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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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物理学者だけです

須藤 心理学や社会学は,科学とは普通呼ばないですよね。こんな言い方をするとたぶん怒られるでしょうけど。
伊勢田 物理学者は,でしょう?
須藤 うーん,たぶんほとんどの自然科学者はそう感じているんじゃないかな。
伊勢田 いや,少なくとも生物学者は,実験心理学が科学ではないなどとは言わないと思いますよ。臨床心理とか理論社会学とかはまた別ですけど。生物学者がそんなことを言っているのは聞いたことがないです。物理学者だけです。

須藤靖・伊勢田哲治 (2013). 科学を語るとはどういうことか:科学者,哲学者にモノ申す 河出書房新社 pp.114
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面白い研究ができなくなった

たとえば,当時すでにあった相対性理論も,公理化はできるんだけれども,絶対データから論理的に導き出せないんです。他の分野で論理実証主義的な考え方が影響を与えた社会学や心理学の運動に「行動主義」というのもあるのですが,これは人間の心理などについて,心の中は見えないから外面的に見えるものだけで議論しようという考え方です。とにかくインプットとアウトプットだけで判断するということですね。20世紀の中頃に,とりわけ心理学とか社会学のある分野では主流を占めたやり方で,そういう意味では,哲学が大きな影響を与えていたと言えるでしょう。
 ただその結果,何が起きたかというと,およそ面白い研究ができなくなってしまったんです。これがいきすぎることによって,研究としての心理学が実に貧困になってしまう。それに対する反動として認知科学が出てきました。認知科学は,心のモデル化をしますが,これは,インプット・アウトプットを見ているだけでは絶対できないことなんですよ。先にモデルを作って,モデルと整合するデータがあるかは言えるけれども,データから論理的にモデルを導き出すというようなやり方はできない。

須藤靖・伊勢田哲治 (2013). 科学を語るとはどういうことか:科学者,哲学者にモノ申す 河出書房新社 pp.48-49

科学哲学の祖先

今,我々が科学哲学と呼んでいるものの直接の祖先は1920年代から30年代のウィーン学団です。もちろん,科学についての哲学的な思考は昔からありますが,このウィーン学団というのは,明らかに科学改革運動なんです。当時,今でいうところの記号論理学というのが,ようやく成立したところでした。そこで,「科学の言語をぜんぶ記号論理学に還元するべきではないか」と言い始めたんですね。これを論理実証主義といいますが,論理学にもとづき,データを超えたことを言わない。これらを科学の本来のエートスだろうとしたんです。データから論理的に導ける話だけをするのが科学だという考え方です。
 その結果,何が起きたかというと,これを突き詰めるとそれまで我々が理解していた科学理論は何ひとつ残らなかった。

須藤靖・伊勢田哲治 (2013). 科学を語るとはどういうことか:科学者,哲学者にモノ申す 河出書房新社 pp.48

大学のライン

ともかく,人事課のようなスタッフは増員が次々と行われるのに,ラインは減らそうという愚かなことが行なわれている。これも,世の中とは全く正反対の動きである。企業でラインとは,営業部門と製造部門のことをいう。企業で営業部門と製造部門を減らすと何が起こるのかは誰でもわかるはずである。造るべきものが造られず,売ることもできない。造らないのだから売らなくてもよいということになるのだが,売上ゼロ,利益ゼロで倒産する。企業であれば,こんな馬鹿げたことを進める経営幹部はありえない。しかし,ここの経営幹部は,このようなことを平然と進めている。
 大学でのラインとは,学生を直接支援する部門である。学務,アドミッション,キャリア部門がこれにあたる。これらの部門は,学生,教員あるいは受験生に直接人間が対応しなければならない部門であり,機械化,効率化は難しい。これらの部門を減らすと,直ちに学生,教員,受験生へのサービスの悪化につながる。住民に対するのと同様に,学生,教員,受験生に対しても,待たせておけばよい,明日来てくれ,来週来てくれと言っていればよいと考えているのだ。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.233

絶対に変えない

ここの給与袋のように,極端に丁重に扱うものがあるのとは反対に極端に粗雑に扱うものもある。また,そこに何らかの理屈,根拠があればよいのだが,どうもそのようなものは全くないようなのである。単に前からやっていることを,やり続けているだけのように思える。ある日,この給与袋配達係が,源泉徴収票を持ってやってきた。給与袋とは違って,ハンコの要求はなかった。驚いたことに袋に入ってはいるが,他のスタッフの源泉徴収票と一緒に1つの袋に入っている。「おいおい,ちょっと待ってくれよ。これって健康診断結果と同様に究極の個人情報じゃないの」,「個人ごとに袋に入れて渡すべきじゃないのかね」と言ったが,「ここでは今までこうしています」と言われてしまった。前例は常に正しいと考えているのだ。
 それからも「ここではこうしています」,「もうこの話についての返信はしないで下さい」ということばを何度も聞くことになる。「絶対に変えない」と同じように,誰に何と言われようと自分たちは正しいんだ,という強い意気込みを感じる言い方なのである。これを言われると何を言っても意味がないし,聞く耳を持っていない。従って,「ああ,そうなの」,「民間の感覚じゃおかしいと思うんだけどね」と言うだけに留めて,あきらめる以外になすすべはない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.74-75

評価する集団

相対評価をする場合,同レベルの集団の中で比較しなければ意味がない。例えば中学1年生と数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞受賞者の数学の力を比較しても意味がない。また,市民ランナーとオリンピックのマラソンランナーを比較してみても始まらない。100mをジャマイカのボルト選手と一緒に走れと言われて,はいそうですかと走る人はいない。結果は初めからわかっていて,意味がないからである。
 米国でもアップル・アンド・アップル,オレンジ・アンド・オレンジという言い方がある。また,それはアップル・アンド・オレンジとも言う。比較をするならりんごとりんご,オレンジとオレンジとを比較しなければ比較にならないということを言うのである。りんごとオレンジを比較してみても,それは好みの問題であって,どちらがおいしいりんごなのか,あるいはオレンジなのかの比較にはならない,という例えで米国人との会話の中では,よく出てくる表現である。
 組織の中での評価も同じである。新入社員と10年のベテラン社員を一緒に人事考課したら,新入社員は常にベテラン社員より高い評価を得ることはできない。秘書と社長を一緒に評価ができると考える人はいないはずだ。そもそも仕事が大きく違い,期待されているアウトプットも違う。人事考課を行う場合,このような違う人たち同士で評価するのではなく,同じレベルの人たち同士で評価するのが原則である。ところがここでは,この原則で評価を行ってはいない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.62-63

ババ抜き人事

係長,課長がルーチンの仕事を全く知らず,なぜ管理も行わないのかというと,ともかく人事異動が激しいからである。3年程度で人が代わっていく。それも面白いことに,全く現在の仕事とは関係のないところに動いていく。大学から保健所,保健所から大学といった調子でアットランダムな人事ローテーションが行われる。まるでトランプのババ抜きのようである。企業であれば,ある目的を持って人材の育成を行う。しかし,ここではそのようなことは全く考えていないようなのだ。従ってプロが育たない。ここの課長レベル以上で,現在の収入を維持,あるいは収入以上で民間にプロとして転職できる人は,ほとんどいないのではないか。それほど専門性が低い。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.55

クレーム回避の論理

安い物が買えないというのは,出張も同様である。常に正規料金で精算が行われる。企業にいた時は,出張パック等安い方法を駆使することが求められた。札幌には何度も出張したが,往復の航空運賃より大幅に安くてホテルの宿泊,朝食がついている出張パックが多くあり,これを利用して出張していた。そして当然,実費での精算である。しかし,ここでは違っていた。ある出張パックを探してそれで出張しても,それ以上に安いパックがあったら住民に説明がつかないというのが理屈のようなのだ。「貴重な税金」を使うので,説明責任が必要だというのである。「おー,面白い理屈があるものだ」とえらく感心したことを覚えている。
 住民からもっと安いパックがあるのに,なぜこのパックで行ったのかとクレームがついたら説明できない。正規料金で出張しましたと言えば誰からも文句が出ないというのである。高くてもクレームがつかないならよいのだ,という発想である。「コスト意識ゼロ」である。確かに,いくら長時間ネットサーフィンをして安い出張パックを探し出したとしても,この出張パックが日本一あるいは世界一安い保証はない。もっと安い出張パックがある可能性はゼロではない。可能性がゼロでない限りは,住民からクレームがつく可能性があるというのである。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.45

コスト意識ゼロ

検収センターの設置によって,確かに架空発注は防げるだろう。しかし,過剰発注あるいは金額の水増しは防げるだろうか。検収センターで可能なチェックは,あくまでも伝票と実物とのチェックである。電池が1個1万円ということであれば,検収センターでもわかるであろう。しかし,特殊な物品であれば,金額のチェックは難しい。さらには,消しゴム1個,電池1個まで,検収を行う必要がどこにあるのだろうか。金額で線を引くべきである。消しゴム1個,電池1個まで検収をしていては,明らかに人件費のほうが高い。「人件費はタダ」,「コスト意識ゼロ」の典型的な例である。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.32

5原則

私がY大学へ移って思ったことは,ここの人たちは「前例主義」,「形式主義」,「性悪説」,「人件費はタダ」,「コスト意識ゼロ」という,5つの考え方で仕事をしていることである。私は,これをY大学5原則と名付けることにした。ここの人たち,ということで役人,と言わなかったのは,私はここの人たちしか知らないからである。ここの人たちだけの特殊な世界であると信じたい。しかし,事実はわからない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.22-23

人件費はタダ

そして,手段であったはずの仕事が目的に変わっていく。手段が目的化するのである。目的になった仕事は,絶対になくならない。組織の拡大とともに,このような仕事にさらに人手が追加される。これが当たり前になった人たちには,実態は見えない。また,不必要な仕事だとも考えられていない。民間から来た人間から見ると「こんなこと必要ないんじゃない」と思えるのだが,大変重要な仕事だと認識されている。ここでは,ありとあらゆるロスが発生する。人件費,コスト,時間,生産性,サービスである。民間経験者から見ると,ロスと浪費のデパート,いや総合商社である。
 ここの人たちには理解できないようなのだが,このような書類の作成には必ず人間が介在する。人間はタダで仕事をしてはくれない。従って,このような書類を要求すると金額が高くなることはあっても,安くなることはない。先ほどの起案のハンコの数の多さでもおわかりかと思うが,役人の世界では「人件費はタダ」という発想で物事が行われている。そう考えなければ,これだけ無意味なところに多くの人手,工数をかける意味が理解できない。自分たちはタダで働いているわけではないのに,「人件費はタダ」であるということで行動しているのだ。どうしてこんな単純なことがわからないのだろう,といつも考え込んでしまう。とても理解ができない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.21-22

管理強化

以前,官官接待でこの食糧費が社会通念上,儀礼の範囲を逸脱して使われたとして問題になった。そのため,食糧費は特に厳しくなっているようなのだ。このため,見積り,納品書,請求書が必要となる。先ほども述べたが,何かが起こるとすぐに屋上屋を架すのが役人の発想である。1人の不心得者がしでかした悪事に対しても,全員が悪人であると考えて対応をとるよう制度の変更を行う。従って,ここには膨大なムダが発生する。人件費,コスト,時間が浪費されることになる。
 何かが起きると,常に管理強化の方向に動く。原因を見つけ出し,それをどう予防するのかといった根本的な問題を考えて解決を図ろうとはしない。ただ人手をかけて人海戦術で何とかしようとする。システムをどう改善するのか,という議論にはならないのだ。従って,いくら屋上屋を架しても,介在する人が悪さをすれば防ぎようがない。そして,また問題が発生する。すると,さらに人を増やして,といったように意味もなく人だけが増えていく。ほとんど無意味と思えるような仕事に,本当に信じられないくらい大量の人が貼りつくことになっている。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.20-21

エイリアン

さしさわりのない起案であればよいのだが,ある時は非常勤講師採用起案というものも紛失していた。「おいおい,これって人事案件で,非常勤講師の経歴や個人情報といった丸秘の内容が含まれているんじゃないの」とスタッフと話をしたのでよく覚えている。民間であれば,持ち回りで起案決済が行われる内容のものである。この起案は,私のところに回るような案件ではない。
 しかし,関係すると思われるところはすでに捜したのであろう。それでも見つからず,どこへ回っているかわからないため,相当な数の人間にあてて,探索メールが流されていたようなのだ。民間企業の人事部門の人たちにとっては,とても考えられないような話だと思う。私がエイリアンと表現した意味が,よくおわかりいただけるものと思う。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.16-17

責任逃れ

話を戻そう。それでは,何か問題があったら責任を取るのかといえば,責任は一切取らない。先ほども述べたが,授権しないで,ハンコの数だけ多いのは「無責任体制です」と言っているのと同じである。「赤信号,みんなで渡れば怖くない」ということばがある。ここは,まさにこれである。私のいた民間企業の場合,課長が通常は起案者となり,関係部門があれば,その関係部門の責任者だけの承認で済んだ。課長決裁であれば,お金がかかっても課長のハンコが1つだけなのである。問題が発生したらこの課長の責任となる。大変シンプルであった。ここでは,責任を逃れるために多くの人間が起案にハンコを押しているとしか思えない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.16

予測精度の向上

このように,ランダム性と予測とのあいだの境界は突破できるものだと考えると,ポパーの多大な権威と影響力をもってしてもなお,彼が正しいのは自明だなどとは決して言えないことに気づかなくてはならない。ポパーがなんと言おうと,社会的な系が予測不可能だという確固たる証拠はないのである。となると,未来にはふたつの可能性がある。ひとつは,新たなハイゼンベルクが登場し,新たな不確定性原理を提示して,ポパーの正しかったことを告げ,未来を見通すことはただ難しいだけでなく,根本的に不可能であることを立証するという可能性だ。
 一方,もうひとつの可能性は,おもに商業上の目的に供するために,予測ツール,とりわけ個人の行動を定量化するツールが,どんどん改良されるというものだ。予測の正確性を高めるために,やがてそれらのツールの焦点は個人から,その個人の含まれる集団へと移っていく。人が規則的なパターンから外れるのは(まっすぐ家に帰らずパブに寄ったりするのは),たいてい,お仲間のせいだからである。時間的にも,これらのツールの効力範囲は分単位から時間単位へと延びるだろう。人間の行動における慣性の持続時間が短いことを考えても,それぐらいならありえる飛躍である。時間単位の予測から日単位の予測に延ばすのは容易ではないので,最初は不正確な予測しかできないだろう。数十年前の天気予報もそうだった。しかし,その予測力はいずれ向上し,いつかはわれわれの未来もかつてのような謎のままではなくなっているかもしれない。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.376

進化のバースト

一方,時代も分野もまったく異なるところでは,チャールズ・ダーウィンが,新しい種の発生はいずれも漸進的なプロセスをたどるという仮説を出していた。要するに,現在の種から少しだけどこかが修正された子孫へとゆっくり変化していく過程を通じて,新しい種は生まれるというのである。そうした連続的な変化の証拠は,もちろん当時もなかったが,今日でもめったに得られない。ゆえにダーウィンも,それが「私の理論に対して出されるもっとも深刻な異論」と認めざるをえなかった。実際,何百万年という長きにわたって,化石記録に見られる種は進化的変化をほとんど示していないという時期がある。新しい種が現れるのは,たいてい数十万年のスパンであり,それは進化の全過程から見れば,ほんの一瞬の期間にすぎない。つまり進化はバーストを生じさせながら進んでおり,そのバーストが化石記録に保存されているということだ。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.350

時間がかかるもの

一般に,基礎科学からその応用への発展は,いらだたしいほど時間がかかるのが普通である。たとえば量子力学は,20世紀の輝かしい科学の勝利だったにもかかわらず,トランジスタが発見されるまでの約半世紀,なんら具体的な恩恵をもたらさなかった。同様に,ヒトゲノムの解読に触発されて医学革命が起きたにもかかわらず,10年経っても市場に出ているほぼすべての薬剤は,いまだにゲノム解読以前の薬を試行錯誤した結果の産物である。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.348

研究とプライバシー

残念ながら,調査研究とプライバシーのあいだにどうしても存在する固有の軋轢についてとなると,私はいまだその難題の解決方法を見いだせていない。学術的な研究を放棄したところで,人間力学を秘密主義の政府研究機関や非公開主義の民間部門に譲り渡すことになるだけで,それこそ誰も監視できなくなる。実際,今日では人間行動についての研究は,大学よりも民間企業でおこなわれているほうがよっぽど多い。グーグルのドル箱である「アドセンス」プログラムなどは,人間行動についての壮大な実験以外の何物でもない。ただし,その目的は,四半期所得を最大限にできるように広告収入を上げることなのである。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.324

研究のジレンマ

私たちが人間の移動に関する研究論文を出したあと,それについてのニュース記事が書かれたことで,各個人についての情報がすでにどれだけ無数に集められているかに,ようやく気づいた人が大勢いた。なかには最初の本能的な反応として,私たちの発見について知ったとたん,いきなりただの伝令に突っかかってくる人もいた。その知らせを伝えた私たちを,オーウェルの『1984年』の「ビッグブラザー」呼ばわりしたのである。その後は何日も眠れない夜が続き,私はこう自問せざるを得なかった——いったい研究者の役割とはなんなのだろう?これはとくに目新しい疑問でもない。核エネルギーから遺伝学にいたるまで,あらゆる専門家の科学者が何十年も前から悩まされてきた問題である。人間力学と同様に,それらの分野は新薬からクリーンエネルギーまで,さまざまな利益をもたらしている。だが一方で,それらには核兵器から遺伝子組換えのおぞましい産物「フランケン・バグ」まで,さまざまな暗い面も付き物なのだ。
 今日,人間力学の研究をしている人はみな,そうしたジレンマにますます悩まされるようになっている。監視国家や監視コングロマリットの誕生に知らず知らず手を貸すのをどうしたら避けられるのか?このままいけば,それこそ『1984年』の再来ではなかろうか?

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.322-323

べき乗則とガウス分布

その話題に移る前に,われわれの行動内容と,行動の予測可能性との違いをはっきりさせておこう。行動内容——どれだけの距離を移動したとか,何通の電子メールを送信したとか,電話を何回かけたとか——については,すでにベキ法則にしたがうことが明らかになっている。つまり,一部にものすごく活動的な人たちがいて,メールをたくさん打ち,遠くまで移動するのだ。それはまた,外れ値に該当する人が存在するのは当たり前だということでもある。ハサンのように何百キロも何千キロも飛びまわる人間が少数いるのは「想定内」なのである。
 しかし行動の予測可能性となると,意外なことに,ベキ法則に代わってガウス分布が現れる。つまり周囲3キロ圏内に暮らしていようと,毎日車で数十キロ走ろうと,急行電車で通勤しようと,それどころか出張するのに飛行機を使おうと,どこにいるかは同程度に予測できるのである。そしてガウス分布が支配する世界では,外れ値はあってはならないものとなる。人間行動はランダムだと仮定する,ポアソンのサイコロに支配された世界では,バーストが起こらなかったのと同じことだ。あるいは身長3メートルの人たちがその辺を歩いていることなどありえないのと同じだともいえる。人はみな,いろいろな点で他人とは違っている。それでも居場所ということになると,誰しも同じくらいに予測可能になり,この傾向に逆らう人間の存在は容赦のない統計の法則によって禁止されてしまうのである。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.289-290

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