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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ダイアローグへ

 要約すると,サイキックはリーディングを,モノローグ(独り言)ではなくダイアローグ(対話)にしようと努める。彼らは相談者にフィードバックを促すさまざまな方法を知っていて,巧みに利用する。これはコールド・リーディングの重要な側面だが,相談者はたいていの場合それに気づかない。多くの相談者は,サイキック能力によってさまざまなことが解き明かされ,数々の驚くべき言明を自分はただ聞いていたのだと信じて,リーディングの場を後にする。実際には自分がさまざまな情報をフィードバックしていたことに,まるで気づくこともなく。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 219

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対話になるように

 理屈の上では,サイキックがずっとしゃべって相談者はただ聞いているというサイキック・リーディングもあり得る。コールド・リーディングはこういう状況でも機能するし,実際,郵便でやり取りするリーディングではほかに方法がない。しかし,コールド・リーディングが最もうまくいくのは,相談者が大いに反応し,たくさんの情報をフィードバックしてくれる場合だ。このためサイキックは,リーディングが相互の対話になるよう,できる限りのことをしている。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 209-210

予言は当たる

 「一方向のみ検証可能な予言(One-way Verifiable Predictions)」は,たぶんコールド・リーディングにおける予言のうちで最も巧妙なものだろう。この予言を検証することは可能だが,それは予言されたことが実際に起きた場合に限られる。実際に起きなかった場合は,予言が外れたことをけっして証明できない。たとえば,次の例を見てほしい。
 [例]「あなたの職業に影響を与えるニュースを,友だちが電話であなたに伝えようと考えるでしょう。しかし,ぎりぎりになって知らせるのを思いとどまるかもしれません」
 可能性をよく見てほしい。もし偶然に友人がそういう電話をかけてくれば,予言は当たったことになる。もし電話してこなければ,サイキックが可能性に言及しているように,知らせるのを思いとどまったせいにしてしまえる。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 184-185

抜け道がある

 的中しなかった方はどうするのか?サイキックの予言をわざわざ記録しておき,外れた例を突きつけて面目を失わせようとする人はめったにいない。万一そういう事態になっても,サイキックにはいくつかの逃げ道がある。予言内容が間違って伝えられている,あるいは一部分だけを取り出して引用されたと主張するのがその一つだ。また,予言をしたときの報告の仕方は不正確だったが,予言そのものは正しかった,と主張することもできる。しかし,もっとも単純で効果的な防御法は,にこやかに笑って間違いを認め,それは大した問題ではないと指摘することだ。たとえばこんなふうに。
 [例]「ええ,確かに私の予言には,一つか二つ間違いが含まれていました。ここには解釈のプロセスが関わっていますが,ときとして解釈するのが非常に難しいことがあるのです。私はけっして間違いを犯さないと主張したことはありませんよね?でも,間違うことより当たることのほうがずっと多いのは分かっています。だから役に立つのです」
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 175-176

証明など不必要

 [例]「私に会いに来られる方の多くは,何か心に重くのしかかってくるものを抱えています。生活のある面で何らかの答えを求めていて,トンネルを抜けて光を見たいと思っているのです。あなたの場合は,何なのでしょう?」
 これはあまりにも簡単で,コールド・リーディングのプロセスにおいて何かの役に立つとは思えないかもしれない。しかし,必ずしもそうではない。すべてはリーディングの正確と相談者の態度しだいだ。お金を払ってサイキックに相談に来る人の多くは,すでに乗り気になっている。サイキックとリーディングの体系を信頼していて,サイキック能力の「証明」など求めておらず,必要ともしていない。こういう人たちは助けを求めており,手を差し伸べるサイキックが底にいる。話が細部に及ぶのは,早ければ早いほどいいわけだ。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 136

相談者が意味を提供する

 「幼児の記憶」が単純すぎて効果的でない場合のために,コールド・リーディングの心理学におけるもう一つの側面について述べておきたい。リーディングがうまくいっているとき,大部分の言葉を語るのはサイキックだが,大部分の意味と,すべての意義を提供するのは相談者だ。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 120

普段から

 ついでに書いておくと,多くのコールド・リーダーは,リーディングをしていないときでも「まぐれ当たりを狙う推測」を始終やっている。たとえば,初めて会った誰かと話すとき,相手の星座,親戚の名前,趣味を気軽に当ててみようとする。間違えても別に罪にはならないし,きちんとラポール(信頼関係)を築いていないうちに話したせいだと言い訳できる。一方,もし推測が正しければ,何気なくしゃべって的中したことを宣伝に利用できる。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 103-104

確率の高い推測

 「確率の高い推測(The Good Chance Guess)」とは,普通に考える以上に当たる確率の大きい推測を含む要素のことだ。
 ありふれた例を挙げると,サイキックはこんなことを言うかもしれない。
 [例]「あなたが住んでいる家に,2という数字があります?」
 ちょっと当てずっぽうのようで,ある意味ではその通りだ。しかし,的中する確率は意外なほど大きい。それに加え,相談者の多くは確率を正確に計算できるほど数字を得意としていない。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 96

バーナム効果

 「バーナム・ステートメント(Barnum Statements)」とは,人の性格を巧みに一般化していて,大多数の人が(もし問われれば)自分のことを正確に述べていると答えるような言葉のことだ。いくつか例を挙げておく。
 [例]
 ・「あなたには,人から好かれたい,尊敬されたいという強い欲求があります」
 ・「自分にはまだ使っていない能力がたくさんあるのに,まわりの人は必ずしもその能力を十分評価してくれていない,と感じる傾向があります」
 ・「あなたの希望や目標のなかには,かなり非現実的と言っていいものもあります」
 ・「あなたは独立心が強く,独自の考えを持っています。他人からこれを信じろと言われて,それをそのまま受け入れるようなことはありません」
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 84

砂糖の塊

 「シュガー・ランプ(Sugar Lumps 砂糖の塊)」というのは,つまらない話を信じてくれたお返しに,相談者に心地よい言葉をかけるというものだ。一般に「シュガー・ランプ」には,リーディングに含まれる特定のサイキック「分野」を価値あるものと認め,それによって明らかにされる見事な洞察を自分のために役立てようという,相談者の態度を評価する言葉が使われる。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 75

言葉を尽くす

 同じようなことを言うにも,ちょっとした工夫で細やかな褒め言葉に変えることができる。たとえば,誰かの腕時計を渡されて,サイコメトリーによるリーディングを行う場面だとしよう(サイコメトリーとは,相談者の所有物や過去に使っていたものから相手のことを読み取るとされる方法のこと)。たとえば,こんなふうに。
 [例]「この品物の所有者はだいたいにおいて信頼できる人だと感じられます。たぶんこの人は,多くの人よりいくらか誠実で,良心的でしょう。聖人でもないし完璧でもありませんが,本当に大事な場面では信頼されることがいかに重要かを確かに理解しています。価値あることを守って生きたいと誰もが願っても,いつもうまくいくとは限りませんが,この人はそんな価値を手にしている,そう思わせるエネルギーを感じます」
 これだけの言葉を費やして述べているのは,「あなたは基本的に誠実である」ということでしかない。しかしこういうふうに言えば,超常的で,洞察に満ち,特定の個人に関する理解を示す言葉のように聞こえるのだ。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 68-69

虹色の戦略

 「虹色の戦略(The Rainbow Ruse)」とは,相談者の性格についてある傾向を指摘すると同時に,それと対極にあるような傾向についても述べるものだ。たとえばこんなふうに。
 [例]「あなたはとても思いやりのある人で,いつも他人に与えてばかりですが,素直に振り返ってみれば,ときとして自分のなかに利己的な傾向を見ることもあります」
 この例では相談者について,無欲であると同時に自分本意な人だと述べている。この方法には無数のバリエーションがあって,内向的なのに外向的,恥ずかしがり屋なのに自信家,信頼できる人なのに無責任なところもある,などと応用できる。虹のなかにあらゆる色が含まれているように,一方の極から反対の極までの間で,あらゆる可能性を取り込んでしまう。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 64

権威あるように見せる

 サイキックは自らを権威ある者と位置づけ,明確にあるいはそれとなく,自分には経験も自信もあって信用できるのだと相手に思わせようとする。その方法はさまざまで,あからさまなものもあれば,そうでないものもある。
 最もよく使われるやり方の一つは,これまでにリーディングを行った相談者の賛美の言葉を並べておくことだ。また,「◯◯タロット研究センター」といった学術関係めいた名称の機関が発行した証書を掲げておくという手もある。こうした証言や証書は,もしかしたら本物かもしれない。しかし,デスクトップ・パブリッシングや手軽に印刷できるソフトウェアの普及した今日では,誰でも簡単にそれらしいものを作成できる。私はもちろん自分で作ったし,制作の過程を大いに楽しんだ。
 このほか,適当な参考図書をまわりに並べ,タロット・カード(であれ何であれ自分が選んだ技法)は研究の対象となり得る広い分野なのだと思わせる策略も有効だ。リーディングの途中で細かい解釈を「はっきりさせる」ために分厚い本に手を伸ばす,というのはなかなか気が利いている。
イアン・ローランド 福岡洋一(訳) (2011). コールド・リーディング:人の心を一瞬でつかむ技術 楽工社 pp. 54

森ごと焼き払う

 たしかに不正行為は許せない。当たり前の感情だ。誰かが不正に手を染めれば,同じくその陰で苦しむ人間がいる。損をする人間がいる。だからといって,その世界を綺麗にするために,森ごと焼き払うようなやり方は正しいのか。
下村敦史 (2018). 黙過 徳間書店 pp. 164

私立大学

 大学化への布石を最初に打ったのは慶應義塾で,同校は90年に「大学部」を設置する。ところが当時,幼稚舎,普通部の初等中等教育を経た若者たちの多くはそのまま実業の世界に出て,大学部で専門教育を受ける者は少なかったから,この試みは苦戦する。福沢は,しかし不振でも大学部を廃止するのではなく,むしろ逆に義塾全体の大学化,つまり幼稚舎や普通部の上に付随的に大学部が乗る構造から,大学部を本体とし,その下に普通部や幼稚舎が付属する構造に教育課程を転換させてしまうのである。この大転換が行われるのは1898年で,以来,「慶應義塾」は「慶應大学」へと段階的に移行していく。これに対し,自らを帝国大学に比せられる「大学」と最初に宣言したのは東京専門学校であった。同校は1900年に高田早苗を学監として大学化構想を打ち出し,2年後には「早稲田大学」への名称変更を政府に認めさせる。この「大学」化に伴い,早稲田は教育課程を「大学部」と「専門学部」に分け,大学部の下に予科を設けて帝国大学に似た課程の編成を整えていった。そしてやがて,この早慶両雄の大学化に倣うように,他の多くの私学が背伸びをしながら「大学化」を図っていく。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 160-161

帝国大学

 それにしても,このような天皇のまなざしと国民の知性が遭遇する場所が,なぜ「帝国大学」と名づけられたのか。中山茂が考察したように,東京大学が帝国大学への大転換を遂げた1886年の時点では,「帝国」の呼称はまだまったく一般的ではなかった。たしかに明治初年代,岩倉使節団が日本に招待した学監デヴィッド・モルレーは,社交辞令か日本のことを盛んに「エンパイア」と呼んだが,これは普及しなかった。それでもモルレーが発する「エンパイア」の語は,文部省申報で「帝国」と訳され,これがこの言葉が公式文書に現れる最初となったらしい。しかし,日進・日露戦争以前の多くの日本人にとって,「帝国」という言葉はなじみの薄い言葉であった。周知のように89年には大日本帝国憲法が発布されるから,90年代以降は,「帝国」は「帝国議会」などの言葉とともに徐々に日本人の意識に入り込んでいくともいえる。しかし,帝国議会よりも三年も早くに「帝国大学」は誕生しているのだ。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 138

大学院という革新

 この変化を大学制度の側からみるならば,米国の大学に決定的革新が起きたのは,1876年,イェール大学出身のダニエル・ギルマンが,新設のジョンズ・ホプキンス大学の学長に就任し,より高度な研究型教育を旨とする「大学院=グラデュエートスクール」を,新しい大学モデルの中核としてカレッジの上に置いた時からであった。これはいわば,それまでハイスクール的なカレッジ状態からなかなか抜け出せずにいた米国の大学が,ドイツ型の大学モデルに「大学院」という新規のラベルを貼って「上げ底」する戦略だったともいえるのだが,「大学」と「大学院」を分けてしまえば,旧来のカレッジ方式にこだわる教授陣を安心させ,しかも真に超一流の教授たちを大学院担当に据えていれば,全米全土から向学心に富んだ秀才の大学卒業生を集めることが期待できたから,まさに一石二鳥のアイデアであった。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 104

大学の創設へ

 たとえば英国では,中世以来,オックスフォード大とケンブリッジ大が特別な地位にあった。しかし,そのような名門校であればこそ,良好が中世的概念から離脱するのは容易ではなかった。実際,両校の変革は非常に遅く,19世紀半ばになっても,入学者の約三分の1は聖職に就く人々だった。そこで英国の大学改革は,これら両雄の内部変革よりも,その外側に国民的大学を創設することに向けられていく。すでに18世紀,大学の外側に各種の王立アカデミーが創設されたが,これは反面,この大学の古さへの反発の表れでもあった。19世紀になると,流れはアカデミー創設よりも大学創設に向かう。こうして新たに創設されたのが,ユニバーシティ・カレッジ(1826年)とキングス・カレッジ(1829年)を中核とするロンドン大学であったし,これに続いてダラム大学(1832年),マンチェスター大学(1851年),リーズ大学(1884年),ウェールズ大学(1893年)などが創設されていった。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 91-92

アカデミーと大学

 今日の通年は,「アカデミズム」を大学の象牙の塔的な学問と同一視し,新しい時代の変化に対応できない権威主義的価値観とみなしがちである。しかし,「アカデミズム」の今日的起源が17,18世紀のヨーロッパでのアカデミーの隆盛にあるとするならば,この思い込みは二重に間違っている。まず,アカデミーと大学は当時,同じものではなく,むしろ対抗的な関係にあった。大学の保守性を批判し,新しい知を切り開く先端的役割がアカデミーには期待されていたのである。第2に,そうして浮上したアカデミーは,新しい時代に対応できない伝統性などとは正反対の,むしろ実学的で先端的,新しいものに対応して実験的な知を紡ぐ専門家集団を基盤としていた。「アカデミックな知」が敵対していたのは,今日の奇妙な思い込みが信じるような「ジャーナリスティックな知」ではなく,むしろ中世的な大学に端を発する「スコラ的な知」である。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 77-78

大学の死

 したがって,12〜13世紀に「都市の自由」を基盤に「知の自由」をダイナミックに抱え込んだ協同組合的な場として誕生した大学は,近代世界が形成されてくる歴史のなかで一度は死んだのである。この16世紀から18世紀までの「大学の死」は,宗教戦争と領邦国家,印刷革命といういくつかの要因が折り重なるなかで決定づけられていった。宗教戦争と領邦国家は,それまでのヨーロッパ全土に及んだ都市ネットワークの時代,すなわち自由な移動の時代を終焉へと向かわせ,印刷革命は,大学などもはや必要としない仕方で近代的な科学や人文知の発展を可能にした。つまるところ,大学は宗教によってひき裂かれ,国家のなかに取り込まれることによって「自由」を失ったのであり,グーテンベルクの「銀河系」が,新たな「自由な学知」を大学以上に過度に実現していく基盤として浮上していったのだ。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 66

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