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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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社会の構造

しかし,これが暗黙の規範の次元になると話が違ってくる。まず結婚は「するのが普通」という通念がある。個人がその生涯を独身で通す確率を生涯未婚率といい,便宜的に50歳時点での未婚率で表すが,2010年時点での生涯未婚率は男性で20.1%,女性で10.6%である。1970年時点では男性は1.7%,女性は3.3%であったから,かなり上昇してきたとはいえ,まだまだ結婚する人のほうが多数派である。そうした社会では,結婚しないライフコースを選択することは(あるいは心ならずも選択せざるを得ないこと)はそれなりの覚悟を必要とする。周囲の「なぜ結婚しないの」という素朴な質問にいちいち答えていかなくてはならないし,所得税もたくさん取られるし,老後の不安も大きいものになりがちである。つまり私たちの社会の構造は人々が結婚というライフイベントを選択しやすいような仕組みになっているといってもよい。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.68
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転機

ストレスがあまりに大きくなると,人は自己を守るために,役割の方を切り捨てる(あるいは別の役割と取り替える)という行動に出る。具体的には,労働市場における退職や転職,家族における離婚や再婚,学校における退学や転校という行動がそうである。こうした行動はその当然の結果として生活の構造の大きな変化を引き起こすことになる。それはしばしばその人にとっての「人生の転機」として語られることになる。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.53

認めてほしいこと

誤解のないように付け加えておくが,個人を役割の複合体として見るということは,人間を操り人形のようなものとして見るということではない。人間は社会からの要請(期待)という意図に操られてただ手足を動かすだけの存在ではない。人間には内的な欲求がある。それを充足するために行為しているのだ。内的な欲求といっても生理的な欲求だけではない。それなら人間以外の動物にもある。人間に固有な欲求として社会的な欲求がある。その最たるものは他者からの承認欲求であろう。他者から認めてほしいという欲求である。何を認めてほしいのかというと,それは次の三つに要約することができる。
 第一に,「私はまともな人間である」ということ。これは公共的な場面でとくに重要なものである。電車の中で,喫茶店で,路上で,図書館で,映画館で……,私たちは「おかしな人」「怪しげな人」「不審な人」「危ない人」「非常識な人」などと他人から見られないように気を付けている。気を付けているといっても必ずしも意識しているということではない。意識していることを忘れるほど意識の深いレベルで私たちは気を付けている。私が喫茶店でウェイトレスに内面のイライラをぶつけないのは,「喫茶店の客」としての社会からの要請のためであるが,同時に,それは「私はちゃんとした客である」=「私はまともな人間である」と喫茶店の人々(従業員や他の客たち)から認めてほしいからである。
 第二に,「私は有能な人間である」ということ。これは学校や職場といった労働的な場面で重要なものである。学生は教師や他の学生たちから「優秀な学生」「熱心な学生」として認められたいと思っている。サラリーマンは上司や同僚から「仕事のできる人」として,レストランの料理人は客から「腕のいい料理人」,医者は患者から「名医」「いい先生」として認められたいと思っている。プロ野球の一流選手が税金で多くを持っていかれることを承知で年俸アップにこだわるのは,その学がプロとして自分の評価を表すものであるからだろう。主婦にとっての家事労働にも同じことが言える。賃金を伴わない労働(不払い労働)ではあるけれども,「料理の上手な主婦」「家計のやりくりが上手な主婦」として認められたいのである。「だめな学生」「仕事のできない社員」「やぶ医者」「だめな主婦」として見られることはなんとしても避けなければならない。
 第三に,「私は愛されるべき人間である」ということ。これは家族や友人や恋人といった私的な人間関係の場面において重要なものである。「私は有能な人間である」というのが自分の能力についての承認であるとすれば,「私は愛されるべき人間である」というのは自分の人柄(人格)についての承認である。前者は社会的評価を求め,後者は他者の愛情(好意)を求めるものである。私たちは人から「優しい人」「素敵な人」「いい奴」「かわいい人」「大切な人」として認められたいと思っている。「私は有能な人間である」ことを認められたからといって,「私は愛されるべき人間である」ことを認められるとは限らない。二つのことは,まったく無関係とはいえないが(仕事のできる人を好きになる場合もあるから),基本的には別のことである。「社会的には成功するが,誰にも愛されることのない人生」と「社会的には成功しないが,自分を愛してくれる人のいる人生」とどちらを選ぶかと質問されたら,たぶん,ほとんどの人は後者を選ぶのではないだろうか。これは好みの問題というよりも,そう答えることを期待されているからである。現代社会は愛情に至高の価値をおく社会,愛情至上主義社会なので,愛情よりも成功を選ぶ人間は「変わった人」と見られがちである。すなわち「私はまともな人間である」という自己呈示に失敗してしまうのである。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.47-49

生活を構造化する力

その力とは一体何か。それは一つの力ではない。生活を構造化している力には三種類ある。第一は,身体の生理的なリズム。私たちが日常の中で行っている行動のある部分は生理的な欲求に基づいている。食事をするのはお腹が空いたからであり,トイレに行くのは用を足したくなったからであり,眠るのは眠たくなったからにほかならない。そして,お腹が空いたり,用を足したくなったり,眠くなるのは,体内時計と呼ばれる一定の生理的なリズムに従ってそうなるのである。
 第二は,自分の意志。人間は自分の意志に力によってある行動をしたり,思いとどまったりすることができる。たとえば,眠気をこらえて夜遅くまで勉強している受験生や,空腹を堪えてダイエットに励む若い女性などはその典型だといってよい。どちらのケースも生理的な欲求によっては説明できない行動である。
 第三は,社会の要請。生理的欲求にしろ,自分の意志にしろ,それは内的な力という点で共通である。これに対して社会の要請というのは外的な力である。人間は他者や集団からの要請(丁寧なお願いから強制的命令まで力のレベルはさまざまである)によってある行動をさせられたり,ある行動をしないようにさせられる。たとえば,平日の朝,会社員のAさんが六時半に起きるのは,九時までに出社すること(遅刻しないこと)を会社から要請されているからである。六時半という起床時刻は,起きてから朝食や身支度にかかる時間,自宅から会社までの所要時間を勘案して,出社時刻の九時から逆算して決定されたものであり,目覚まし時計の助けを借りずに自然に目が覚める時刻ではないのである。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.38-39

構造化した毎日

通常,私たちは自分の明日の生活,朝起きてから夜床に就くまでの自分の行動について,天気予報と同じくらいの確かさで予測することができる。これは私たちが自分の生活の構造を知っているからである。もし生活に構造が存在しなければ,それはさぞかしドラマチックな毎日であることだろう。なにしろ朝,目が覚めて,これからどんな一日が始まるのか自分でもまったく予想ができないのだから。それはまるで冒険小説の主人公のような生活といってよいだろう。私たちがそうした人物にあこがれるのは,とりもなおさず私たちが構造化した(マンネリ化した)毎日を送っているからにほかならない。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.37

役目

これまでのキャリア教育の主流は,正社員としての就職支援にはきわめて熱心であったが,非正規雇用の世界に入っていく者のことは,,基本的には「脇」に置いてきた。本来“あるべきではない存在”として扱ってきたと言ってもよい。
 そうだとすれば,それは結局,過酷な労働市場の現実に,若者たちの一部をまさに“裸のまま”送り出してきたのも同然である。せめていくばくかの「防備」を固めさせたうえで,社会の現実に漕ぎ出ていけるようにするのが,キャリア教育の役割であろう。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.157-158

これで大丈夫?

こうしたやり方の弊害は絶対にあると思うのだが,ひとつ,僕が非常に怖いと思っている点に,フリーターとの対比で正社員の「安定性」を際立たせるような手法は,生徒や学生のなかに,“正社員にさえなれれば,大丈夫だ(何とかなる)”という感覚を植えつけてしまうのではないか,ということがある。
 しかし,実際には,何とかならないことが多い。どんな大企業であっても倒産してしまったり,経営危機に陥ったりすることは,いくらでもありうる。現に,希望退職をはじめとする人員削減(人件費コストの圧縮)によって,なんとか当座をしのいでいるような大企業は,いくらでも存在しているではないか。

 帝国データバンクによれば,企業の設立から倒産(廃業)までの平均年数を計算してみると,時期にもよるが,ほぼ30年超になるという。長いようにも見えるが,これは,個人が生涯働き続ける年数よりも実は短い。“寄らば大樹の陰”のように,「正社員」という身分が絶対的に頼りになる時代ではもはやないのである。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.143-144

可能性を

若い人たちへ。
 キャリアプランを書いたことがあるかもしれない。あるいは,これから書くことになる可能性も。
 その時には,自分が描いてみた「人生」が,実は想像しているよりもはるかに多様で豊かな選択肢が存在することすら知らずに,そのうちの“ごく一部”をなぞったものになっているかもしれないという可能性に気づいてほしい。
 そうした「狭さ」や「殻」を打ち破るためには,この社会の現実やそこに生きる人々の“生きざま”について,もっともっとよく知り学ぶことが必要だろう。これだけ情報化が進んだ時代なのだから,学校や教師が指導してくれなくても,アンテナさえ張っておけば,自ら学ぶチャンスはいくらでもある。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.133-134

役割

人が仕事をするとは,個人が好きなことをして,自己実現をめざすという側面だけで成り立っているわけではない。仕事には,社会的分業の中でどこかの「役割」を引き受けるという側面がある。
 だからこそ,就労はひとつの社会参加のルートなのである。社会全体の観点から見れば,さまざまな業界や業種,いくつもの種類の仕事が分業関係を結んでいるからこそ,この社会は円滑に動いている。ひとつの会社組織であれば,それぞれの部署がそれぞれの役割を引き受けているからこそ,会社が機能していく。
 現在の社会において,何が「やるべきこと」なのか,どこに課題があるのかを考えることは,子どもや若者の職業(仕事)選択の際の視点となってよい。若い人たちには,働くとは,自らの仕事を通じて社会に参加し,貢献することなのだという意識を強く持ってほしいと思う。
 そして,現実問題としても,「やるべきこと」の周辺には,職(求人)は豊富に存在しているのが常である。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.86-87

順番

個人的な提案ではあるが,流行りのキャリア教育が,<「やりたいこと(仕事)」の選択→その職業(仕事)について調べ学習>といったベクトルでの段階論に立っているとしたら,そんなことはすぐにもやめたほうがいい。そうではなくて,「やりたいこと」探しと,さまざまな職業(仕事)調べとは,同時並行的に,相互に影響を及ぼしあうように取り組まれるべきであろう。
 職業(仕事)についてのいろいろな選択肢を知り,そのどれかに興味を持つ。そうしたら,その職業(仕事)について深く調べてみる。その結果,違うなと思ったら,また別の選択肢について興味を寄せてみる。そうしたら,今度はその職業(仕事)について……。求められるのは,こうした学習の繰り返しであり,「自己理解」と「職業理解」との往復関係をつくりあげることである。
 結果として,在学中に「やりたいこと(仕事)」が決まらなくても構わない。「専門職(専門的職種)」に就きたいのであれば,ある時点で決めておく必要があるかもしれないが(——それだって本当は新卒時点ではなく,途中からの参入も可能なのだが),それ以外の若者にとっては,困ることなんてない。むしろ,決めていなくても,いろいろな選択肢(仕事)について理解していることのほうが決定的に重要である。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.76-77

仕事を知らない

要するに,子どもや若者は,“絶対的な意味で”職業(仕事)をよく知らないのである。試みにゼミの学生などに親の仕事について聞いてみても,学生たちの反応はしどろもどろ。会社名は言えたとしても,具体的な仕事内容を言える者はほとんどいない。
 それでも,キャリア教育に促されて,「やりたいこと(仕事)」を見つけようとすれば,それは,イメージ先行型の“憧れ”に近いものになるか,“出合い頭”に近い選択になってしまうのではなかろうか。専門学校が得意とするような,きらびやかなカタカナ職業に高校生の人気が集まったりするのは,こうした事情を抜きにしては理解できないことのように思う。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.74

危うい理由

キャリア教育において,「やりたいこと(仕事)」にこだわりすぎることが,なぜ“危うい”のか。僕が考える理由は,3つある。

 (1)日本の雇用慣行においては,そもそもジョブ(仕事)に応じた採用や育成がなされないことが多い。
 (2)「やりたいこと(仕事)」の見つけ方が,主観的な視点に偏ってしまう可能性がある。
 (3)「やりたいこと(仕事)」を,その実現可能性や社会的意味との関係で理解する視点が弱いように思われる。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.69-70

マユツバ

若者の就職難が問題なのは,若者たち自身の「チャンス」や「可能性」を閉ざしてしまうということもあるが,それ以上に,それが今後の日本の「経済基盤」を崩壊させ,「社会不安」や「社会保障システム」の機能不全を引き起こしてしまう「社会問題」であるからなのである。
 そして,キャリア教育とは,そうした事態に対処するための“教育的な処方箋”にほかならなかった。「将来の目標が立てられない,目標実現のための実行力が不足する若年者」を鍛え直し,テコ入れすること,そのことによって若年雇用問題の深刻化に対処することが,キャリア教育のねらいである。
 ここまであけすけに言ってしまうと,当事者である若者には少なからぬショックを与えてしまうだろうか。しかし,事実は事実として認識しておく必要がある。そして,そうした経緯で登場したのが「キャリア教育」であるならば,そこにはどこか“眉唾もの”のにおいがしたとしても決して不思議ではない。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.38-39

半数以下

高校入学者が100人いたとすれば,どこかの段階までの教育機関をきちんと卒業し,新卒就職をして,そして3年後も就業継続をしている者は,実は41人しかいない。このグループは,“まっすぐなキャリアを歩んでいる人”という意味で「ストレーター」と名づけたいと思うが,それは,実は半分以下でしかない。かつての日本社会においては,ストレーターこそが多数はであったし,それが社会的な「標準」でもあった。しかし,今では(大学院等に進学した6名を加えてもなお)半数以下なのである。
 逆に言えば,同世代の半分強は,学校段階においてか就労においてか,どこかでつまづいたり,立ちすくんで滞留したり,やり直しを余儀なくされたりしている。これが,今どきの若者たちのキャリアである。彼らが生きていくのは,こんな状況の時代なのである。
 まずは,このことをしっかりと頭に叩きこんでほしい。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.26-27

他人の目

やはり,現代人が最も取り憑かれているのは,他人の目だろう。これは言葉どおり,他人が実際に見ているわけではない。ただ自分で,自分がどう見られているかを気にしすぎているだけだ。
 全然気にしないというのは,やや問題かもしれないが,現代人は,この「仮想他者」「仮想周囲」のようなものを自分の中に作ってしまっていて,それに対して神経質になっている。そのために金を使い,高いものを着たり,人に自慢できることを無理にしようとする。いつも周囲で話題にできるものを探している。その方法でしか,自分が楽しめなくなっている。
 金を使えば,仮想他者の評価が一時的に手に入るかもしれない。実際には,そういう幻想を自分で抱くだけだ。そしてそのあとには,無駄に使った金や時間のツケが待っている。そこで,自分はいったい何を楽しみに生きているのか,と気づくのである。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.197

思い込み

酒を飲んで酔っ払っているときに,仕事のアイデアの1つでも浮かぶだろうか。人間関係が酒の席で築けるなんて言うけれど,酒の席で壊れた人間関係の方がずっと多い。勘違いしないでもらいたい,と僕は常々思う。
 おそらくは,戦後の成長期のビジネスマンたちは,こういったところでしか遊ぶことができなかったのだろう。これが,彼らの趣味だったのだ。したがって,その趣味に人生のやりがいを見つけたというだけのこと。それを勘違いして,「これが男の仕事だ」と思い込んでしまい,それを後輩にも教えようとしている。そういう人がまだ残っているのである。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.190

学業の価値

へたな資格を取るのに比べても,学業はずっと有利だ。今は大卒なんて当たり前,これからは大学院出であることが,「かつての大学」と同じ有利さを持つだろう。今でもそういう職種は多い。今はそうでなくても,大学院での経験は絶対に無駄にはならない。高卒の人には,大学の価値がわからないのと同じように,大卒の人には,大学院の価値がわからない。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.82

自分で

では,仕事でなかったら,何で人間の価値が決まるのだろう?
 それは,人それぞれである。仕事以外にも,人はいろいろな行動をする。沢山のことを考える。そういったものすべてで,それぞれに,いろいろな方法で,社会に貢献できる。また,たとえ社会に大きな貢献をしなくても,幸せに生きている人だっているわけで,それも自由だと思う。つまりは,自分がどれだけ納得できるか,自分で自分をどこまで幸せにできるか,ということこそが,その人の価値だ。その価値というのは,自分で評価すれば良い。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.58-59

イメージ作り

大人の何が楽かといって,仕事は辞められるが,子供は学校は辞められない。また,事実上,子供の自由で学校は選べない。大人は仕事を選べる。これだけを取っても,子供の方が過酷である。仕事は基本的に自分の得意な分野であるはずだ。一方,学業は,不得意なものでも,(特に小さい子供ほど)しっかりと向きあわなければならない。
 仕事が凄いものだというイメージを,まるでテレビコマーシャルのように大人は作っている。実際に,テレビコマーシャルになっているものもある。たとえば,「国を動かす仕事」とか,「未来を築く仕事」とか,そういう言葉の印象だけで大きく見せる。まるで,それらが「ゲームを作る仕事」よりも「やりがい」があるかのようだ。そんなイメージを植えつけようとしているのである。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.48

狭い

きっと,「自分ができる」仕事というものを,多くの若者が物凄く狭い範囲でしか見ていないだろう。それに加えて,「自分が好きになれそうな」仕事とか,「みんなが憧れそうな」仕事とか,「やりがいが見つけられそうな」仕事とか,気の遠くなるような遠い幻を追っているように見える。足許を見ず,望遠鏡を覗いて遠くばかり見ているから,オアシスだと思って喜んで行き着いても,その場に立つと周囲と同じ砂漠だったりするのである。
 「それではなかなか見つからないよね」という同情の言葉しかなくなってしまう。
 問題がどこにあるのか。それは,見ているところ,探しているところが狭すぎるのだ。この部分だけでも,ときどき思い出してほしい。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.128-129

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