年の3000−4000人から,1804年には1500人に減少している。しかし最大の被害をもたらした疾病は,内陸でと同様,周期的に沿岸各地を襲う天然痘だった。最初の感染源は恐らくスペイン船で,1792年にジョージ・ヴァンクーヴァーは,ピュージェット湾とジョージア海峡で,天然痘のため廃墟と化した多くの村落を目撃している。1795年にはハイダ族に天然痘が蔓延し,人口の3分の2が死亡した。チヌーク族にも,1776−78年,1801−02年に天然痘が広がっている。白人がもっとも恐れた屈強なトリンギット族でさえ,1835年11月にシトカから広がった天然痘で,人口が1万人から6000人まで減少してしまい,ロシア人士官によると「哀れな連中は,ハエが落ちるように死んでいった」。伝染病,銃器,アルコールなどのため,北米太平洋岸のインディアン人口は1774年の18.8万人から,1874年までの100年間で3.8万人にまで激減したと推計される。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.131-132

乱獲

クックの到来からしばらくの間,ラッコはきわめて豊富だった。1780年代後半には1シーズン(3−8月)で2500枚のラッコを入手するのは容易で,87年にあるアメリカ船は,クイーン・シャーロット諸島で半時間で300枚を入手している。92年にはアメリカの交易船数は7隻に増え,1801年には20隻のピークに達した。前出の図15が示すように,以後のアメリカ船の来航数は5−13隻の間を上下し,1830年代にはほぼ消滅している。アメリカによる最初の交易参入からわずか13年での「急激なラッシュと,迅速なピーク」がラッコ交易の顕著な特徴であり,原因は何よりもラッコの乱獲と,毛皮価格の上昇(交易船の利潤減少)にあった。ラッコは年に1頭しか出産せず,クロテンやビーヴァーよりも繁殖率が低い。母ラッコは,子供が猟の犠牲になってもそばを離れようとせず,母子ともに捕獲されることが多かった。露米会社に使役されたアリュート族やコディアック族が,ラッコ猟にきわめて巧みだったことも,ラッコの急速な減少を招いた。アメリカ船が広州へ持ち込むラッコ毛皮は,1820年に4000枚,31年には750枚に激減する。資源の枯渇と毛皮価格の上昇のため,交易に参加できるのは資本力と経験のある2,3の会社に限定されるようになり,すでに1807年にはボストンのパーキンス社Thomas S. Perkins & Companyがアメリカによる交易を支配するようになっていた。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.127-128

ラッコ激減

東インド会社の中国貿易独占権はようやく1834年に廃止されたが,毛皮貿易についてはもはや手遅れだった。当時までにラッコは激減し,毛皮交易はかつての高利潤を生み出せなくなっていたからである。対仏戦争と第二次英米戦争(1812年戦争)によるイギリス商業とヨーロッパ市場の混乱,そしてハドソン湾会社とノースウェスト会社が相互の競争に勢力を消耗したことで,イギリスは短いラッコ交易の最盛期を逸した。クック艦隊の情報により広州での毛皮貿易に先鞭をつけ,1790年代初めに沿岸毛皮交易を最初のピークに引き上げたにもかかわらず,イギリスは結局アメリカの手にラッコ交易を譲ってしまう。ヌートカ湾紛争でと同様,ラッコ交易でもアメリカが「漁夫の利」をえたのである(Williams, 1966, pp.181-184)。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.120

中国で売る

前述のように,中国市場でのラッコ毛皮の価値を世界に知らしめたのは,キャプテン・クックの第三次航海だった。クックの驚異的な大航海の意義は,イギリス帝国史のなかでもっと重視されるべきだが,ここではそのごく一部にしか触れえない。1778年にクックのリゾリューション号とディスカヴァリー号は,ヴァンクーヴァー島の西岸ヌートカ湾に1カ月滞在した。船員たちは滞在中に先住民から,ラッコの毛皮を何枚か,1シリングほどの金物と交換で入手した。翌年末に,クックを失った探検隊が広州へ寄港した際,彼らはラッコの毛皮が途方もない高値(90ポンド)で売れるのに驚かされた。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.116

ロシアの進出

ラッコはもともとカムチャッカ半島沿岸に多数生息していたが,中国市場で高価に売れることが判明して以来,乱獲のため半島部では急減していた。ロシアは新たなラッコ生息地を求め,一方ではクリル(千島)列島から蝦夷へ,他方ではアリューシャン諸島からベーリング海峡を渡ってアラスカへ進出し始める。彼らはアラスカ湾のコディアック島に基地を設け,ここが北米大陸で最初の狩猟基地となった。ロシアが1743−1800年の間に100回以上の航海で取得したラッコ毛皮の販売額は800万銀ルーブル以上にもなり,「柔らかな黄金」としての評価を確立した(Makarova, 1975, pp.209-217)。清朝は1727年のキャフタ条約で,ロシアにバイカル湖の南に位置するキャフタ経由での貿易を許可しており,アラスカで取得された毛皮は中継港オホーツクから陸路でヤクーツクへ,そこから船でレナ川をさかのぼってイルクーツクへ,さらに国境の町キャフタまで4500キロの距離を運ばれ,さらに隊商のラクダの背に乗せられて北京へ送られた(Gibson, 1980, p.221; Lower, 1978, p.33)。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.105-106

男女不均衡

1805年にノースウェスト会社の交易者アレクサンダー・ヘンリーは同社の部局全体について,当時としては貴重な「人口統計」を残した(Gough, ed, 1988-92, I, p.188)。そこでは1090人の交易者に対し,368人の妻と569人の子供が記録されている。統計上の遺漏や,すでに結婚関係を解消した妻子や,その子孫も多かったことを考慮すれば,西部での現地婚の広がりを如実に示す数字であろう。同じ統計では,インディアンの成人女性数が1万6995人なのに対し,男性数は半分以下の7502人となっている。この不均衡が交易者との結婚を促しただけでなく,インディアン女性を「多数で,有利で,過剰な商品」にしていたとジェニファー・ブラウンは書いている(Brown, 1980, p.88)。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.84

現地婚

最後に第4の影響として,「現地婚」の拡大がある。白人交易者と先住民(混血者を含む)女性との間には,双方の合意と社会的な認知にもとづく婚姻関係が広く成立した。民族間の差異や対立を克服した婚姻を通じて,萌芽的な「多民族社会」が生み出されたのであり,これが毛皮交易史のもっともユニークで魅力的な特徴の1つとなっている。2人の女性カナダ人研究者,シルヴィア・ヴァン・カークとジェニファー・ブラウンが突破口を開いてから,毛皮交易の女性史,社会史研究はもっとも豊かな成果を生みだしている。ヴァン・カークによると,「毛皮交易での白人とインディアンは,「文明」と「野蛮」が邂逅した世界のどの地域にもまして,もっとも対等な基板に立っていた」(Van Kirk, 1980, p.9)。初期の毛皮交易会社には白人女性は皆無であり,インディアン女性は生活のパートナーとしてだけでなく,労働力,ガイド,通訳としても有能だった。女たちは自分の出身部族と夫との毛皮交易を媒介する「文化的リエゾン」の役割をも果たしたのである。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.82

伝染病

第2に,アルコールよりはるかに凶暴にインディアンに襲いかかり,ジェノサイド的な猛威を振るったのは,ヨーロッパからの伝染病である。19世紀半ばまで天然痘,麻疹,百日咳などが数度にわたって大流行し,インディアンに破滅的な打撃を与えた。伝染病の影響は時代,地域,部族によって異なる。最初に天然痘が,ヨーロッパ人の内陸進出と符節を合わせ,1781−82年に大流行した。図7が示すように,病原菌は80年に南のミシシッピ川。ミズーリ川を上流へさかのぼって北へ転じ,プレーリーで最初の死者が報告されたのは,81年10月だった。さらに南サスカチュワン川上流に達し,そこから北へ東へと向かった伝染病は,11月には南北サスカチュワン川の合流点,翌月には下流のカンバーランド・ハウスへと広がる。アシニボイン,ブラックフット,クリー族を次々と襲った天然痘は,ヨーロッパ起源の伝染病が無免疫の非ヨーロッパ人に広がった古典的な事例となった。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.77-78

依存関係

内陸部にまで広がった交易網が,たちまちインディアンの交易依存を強めたわけではない。ずっと後の1795年になってさえ,ある交易者は,インディアンが交易やヨーロッパ製品なしでも十分暮らしてゆけることを,率直に記している。17世紀から18世紀を通じ,むしろ交易者の方がインディアンに依存していたのであり,その逆ではなかった。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.58

オーケイディアン

地の果てのハドソン湾で働こうとするイギリス人は少なかったから,初期の労働者の多くは,ロンドンの失業者から引きぬかれている。道徳的な腐敗で悪名高い彼らは,会社が求める規律になじもうとはしなかった。早くも1682年に総督ジョン・ニクソンは本社に宛て,イギリスから送られてくる労働者が大酒飲みの荒くれ者ばかりだと指摘し,堕落に染まっていない純朴な田舎の若者を派遣するよう求めている(HBRS, VIII, p.250)。解決策として導入されたのが,年季奉公制度(アプレンティス)だった。この制度のもとで,14歳ほどの少年が7年後の年季奉公契約を結び,下級労働者としてハドソン湾に送られるようになる。スコットランドの北に浮かぶオークニー諸島が,絶好の労働者供給源となった。零細な漁業と農業に依存していた島の少年たちは,ハドソン湾での過酷な自然と労働によく適応した。「オーケイディアン」と呼ばれた彼らは,やがてハドソン湾で働く労働力の4分の3をも占める最大の民族グループとなる(Van Kirk, 1980, pp.10-11; Williams, 1983, pp.25, 40)。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.51

商売上手

インディアンは交易品の品質を厳しく吟味し,不満があれば取引を拒否してフランス人の交易者に毛皮を持ちこんだ。インディアンに拒否されて銃製造業者に返送された不良品は,1679年に43挺,81年に122挺に達する。このためロンドン委員会は,イギリスの銃製造業者に注文を出す前に,しばしばサンプルの提出を求め,製品には商標を刻印して責任を命じさせている(HBRS, VIII, pp.25, 31, 47)。交易所での在庫が増大すると,長期保存による品質低下が生じ,とりわけ銃の錆と,火薬の劣化は深刻だった(HBRS, XI, p.125; HBRS, XX, p.61)。インディアンからの苦情による返品の無駄を防ぐため,鉄砲職人や鍛冶工が交易所に配置された。英仏どちらの交易品が優秀だったかについては,研究者の間で長い論争がある(Eccles, 1979, pp.429-434)。実際のところ,品質の優劣は製品による差異が大きく,一概にどちらが優秀だったとはいえない。だが火打ち石と火薬は明らかにフランス製が優れており,ハドソン湾会社が外国から輸入する交易品では,火打ち石とブラジル・タバコがもっとも重要だった。毛皮交易におけるインディアンは,英仏間の競争を巧みに利用し,高い品質と有利な交易条件を主張するしたたかな「商売上手」だったのである。彼らがヨーロッパ製品の魅力の前にたちまち屈服したとの通説は,アーサー・レイが強調するように,研究者が作り上げた「神話」にすぎない(Ray, 1980, pp.267-268)。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.38

交易品

インディアンとの交渉の中で,徐々に標準的な交易品となったのは,銃とその付属品,斧,ナイフ,ヤカン,毛布,ブラジル・タバコ,ブランデー,ビーズなどである。タバコ1つをとっても,最初に提供されたのはヴァージニア・タバコだったが,1685年からはフランスの例にならって,ポルトガルから輸入したブラジル・タバコが使われるようになる。ロープ状に巻かれ,独特の香りを持つブラジル・タバコを,インディアンが「魔法の草」として珍重したからである。1708年と15年にポルトガルからの輸入が途絶すると,ハドソン湾会社はオランダ商人を通じ2倍以上の高値でブラジル・タバコを購入している。ブランデーは,オルバニーでは1698年から,ヨークでは1718年から主要な交易品として帳簿に記載され始めた。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.37-38

ファクトリー・システム

彼らとは対照的に,ハドソン湾会社は湾に流れこむ主要河川の河口に恒久的な交易所を建設して交易者を常駐させ,インディアンがカヌーや犬橇で毛皮を運びこむのを待つことに徹しようとした。未知の内陸へ進出するために必要な知識や技能を,イギリス人はまだ持ちあわせていなかった。彼らはビーヴァーの捕獲や皮剥ぎもできず,冬場の壊血病予防策も知らなかった。内陸で不可欠の輸送手段であるカヌーを製作・操縦したり,モカシン靴,ミトン,カンジキなどを作る技術もなく,すべてを現地のインディアンに依存しなくてはならなかった。だとすれば危険を犯して内陸に乗りだすより,常設の交易所を設けて年中いつでもインディアンから毛皮を受け入れられるようにするほうが,危険もコストもずっと小さいと考えられたのである。1682年までにハドソン湾会社は,ルパーツ・ハウス(ルパート川河口)に続いて,ムース・ファクトリー(ムース川河口),オルバニー・ファクトリー(オルバニー川河口),そしてフォート・ネルソン(後にヨーク・ファクトリーと改称,ネルソン川とヘイズ川の合流点)と,4つの交易所を建設し,それぞれに20人から数十人を常駐させてインディアンの来訪を待った。この体制が「ファクトリー・システム」と呼ばれ,同社が本格的に内陸に進出し始める1770年代までほぼ100年間続けられることになる。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.24-25

広大な無償貸与

驚くべきは,ハドソン湾会社に与えられた領土の広さと,その境界の曖昧さである。特許状の文言は同社の領土を,ハドソン湾の海,沿岸,およびそこに流れこむ諸河川の流域一体と,ごく抽象的に規定している。だが海岸や内陸部の正確な地図がまだ存在しない以上,ルパーツランドと名付けられた領土が,実際どれだけの広さをもつのか,当時は誰にも検討さえつかなかった。19世紀にやっと北米大陸の地理が明らかになった時点で,ルパーツランドは東はラブラドールから西はロッキー山脈まで,きたは北極海から南は現在アメリカのミネソタ州,北ダコタ州までおよそ777万平方キロと主張された。先住民の存在なぞまるで顧慮することなく,イギリス議会の同意さえないまま,国王のペンの一振りで,同社は巨大な領土の「真の絶対的な支配者にして所有者」となったのである。湾岸と内陸での排他的な交易独占権は,より具体的に記されており,同社のみが領土内での交易と通商を支配でき,違反者は船舶と積み荷を没収され,1000ポンドの保釈金を支払うまで投獄と定められた。領土と独占権の代価として求められたのは,国王と彼の後継者がルパーツランドを訪問した際,「2頭のエルクと2匹のビーヴァー」を贈ることだけだった。王族がハドソン湾を訪れるなど当時は論外だったし,まったくの無償貸与に他ならない。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.16

ハドソン湾会社の誕生

エリザベス1世の時代からヨーロッパでは,ビーヴァーの内毛を素材とした最高級フェルト帽子(ビーヴァー・ハット)が,ステータス・シンボルとして絶大な人気を集めた。王侯貴族や新興のジェントルマン,さらに軍人,僧侶までもが,さまざまなスタイルに加工されたビーヴァー・ハットを競って着用したのである(Lawson, 1943, pp.1-8; Grant, 1989; 木村, 2002, pp.16-25)。最大のビーヴァー生息地である北米で,最初の毛皮植民地ヌーヴェル・フランスを1603年に建設したのは,フランスだった。「百人会社」や「アピタン会社」が毛皮の交易独占を認められ,ヒューロン族を主要な交易相手に,貴重なビーヴァー毛皮をフランスへ送り出したのである(Rich, 1967, pp.15-18)。しかし会社組織に属さず,先住民と直接に交易する多くの独立交易社(「森を走る人々」と呼ばれた)も生まれ,その中にピエール・E・ラディソンとメダール・S・デ・グロセリエという義兄弟がいた。2人は1659年にスペリオル湖畔で越冬し,北のハドソン湾こそビーヴァーの宝庫であるとの情報をクリー族から聞きつける。2人はこの情報をすぐヌーヴェル・フランス総則やフランス本国に伝え,モントリオールではなくハドソン湾を毛皮交易の拠点とするよう進言した。だが進言はまったく無視され,グロセリエは不法交易の咎で東国の憂き目にさえあった。
 憤慨した2人は,宿敵イギリスに情報を売り渡そうと決意する。彼らは1665年に渡英し,国王チャールズ2世に拝謁することができた。イギリスにとってハドソン湾は,偉大な探検家ヘンリー・ハドソンが1622年に乗組員の反乱で氷海に置き去りにされた悲劇の海だったが,国王はフランスを出しぬいて毛皮資源を奪取する計画に関心をそそられた。側近の廷臣で,ハドソン湾の毛皮に魅了されたのが,国王の従兄弟にあたるライン・パラティン伯のバヴァリア公ルパート王子である。ボヘミア女王の息子として生まれた彼は,清教徒革命では伯父のチャールズ1世のためフランス軍を率いて革命軍と戦った。王政復古後にはイギリス海軍大臣となり,1672年からの英蘭戦争では海軍提督をつとめている。本来ビジネスの人ではなかった彼に,ハドソン湾への投資を説得したのは,彼の個人秘書で財政顧問だったジェイムズ・ヘイズだった。宮廷とシティ金融界の双方に通じていたヘイズは,後にハドソン湾会社の実質的な支配者となる。ルパート王子は他に6人の出資者を募り,68年に2隻の交易船をハドソン湾の南端にくびれ込むジェイムズ湾に無事到達した。湾に流れこむルパート川の河口で越冬したノンサッチ号は,先住民と予想以上の交易を行い,ロンドンに持ち帰った毛皮は競売で1379ポンドの売上を記録した。この成功を受け,70年5月2日にはチャールズ2世から特許状が下賜され,ハドソン湾会社が誕生したのである。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.14-15

ハドソン湾会社

1670年に国王チャールズ2世の特許状により,「ハドソン湾で交易するイングランドの冒険家たち」の会社として創立されてから200年間,ハドソン湾会社は多くのライヴァルと競いながら,北米を基板とする世界的な毛皮交易の中心であり続けた。イギリスにとって17世紀は,冒険商人たちが急速に世界各地に進出した「商業革命」の時代であり(Braddick, 1998, p.292),ハドソン湾会社,東インド会社(創立1600年),王立アフリカ会社(同1672年)などが,それぞれの地域で通商独占を認められた。これら3社は,前世紀の冒険商人組合やレヴァント会社のような規制会社(レギュレイティド・カンパニー)ではなく,合本会社(ジョイント・ストック・カンパニー)だった。規制会社ではそれぞれのメンバーが共通の規約のもとで自己資本による貿易を行うのに対し,合本会社では株主が1つの事業体に資本を集中し,利潤や損失を折半する。株式が公開市場で売買されず,株主の有限責任性も確立していなかったから,近代的な株式会社とはいいがたい。それにもかかわらず合本会社は,遠距離貿易に必要な多額の資本を調達しえたし,海難や海賊による危険を分散できる合理的な組織だった。国王や議会は「外国貿易によるイングランドの財宝」(トマス・マン)を獲得するため,これらの会社を強力に支援し,有望な世界商品を生産する地域で排他的な通商独占権を与えたのである。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.12-13

「どうぞ訴えて下さい」

また,かつて,雑誌社の団体が政府に,「○○図書館のコピー行為は,明らかに著作権侵害だ。ウチの理事会では『訴えるべきだ』という意見もあったが,そんなことをして事を荒立てては,政府としてもお困りでしょう。だから,政府から指導してやめさせてほしい」と言ったことがありました。
 こうした「政府まかせ」の無責任な態度が,「官僚に頼る体質」や「民主主義の未熟」を招いたのです。政府からの答えは,当然ですが,「どうぞ訴えてください」というものでした。
 自分の幸せを守るために,自分の「権利」を行使するには,勇気と行動力と責任感が必要なのです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.219-220

「政府がなんとかしてくれ」?

よく「中国では,日本のコンテンツが,たくさん無断でコピーされている」と言われていますね。そうした無断コピーは,なぜ,なかなかなくならないのでしょうか。
 その原因は,1つしかありません。それは,「日本の権利者たちが,中国で裁判をあまり起こしていない」ということです。
 中国のある遊園地では,日本やアメリカのアニメキャラクターによく似たぬいぐるみがたくさん使われており,それがテレビで紹介されたことがありました。
 そのとき,ディズニー社は,すぐに中国で裁判を起こしましたが,日本の企業はすぐに裁判を起こしませんでした。だから,相手にナメられてしまうのです。
 日本の企業の中には,「政府がなんとかしてくれ」などと言っているところも少なくありません。しかし,著作権侵害については「訴えるかどうかは,本人の自由」なのですから,本人が訴えなくては,何も起こらないのです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.219

契約の問題なのに

また,日本では,「過去の放送番組を,再放送やネット配信で使えないのは,著作権があるからだ」などと言っている人が少なくありません。
 どの国も,だいたい同じような著作権法を持っているのに,他の国々ではどんどん再放送やネット配信が行われているのは,いったいなぜなのでしょうか。これも実は,第24話でお話ししたように,「法律の問題」ではなく,「契約の問題」です。
 他の国々の放送局は,放送番組を「作るとき」に,関係する権利者たちと,「再放送やネット配信もする」という契約をしています。しかし日本の放送局は,そのような契約をすることを,サボってきました。
 要するに,「自分たちのミス」をかくすために,「著作権法のせいにしている」だけなのです(あるいは,単に無知なのかもしれません)。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.212

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]