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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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国が必要とするときも

 サイコパスがつくりだされ,社会から除外されないのは,ひとつには国家が冷血な殺人者を必要としているからかもしれない。そのような兵卒から征服者までが,人間の歴史をつくりつづけてきたのだ。サイコパスは恐れをしらぬすぐれた戦士,狙撃兵,暗殺者,特別工作員,自警団員,接近戦の名手になれる。それは彼らが殺す(あるいは殺すよう命令を下す)ときに恐怖を感じず,殺したあとも罪悪感をもたないからだ。ふつうの人びとはそんなに非情になりきれず,徹底的に訓練されないかぎり,せいぜい四流の殺人者にしかなれない。相手の目を見すえて冷静に撃ち殺せる人間はふつうではないが,戦争ではそれが求められる。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.185
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サイコパスが少ない文化

 サイコパスは古くから世界じゅうにいたようだが,ほかよりもサイコパスの数が少ない文化圏があることもたしかだ。興味深いことに,東アジアの国々,とくに日本と中国では,かなりサイコパシーの割合が低い。台湾の地方と都市の両方でおこなわれた調査では,反社会性人格障害の割合が0.03から0.14パーセント。西欧世界における平均約4パーセントとくらべて,きわめて低い数字である。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.181

サイコパスと自己愛

 サイコパシーとの比較において,ナルシシズムはとりわけ興味深く示唆にとんでいる。ナルシシズムは,言ってみれば,サイコパシーを半分にしたようなものだ。病的な自己愛者も,罪悪感から悲しみ,絶望的な愛情から情熱まで,ほかの人とおなじように強い感情をもつ。欠けているのは,ほかの人の気持ちを理解する能力である。ナルシシズムには良心ではなく,感情移入の能力,つまり他人の気持ちを感じとって適切に反応する能力が欠けているのだ。
 ナルシシストは感情的に自分以外のものは目に入らず,ピルズベリー社のキャラクター,ドゥーボーイのように,外からのものはすべて跳ね返して受けつけない。そしてサイコパスとちがってナルシシストは心理的に苦痛を負い,セラピーを求めることが多い。ナルシシストが抱える問題の1つは,感情移入の能力を欠いているため,本人の知らないあいだに人との関係がこじれ,見捨てられて困惑し,孤独を感じることだ。愛する相手がいなくなったのを嘆くが,どうすれば取り戻せるかわからない。
 対照的にサイコパスは,ほかの人びとに関心をもたないため,自分が疎外され見捨てられても嘆いたりしない。せいぜい便利な道具がなくなったのを残念に思うくらいのものだ。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.170-171

サイコパスの武器

 少しばかり込み入っているが,人びとの良心の目がくもらされるのは,社会を成立させるために必要なプラスの要素を,サイコパスが武器として使うためだ。共感,性的きずな,社会的・職業的役割,やさしさや創造力にたいする敬意,よりよい世界を目指す意欲,権威をもった規律などである。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.130

心をつかむ

 サイコパスはだれかを恰好の獲物と見てとると,その相手をじっくりを観察する。どのように相手を操作し利用すべきか,そのためには相手をどのようにうれしがらせ魅了すべきか,考える。そしてさらに,サイコパスは親近感を強めるこつを心得ていて,犠牲者に自分と似たところがあると言って近づく。犠牲者はサイコパスと縁が切れたあとまで,自分の心をつかんだ台詞をよく覚えている。「ぼくと君は似た者同士だ」「あなたとは心が通じあえるの」などだ。あとから振りかえれば,これらの台詞はまさに屈辱的だが,相手の心をつかむことに変わりはない。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.126

優先順位の高い行動

 強欲なサイコパスは,ほかの人たちと同じ恵みをあたえられていない自分は,人生で不当にあつかわれていると思いこむ。そしてほかの人間の人生をひそかに破壊することによって,おたがいの立場を同等にすべきだと考える。自分は自然や環境や運命に軽んじられていると思い,ほかの人をおとしめることが,力をもつための唯一の手段と考えるのだ。そしてたいてい,標的にされたとは夢にも思っていない相手に報復をすることが,強欲なサイコパスの人生で最も重要で,もっとも優先順位の高い行動になる。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.108

「それ」としての扱い

 人類の歴史全体を通じて,人びとは罪のない多くの存在を敵視し,イットとして扱ってきた。歴史の折々に人間として扱われなかった民族やグループのリストは長く,私たちのほとんどの大部分が含まれてしまう。たとえば黒人,共産主義者,資本主義者,芸,アメリカ先住民,ユダヤ人,外人,魔女,女性,イスラム教徒,キリスト教徒,パレスティナ人,イスラエル人,貧しい人,金持ち,アイルランド人,イギリス人,アメリカ人,シンハラ族,タミル人,クロアチア人,セルビア人,フツ族,イラク人などだ。
 そして集団の中に住みついたイットにたいして,その集団の指導者が排斥の命令をくだした場合は,なんでもありになる。良心はもはや必要なくなる。良心が私たちの行動を抑制するのは,仲間同士に対してであり,イットにたいしてではないからだ。イットは集団の中から排除される。彼らの家を奪い,家族を撃ち殺し,火あぶりにしても罰せられることはなく,称賛さえ受けるようになる。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.84-85

人間関係が必要

 良心のない人が妬み,ゲームの中で破壊したいと望むのは,良心をもつ人の人格だ。そしてサイコパスが標的にするのは地球そのものや,物質的世界ではなく,人間である。サイコパスは他の人びとにゲームをしかける。彼らは無生物の威力には興味をもたない。世界貿易センタービルが爆破されたのも,ねらわれたのはその中に人がいたから,そして大惨事を見聞する人びとがいたからだ。
 言ってみれば,サイコパスも,人類そのものとなにがしかのきずなを保っているのだ。だが,彼らの中に羨望を生むこの細いきずなは一面的で不毛であり,多くの人びとがおたがいにしめす複雑で生き生きとした感情的反応とはくらべものにならない。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.77

ゲームの中で

 暴力行為は派手で,起きた場合はあたえるショックも大きいが,残虐な殺人は良心の欠如が生む典型的な行為ではない。それよりも,肝心なのはゲームだ。世界を支配することから,昼食代を払わないことまで,勝つことがすべてなのだ。ゲームの仕方はつねにおなじ——支配し,人をあっと言わせ,勝つ。感情的愛着や良心が欠けている場合,人間関係で残っているのは相手に勝つことだけだ。関係に価値がなくなると,相手を殺すことで支配を達成する場合もある。だが支配の仕方で最も多いのは,カエルを殺す,性的な征服を誇る,友人をだまして利用する,チリの銅山を食い物にする,人が騒ぐのを見るためだけに切手を盗む,といったところだ。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.74-75

良心と道徳

 要点をまとめると,初期の神学者たちによれば,(1)道徳律は絶対的なものである,(2)人はみな生まれながらに絶対的真理を身につけている,(3)悪しき行動はまちがった判断の結果であり,シンテレーシス(良心)が欠けているせいではない,人はみな良心をもっており,人間の理性が完璧なら悪い行動は起こらない。
 良心にかんするこの3つの考え方は,これまでの歴史の中で実際に広く支持されてきた。そしていまもなお,人が自分や他人を考えるうえで,測り知れないほどの影響力をもっている。とくに,3番目の考え方は根深く残っている。アクイナスから800年近くたっても,人は非道な行為を目にすると,「弱い理性」の現代版といった見方をする。悪いことをしたのは,貧しい体,心が乱れていたからだ,育ち方のせいだと考えたがる。そしていまだに神ないし自然が彼に良心を与えそこなったからだという,単純な説明には大きな抵抗をおぼえる。
 数百年にわたって,良心にかんする議論は,人間の理性と神から授かった道徳的知識との関係が中心だった。いくつかの説も付け加えられた。最近では善悪の判断に比率主義をとり,理性が“善”をもたらすための“必要悪”をうながすという,都合のいい抜け道もある——たとえば「聖戦」などだ。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.46-47

良心をもたない人

 良心をもたない人は,自分自身と,自分の生活に満足していることが多い。効果的な“治療法”がないのも,まさにそのためなのかもしれない。たいていの場合,サイコパスがセラピーを受けるのは,裁判の結果であったり,患者になったほうが自分にとって都合がいいからだ。よくなりたいという気持ちでセラピーを受けることはめったにない。これらの事実を重ね合わせると,疑問が湧いてくる。良心の欠如は精神障害なのか,それとも裁判用語なのか,それともまったくべつのものなのか。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.25-26

問題の核心

 DSMの問題の核心は,DSMがあるふれた行動から診断カテゴリーをつくっており,それがどんどん異常ではないふるまいを飲みこんで成長していることである。その開発と決定の過程はますます込み入ったものになり,政治的なものとなった。提案がなされ,対案が示唆され,妥協が諮られ,最終的な決定が委員会の投票によって行なわれるというプロセスを,私たちは明らかにした。開発者たちは「科学とデータに基づいて決定されている」と主張する。だが,実際に行われていることは,科学という言葉にふさわしいものではなく,使われたデータもしばしば,平凡な意見ほどにも価値がないのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.302

人種とIQ

 黒人の劣等性という神話は,心理学者たちの後押しで精神保健の隅々にまで広がっていった。最大の問題は学校で起きた。そこではIQが黒人の生徒を差別するために用いられた。白人に利用可能な教育資源を,彼らに与えない根拠となったのである。IQテストによる人種差別も,精神保健に2つの大きな影響を与えた。1つは,黒人がしばしば知恵遅れと間違って認識され,彼らの真の問題が見落とされてしまったことである。問題はすべて知的劣等性のせいにされるのであった。彼らは,不適切なクラスに入れられたり,回復不能な患者のためのプログラムを押しつけられたりした。そのため彼らは大抵悪化してしまった。2つ目に,黒人の患者が仮に正しく知恵遅れと判定されても,役に立たないプログラムを割り当てられてしまっていた。IQは,患者の能力をア・プリオリに決めつけるために用いられた。低いIQ得点は,教育的資源の提供を拒むための合理化として用いられ,さらには,非自発的な断種や厳罰主義的な処置を正当化するものとしても使われた。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.278-279

捏造

 心理学は20世紀の初頭に学問として登場し,移民や黒人の生物学的劣等性の主張に多大な貢献をした。心理学者を他のメンタルヘルス従事者と区別する重要な特徴の1つに,心理テスト,主に知能検査がある。IQテストは,黒人や移民の劣等性の証明にしばしば用いられた。ほとんどの読者は,人種間には遺伝的にIQの差があるという主張(例えばR.J.ヘルンスタインとC.マレーによる「ベル曲線」におけるそれ)を何度も聞いているだろう。対象,方法,技術が変わっても,IQ得点と遺伝についての議論には本質的な変化は生じなかった。ユダヤ人が初めてアメリカに来たとき,彼らのIQの低得点は人種的劣等性のサインと見なされた。経済的,知的レベルが改善して得点が標準より高くなると,そこに彼らの遺伝的優秀性が反映していると主張された。
 高名な心理学者たちが,みずから進んで人種的劣等性の証明をしようとしたことに注目しなくてはならない。IQテストを開発したターマン,バートなどは,黒人のIQ劣等性という神話に貢献した人物である。英国の心理学者シリル・バート(「教育的テストの父」と呼ばれ,その分野での貢献によりナイトの称号を受けた)による研究は,さらにひどい。彼はデータをねつ造し,アシスタントの偽名で論文を書いた。黒人の知的劣等性を主張してきた心理学者でさえもが,首をかしげるような見え見えの捏造であった。データが完璧すぎたので,1840年調査と同様,いかさまは露見してしまった。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.278

引用者注:シリル・バートのデータ捏造についてはそれを否定する研究者もいる(真偽不明)。また,バートが見出した(「捏造した」とされる)双生児間の相関係数は,後の研究者が見出した値に非常に類似していることも知られている。

優生学的視点

 科学的レイシズムの歴史,特に優生学の歴史は,多くの理由で曖昧にされてきた。少なくともホロコーストへの貢献という理由だけではない。優生学の展開にこのような歴史性が認められるにもかかわらず,近年の精神障害の原因追求における遺伝主義的視点からの発言は,優生学とは関連づけられてこなかった。精神障害の遺伝的説明に反対する者たちですら,こうした考えの歴史的背景を見落としてきた。私たちは今日でも,生物学的理論の大流行を背景に,統合失調症や注意欠陥多動性障害などの説明に遺伝学を用いている。「まだ直接的な科学的証拠がない」と,提唱者たちですら認めているのに,そう言ってしまう。テクノロジーの進歩が劇的なので,私たちは科学的な証拠が見つかるのは時間の問題だと確信してしまっている。同じような主張が,衰えることなく1世紀以上にわたって繰り返されてきたのだ。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.271-272

移民と精神障害

 移民を精神障害の主因とする思想は,19世紀後半に広く普及した。この思想は,移民に対する畏れと精神科入院患者の激増により加熱した。人数の増加,イコール精神障害の増加であった。望ましくない特徴が不利な結果を招くことについての生物学的説明は,ダーウィン,メンデル,マルサスや,とりわけ「優生学」という名の創始者であるガルトンの理論から引き出された。
 しかし,彼らが精神病の原因を社会状況に求めようが,遺伝的欠陥を持つ人口の増加に求めようが,そのような学説の微妙さとは関係なく,ほとんどの論者は,後になって国に流入した劣等な「人種」が精神病の急増の主因と信じていた。移民の潮流を止め,精神的欠陥者を排除し,移民後に発病したと見なされる人たちを国外追放するための組織がつくられた。1882年,議会は,重罪人,狂人,白痴,一夫多妻主義者,てんかん,こじき,売春婦,アナーキスト,伝染病の罹患者,公的負担になりそうな人々などを排除する法律を可決した。が,措置の後も,貧困者や依存者,精神科病院入院患者の数は減らず,公衆の心配は癒えなかった。アジア人の排除法も同じで,1907年の日本移民の停止を旨とする紳士協定も,たいした効果をもたらさなかった。
 こうした扇動の陰で,強大な権力を誇っていたのが移民制限同盟であった。これはアングロ・サクソンの優等性という信念をもち,他人種の存在が開拓者の遺伝的優位を損なうという思想を掲げる組織で,裕福なハーバードの卒業生によって設立されていた。彼らは自分たちへの恩師,ヘンリー・カボット・ロッジ上院議員が発起した法律の制定を支援した。移民制限同盟の基本戦略は識字率法案の採択で,彼らはそれが欠陥者を排除する有力な方法だと確信していた。識字法は1917年に最終的に採択され,さらに厳密な条例が1920年代に追加された。しかし,相変わらず精神科病院は満員であった。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.270-271

ラベリング

 BPDの診断は,客観的な証拠や理性的な議論の必要性を葬り去ってしまった。他の診断名と同様,DSMい登場したとたん,この診断ラベルは行動の説明としてとんでもない使われ方をしている。診断自体に罪はなくてもだ。多くの精神障害の原因は不明である。精神科診断というラベルは,なぜ人がこのように行動したのかということを説明しはしない。ラベルは,ある種の行動がある精神障害を構成するという主張のもとに受け入れられているとしても,単にある種の行動の組み合わせを同定しようとしているものにすぎない。したがって,行動の説明として診断を用いるのは,循環論法である。例えば,ある人が「うつ病であるから彼女は悲しんでいるのだ」と言ったところで,なに1つ理解できたわけではない。同じように,もしBPDの診断基準に衝動性があるならば,「彼女が衝動的なのはBPDだからだ」と言っても何にもならないであろう。ましてや,患者がBPDであるからといって,その治療者までが衝動的性関係をもつようになることを説明できようはずもない。にもかかわらず,グーサイルは治療者が性的な過失を犯すのは,患者の診断に原因があるのだと私たちに信じこませようとしている。グーサイルは巧妙にDSM-Vに新しい診断を提案したいのかもしれない。治療者を誘惑した患者は,「治療者誘惑性傷害」であり「偽りの告発性傷害」であるというように。ある治療者が私信でこんなことを語ってくれた。「BPDは屑かご診断なんだ。治療者が好きになれない患者や,やっかいな患者,診断がつきにくく治療に難渋する患者がこの診断をつけられる。BPDと診断された患者には,性的虐待や近親相姦の既往をもっているものが多いようだ」。「境界パーソナリティ障害」とは,「やっかいな患者」をさす隠語なのだ。心的外傷のほんとうの根源を扱わないで,患者の病理を語ったりBPDと診断してしまうほうが簡単なのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.250-251

境界性パーソナリティ障害について

 BPD(境界パーソナリティ障害)がはっきりと区別して同定できる診断であり,どの治療者が診ても一致する信頼性のある診断であると,グーサイルは信じて疑わない。だが,DSMの初期の研究では,BPDの診断妥当性は確立できなかったし,複数の精神科医がBPDの認識に一致できることも示されなかった。この診断に信頼性があるという証拠はほとんどなく,それどころか「DSMのパーソナリティ障害はすべてあまり信頼性がない」という証拠がたくさんあるのだ。精神科医は,診断を下す際,DSMの基準から離れようとする傾向があるので,この信頼性問題はますますやっかいである。例えば,グーサイルらがBPDの診断を下すときの2つの主要な特徴は,「みなし児のような依存性」と「人を惹きつける魅力」であった。どちらの特徴もDSM-III-Rの診断基準には挙げられていない。これらの特徴を持つ患者は,BPD患者のなかでも目立ったサブグループとなっているのかもしれないが,現在の最新版であるDSM-IVでも,BPDの診断基準にはなっていないのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.249

PTSD予備軍増加

 次の変更点もまた,外傷概念を拡大し,PTSD予備軍の数を増やしている。1980年以降,外傷の構成要素についての定義は大きく変化してきた。元来,PTSDを誘発する出来事は,DSM-III-Rに盛りこまれたように「通常の人間の体験を越えたもの」,きわめて非日常的なものとみなされていた。この外傷を限定する一文が,DSM-IVでは抜け落ちた。例えば,愛する者を亡くすといった外傷は,辛いことではあるが,人生において普通に体験されることであり,きわめて破局的な事態と日常的な痛ましい体験とを区別するということで,初期には意味があった。しかし,DSM-IIIとDSM-III-Rの外傷体験の限定的な定義は2つの理由で批判された。1つには,心理的不安をもたらす出来事は,通常の人間の体験の範囲を超えるものではないかもしれない,というものだった。レイプなどの性的暴行が,それまで考えられてきた以上に頻発していることをアメリカ人は認識させられてきた。家庭内暴力の全体像も闇に隠されてきたが,ごく最近になって周知のものとなってきた。これらは日常的なことであるが,レイプ,児童虐待,家庭内暴力はどれもPTSD症状を産み出すのである。第2番目の外傷概念についての問題は,すべてのPTSD症状が,ひどい暴力の結果生じたわけではないというものだった。低いレベルのストレスを持続的に受けて外傷を生じた人たちもいる。中国の水責めは前額部に水滴を1滴ずつ落とすというものだが,このような些細なことさえ,繰り返し続けられれば,人は狂気に陥ると考えられている。もちろん,水責めは普通に起きることではないが,毎日続く出来事,たとえば間断なく続く勤務中の性的あるいは人種的いやがらせは,人を不安に陥れる。こうした場合,PTSDの引き金となった単発の事件があったわけではないが,その蓄積する効果が心的外傷をもたらしうる。これらの理由で,PTSDの診断は改訂され,ストレス反応を惹起しうる多くの日常的な出来事もその原因として含まれるようになった。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.151-152

PTSDの広まり

 DSMに収載されて以降,PTSDの診断を受けた大半の人々の病歴は,ベトナム帰還兵とは全く異なっていた。1980年,DSM-IIIで傷害として初めて認められて以来,PTSDは最も頻用される診断名の1つとなった。今日,PTSDは,惨劇に加担したり目撃した兵士の苦悩を説明するものとしてではなく,主として虐待とくに性的虐待の被害者の苦しみを説明するために用いられている。その変化の背景には,いくつかの歴史的な流れがある。とりわけ,レイプ,セクシャル・ハラスメント,子供や配偶者への虐待の外傷的な影響が広く知られるようになったことがある。広める原動力になったのは,ベトナム帰還兵ではなく女性市民運動であった。彼女たちの主張は,法律の拘束力の拡大を目論む保守的な政治家に擁護された。右左両派からの支持のもと,加害者を厳重に取り締まる運動や,体に外傷がなくとも被害者が傷害に苦しんでいることを示そうとする運動が燃え上がった。PTSDは,体の傷のない被害者の,遅延型の長期〜永続的な損害にぴったりなのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.148

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