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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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法律の問題じゃない

多くの日本人は,「著作権問題」と呼ばれているものを,「法律の問題」だと思い込んでいるようです。しかし,その大部分は,実は「契約の問題」(当事者同士が最初からちゃんと契約しておけば防げた問題)なのです。
 日本の「著作権法」は,いろいろな面について世界最高水準のものですが,「契約」に関する人々の習慣やシステムは,世界最低水準と言っても過言ではありません。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.208-209
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よくあることだけれど,人権軽視です

学校が次々にインターネットに接続されていったとき,アメリカの学校では「すべての保護者と契約を交わす」のが当然でした。「子どもたちの作文・絵や顔写真などを,学校のホームページにのせてよいか」ということに関する契約です。
 ところが日本では,一部の自治体が,「学校のホームページにのせるものとのせないものの基準」を検討していました。これは,明らかに人権軽視です。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.207

契約なのに

著作権について「契約」が必要になるケースの典型は,Aさん(権利者)が作ったコンテンツについて,Bさん(利用者)が「使わせてくれ」と言ってくる場合です。
 この場合Bさんは,単に「使わせてもらう」という契約をするよりも,「そのコンテンツの『財布を守る権利』を丸ごと買い取ってしまう」という契約の方が有利です。そうすれば,自分が著作権者になるわけですから,後々も自由に使えます。
 Bさんがそのような契約条件を提示した(希望を言った)とき,Aさんは,気に入らないなら,単に断ればいいのです。
 しかし,日本でよくあるのは,Aさんが「人権の一種である著作権をゆずれとはケシカラン」と怒ってしまうというケースです。自分の価値観やモラル感覚を「他人も共有していて当然」と思っているのですね。これでは冷静な話し合いはできません。
 また,こうした場合によくあるのは,Aさんが政府の官僚のところに行って「Bはケシカランので,政府から指導してくれ」などと言うことです。
 こうした「なんでも官僚に頼る態度」が,日本の官僚主導を生んだのです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.205

教材の場合

学校の「先生」は,自分の授業で使う教材として,新聞記事・本・雑誌・CD・DVD・放送番組・ネット上のコンテンツなどを,自分でコピー(ダウンロード・プリントアウトなどをふくむ)して,授業中に,生徒に配布することができます。
 ただし,例えば「計算問題のドリル」や「コンピュータープログラム」など,「1人ひとりが買う前提で売られているもの」は除かれます。
 また,「生徒」も,例えば,先生から「あすの朝刊を見て,気になった記事をコピーし,クラスに配布しなさい」といった指示があれば,同じように,新聞記事・本・雑誌・CD・DVD・放送番組・ネット上のコンテンツなどをコピー・配布できます。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.164

引用の条件

ブログやホームページに取り込んでよいということは,「コピー」だけでなく「送信」もOKだということですね。ただし,次のような条件を満たすことが必要です。
 ◆「自分自身の著作物」の中に「部品」として取り込むこと(他人のものだけを集めてきて「全部引用です」というのはダメ)。
 ◆「自分が書いた部分」と「他人が作った部分」(引用した部分)が,カギカッコなどによって明確に区別されていること。
 ◆「批評の対象」「研究の対象」「自分の考えの根拠」などとして使うこと(他人の絵や写真などを「単なるかざり」として引用するのはダメ)。
 ◆「必要性」がある部分を引用していること(俳句を批評する場合など,必要性があれば「全体」を引用できるが,必要性がない部分を引用するのはダメ)。
 ◆どこから持ってきたかを明示すること(元々のっていた本やサイトの名前などを明示すること)。
 ではここで,1つ質問です。
 「ポケモン」の絵をみなさんのブログやホームページに無断でのせることは可能でしょうか。
 答えは,「条件を満たす引用なら可能」です。例えば,「ポケモンの絵を批評する」という場合には,「引用」してのせることができるわけです。
 逆に言うと,「単なる装飾」としてのせると,著作権侵害になってしまいます。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.161-162

権利と権利

著作権を保護すべきことは,「国際人権規約」という条約にも規定されていますので,著作権は人権の1つだとも言えます。人権なのになぜ例外があってよいのかというと,それは,「他人も別の人権を持っている」からです。
 例えば,すべての人は憲法で保障された「言論の自由」という人権を持っています。ですから,本来は「何を言っても自由」であるはずですね。
 しかし,人々は同時に,「名誉を傷つけられない」という人権も持っています。
 ですから,だれかが「言論の自由」という人権を使って,「何かを言う」(例えば悪口を言う)ことによって,他人が持っている「名誉を傷つけられない」という別の人権を,侵害してしまう場合があるわけです。
 このように,「人権と人権がぶつかり合う」ような場合には,「どちらを優先するのか?」ということを,「法律ルールで決めておく」という必要があるわけです。
 日本では,「言論の自由」と「名誉を傷つけられない権利」がぶつかり合う場合には,「名誉を傷つけられない権利」の方を優先する——という法律ルールになっています。
 このため,「言論の自由」という人権があっても,「他人の名誉を傷つけるようなこと」は,言ってはいけないのです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.155-156

多数の権利者

このように,いろいろな権利が重なっていますので,「1つの行為」について,多数の権利者の権利がおよぶことがあります。もっとも複雑な場合を示しておきましょう。
 ◆Aさんが音楽を作詞・作曲しました(Aさんが「作った人の著作権」を持つ)。
 ◆その曲をBさんが(Aさんの了解を得て)ライブコンサートで歌いました(Bさんが「伝えた人の著作権」を持つ)。
 ◆そのコンサートをCレコード会社が(Aさん・Bさんの了解を得て)録音し,CDを発売しました(C社が「伝えた人の著作権」を持つ)。
 ◆そのCDを(Aさん・Bさん・C社の了解を得て)D放送局が放送しました(D局が「伝えた人の著作権」を持つ)。
 この場合,もしだれかが,そのD放送局の「番組」を無断で録音し,多数のCDにコピーして販売したとすると,A・B・C・Dの4者から,同時に訴えられる可能性があるわけです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.126

著作権者は

「みなさんの会社や学校が,宣伝用のポスターを作るとします。外部のデザイン会社に注文して,その会社でポスターがデザイン・印刷され,必要部数が納品されて,お金をはらいました。さて,このポスターの著作者はだれですか?」「注文してお金を払った会社や学校は,このポスターを自由にコピーできますか?」
 ここでやっと,「作った人でない人は著作者ではない」(ので著作権を持たない)(ので無断でコピーできない)ということの重大性が分かるのです。
 「作った人でない人は著作者ではない」ということは,「全額お金を支払った発注者でもね…」という,重大な意味を含んでいるのです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.107

多くなる権利

まず,「映画」が発明されました。映画を「演じる」とは言いませんね。映画は「上映する」ものです。このため「無断で上映されない権利」が作られました。
 次に,「放送」が発明されました。放送を「上映する」とは言いませんね。そこで「無断で放送されない権利」が作られました。
 さらに,「オンデマンド送信」(受信者がアクセスしたものだけを送信する方式)の時代になりましたが,それは「放送」とはちがいます。そこで,実は日本が世界で初めて,インターネットに対応した「無断で送信されない権利」を作りました。
 実は,「無断でレンタルされない権利」も,日本が世界で初めて作ったものです。
 こうした流れの中で,だれかがおそらく「しまた。最初から『公衆に伝わったという結果を無断で作られない権利』にしておけばよかった」と気づいたでしょう。
 「コピー」の場合と同じように,「結果として人々に伝わった」という状態を(方法を問わず)無断で作られない権利としておけば,権利は1つでよかったのです。
 でも,もうおそいですね。全体を変えるのは大変です。そこでどの国も,この系統の権利は,非常に多くなっています。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.87-88

著作権と特許権

「料理を作った」という場合は,「こうすればこの料理ができる」という「アイデア」を利用しました。しかし,「本に書かれた文章としての表現」はコピーしていません。だから著作権侵害にはならないのです。
 しかし,「本をコピーした」という場合は,「料理のアイデア」は使っていませんが,「文章としての表現」を,「コピーする」という形で利用しました。だから著作権侵害になるのです。
 これが,「表現は保護される」が「アイデアは保護されない」ということです。実は,「アイデア」を保護するのが,「特許権」というものの役割です。別の例で考えてみましょう。
 例えばここに,「新しい薬の製法」が書かれた「論文」があるとしましょう。その製法(発明としてのアイデア)には,特許権があたえられているとします。この場合,「論文」(文章としての表現)は著作権で保護されており,「製法」(アイデア)は特許権で保護されることになります。
 ここで,ある人が,その論文を読んだとしましょう。読んだ後に,その人が無断で「論文をコピーした」のなら著作権侵害になり,無断で「その薬を作って売った」のなら特許権侵害になるのです。ちがいが分かりましたか?

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.58-59

保護

そうした権利があたえられている状態のことを「保護されている」と言います。例えば,「個人情報は,法律で保護されている」とか「コンテンツは,法律で保護されている」という言い方です。
 なぜ「保護」と呼ぶかというと,例えば,自分の名誉を傷つける情報がネットに流されてしまった場合,流した人を警察や裁判所に「訴えることができる」からです。
 そこから先は,警察や裁判所など,「国家の機関」が,権利者を守るために,侵害に対応してくれますので,国が「保護している」ということになるわけです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.28

他人に迷惑をかけてもよい場合

これから徐々に説明していく著作権というものも,そうした「権利」の1つであり,著作権法という法律によって,すべての人々にあたえられているものです。
 その中には,例えば,「私がとった写真を,勝手にネット配信しないでくれ」と言える権利がふくまれます。この権利を行使すると,「世の中の人たちは見たいと思っているんです。あなたは他人の迷惑を考えないのですか」などと反論する人がいます。
 日本人の多くは「他人に迷惑をかける」ことはすべて悪だと思っているので,こうしたおかしなことを言う人がいるのですが,法律で「権利」があたえられているということは(例外的に)「他人に迷惑をかけてもよい場合」なのだということを,よく理解しておいてください。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.24-25

迷惑をかけるな=権利が理解できていない

多くの大人たちは,子供たちに対して常に,「他人に迷惑をかけるな」と言いますね。しかしそれは,「権利というもの自体を,まだよく理解できていない」からでしょう。その背景には,2つの理由があると思われます。
 第1は,日本という国が,「同質性が高い」ということです。
 他の多くの国々と比べると,大陸から離れた島国である日本には,歴史的に見ても,比較的「同じような人々」が暮らしてきました。
 また,2千年にわたって日本の産業・経済の中心だった「水田耕作」では,村の中で「和を保つ」ことが非常に重要です。
 このため日本人は,「みんな同じ心を持っているはずだ」とか「他人に迷惑をかけることはすべて悪だ」と考えるような文化を持つようになりました。
 第2は,日本では,「自由」とか「民主主義」とか「権利」といったものが,革命によって(下から)勝ち取られたものではなく,敗戦によって(上から)あたえられたものだった——ということです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.22-23

言論の自由

例えば,「言論の自由」という「権利」が,すべての人々に与えられています。
 「言論の自由」という権利を持っているということは,「法律によって(1)とされていること」=「言ってはいけないこと」(例えば他人の名誉を傷つけるようなこと)以外は,「何でも言ってよい」ということを意味しています。
 例えば,新聞社が,新聞記事で総理大臣を批判することは,総理大臣から見れば「迷惑なこと」でしょう。「それでも言っていいのだ」というのが,「言論の自由」という権利がある——ということなのです。
 このように,「権利がある」とか,「憲法や法律で権利が与えられている」ということは,簡単に言うと,「他人に迷惑をかけてもよい場合だ」ということを意味しているわけです。
 本来は,他人にはできるだけ迷惑をかけないほうがよいのでしょうが,例外的に「迷惑をかけてよい」と法律で定められている場合が「権利がある」という場合なのです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.21

区別できていない

ルールで決められていない「自由であること」について,各人が何を「正しい」と感じるかが,「道徳観」とか「モラル感覚」と呼ばれているものです。
 それは,人それぞれの「心の中」の問題なので,何を「正しい」と感じるかは,各人の自由です。ですから「ルール違反」ということはあっても,「モラル違反」ということはあり得ません。
 他人に「モラル違反」などと言う人は,「私のモラルとちがう」「わたしは気に入らない」と言っているだけなのです。この「心の中のモラル感覚」と「行動についてのルール」を区別できない人が多い——というのが,実は日本人の特徴です。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.17

行動3種類

「心の中」はいつも完全に自由ですが,「行動」については「社会のルール」があるため,人の「行動」は,次の3種類に分かれます(3種類しかありません)。

 (1)してはいけないこと
 (2)自由であること
 (3)しなければいけないこと

 これらのうち(1)と(3)は,「社会のルール」で決められています。例えば(1)は,殺人・盗み・暴力などですね。また,(3)の例は「赤信号では止まる」といったことです。
 ルールで決められていないことは,すべて(2)であり,みなさんの自由です。
 ところが日本では,各人の自由であるはずの(2)に属する行動について,他人の行動にモンクを言うような人が少なくありません。例えば,ルール違反でない((2)にふくまれる)行動について,「あれはモラル違反だ」などと言う人がいます。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.16-17

社会の投影

科学者もまた,ふつうの人間です。科学者だけに科学者であるがゆえの「高潔な」人格を期待したり,特別の倫理観を期待したりすることもできますまい。まして現実の科学者がそうでないからといって,裏切られたと感じたり,失望したりするのは愚かなことだと思います。
 要するに,現代の科学は,その長所も欠点も,わたくしども自身のもっている価値観やものの考え方の関数として存在していることを自覚することから,わたくしどもは出発すべきではないでしょうか。今日の自然科学は,今日のわたくしども人間存在の様態を映し出す鏡なのです。今日の科学者の考えていることは,わたくしどもの時代,わたくしどもの社会の考えていることの,ある拡大投影にほかならないのです。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.201

不愉快

現在のわたくしどもでも,現在わたくしどもの共有する科学理論に対して致命的な反証となる「事実」をすでに数多く入手していながら,しかも,それに気づいていないことがあるかもしれない,ということは,想像してみるのにあまり愉快なことではありません。とりわけ現場の科学者の方々にはそうでしょう。しかし,この点はたいせつです。
 そこからわたくしどもはいろいろな教訓を学びとることができます。第1に,それではある「事実」が今もっている理論に対する致命的反証になっているということがいつ気づかれるのか,という問いを立ててみることによって明らかにされるような問題があります。それは,その「事実」を見るためのさまざまな理論上の前提が張り巡らす網の目の構造やその有機性に変化が生じた時だ,ということができます。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.189-190

酸素の発見

けれども「酸素の発見」とはいったいどういうことなのでしょう。例えば,何か還元反応が起こって,水溶液のなかにぶくぶくと泡が立ったとします。その現象そのものが,突然18世紀に出てきたわけではありますまい。そんな現象は,中世にも古代にも,ヨーロッパだけでなく,中国にもインドにも,いつでもどこでも起こっていたに違いありません。しかし,ではその現象を目撃した,その泡を発見した最初の人が「酸素の発見者」なのでしょうか。もしそうだったら,「酸素の発見者」は,ラヴォアジェやプリーストリはおろか,アリストテレスやプラトンでもなく,日本の無名の刀鍛冶だって,あるいは中国の錬丹術師でも,あるいは極端にいえば,もしかしたらネアンデルタール人だって「酸素の発見者」になり得るではありませんか。
 明らかにそれではおかしい。「酸素の発見」とは,酸素の気泡を目撃したこととはまったく違います。ある機能を果たしている気体として見たときに,初めて,それは酸素の発見になるのです。ある人が,視野のなかのある部分に「酸素を見る」こと,「ここに酸素があります」と言えることは,ある視覚刺激の束をその人が受け取ることとはまったく違うのです。そして,「ここに酸素があります」という「事実」は,明白に,そこに前提されている酸化=還元の理論によって,初めて「事実」たる資格を得るのです。このように考えてみれば,あの同時発見がなぜ起こるか,ということは多少わかりやすくなると思います。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.179-180

制限

人間の時間や空間についての尺度も,きわめて大きな束縛の1つだと思います。例えばわたくしどもは,だいたい10分の1秒程度の時間的な変化以上に細かい分解能力をもっていません。もしこれがもっと細かい分別能力をもっていたら,恐らくわたくしどもの知覚している世界はまるで変わったものになっているでしょう。当然,もっと粗っぽい分別能力をもっていたとしても,やはり受け取る世界は違っていると言えます。
 空間的な大きさが変化する場合でも,事態は変わりません。わたくしどもの身体が細菌程度の大きさであったとしたら,あるいは地球程度の大きさであったとしたら,この世界の様相はまるで違ったものになってしまうはずです。
 少しSF的な想像になりましたが,何が言いたいかはわかっていただけたのではないでしょうか。今わたくしどもが,天然自然の姿として認め,知っているものは,たまたま,わたくしどもが,今のわたくしども程度の大きさをもち,わたくしどもの感覚器官が,今の程度の分別能力をもっていることの結果としてのものなのであって,それらの条件が変われば,自らそれにつれて,外界の有様も変わる,ということは認めなければなりますまい。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.151

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