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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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錬金術

ニュートンその人でさえ,その後半生は,錬金術についての実験と思索が支配し続けていました。もちろん,日本語で「錬金術」と書いてしまいますと,これはもう文字通り「金を造り出す魔術」のことにしかならず,今のわたくしどもは,金が合金でないことを知っていますから,そんな何かと何かとから金を造り出そうとする術はどうしてもまやかしだ,ということになってしまいます。もっとも,先回りをしておけば,現代の核分裂や核融合の技法が完全にその制御力を獲得したと仮定しますと,理論的には金の原子核を造ることだって,絶対不可能ではないと言えるかもしれませんが,それはまあ別の種類の話です。ですから,錬金術というと,すぐ詐欺師だの魔術師だのを想像してしまいますし,そんな想像も,まったくいわれのないものではありません。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.123
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真理に近づく理由

少なくとも彼らは,キリスト教的偏見を捨て,宗教的迷妄から開放されてありのままの自然を見たから「自然科学的真理」に到達することができたのではなくて,この世界を創造主である神が合理的に造り上げたというキリスト教的偏見をもっていたからこそ,「自然科学的真理」を得ることができたといえるのではないでしょうか。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.111

努力の理由

ケプラーは,惑星の運動がどうなっているのかを示す有名な3法則を発見しています。第1は楕円法則,第2は面積速度一定の法則といわれて,どちらも非常に重要な発見でしたが,第3法則は,惑星の公転周期,つまり太陽に対してもその軌道上にある1点を定めたとき,その点から出発して太陽の周囲を1回転して再びその点に戻ってくるまでに要する時間のことですが,この公転周期の2乗と,公転半径,つまり,ケプラーの場合は惑星の軌道は(第1法則によって)楕円ですから,通常この「半径」は,楕円の長い方の半径(長径)の半分と定義しますが,この公転半径の3乗との比が,どの惑星をとっても同じ値になる,というものです。
 ケプラーは,この第3法則を見つけるまでに,何年も何年もの間,毎日毎日,やっかいな繰り返すのですけれども,もし,ケプラーの意識のなかに,神はこの自然界を造るにあたって,簡単な整数関係で表現できるような秩序を,夜も昼も続けることはできなかったでしょう。逆にいえば,とうとう惑星の公転周期の2乗と公転半径の3乗との比が一定になるという結果に到達したとき,ケプラーはおどり上がって喜んだといわれています。彼の信念,彼の「偏見」は裏切られずに,みごとに報われたのです。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.109-110

ガリレオの信仰

またしても話は全然違います。ガリレオは,たしかに処世の術に関してはずいぶんご都合主義的な人物でしたけれども,こと信仰にかんして言えばきわめて真剣で,熱烈な態度をとっていたといえましょう。ガリレオは,有名なことばを残しました。神は2つの書物を書いた,その1つはいうまでもなく聖書である,もう1つは自然そのものだ,というのです。自然という神の書かれた書物を,1ページ1ページ読んでいくことがいかに信仰にとってたいせつなことと考えられていたかは,そうしたことばからも読み取ることができます。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.106

先入観

コペルニクスの『天球の回転について』を読んでいて気づくことは,彼の頭のなかにはつねに,この世界を支配しているのが神(もちろんこの場合はキリスト教的な神ですが)である,という基本図式が存在していたことです。その基本図式から外れたことを,何1つコペルニクスは考えたことがないのです。この世界を神が造ったこと,そのとき神は整然とした秩序をこの世界に与えたこと,そうした美しい神の秩序は,自然のなかの至るところに読みとることができること,こうした基本図式こそ,コペルニクスの「先入観」であり「偏見」でありました。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.104

裸がお好き

ボルツマンという天才的な物理学者が,たいへんおもしろいことを言っています。「科学者は裸がお好き」というのです。この場合の「裸」というのは,いろいろな余計なものを取り去ってしまった,ありのままの,裸のデータ,ということなのですが,人間は,自らのなかのあらゆる先入観や偏見を捨てたり,ただひたすら眼をしっかり見開いていれば(穴をちゃんと開けていれば),かならず,ありのままの,裸の,正しい外界からの情報をみて取ることができるのだし,科学者こそ,そうした態度を強く維持しなければならない,という信念を,これほどたくみに表現した言葉もありますまい。
 このように外界の認識に際して,自らのもつ偏見や先入観をすべて捨てることがたいせつなのだ,という信念は,今日のわたくしどもの間にも広く拡がっています。例えば,正統的なマルクシズムが強くその信念を主張しています。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.88

バケツ

もちろんそのときにも触れましたが,昔の法則が新しい法則に書き換えられる際には,前者が後者によってそっくりそのまま「包み込ま」れるような形をとることは,むしろ稀なことかもしれません。科学の「進歩」ということはまた,過去の旧い法則や理論が,まちがった,正しくないものとして捨てられ,新しいより正しい,より真理に近い法則や理論によって置き換えられることをも言う,と考えられています。では,先のような認識論的な立場から見て,そのような事態はどう説明されるのでしょうか。
 もし人間が穴の開いたバケツであって,そのバケツには,外から情報が流れ込んで溜まるだけであり,その溜まって行く過程の中で,すでにくわしくご紹介したあの機能と演繹のサイクルが繰り返されていくのなら,どこに,「まちがった」法則や理論が得られてくる余地があるのかが,うまく説明される必要があるでしょう。なぜなら,だれが,どこで,いつ観察しても外界(つまり自然)は変わらない(客観的な)世界である限り,流れ込んでくるデータはいつでも「同じ」であり,「同じ」データからはいつでも同じ法則が帰納されてよいのではないでしょうか。
 この問いに対する,常識的な考え方の立場からの答えの一部はすでに述べたことのなかにあります。つまり,かつてそういうまちがった,正しくない法則が帰納されたのは,データが不足していた,という解釈です。
 

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.85-86

対応

その第1は,仮設を全面的に書き換えてしまうことです。例えば「Xの足の数は決まっていない」というような仮設——それが仮設として何らかの意味をもっているかどうかは今問わないとして——に書き換えてしまう,という方法であるわけです。
 第2の選択は,アド・ホックな書き換えとでもいうべきものです。アド・ホックということばはラテン語ですが,日本語にぴったりのことばがない(実は,英語やその他のヨーロッパ語にも適当な語がないので,このラテン語がそのまま使われているのですが)ため,こんな呪文のような片仮名を使わせていただきます。この語の元々の意味は,「このために」ということなのです。つまり,「ある特定のこれだけのために」という意味ですが,うんと意訳をしてしまうと,アド・ホックな方法というのは,こそくな方法と言い換えられるかもしれません。全面的に書き換えるのではなく,「特定のこの」例,つまり「X3の足の数は3本ではない」という観察例だけを何とかつぎはぎ的に処理しようとする方法と考えていただいてよいと思われるからです。例えば「Xの足の数は一般的に3本であるが,ごく稀な例外として2本のこともある」というように仮設を書き換えるのがそれに当たります。
 このように書き換えると,論理的には,新しくつぎの予言を導出することができなくなります。新しく書き換えられた仮設からは,もはや「X4の足の数は3本であろう」という予言は演繹できないからです。実はここに,統計という問題をめぐるやっかいな論点があります。例えば,この書き換えられた仮説をもっと厳密めかして書いてみます。「Xは99パーセントは3本の足をもつが,1パーセントは2本の足をもつ」と。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.59-60

引用者注:筆者はあえて「仮説」ではなく「仮設」という言葉を用いている。

確証と反証の非対称性

ですから,1つの観察データが,仮設の確証に働く場合と,仮設の反証に働く場合とを比べると,同じ1つのデータでありながら,発揮する力に非常に大きな差が見られることになります。
 このような事態のことを,「確証と反証の非対称性」というわけですが,これは昔から気づかれていました。そして,もっとやさしく「否定の力は肯定の力より強い」などと言われてきました。いずれにせよ,「確証」と「反証」とでは,同じ1つのデータの働き方に決定的な差がある,ということは一般に認められています。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.58

引用者注:筆者はあえて「仮説」ではなく「仮設」という言葉を用いている。

奇妙なこと

それと同時に,もう1つ明らかになってきた要点は,「科学者」=「白衣の聖職者」という図式が現実に崩壊しつつあるということです。科学者でも人間なのですから,科学者と名がつきさえすれば,その人はつねに真理だけを追い求め,ひたすら人類全体の幸福のみを目指して行動する倫理的にも高潔な人士である,というわけにはいかないのは,当たり前すぎるほど当たり前のことですのに,その当たり前のことが,科学者を問題にする限り,永らく当たり前ではなかったのは,考えてみれば,ずいぶん奇妙なことに相違ありませんでした。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.20

科学者へのあこがれ

一言注意しておけば,戦争中は,特攻隊のように,人間が爆弾を直接操縦するという「野蛮な」,精神主義の固まりのような戦術が採用されたり,竹槍で本土防衛をしようとまじめに考えられたりするという哀しい話だけが語り継がれ,また敗戦後も,日本は「科学技術」をおろそかにしていたから敗けたのだ,結局は「科学戦」の敗北だった,という言い方がはやったために,戦争遂行に当たって,日本は,科学を無視したと考えるような誤解が今まで漠然と続いています。しかしこれは非常に大きなまちがいです。
 戦争中の日本は,その国策からして,戦後のあの高度成長期の理工科ブームにまさるとも劣らないほどの,科学技術振興政策をとっていました。理工科の学生は,畳用もあと回しでしたし,大学でも研究費は潤沢でした。子どもたちも「科学する心」の開発をしきりにそそのかされ,『譚海』などというちょっとハイ・ブラウな少年雑誌には,高垣眸や南洋一郎,山中峯太郎などという作家たちの冒険小説に交じって,海野十三の空想科学小説が評判でした。そのころはSF,つまりサイエンス・フィクションなどというしゃれた呼名はありませんでしたが,今から思えば海野十三の作品は,まさしくかなり高度なSFにほかなりませんでした。
 そういう雰囲気の中で少年たちが,不可能と思われることをつぎつぎに可能にして行く「科学者」,絶対確実な客観性の世界に一歩一歩近づいていく「科学者」なるものに,あこがれと尊敬の念を抱いたのは当然だったでしょう。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.14-15

反対意見を述べる能力を育む

また,教育の現場において反対意見を述べる能力を育むことは,きわめて大切だといえる。教師にとってそれが負担になるであろうことは承知しているが,教育の重点は,平均的な中流階級への社会化にではなく,自分とは異なる見かたを受け入れ,また反対意見をしっかりと述べられる人格の形成に置くべきではないだろうか。そしてその考えに従えば,生徒に毎日忠誠の誓いの唱和をさせるのではなく,普通の生徒と異なる服装をし,異なる考えやアイデンティティをもつ生徒も,きちんと保護するようなありかたが求められるようになるだろう。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.303

情報過多

人間は情報の量に圧倒されやすいため,情報過多は情報の少なさよりも悪影響を及ぼす場合がある。さらにいえば,情報公開は,情報を受ける側がクレジットカードの所有者であろうが,携帯電話の利用者,あるいは鉱山労働者であっても,情報を公開する側とされる側の力関係をほとんど変えない。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.297

ホイットマンのケース

1966年のことだが,テキサス大学オースティン校で発生した,時計塔からの狙撃事件のニュースに全米の市民が騒然とした。狙撃したのは,チャールズ・ホイットマンという名の25歳の元海兵隊員だった。この事件で15人が殺害され,32人が負傷した。犯人のホイットマンは,警察の手で射殺された。また,ホイットマンはその前夜に母親と妻を殺害していたことがのちになって判明している。
 この事件は,41年後にバージニア工科大学で乱射事件が起こるまで,アメリカ史上最悪のキャンパス乱射事件として知られていた。ホイットマンは,自らの遺体の解剖をするよう書き記した手紙を残しているが,ますますひどくなっていた頭痛と,「異常で不合理な思考」の原因が解剖によって解明されることをの望んでいた。「最近は,自分のことがまったくわからない」と記していたホイットマンは,自分のしようとしていることをなぜ止められないのかを自問していたようだ。また生命保険が有効なら,それによる入金を「この種の悲劇の再発を防止するための」医学研究に役立ててほしいと書いている。検死解剖の結果,担当医師は情動を調節する組織の1つである扁桃体が脳腫瘍によって圧迫されているのを発見した。
 この発見は,ホイットマンの罪に対する私たちの見方に影響を与えるだろうか?確かに彼は,自分が何をしているのかを,そしてそれがまちがっていることを理解していたにもかかわらず,用意周到に残虐な行為を計画していた。まさに悪の権化といえよう。
 しかし彼の脳は脳腫瘍にひどく侵されていたために,自分の行動に対して何の情動的なつながりをももっておらず,犠牲者の立場に身を置くことも,自分の将来について関心を抱くこともできなかったのかもしれない。健康な人間なら,そのような残虐行為の実行を阻止していたはずの脳の部位が,正常に機能していなかったともみなせる。
 脳腫瘍がなければ暴力もなかったのだとすると,彼は本当に邪悪だったのだろうか?それとも,その日死んだ人々と同様,彼も脳腫瘍の犠牲者とみなされるべきか?

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.94-95

故意と非故意

故殺[第三級殺人と呼ばれる場合もある]は故意でもありうるし(故意そのものは意図されていたとしても,相手を死に至らしめることがその意図だったわけではないケース),非故意の場合もある(自分の行動が誰かの死につながるかどうかの配慮を「まったくの不注意によって欠いたまま」行動したケース)。
 ただしこれらの原則は司法管轄区域によっていくぶんかは変わるが,ポイントは理解できるはずだ。いずれにしても基準はどうあれ,判決は被告が「本当にそれを意図していたかどうか」によって決まる場合が多い。
 私たちの感覚では,より意図的であればあるほど,その行為を実行した人に,より重い責任を負わせるべきだととらえている。そしてこの感覚は法に反映されている。したがって慣習法の道徳的な直観は,脳についての最新の理解と矛盾しない。つまり犯罪実行の選択に,より高度な脳の部位が関与していれば,被告はより罪が重いとみなされるのだ。脳の機能にたとえると,「殺意」とは,犯人の前頭前皮質が関与していることを意味し,大脳基底核は,せいぜい故殺が可能にすぎない。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.88

同意年齢

過去数年,何人かの女性教師が,未成年の男子生徒とのセックスによって,最長で30年の禁錮刑に処せられている。制定法上のレイプの定義は州によって異なるが,ほとんどの州では特定の年齢(通常は14歳か16歳)以下の子どもと性交渉をもつことは,たとえ当人自信もティーンエージャーだったとしても,常に非合法とされている。そしてその年齢は同意年齢と呼ばれている。
 またほとんどの州では,レイプ犯罪は両者の年齢の差に従って定義されており,この定義に合致した場合には,たとえ両者の同意があったとしても,制定法上のレイプとみなされる。その根拠として,一方の当事者が若いか,あるいは両者の年齢に十分な開きがあるとき,若い方の当事者の同意は同意とみなされないという考えが存在する。そのために前述の女性教師たちは,性犯罪者として刑務所行きになったのだ。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.70-71

どこに選択があるのか

言論の自由の基本的な原則の1つに,政府は国民をして無理に語らしめることはできないというものがある。
 第二次世界大戦中,いくつかの州当局は,国旗に向かって敬礼し,忠誠の誓いを唱えることで1日を開始するよう,生徒に要求するようになった。そんな時代のウェストバージニア州で,エホバの証人に属していたある生徒が,自分の宗教的な信念に反するという理由によって忠誠の誓いを唱えることを拒否したため,学校は彼を停学にした。
 先生の強要を無効とする最高裁判判決についてのロバート・ジャクソン判事の次の言葉は,言論の自由についての法的見解のなかでももっとも有名なものの1つに数えられている。「合衆国憲法という星座のなかに,核になる恒星が存在するのなら,それは<政治,ナショナリズム,宗教,あるいはその他の何らかの意見に関することについて,何が正統たるべきかを規定したり,それに関わる信念を言葉や行動によって告白するよう市民に強要したりすることは,高官であろうが下級職であろうが,いかなる政府役人にも認められない>という表明である」
 選択の意味するところについて最高裁がそれとは異なる見解をもっていたなら,判決はまったく逆になっていたかもしれない。
 当時活躍していた,学者肌の判事フェリックス・フランクファーターは,「誰も子どもを公立学校に通わせるよう強要していない」として最高裁判決に異議を唱えている。彼はまた,「学校が忠誠の誓いを唱えることを通学という特権の条件にしたいのなら,それは認められてしかるべきである」,あるいは「子どもはいつでも公立学校の代わりに私立の学校に通える」とも述べている。
 要するに,フランクファーターは次のように主張しているのだ。最高裁はラムソンのケースにおけるホームズ判事の論法を採用すべきだと。つまりラムソンが職場にきた時に選択をしたのと同様,子どもは登校したときに選択したのだと。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.67-69

研究成果への関心

同性愛者の権利に反対する陣営は,同姓から異性へと選好を変えた者もいると主張する。人気キャスターのケイティ・クーリックが2008年の大統領選挙期間中に行った運命的なインタビューの中で,共和党の副大統領候補サラ・ペイリンは,同性愛者の親友が「私のした選択とは別の選択をした」といった。それに対して同性愛者の権利を養護する陣営は,同性愛志向が生まれつきのものだということを示す科学論文を引用する。
 ということは両陣営とも,性が選択ならそれは保護されるべきではなく,選択でないのならもっと保護されてしかるべきと想定していることになる。つまり性が選択なら,LGBT[レズビアン,ゲイ,バイセクシュアル,トランスジェンダー(性転換)の頭文字を取り,まとめた呼称]は,その選択と,それによって引き起こされるすべてのできごとに対しての責任を負っていると考えている。
 そうしてみると,性的な志向の生物学的な基板を調査する科学研究の成果に対して,何百万もの人々が大きな関心を寄せていることに,まったく不思議はない。セクシュアリティが選択されたものかどうかに市民の権利が依存しているというのは奇妙な話だが(うまれつきのものでなくても宗教的信念は保護される),実際にその点をめぐって論争されている。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.59-60

選択の結果か

しかし,肥満は見かけほど,当人たちがきちんと向き合った選択の結果ではないとしたらどうだろう。研究によって,人間は生物学的な命令に従って食べるように「配線」されていることが示されつつある。過食は,手に入る食べ物の種類,宣伝,文化的なメッセージ,小遣いの多寡,運動ができる安全な場所の有無などの条件に影響される場合が多い。つまり食べ物に関する個人の選択は文脈に大きく依存する。要するに『ニューヨークタイムズ』紙のコメンテーターが指摘するとおり,「環境が問題」だといえる。ファストフード産業は,これらのことをよく心得ており,低所得者層地域,幹線道路の休憩所,空港のコンコースなど,脂肪が多く不健康な商品を販売するのに都合のよい環境や状況を利用することに,恐ろしく長けている。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.34-35

肥満への嫌悪感

ここで少し変わった比較を試みる。アメリカでもっとも軽蔑されているものの1つは,肥満であろう。肥満に関する意識調査では,次のような結果が得られている。子どもは太りすぎのクラスメイトを愚かで,意地が悪く,醜いとみなしがちだ。親は,肥満している子どもには,そうでない兄弟姉妹に対してより,高校卒業程度の学費の援助を節約しがちになる。どんな人と結婚したいかと尋ねられれば,太った人より,詐欺師や麻薬常習者や万引き常習者のほうがまだマシだと答える人が多い。知的障害をもつ子どもが生まれてくるとわかったときよりも,生まれてくる子どもが肥満になると知った場合のほうが,妊娠中絶を望むだろうと答える親は多い。肥満した人の隣に立つと,細身の人のそばに立ったときよりも自分に魅力がないとみなされれがちだと報告する最新の研究もある。
 かつてないほど肥満者が増加したアメリカでは,肥満への嫌悪感は前述のとおりすさまじい。さらに重要なことに,太った人を目にすると,私たちはどうしてもその人に何らかの性格上の欠陥を見出そうとする。そして太っているという事実は,選択の失敗を意味し,これまで誤った選択をしてきた証とみなされる。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.33-34

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