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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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共感の欠如

もう1つ,男性たちが女性に向ける性的な視線で気になることがある。それは,これまで述べてきたセクハラを“男性問題”として捉え直すという認識とも重なるが,性的なトラブルなどに現れる男たちが著しく他者への共感能力を欠いているという問題である。相手の人格を否定してでも自らの欲望を遂げようとする。それは,多くの男性たちが抱え込んでいると言われる強姦願望のなかにその典型が見られる。
 相手の苦しみや痛みを,相手の願望や快感に読み替えてしまう身勝手な解釈である。そこには,自らの閉塞感を他者に転嫁して痛みを感じない差別的な姿勢が見える。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.198
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本末転倒

「仕掛けられる」被害者でしかない女性の側に説明責任を問うこと自体が,本末転倒と言わなければならない。説明責任はあくまで「仕掛ける側」にあり,加害者である男性が考えなければならない“男性問題”なのである。
 しかし,この時代の変化を理解できない人たちの頭のなかでは,依然として,被害を訴える女性の側の問題であり続けている。いまだに多くの男たちは「嫌ならなぜ,もっと強く拒否しなかったのか」「なぜ,声をあげなかったのか」「なぜ,逃げなかったのか」という女性の責任を問えばよいという問題認識のままでいる。だから,彼らの関心は,依然として女性の挑発や抵抗への詮索だけに向けられている。
 それどころか,加害者の男までもが,被害者の落ち度を言い立てたり,どうにもならなくなると,「魔が差した」などという他人言のような言い訳で済ませてしまおうとする姿勢を変えない。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.192-193

いいわけにしがみつく

セクハラ男たちが示す共通の反応は,これまで許されてきたことが許されなくなってしまう,既得権喪失への条件反射に似た怒りである。そして,非難されればされるほど,自らの思い描いたストーリーが思い通りに運ばなかったり,訴えられたりしたことへの苛立ちとなって,男たちの内部にくすぶり続けることになる。
 それは加害者男性がよく使う,幾つかの苦し紛れの言い訳によく示されている。「彼女にもその気があったのではないかと思った」とか,「お互いに,意気投合して……」「彼女も同意していると思った」などという言い方がそれである。そんなとき男たちは,「それなのに,なぜ……」という疑問を抱え込んだまま立ち尽くしているのである。
 セクシャル・ハラスメントとして訴えられ,あるいは告発されている以上,相手は明らかに合意はしていなかったということになる。それにもかかわらず,「あれは間違いなく合意だった」と繰り返し,相手から否定されてもまだ,「合意だったはずだ……」と男性はつぶやき続けている。
 こうして繰り返し現れるセクハラ男たちに共通していることは,セクハラ問題がもはや言い訳不要な“女性問題”ではなく,確実に説明が必要な“男性問題”になってきているということへの認識を決定的に欠いていることである。
 つまり,彼らは依然として,セクハラは女性の側に問題があって,その落ち度を言い立てれば,それでことが済むと考えているのである。そこまで極端ではないとしても,ありとあらゆる女性の仕種を強引に合意と解釈しようとする,困った習性を身につけてしまっている。だから過剰にOKサインを読み込んでしまい,「了解していると思った」という言い分にしがみつこうとしているのである。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.188-189

いいわけ

この種の事件に共通して言えることは,男たちの「合意だ」という主張を裏付けるほど,はっきりとした意思表示は,女性の側からはなされていないことが多いということである。だから,その都度そんなことを加害者男性に聞き直してみるのだが,その際の答えは,せいぜい「拒否はしていなかった」という説明に留まることが多い。
 彼らから,女性の側が「了解していた」「合意をしていた」ことについて納得できる説明を得ることは難しい。そして,そんな場合は決まって,彼女が「消極的な性格」のためとか,「女性だから,はっきりとした意思表示はしなかったがその態度でわかった」などという言い訳がされる。
 実に多くの男たちが,「彼女が望んでいることは雰囲気でわかった」とか「仕種や態度から察することができた」などと言う。さらに「強い拒否がなかった」「本心からの抵抗だとは思えなかった」などと,追加的に説明される。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.169-170

離婚経験のある場合

離婚経験のある女性は,男性たちからの性的に期待を込めた過剰な視線にさらされがちだ。そして男性たちは,女性の「性的欠落感」が,逆に性的奔放さや積極性へ展開することをさらに期待する。またそれだけではなく,彼らは夫婦生活の破綻は女性の性的価値を低めるものとみなし,時には,いわゆる責任のともなわない性的関係をも期待しがちである。
 こんな特徴が指摘できるが,つきつめて言えば,「男性は女性を仕事上のパートナーとしてよりも常に性的な対象として見ることに慣れていて,性的な視線を女性に向けがちである。特に離婚した女性などに対しては,そうした傾向が一層強い。そして,そのような場合に,トラブルに発展した際には,男女とも離婚した女性に対しては自己責任について厳しく,本人の落ち度などの非を唱える傾向が強い」ということになろう。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.144-145

ワンパターンな男性

いや,現実は,追い込まれた女性たちがいろいろな思いで悩みながら,悲鳴をあげてやってくる。だから,たしかにいろいろな女性がいる。しかし,事件の1つひとつに目を凝らしてみていると,ワンパターンなのは女性の方ではなく,むしろ「女とはそうしたものなんだ」と括りたがっている男性にタイプが共通しているような気がする。
 そう言えば,男性たちによって描き出される女たちがワンパターンなのは,描き出す男性たちの表現がワンパターンだからではないだろうか。そう考えた方が起こっている事件の解釈に無理がない。そうなのだ。そうした男性たちが抱いている,自分たちに都合のいいワンパターンな女性像を相手の女性に重ね合わせようとしたり,そこに身勝手な望みを押しつけたりすることによって起こる事件こそが,セクハラ事件なのだ。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.123

対価型

セクシャル・ハラスメントの1つの形態として,「対価型」と呼ばれるものがある。定義としては,「何らかの雇用上の利益あるいは代償として性的要求が行なわれるもの」とされている。文字通り「言うことを聞けば,給料を高くしてやる」「聞かないのなら,辞めてもらう」,または,「昇進させてやる」「異動させる」などの利益誘導や脅かしの言葉での性的な誘いかけをすることを言う。
 こんなストレートで,はっきりとした性的な言動が職場で行なわれている事自体が信じられない気もするが,現実にこんな事件は少なくない。裁判や事件を通して,繰り返しこうした事件の実情に触れるにつれ,こんな職場は一体どうなっているのだろうと考え込んでしまう。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.108-109

鈍感さ

セクシャル・ハラスメントの事件を見ていて,どうしても気になるのは,加害者となる男性たちが,自分の置かれている立場をまったく理解していないことだ。つまり,立場の絡む人間関係ということに,いまだ何の配慮もないように見えることである。相手の女性の側から見たときに,自分の言動はどのように受けとめられることになるか,また,その時に相手はどんな気持ちになっただろうか,という点にあまりにも鈍感だという気がするのである。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.68-69

脆弱なもの

彼らが浮き足立つもう1つの要因は,女性たちからのこれまでの男性中心の職場運営に対する異議申し立てである。セクハラをはじめとする性差別に対する告発はもちろん,男性中心の発想で運営されている職場の不合理な部分や,根拠のない男性優位のシステムなども同時に問われている。
 こうした変化によって男性たちは,自分と職場の関係などを通して,自らのアイデンティティの問題を初めて問い直さざるを得なくなっている。こうして今,一挙に職場の“男性問題”が浮き彫りにされているのだ。相談現場で,そうした問題に直面している男性たちに接していると,男の「我慢強さ」なるものは,単にこれまで優位な立場にあったがために保たれてきただけのもので,実はちょっとしたことで一気に崩壊に至るような脆弱なものなのだと思わざるをえない。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.9-10

マタハラ

女性の妊娠を知ると,すぐにセックスと結び付けたことを言いたがるセクハラ男性がいる一方,どうも日本の文化では,妊婦の身体にはプライバシーがないかのように錯覚してしまう傾向があるようで,出産経験のある働く女性たちが経験したセクハラとしてよく挙がるのが,妊娠中のお腹を触らせてと職場で誰かれなく触られた,というもの。触る方からすれば,もうすぐ産まれてくる赤ちゃんにちょっと挨拶,というつもりかもしれませんが,そのお腹は女性のとてもプライベートな部分。家族や親しい女友達なら別ですが,職場の同僚や上司にそんなプライバシーはさらしたくありません。相手には何の悪気もないどころか,親しみを持ってくれているからだとわかっているだけに,イヤとは言えなかったけれども,なんとなく気持ち悪かった,あれってセクハラじゃない?と経験者は言います。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.162

結果アウト

ここであらためて思い出してください。セクハラにおいて,男性と相手の女性は「対等」ではないのです。上司と部下,正社員と契約社員,派遣先と派遣社員,指導教授と学生。そこには力関係があります。そもそもの関係があるからこそ,女性は男性を尊敬し魅力的に思い,交際が始まったのです。
 つまり,かりに恋愛として始まった関係であれ,結果として仕事が続けられない状態になっているとすれば,それは「結果オーライ」ならぬ,「結果アウト」なのです。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.136-137

無自覚

男性の側は,こうした勢力を自分が持っているとは,あまり認識していません。というのも,新人の女性社員,初学者の女子学生にとっては,男性が抜群のやり手,優秀な学者に映っているとしても,客観的に見れば,さえないオヤジではないにしろ,フツウの中年サラリーマン,単なる教師。日常的には,社長や取引先にヘイコラ頭を下げ,家ではあまり存在感もありません。そんな自分が相手に対して,イヤなことでも黙って言うことを聞かせることができるような力を持っているとは,あまりピンと来ないものです(というより,「俺様にはそんな力がある」と日ごろから意識しているような人は,社会人失格のジコチュウでしょう)。しかも,若く可愛い女性がそんな気持ちを自分に持ってくれているとは思わないものです。そこに,合意をめぐる食い違いが起こってきます。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.120

構造的に

でも,彼らであっても,相手が若い女性巡査やアルバイトの女子大生ではなく,署長や後援会長の娘さんなら,そんなことはしなかったはず。いくら鈍感な男性でも,目下の若い女性ではなく女性上司や社長夫人になら,太ももを触るどころか,しっかりと相手の感情に配慮します。鈍感でいられるのは,相手の女性を軽く見る気持ちがあるからです。
 そう考えると,ある程度の年代や地位にある男性たちにとっては,鈍感さは構造的にビルトインされている,つまり組み込まれていると言っても過言ではありません。間違ってもセクハラ男になりたくなければ,そのことを自覚しておいた方がよさそうです。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.115

想像できない

男性にしてみれば,女性の「感じよい沈黙」は,男性のアプローチを女性が「恥じらいながらも受け止めた」か,「まったく気付いていない」ということであって,まさか「内心の不快感を押し殺してにっこりしているだけ」「無視することでノーの意思表示をしているつもり」とはなかなか想像がつかないでしょう。というのも,自分はどこかの変な男ではなく,よい上司,頼りになる先輩社員,よい指導教授としてそもそも彼女に信頼をされているはずなのですから。
 男性からすれば,もし彼女が自分に対してとくに好意を持っていないとわかったとしても,それはしょうがないこと,「恥をかかされる」ことでもない限り,仕返しなどするつもりはない。まさか女性が自分からの報復を恐れて不快感や苦痛を押し殺してガマンしているなどとは想像できないでしょう。ましてや機会があれば女性にアプローチしてやろうという気満々な男性なら,女性の「感じよい沈黙」は,次の自分の押しを待っている,女性らしい控えめさと映るでしょう。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.99-100

選ぶ権利

男性が真剣であろうがなかろうが,女性にとってはお呼びでないものはお呼びでない。そんな簡単なことがなぜわからないのか,女性からすれば不思議です。でも考えてみれば,古今東西,どんな時代・社会でも,男性には「遊び」のための女,その場限りのセックスがありました。道徳的判断は別として,男性が望めば多少のカネで女性と手軽に「遊べる」というのは厳然たる事実。カネが直接からまないとしても,女性を遊ぶ相手と真面目な付き合いの相手とに分ける「娼婦」/「聖母」の二分法は過去の遺物ではありません。
 だから男性は「俺は真剣なんだ」と,セックスだけが目当てなんじゃない,君を軽く扱っているんじゃないと自分の誠実さをアピールします。男性は,それで相手の女性は安心して自分との関係を受け入れると思っているのでしょうが,でも,男性の「真剣さ」を額面通り受け取るとしても(実際のところはマユツバですが),その男性との関係を望まない女性にとっては,嬉しくもなんともありません。当然ながら,女性にだって選ぶ権利があるのです。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.87

ケータイとメール

その典型が携帯電話とメール。セクハラと訴えられる事案では,男性が女性に毎日数10通のメールを送っていた,毎晩深夜にケータイに電話を指定た,とストーカーのようなふるまいをしているのはざら。最初は業務上の連絡や指導のために始まるのですが,そもそもその女性に好意を持っている男性からすると,頻繁な1対1のやり取りの中で,徐々に思いがこもっていきます。しかも,女性の側は,熱心に連絡をくれる上司や教師に無愛想だと受け取られないようにと,絵文字を入れるなどして可愛らしいメールを送ってきます。若い女性からすれば,そんなのは,友人たちと交わしているメールでは当たり前のやりとりですが,中高年男性は華やかで可愛らしい調子には免疫がなく,すっかり特別に親しい付き合いをしているかのような気になってしまいます。そこからは,夜更けにはおやすみ,朝方にはおはようとエスカレート,用事もないのにメールを送り,おやすみのメールへの返信メールが女性からあろうものなら,「まだ起きてたの?」などとついついすぐに電話をかけたりもします。
 メールや電話は,1対1のパーソナル・コミュニケーションでありながら,受け取った相手の戸惑っていたり困っていたりする様子がわかりにくい一方的な情報手段。だんだん「恋人気どり」を始める男性に,いい加減にしてほしい,と女性は電話がかかってきても取らなくなったりするのですが,相手は上司や派遣先の担当社員さんですから,まったく無視するわけにもいきません。男性の期限を損ねないように相手をしているだけなのに,「付き合いが深まった」と勝手に解釈して,会ったときに当然のようにキスしてくる上司。こんな例には事欠きません。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.83-84

中高年よ気をつけろ

とはいうものの,男性がセクハラの加害者として訴えられ,でも男性本人は恋愛のつもり,相手が困っているとは知らなかった,というケースに接するたびに私は,相手の女性が受けた被害に同情する一方,男性の側の「カン違い」「妄想」も,ほんの少しですが,気の毒な気がします。というのは,「妄想」に落ちる気持ちもわかる,と言いたくなるようなパターンがあるからです。
 そういう場合,男性は,たいていは中高年。相手は自分の部下や取引先の女性,指導している学生で,若い女性です。男性は,上司や先輩社員として,指導教授として,親身に女性の面倒を見ています。女性は若く仕事の経験も少なく,そんな彼女たちにとって,仕事を教えてくれる目上の男性は,頼りがいのある存在。自分を尊敬のまなざしで見つめ,自分が出す指示やアドバイスを一生懸命聞く女性に,男性は好感を持たずにはいられません。
 はなはだ失礼なことを承知で言えば,日ごろは家庭で存在感が薄く,妻や娘から疎まれたりもしている中高年男性が,仕事のできる上司,頼りになる男性,尊敬できる先生,と思ってもらえるのですから,嬉しくないわけはありません。しかもそれが若く可愛い女性なら,格別でしょう。そういう女性の態度を「ひょっとして俺に気があるのかな」と錯覚するまでは,ほんのちょっとです。
 というより,そういう中高年男性は,自分で仕向けておいて気付かないことも多いのです。「家族の誰も俺の誕生日を祝ってくれないんだよな」と愚痴をこぼしていた上司。当然,いつも世話になっている女性は,「これは祝ってほしい,ってことね」と察します。だから,誕生日には「これからも素敵な部長でいてください」などと嬉しいメッセージのカードをつけてデスクにプレゼントを置いておきます。それを男性は,自分が催促したことも忘れ,「やっぱり俺のことを……」と,舞い上がってしまいます。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.80-81

恋愛がらみの場合

ケースによってさまざまではありますが,恋愛がらみのセクハラのパターンは,大きく2つのサブパターンに一応分けられると言えるでしょう。
 1つは,女性は男性と恋愛どころか交際をしているつもりもなかったのに,男性は男女の付き合いをしていると思い込んでいるパターン(これを妄想系と呼びましょう),もう1つは,女性の方も一時的にであれ,交際をしていた,恋愛感情があったという認識があるパターン(現実の恋愛をもとに起こることから,リアル系と呼びます)。
 ただし,注意していただきたいのは,この2つがはっきりと別のものというわけではないこと。リアル系にも,妄想に近い勝手な思い込みが少なからず含まれますし,妄想系であれ,性関係を持った事実があったりします。そういう場合,女性の側はまったくの強要,レイプだったと思っているのに男性はそれに一切気づいていません。また,リアル系であれ,女性がセクハラで訴えているからには,そこには男性が気付いていなかった—妄想というより錯覚でしょうか—要素が大いにあります。それに,人の気持ちというのは他人には窺い知れず,しかも時間とともに移り変わりますから,恋愛感情があったかなかったかについての「真実」は誰にも(本人にさえ!)ミステリーだと言えるかもしれません。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.74-75

グレーゾーンへの対処法

セクハラの感じ方は,同じ関係であっても,変化するもの。最初は何とも思わなかったことも,時間と関係の変化の中で,堪えがたいセクハラに変わっていきます。「最初OKだったからいつまでもOKのはず」は通りません。グレーゾーンにあるのなら,黒に転化する前に,さっさとふるまいを改めて安全地帯に移行する,それが正しいグレーゾーンへの対処法です。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.62

セクハラという言葉

そもそも日本語として流通している「セクハラ」には,使われ方にだいぶ幅があって,大きく分けると広義のセクハラと狭義のセクハラがあります。日常語としての使い方と法的な使い方と言ってもいいですし,イエローカードとレッドカードの違い,と言えばもっとわかりやすいでしょう。この2つは,重なりはありますが,大いに異なります。
 狭義は,その行為はハラスメントにあたると「公式認定」されるセクハラ。訴えや相談があり,調査を経て「これはハラスメントだ」と判断されて,何らかの措置や処分が下されるものです。いわばレッドカードが突きつけられるわけです。その中には,強制わいせつのような犯罪やあからさまな強要を含む「真っ黒」なものや,人権侵害にあたるものも含まれます。
 他方,日常語としての使い方はもっと広義です。まだ結婚しないのとしつこく聞かれたり,イマイチの上司からカラオケでデュエットしようと誘われたりして,「ウザいなぁ」「ちょっとやめてよ〜」と思うときに,「それってセクハラですよ」と,軽くジャブを出す使い方です。面と向かって「嫌です」「やめてください」と言うのは角が立つので,「セクハラじゃないですか」と軽く言うわけです。これはいわばイエローカードで,注意してやめてくれればそれでいいわけです(サッカーなら同じ試合で2枚出されるとレッドカードと同じ退場ですから,それより軽いですね)。
 このイエローカードの「セクハラ」の用語法は,大変便利です。1989年にセクハラという言葉ができて,あっという間に流行語となりましたが,そんなふうに広がったのは,便利な言葉だったからにほかなりません。「嫌です」とは言いにくくても,冗談めかして注意喚起をしてやめてもらえる,とても便利で有効な使い方です。言った本人,やった本人の意図がどうあれ,冗談めかした注意喚起ですから,使いやすいのです。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.50-51

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