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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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それこそ

ですから,まったく客観性もないのに,相手の変な受け止め方のせいでセクハラにされてしまうという心配は不要です。ただし,かりに相手が通常以上に敏感であるとしても,だからといって,そのまま続けてOKというわけでもありません。セクハラにあたらないとしても,相手の嫌がることはしないのが社会生活上のマナー,職場ではとくにそうです。
 管理者・教育者としては,職場環境・学習環境への配慮が必要です。その人の感じ方を,「異常」「考えすぎ」などと頭から否定するのでは,それこそセクハラになってしまいます。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.45-46
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立場の利用

だったらなんでセクハラなんだ,イヤがってるのにやるのがセクハラだろう,と思うかもしれません。でも,それがまさにセクハラの常識のウソです。「相手が嫌がってるからセクハラ」なのはたしかですが,嫌がっているそぶりなど見せなくても,仕事の立場上,望まないのに受け入れざるをえない状況に追い込まれることもセクハラなのです。
 英語表現を使うなら,voluntary(自発的)であっても,unwelcome(望まない)な行為ならセクハラなのです。無理強いされたわけではないがノーと言えば困ったことになる,と自ら受け入れるという意味では「自発的」。でも,仕事上の立場を利用して望まない性的行為を押し付けられるから,セクハラなのです。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.39-40

言われなくても

個性や可能性を伸ばしていくためには,その子自身が,自分は算数が得意だ,スポーツが得意だ,絵を描くのが好きだ,など,何か自分の中で好きなこと,人よりも優れていると思えることを自覚し,それを軸に自分ならではの価値や役割を見出し,自信を積み重ねていくというプロセスがあります。この中で子どもは,自分の自我やアイデンティティを確立していきます。
 子どもたちは,基本的に大人からの評価を得ようと努力しています。しかし,その子その子の出来具合もありますし,個性もあります。大人の尺度で批判したり,他の子どもと比較することは,子どもたちが自信をなくすことにつながります。
 我々は子どもの運動会で,「がんばれ!がんばれ!」あるいは「走れ!走れ!」などと応援しがちですが,言われるまでもなく子どもたちはがんばっているし,一生懸命走っているのです。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.227-228

ネットトラブル

ネットでのコミュニケーションによるトラブルでは,帰国子女の子どもが精神的にやられてしまうケースもしばしばみられます。それまで,外国の暮らしでは,メールやインターネットによるコミュニケーションよりも,直接思ったことを口にしてコミュニケーションをとってきたような子が,ちょうど小学校を卒業するころに帰ってきて,メールの分化に触れて,そこでつらい思いをすることになるのです。
 この背景には,多少とも日本人特有のものがあるのかもしれません。海外の研究者たちにこのことを話すと,アメリカや中国の研究者たちは,「メールなんてただの文字だから,自分から切り離せるという感覚がないのか?」と,日本のこうした状況に首をかしげていました。外国ですと,メールは会って話すことに対して付属のような位置づけで,メールでわからないことや行き違いがあっても,あとで話せばいいではないか,あとで確認すればいいではないか,という感覚のようです。
 でも,日本の場合には,直接相手に会って確認する前に,メールを見ただけで相当なショックを受けてしまう。言葉で直接話すよりも,手紙やメールのほうを重視してしまう傾向が日本人にはあるのかもしれません。興味のあるところです。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.201-202

今後の教育

国が描いている今後の教育に,無理はないでしょうか。
 今後の日本をリードする,あるいは国際的な競争に耐えうる人材の教育や育成,という方針はわかるのですが,対象となるのは現実的には一握りの子どもたちにすぎないのではないかと思ってしまいます。大多数の子どもとその親は,現在の生活の維持や安定を求めるだけで精一杯のように思います。
 一方で一握りの子どもたちは,公立の学校教育に頼ることなく,家庭での早期教育にはじまり,私立学校への入学を選択したり,塾などの民間の教育を受けることが当然のようになってしまいました。そうした親や子どもに選択される一部の学校は,国の掲げるのと同じような目標を掲げて邁進し努力しています。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.187-188

むやみな同情は

ある研究者の意見では,糖尿病や内分泌の病気をもつ子どもに,QOLに関する質問をした場合,学校で行うよりも病院で行った方が,よい答えを出す傾向にあるということです。慢性疾患を持つ子どもは,病院を,痛い処置があり怖いところというイメージばかりを持っているのではなく,学校よりも精神面の問題を相談しやすい場所だと思っているのかもしれません(小児医療にたずさわっている身としては嬉しい意見だと思います)。
 慢性疾患のある子どもの親は,子どもをかわいそうに思っている傾向は確かにあります。このため,子どもに過保護になったり,過剰に干渉したりすると,かえって子どもにとっては自尊感情を傷つけられる可能性がある,ということも忘れてはなりません。むやみな同情は,サポートにつながらないことがあるのです。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.154-155

公立一貫校

もうひとつ触れておきたいことがあります。最近,公立の小中一貫校ができてとても人気があるようですが,実際に行った親御さんも私も現場を見て,これは非常に問題が大きいと思いました。子どもたちにとって学校生活は重要な部分ですが,長い人生の一期間にすぎません。家庭環境も,目標も,多種多様です。そのようななかで,9年間という義務教育の時間,同じところで過ごすことは,うまくいった場合はいいのですが,うまくいかなかった場合の代償が,あまりにも大きいのではないかと思います。
 親の考え方も生活環境もばらばらの子どもたちが,より広い地域から集まり,9年間も一緒で,しかも上から押し付けの教育をこなしていくのは,子どもにとっては大きなストレスになると思います。私立,および国立大学の付属の学校でも,9年間一緒に過ごしますが,こちらはある程度,子どもたちの家庭環境や目標が似ています。しかしこうした付属の学校でも,学校や同級生との間に悩みを抱えてしまえば,学校生活のストレスは大きくなります。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.124-125

モンスター

最近学校で,「モンスターペアレント」,すなわち子どものことで理不尽な要求を出す親について,問題提起がなされています。学校側に問題があることもありますので,学校側が話し合いに応じて改善していく姿勢が必要なことはもちろんですが,学校教育にすべての責任を転嫁する親もいます。そのような親は,実際は自尊感情が低い人も少なくないのではないかと思います。虚栄を張ることによって,何とか自尊感情を回復する。学校では時間をかけて説明を繰り返しますが,それでも納得しません。このような親が多数存在すると,学校運営に支障を来します。こういった問題への対応を司法関係者にゆだねる教育委員会もありますが,同時に自尊感情という観点で心理カウンセリングを行う必要もあるのではとも考えます。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.113-114

低いまま

私がいつも気になるのは,今子育てをしているお母さん・お父さんたち自身が,自尊感情を保てていないのではないか,ということです。第2章でお示ししましたQOL尺度調査は,高校1年生までの結果です。子ども自身が答えたQOLは高校1年生が最も低く,なかでも自尊感情の低下が目立っています。その後,高2,高3と,学年が上がるにつれてQOLが改善していくことを願いたいのですが,そのままの低い状態で社会参加したり,家庭で子育てを行うことになると,自尊感情は回復しないのではないかと危惧しています。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.112

成果の評価

移民の子どもや,親の失業などによってハンディキャップをもった子どもに対しては,それを補填するために,他のオランダ人の子どもよりも割高の教育費が支給されるということです。この他にも,移民の子どもやその親たちに対しては,無料で受けることができるオランダ語の授業が実施されるなど,さまざまな教育的な配慮を伴った政策がとられています。
 このように,それぞれの子どもが自分なりの学習の成果を評価される仕組みを持っていると,学校のなかでの自尊感情を保てるため,いじめなどの,他人の自尊感情を下げることで満足を得ようとする行動が起こりにくくなるのではないかと思われます。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.93-94

高低の要因

自尊感情はさまざまな要因で高くなったり低くなったりします。
 例えば学校の試験で平均以下の成績であった,成績が大きく下がったということがあれば,その事実に悩み自尊感情は下がるでしょう。しかし,運動能力や,友人の間での人気など,その他の点で自らの価値を感じていれば,その子どもは自分自身についての客観的な情報と,その情報に対する主観的な評価を結びつけること(今回成績は悪かったが,スポーツで挽回しよう。あるいはみんなに聞いてみよう,……など)によって,自分の自尊感情を高く保持することができます。
 逆に自尊感情が低ければ,1つの悪い情報をきっかけに,そこから脱却できなくなるのです。
 自分自身を評価するには多くの尺度があります。他の人よりも1つ,2つは苦手な尺度があっても,逆にすぐれている尺度もあり,そしてそれが自分である,だからそのよいところを生かしていこう……という前向きの考えができるかどうか。これができれば,自尊感情を保つことができます。この能力は社会生活,対人関係を保つうえで,最も重要な要素です。成績,運動能力,見かけなどは,1つの尺度にすぎないのですから。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.49-50

要因

自分で自分を認めたいと思っていても,他人に悟られる場面では自尊感情を高めることができないのが日本人の傾向です。しかしこのような抑圧された本心は,どこかで回復する必要が出てきます。小さくても希望や生きがいがあればよいのですが,それがはっきりしないと,その抑圧された本心は,周囲の人間,特に自分よりも立場の弱い人間に向かうことになります。典型的には,親の本心が,自分の子どもに向けられる,ということが起こります。自分の子どもはこのように育って欲しい,こんな思いはして欲しくない,という感情です。
 子どもたちにしてみれば,自分自身の本心を出すことには自重を求められるだけでなく,少子化の影響で親のみならず祖父母たちの一方的な期待(子どもたちにとっては要求)を背負うことになります。この期待—今のままではなく,もっとこうなって欲しいという過剰な期待—が,子どもたちの自尊感情を低めるひとつの要因にもなっているように思えるからです。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.45-46

自尊感情を高める

最近では,学校関係者の研修のためのマニュアル本でも,「自尊感情を高める」などという項目がよく出てきますし,特別支援教育でも,「自尊感情を保つ」ということはよく話題になります。学会などでは,もともと自尊感情というのは注目されていましたが,学校の先生の研修会などで目立つようになってきたのは最近のような気がします。
 ですから,最近の学校の先生は,「自尊感情という概念は必要であるし,いまの子どもたちは自尊感情が低い」というようなイメージを少なからず持っている方は多いと思います。しかし,子どもたちの自尊感情の低さが,説得力のあるデータとして示されている,ということはなかなかありませんでした。調査者の独自のオリジナルなデータのようなものであったり,小規模な調査がほとんどだったということです。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.33-34

機会を

たとえば近年,教員免許の更新制や教職大学院など,教師が現場を一時的に離れて大学などで研修する機会をつくる動きが出ている。これを現職研修のような教師の役割遂行のための機会としてだけ位置づけることは,教師役割に教師を縛りつける危険性がある。
 むしろ,せっかくの現場を離れる機会を,たとえば教職の立場をいったん離れてより自由な観点からいろいろ研究するというような,教師としての役割遂行中断の機会として生かすことはできないだろうか。これを発展させれば,たとえば教師にサバティカル(1年程度,現場を離れて自由な研究を行う期間)を保証することなども考えられよう。大学院や研究所などでの教員の再研修を,そうした教師の遂行中断性を保証する場として位置づけていくことが求められる。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.198

メリトクラシー

学校での学力の形成を支えている原理は,メリトクラシー(能力主義)である。メリトクラシーとは,もともとは,生まれや身分によって地位が決定された前近代社会から個人の業績(メリット)によって地位が決定される近代社会への転換によって広がった原理である。それは,生まれや身分によってではなく能力と業績によって社会的な地位が諸個人に配分されるという,近代的社会編成原理を指す概念として用いられてきた。しかし20世紀以降になると,メリトクラシーは,単なる個人の業績に基づく地位配分という原理にとどまらず,そのような人材の地位配分を人々が正統なものとして受け入れそれによって社会に包含されるようになるという,平等化と社会統合の機能を有するものとしても,とらえられるようになった。
 学力という言葉は,このような地位配分と社会統合というメリトクラシーの2つの機能を併せ持つものとしてとらえられてきた。たとえば,学校で「勉強をして学力を身につける」というとき,それは,能力を身につけて就職し,仕事のできる人間になる(地位配分)という意味と,一人前の社会人,市民になって周りから大人として認められるようになる(社会統合)という意味の両方を含んでとらえられてきた。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.142-143

所得や学歴で

また,教育社会学者の耳塚寛明は,「お茶の水女子大学21世紀COEプログラム(誕生から死までの人間発達科学)」の研究で,大規模調査のデータにもとづいて,子どもの学力が親の所得や学歴に強く規定されていることを明らかにした。耳塚は,イギリスの社会学者フィリップ・ブラウンの論をひきながら,日本は「富を背景とした親の願望」が子どもの学力を規定するペアレントクラシーの社会に突入しつつあることを指摘する。ペアレントクラシーの社会は,能力と努力が学力を規定するメリトクラシーの社会とは異なり,子どもたちがスタートラインの異なる競争に放り込まれている,「平等な競争という前提が保証されていない社会」である。このような社会では,学力の格差は「社会的競争ルールや社会構造自体に由来」するものであるから,格差緩和のために優先されるべき政策は,所得格差の緩和などそうした「社会構造自体」の改革であり,「仮定でのしつけの重要性」ではないと述べる(耳塚, 2007a)。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.104

多元能力主義

身に付けるべき能力を人によって完全に分けてしまうのが多元能力主義という認識だと思うが,極論すると身分制社会のようなものに戻ってしまいかねない。それはありえない話だとしても,ポスト近代社会における平等性をどのように確保し,教育を公共的なものにしていくか。そこに学力の問題を絡めて考えなければならないので,それでこそ,学校や公教育というものの役割が出てくる。
 習熟度別のようにやることが許容されるような分野と,それが許容されえないというか,みんなで一緒にやったほうがいいものとがあるということも,おそらくこの点と関わっている。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.59

ポピュリズム

ポピュリズムというのは,みんなやればできるのだという考え方として,ここでは定義されている。たとえば前述の苅谷剛彦は能力平等主義という言い方で言っているが,すべての人が努力によってあるレベルに到達できることを前提にした平等主義である。
 もちろん,ポピュリズムがただちにすべて悪いわけではない。ポピュリズムがもたらす混乱状況を見据えつつも,他方で教育や学力というものを見ていく上で,こうしたポピュリズム的な視点は,最低限はふまえておく必要があるだろう。
 たとえば,みんながイチローや香川真司にはなれないのは当たり前だと思うだろう。しかし,たとえば東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故が私たちに突きつけた,エネルギー問題や,放射線の問題を考えてみよう。こうした事柄については,専門家に判断を白紙委任するのではなく,市民が市民としての一通りの知識を身に付け,判断できるようにしなければならないという認識が共有されつつあるように思う。このように,世の中には,市民みんなが平等に身に付けることが求められつつあるものもある。プロに必要なものと市民に必要なもの,そこをどのように仕分けしていくかというところがポイントではないか。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.58-59

話しかけてくれたら

大学の演習形式の授業の初回で全員に自己紹介をしてもらうときに,気になっていることがある。それは自己紹介の最後に,「話しかけてくれたら嬉しいです」というような表現をする学生が非常に多いことだ。自分はみんなと話がしたい,仲良くなりたい,でもシャイな人間なので自分からはなかなか話しかけることができない,だから話しかけてほしいと。気持ちはわからないでもない。しかし,もしクラスの全員が同じ気持ちであったらどうだろう。みんな話がしたいのに,人から話しかけられることを待っているだけで,自分から話しかける人間が1人もいないので(話しかけて受け入れてもらえないことを恐れているのだ),結局,誰とも話すことができないだろう。まさに「みんなぼっち」の世界だ。「話しかけてくれたら嬉しいです」と言う学生に,私は,「だったらまず君から話しかけてごらんよ。相手はきっと嬉しいと思うよ」と話しかけることにしている。そうすると教室に笑いが起きる。これが私の狙いで,一緒に笑うことで,話がしやすくなるのである。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.158

将来の職業

「大きくなったら何になる?」という質問は将来の職業を尋ねている質問である。子どもが誤解をして,「ウルトラマンになる」などと答えたら,大人は笑いながら「かわいいね」と言うだろう。そうした反応を見て,子どもは自分の間違いに気づいてゆく。自分が将来なりたい職業を聞かれているのだということを学習する。
 当初,子どもは「ケーキ屋さん」とか「お花屋さん」とか自分の好きなもの,自分の欲求と直結した職業名でもって回答するだろう。しかし,そのうち,「医者」とか「弁護士」とか「ピアニスト」とか社会的な人気の高い職業名で答えるようになっていく。大人たちは「それはすごいな,頑張りなさい」と褒め,励ましてくれる。社会的威信の高い職業は「いい職業」「立派な職業」なのである。さらに時間が経つと,子どもたちは社会的威信の高い職業は難易度も高いことを知り,自分の能力や才能などを考慮しながら,進路の調整を行うようになる。このとき新たに導入されるのが「個性」や「自分らしさ」という観点である。職業は,他の社会的役割がそうであるように,たんに社会的要請に応えるためのものではなく,自己呈示のチャンネルだからである。かくして現代の若者たちは「自分らしい職業」「自分に向いた職業」を志向することになる。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.74-75

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