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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ポアソンの習慣

ポアソン分布。ポアソン過程。ポアソン方程式。ポアソン核。ポアソン回帰。ポアソン和公式。ポアソン点。ポアソン比。ポアソン括弧。オイラー=ポアソン=ダルブー方程式。これは全体のほんの一部だが,それだけでも,シメオン=ドニ・ポアソンの研究がいかに科学のあらゆる分野に影響を及ぼしたかがわかるだろう。しかし驚くべきは,彼の貢献の量ではなく,その深さだ。そこで,どうしてもこんな疑問が浮かんでくる。いったいポアソンはどうやってこれだけ多くの異なる問題に同時に取り組みながら,なおかつ深い,色あせない貢献ができるほどの集中力を効率的に維持できたのか?
 もちろん,彼には秘訣があったのだ。一冊のノートと,ささやかな習慣である。
 ポアソンは興味深いと思う問題に出くわすたびに,その楽しみにふけりたくなる衝動に抵抗した。そして代わりにノートを取り出し,その問題を書きとめると,中断が入る前に夢中だった問題にさっさと注意を戻した。手元の問題が片付くと,そのたびにノートに走り書きされた問題のリストを眺めまわし,もっとも興味深いと思ったものを次の課題として選び出す。
 ポアソンのささやかな秘訣とは,生涯にわたって注意深く優先順位をつけることだったのだ。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.179
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なんでもべき乗則

どういう種類の人間行動を調べても,つねにバーストのパターンがあらわれた。長い休止期間のあとに,短い集中的な活動期間が続く——それはあたかも,ベートーヴェンの傑作を奏でるバイオリンの音色にうっとりしていたら,いきなり大きな太鼓の音でびっくりさせられるようなものである。バーストは自然界のどこにでもある。各個人がウィキペディア上で行う編集から,為替ブローカーが行う取引まで,あるいは人間や動物の睡眠パターンから,ジャグラーが棒を地面に落とさないようにする微細な動きまで。それは,もはや電子メールやウェブ閲覧という問題ではなかった。私たちは,人間行動と密接に結びついた何か——「誰もランダムになど行動しない」と,はっきり告げている何か——を目撃していたのである。人間がランダムに行動しないこと自体は,さして驚くことではなかった。自分が偶然に支配されているとは誰だって思っていないからだ。人間はみな自由意志を持っていて,それがあらゆる行動を——電子メール送信も,文書印刷も,ウェブ閲覧も——複雑にしている。だが,何をするにせよ,われわれは無意識に同じ法則,ベキ法則にしたがっていたのである。簡単なことのようだが,じつはこれが驚くべきことなのだ。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.155-156

貸出のバースト

さらに私のチームはノートルダム大学のヘスバーグ図書館の厚意により,学生や教員がいつ本を借りに来るかについての詳細な記録も手に入れることができた。私たちはFBIではないので,誰が何を読んでいるかはどうでもよかった。知りたかったのは,各利用者がいつ図書館を訪れるか,それだけだった。そしてバーストはここにも存在していた。典型的な図書館利用者は何冊かの本を,前の本を借りてから数時間以内に借りている。おそらく講義の準備のためか,研究課題の資料を読むためだろう。そして,そのあと長期間,各利用者は図書館のことをすっかり忘れたようになってしまうのだ。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.154

バーストのパターン

エックマンが調べた電子メールのデータから導き出される結論は,いたって明快である。彼のデータベースにおける電子メールのユーザーは,誰ひとりとしてランダムに発信していない。いずれのユーザーも同じパターンを示しており,短時間に集中して多くのメールを出したあと,今度は一通もメールを出さない時期が長きにわたり,ときには数日にもわたって続くのである。もちろん,これは不思議でもなんでもない。われわれは会議に出たり,映画を見たり,外出したり,食べたり,寝たり,そのほかさまざまな活動に従事して,その間はコンピュータにさわれなくなる。そしてようやくメールのチェックをしたとき,短期間に幾つかのメッセージを一気に送って,電子メールの発信パターンに「バースト」を起こす。それから,また別の用事が入ってコンピューターから離れると,電子メールの流れにまた休止が挟まれることになる。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.152

同じパターン

もし戦いが本当にランダムな性質のものなら,突出した犠牲者を出す争いはほとんどないはずだ。しかしリチャードソンが調べた結果は,そうではなかった。1820年から1949年までの282件の戦いのうち,188件は,死者が数千人でおさまるマグニチュード3以下の比較的小規模の争いだった。約1万人の犠牲者を出した交戦はそれより少なく,正確に言うと63件がマグニチュード4に相当した。ところがマグニチュード6にあたる争いも6件あり,数千万人の命を奪ったマグニチュード7の戦争も2件あったのだ。
 このマグニチュード7の戦争は容易に想像がつくだろう。もちろん,ふたつの世界大戦である。1000万人からそれ以上の犠牲者を出したマグニチュード6の6件の紛争を言い当てるのは,それほど簡単ではない。規模の順に挙げると,太平天国の乱(清朝中国,1851-1864年),スペイン内戦(1936-1939年),国共内戦(中国,1927-1936年),南米の三国同盟戦争<ラプラタの大戦>(1865-1870年),北米の南北戦争(1861-1865年),およびボリシェヴィキ革命に続くロシアの内戦(1918-1920年)である。
 詳細に調べた結果,リチャードソンは犠牲者の数がある単純な数学的法則にしたがっていることに気づき,それを単純なフレーズに集約した。「少ないほど,大きい」がそれである。つまり,紛争の大多数は地味な小競り合いで,せいぜい数百人の死者しか出していなかった。しかし莫大な数の犠牲者を出すような壮絶な衝突は,規模が大きくなるほどデータベースに現れる確率が少なくなっていた。
 じつは,このパターンに気づいたのはリチャードソンが最初ではなかった。19世紀の経済学者ヴィルフレド・パレートは,大多数の人々が貧乏である一方,ごく少数の人々だけが異様なほどの富を蓄積していることに気づいた。金持ちが存在すること自体は,べつに驚くにはあたらない。たとえ富がランダムに獲得されるとしても,誰かが別の誰かより金持ちになるのは当然だからだ。しかしパレートが調べたところ,その一部の金持ちは,ランダムな富の配分では説明しきれないほど金持ちだったのである。リチャードソンとパレートの研究は,戦争や収入が,いわゆる「ベキ法則[ある変数のベキ(累乗やn乗など。nは定数)で変化する法則。たとえば,y=x^2などのベキ関数にしたがって変化するもの]」にならっていることを示していた。厳密に言えば,多数の小さな事象が,少数のとてつもなく大きな事象と併存しているのである。つまりひとつの世界大戦や,ひとりのゲイツやロックフェラーにつき,無数の小さな紛争や,何百万もの貧乏人が存在しているというわけだ。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.149-150

ポアソン

今日,ポアソンの名は,じつにさまざまな科学的発見をしたことで知られている。ポアソン積分,ポテンシャル論におけるポアソン方程式,弾性におけるポアソン比,電気におけるポアソン定数——ざっと挙げただけでもこれだけある。彼の名前はエッフェル塔に刻まれているだけでなく,月の表側の南方の高地,アリアケンシスの東,ゲンマ・フリシウスの北西に位置する深く侵食されたクレーターにも,やはり彼の名が冠されている。ポアソンは生涯に350本以上の論文を書き,それはいま見てもすごい量だが,当時としても驚異的な生産高だった。しかも,当時はワードプロセッサーなどなかったのである。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.122

問題は

予測にも,できるものとできないものがあると思うのはもっともだ。われわれはさまざまなパターンを頭に入れており,自然法則にしたがう出来事ならば正確に予測してのける。テニスボールの動きもそうだし,走っている自動車の進路もそれにあたる。一方,国王や枢機卿やサルタンや諸侯などの相反する利害によって情勢が変動する中で,何万もの農民を巻き込んで行われる戦闘の結果を予見するのははるかに難しい。この場合には,人間の意志が絡んでくるからだ。だが,「難しい」と「不可能」は同じではない。したがって,人間行動の科学を追求していくなら当然問われるべき重要な問題は,われわれの未来は原理的には予測できるのか,ということだ。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.97

人間行動の予測は

今日,イリノイ州を本拠とするある会社は,あなたの愛する人の遺灰をたった2万4999ドルで1.5カラットのダイヤモンドに変えてくれる。私自身は,ダイヤの指輪になった祖母に会いたいと思うかどうかわからないが,このテクノロジーの快挙を前にすれば,夜の商売人の大胆さには感嘆するしかあるまい。厳密に言えば,これは変性ではない。灰とダイヤモンドはともに炭素からできているからだ。とはいえ,悪い話ではない。1980年に,科学者グレン・シーボーグは,ラザフォードの例にならって化学元素のビスマスから金を作り出すことに成功した。この偉業を知ったら,ニュートンもきっと喜んでくれるだろう。しかし,そのシーボーグの手順はあまりにもエネルギーを消費するものだったため,経済的には明らかに成り立たなかった。
 それでも,このシーボーグの成功により,科学では長らく疑問視され,いかがわしい幻想とさえ言われてきた分野にも,定量的方法,すなわち物理法則に反しない方法を適用できることが実証された。だとすれば,いずれ科学的手法がさらに洗練されていけば,人間の行動についても同様の進歩を実現できるのだろうか。人間行動の性質を,正確で予測可能な科学に変えられるのだろうか。ウイルスの経路を予測して,感染を避けるためには明日この道を通ってはならないと正確に助言することにより,流行病の蔓延を阻止できるようになるのだろうか。夜のニュース番組は過去の出来事を伝えるのをやめ,むしろ気象予報士のように,これこれの日には人間がらみの問題でこういうことが予測されると知らせるようになるのだろうか?
 これらは根本的な疑問だとはいえ,学問的にはあまりに現状の理解を越えているため,ほとんどの科学者は完全に棚上げにしている。これらの問いに答えるのに,科学のどの分野が——可能かどうかはさておき——最適なのかさえ明らかでない。物理学か?生物学か?経済学か?コンピュータ科学か?心理学か?はたまた各種の社会科学か?そんな状態だから,人間行動の予測は目下のところ,もっぱらビジネスコンサルタントや手相占い師に任されているのだ。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.80-81

切手収集のようなもの?

ラザフォードは,よく引用される,こんな傲慢な言葉を発したことで知られている——「科学には物理学しかない。あとはみな切手収集のようなものだ」。たしかに,物理学の究極の目標である基本原理や方法の探索は,トランジスタから宇宙旅行にいたるまで,今日の多くの目覚ましい進歩の土台となっている。とはいえ,このアプローチではうまくいかない分野も,科学には数多くある。細胞の悩ましいまでの複雑さに直面した生物学者や,人類の神経回路の不思議さに恐れ入った脳科学者,あるいはバブル経済にもなれば恐慌にもなる迷宮のような社会経済の変遷を前にして途方にくれる社会科学者や経済学者は,これまでしばしば,自分たちの分野には基本法則など存在しないのかもしれないと論じてきた。その意味で,普遍法則を執拗に探し求める物理学者のやり方は,よく言っても見当違い,悪く言えば失敗するに決まっていると,そう見なす人も多いのである。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.78-79

イェオウァ・サンクトゥス・ウヌス

今日,イェオウァ・サンクトゥス・ウヌスという名前はあまりおなじみではないかもしれないが,彼はその時代,並ぶもののない最高の知識人だった。これを書いたときすでに自然界の暗号を解読していて,その名声は,アインシュタインをして,彼を「われわれが深く尊敬するに値する」「天才的な発明家」と呼ばしめるほどだった。では,この「聖なる神エホバ」とはいったい何者なのか。モーセから代々ピュタゴラスやプラトンといった輝かしい継承者たちに伝わっていった秘密の知識,いわゆる「古代の知恵(プリスカ・サピエンティア)」を持つこの男は……。
 時を経て1936年,老舗競売会社のサザビーズから329口の手書き原稿の束が売り出された。その3分の1以上には,賢者の石を作る試みが詳述されていた。1727年の筆者の没後,これらの手稿は「印刷に値せず」と書きつけられたまま,ずっとしまい込まれていたのだが,それは賢明な判断だった。この文書はイェオウァ・サンクトゥス・ウヌス,すなわち,ありふれた金属を純金に変えることに生涯取りつかれていた男の正体を明らかにしていたからである。彼はほかでもない,サー・アイザック・ニュートンだった。
 われわれの知るかぎり,ニュートンはアンチモンや鉛を——もちろん,ほかのどんな金属も——黄金に変えることには成功していない。とはいえ,彼の生涯のこの時期はきわだって生産的だった。錬金術の実験のあいまに,深い数学的洞察を示した『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』を著し,自らの発見した万有引力の法則について解き明かした。しかし彼の生涯の研究目標であった卑金属から貴金属への変性の方法は,ついにとらえることができなかった。その謎が解き明かされるには,さらに200年近くがかかった。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.74-75

ニュース

いまのところ,未来はまだ「検索」できない。われわれは未来の縁にぎりぎり片脚をかけながら,過去と未来の境界線のようなニュースをむさぼっている。次の大事件を待ちきれないでいるわれわれの貪欲さを考えれば,新聞の見出しを飾ったどんな出来事も,すぐに色あせてしまう運命にある。ある事件の続報が第一面に出続けることもあるかもしれないが,そこに新たな事件が出てくれば,前の事件はたちまちニュースバリューを失うのを避けられない。
 もちろん,これには一般大衆とメディアの双方が一枚かんでいる。ひとひらの雪が温かい指に触れたとたんに溶けてしまうように,ニュースも最初にそれに触れたときにしか,ありがたみがない。「ニュース」は「新しいもの」でなくてはならず,つねに最新事情を押さえておくには定期的なチェックが欠かせない。したがって,昨日の新聞はあっというまに価値がなくなる。この章だって,早く読まないとすぐに時代遅れになるかも……。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.68

楽しくない

どうも,この頃は,「楽しく学ぼう」というような幻想を追い求めすぎていないだろうか。はっきり言って,勉強は楽しいものではない。考えることだって,どちらかといえば苦しいことだ。のんびりとリラックスしているときにアイデアが浮かぶよりも,忙しくて必死になって考えているときのほうが,断然発想することが多い。ただ,忙しいとそれを吟味する時間がないので,見過ごしてしまうだけである。テスト勉強をしているとき,試験の前夜などに,やりたいことを思いついたり,やる気が湧いた経験はないだろうか。ちょっとしたストレスの中で,人間の頭脳は,面白いことを思いつき,実際に使えるアイデアが出てくることが多い。酒を飲んで良い気分のときには,残念ながら,頭からはなにも出てこない。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.184

大学の先生とは

世間の人は,大学の先生とは,社会から隔絶された環境にいる人間で,現実社会の厳しさを知らないだろう,と想像しているはずだ。ところが実際には,大学の先生は,会社でいえば,社長も社員もバイトも含めて,全部の仕事を1人でしなければならない。営業も広報も人事も秘書もすべて自分でする。技術もマネージメントも人に任せることはない。また,大学の運営の仕事があり,学会の委員会がある。これは政治ではないか,と思える仕事も多々ある一方では,お客が訪ねてくれば,自分でお茶を淹れて出さなければならない。代わりに電話に出てくれる者はいない。教授でも,コピィは事務室まで自分で撮りにいくのである。
 だから,普通の会社員よりは,世間というものをたぶん理解しているだろう,と僕は思う。ただ,人間関係がこじれたときに,「あいつとはつき合わない」という選択ができる。自分の研究,自分の研究室という逃げ場があるからだ。また,なにをしていても,首を切られることがない。その最低限の安全が保証されている点も,自由でいられる大きな要因だろう。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.135-136

評価してやる

もう1つ,子供が突飛なことを言ったら,それを評価してやることが大事だと思う。「馬鹿なこと言っているんじゃない」などと無下に否定してはいけない。
 いつだったか,(たしか新聞の投稿で)子どもが満天の星空を見て,「蕁麻疹みたい」と言ったことに対して,「近頃の子供は夢がない」と嘆く論調のものがあったが,とんでもない話である。その子供の発想は素晴らしい,と褒めなければならない。星空は綺麗なものという固定観念に囚われている方が,明らかに「不自由」な頭の持ち主であろう。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.129

寂しい奴

たぶん,友達がいないと悩んでいる人は,その友達がいない状況が,すなわち寂しい状態だと思い込んでいる。ときどき,気に入らない他人の状況を「寂しいね」と非難する人がいるくらい,この言葉は悪い意味にしか使われない。「私は嫌いだ」と言えば良いところを,「あいつは寂しいね」などと言うのである。まだ,「可哀相」の方が幾分良いが,上から目線だと言われるだろうか。「可哀相」も「寂しい」も,そう感じるのは発言している本人であり,まったく余計なお世話というほかない。だから,「寂しい奴だ」というもの言いは,完全におせっかいというか,意味もよくわからず使ってしまう表現としか思えない。おそらく,言っている本人が「寂しい奴」なのではないか。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.88

思い込み

子供や若者の中には,「友達ができない」という悩みを抱えている人が多い。その種の相談を受けることも実際に頻繁である。そういう人には,「どうして,友達がほしいの?」と尋ねることにしている。「友達がいないと寂しいから」と答える人がほとんどであるが,「では,どうして寂しい状態がいけないの?」と問うと,これにちゃんと答えられる人はまずいない。不満そうに黙ってしまうのだ。
 彼らは,「寂しいことは悪い状態だ」と考えていて,「友達がいれば寂しくない」と勝手に信じている。なんの根拠もなく,そう思い込んでいるのである。だから僕は,「寂しくても悪くない」こと,そして「友達がいても寂しいかもしれない」ことを説明するようにしている。そんなことは信じられない,と反発する人もいるが,つまり自分の思い込みが悩みの原因だということに気づいていない(気づけない)状態といえる。さて,貴方はどう思うだろうか?

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.87-88

話し合うこと

大勢の「感情」を煽って,声を大きくすれば社会は動く,という考え方は,民主的ではなく,ファシズムに近い危険なものだと感じるのである。戦争だって,国民の多くの声で突入するのだ。「国民の声を聞け」というが,その国民の声がいつも正しいとは限らないことを,歴史で学んだはずである。
 そこにあるのは,多くの人たちが,物事を客観的に見ず,また抽象的に捉えることをしないで,ただ目の前にある「言葉」に煽動され,頭に血を上らせて,感情的な叫びを集めて山びこのように響かせているシーンである。1つ確実に言えるのは,「大きい声が,必ずしも正しい意見ではない」ということである。
 できるだけ多くの人が,もう少し本当の意味で考えて,自分の見方を持ち,それぞれが違った意見を述べ合うこと,そしてその中和をはかるために話し合うことが,今最も大事だと思うし,誤った方向へ社会が地滑りしないよう,つまり結果的に豊かで平和な社会へ導く唯一の道ではないか,と僕は考えている。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.57-58

濁った情報

現代社会は,溢れるばかりの情報が降り注ぎ,人々はこれに埋もれてしまっている状態である。広い範囲の具体的な情報に,誰でもいつでも簡単にアクセスができるようになった。知りたいと思ったときに,すぐに知ることができる。ただし,知りたいと思っていないものまで,無理矢理知らされてしまう,という事態に陥っている。また,いったい何が本当なのか,ということがわからない。その理由は,これらの情報が,どこかの誰かが「伝えたい」と思ったものであり,その発信者の主観や希望が必ず混ざっているからだ。濁りのないピュアな情報を得ることは,現代のほうが昔よりもむしろ難しくなったと言えるだろう。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.50

痺れるくらい凄まじい体験

つるかめ算が凄いところは,「もし,つるの脚が4本だったら」と想像するところにある。そんな4本足のつるはこの世にいない。それでも,問題を解くために,それを想像するのが人間の「凄さ」なのである。痺れるくらい凄まじい発想ではないか。この凄まじさを体験することこそが,算数の醍醐味であり,教育の本質といって過言ではない。考えただけでも,身震いするような素晴らしい体験になるだろう。子供たちにこの「痺れるくらい凄まじい体験」をさせられる算数の先生はいるだろうか?

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.45

主観的で具体的で感情的

主観的で具体的なものが悪いわけではない。また,感情的になることも,けっして不自然ではない。人間には,主観が大事だし,具体的なものを捉えなければ生きていけない。そして,感情的にならない機械のような思考や行動は,ときに不気味でさえある。生活のほとんどは,主観と具体性だけで成り立っている。だから,その考え方だけでも生きていける。周囲のみんなが善人で,気持ちが通じ合い,平和で豊かであれば,また競争もなく,成功も出世も意味がないという聖人のような生き方が望みならば,それで良いのかもしれない。たとえば,無人島で自分1人だけで生きているという条件ならば,主観的かつ具体的思考でまったく問題はないだろう。現に,野生の動物はみんなそうしているのである。
 けれども,人間社会ではそうはいかない。世界には沢山の人間が生きている。考え方の違う他者とつき合っていかなければならない。社会に出れば,ある程度の競争があり,また,もっと深刻な争いにも遭遇するだろう。自分の自由を獲得するためには,それらを克服あるいは解決していく必要に迫られる。そうなると,主観的で具体的で感情的なものに囚われていては,明らかに不利になるのだ。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.6

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