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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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バランス感覚の果てに

 個人の名前は「書き易さ」と「読み易さ」という条件を満たしていることが望ましい上に,「好字」で,ほどほどの「顕字」力があることも求められる。個人の識別は番号でも可能であろうが,もっと印象に残る好感や連想をもたらすものの方が選択される。それは目立つ,他とは異なることへの傾斜でもあるが,極端に進めば,他に例がないという「珍奇さ」「奇矯さ」の実現になってしまう。名をつける側の意識に,できるだけ個性的な名前をつけたいという強い願望・意欲もあったから,文字を制限されたことによって文字そのもので個性を表現することが通常のやり方では実現しにくくなっていることで,制限のない読みの分野でその願望・意欲を満足させようとしたわけである。それで,現在の特殊な,掟破りともいうべき読みの出現となったのであろう。

佐藤 稔 (2007). 読みにくい名前はなぜ増えたか 吉川弘文館 pp.179-180
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うさ吉

 私の田舎では「本家」と呼ばれる家があって(それは私の田舎に限ったことではないが),そこの先々代の老人の機嫌のよい時の昔話として聞かされたことだが,その人の父親というのは入り婿だったそうで,舅に頭が上がらなかったらしい。で,子どもが生まれた時も命名権は舅の側にあって,「卯年生まれなので,うさ吉にしたから,役場に届けて来るように」と言われるまま畏まって出かけたのだが,みちみち自分の子が長じても「うさ吉と呼ばれるのなんて,気の毒」と心を痛めながら役場に行き着いたのだという。届けには舅の言い付けに反し,つい「恒吉」と記し,そのまま報告せずに学齢まで放置していたという。
 当の恒吉さんは何も知らずに日常「うさ吉」と呼ばれ,それで幼少期を過ごした。やがて小学校入学を迎えたころ,学校では誰ともわからぬ名前で呼ばれることになり,一大パニックを引き起こし混乱した挙げ句,事の真相が知れるに至ったという。明治の20年代の出来事である。「うさ吉」が,親しみやすい幼名として機能していたとしたら,名を一本化して本名(実名)のみに制限する前の時代の余響と見ることができるのではなかろうか。似たような話は丁寧に探し求めれば,あとこちにゴロゴロしているのかもしれない。

佐藤 稔 (2007). 読みにくい名前はなぜ増えたか 吉川弘文館 pp.73-74

「氏名」

 ふつう新生児が生まれて役所に届け出る時,名の欄に「氏名」とある。この氏名を姓名とも言って済ましているが,もとは異なる概念であった。苗字・氏・姓が混用されるようになったのは明治の初め明治8年(1875)から同11年(1878)にかけてのことで,同12年(1879)ごろを境に,前代の法令の引用を除けば氏または姓が用いられるようになったという。明治23年(1890)の民法,同31年(1898)の新たな民法制定以降,制度上の名称は氏に統一されたのであるが,一方で苗字や姓の名称も廃れることなく今日まで命脈を保っている。


佐藤 稔 (2007). 読みにくい名前はなぜ増えたか 吉川弘文館 pp.38

思い入れは

 現代社会に生きる個人には「私は私」であってほかの誰でもないという意識がある。その個人がほかの誰かの完全なコピーであるということはあり得ない。その人にしかない資質,能力をもち,古今東西,ただ1回きりしか存在しないものである。少なくとも現代人の生き方はこうした考え方を前提としている。人に名をつけるのに,「ほかの誰とも同じでない」特色のある名前をつけたいと考えるのは,理由のないことではないのである。ただし,名をつけるのは新生児本人ではない。自分の名を自分自身で名づけるという行為が原則的にできないのが,この社会でのルールになっている。本人による自己命名ができたら,じっくりと望ましい名前を自己の責任においてなされるであろうが,それができない相談なのだから,親の責任で適当な名を考えてやるしかない。子の望ましい将来を思い描いて「ほかの誰とも同じでない」存在を,名前によって予祝したいと考えるのは,親として当然のことである。名づけに強い思い入れが感じ取れる場面にしばしば遭遇するのは,ひとえにこのゆえなのである。

佐藤 稔 (2007). 読みにくい名前はなぜ増えたか 吉川弘文館 pp.19

論理的に考えれば

 論理的に考えれば,そこで嫌悪感をいだかずにすむかもしれない。私たちに嫌悪感をいだかせることの多くには,回避しなければならないようなきちんとした理由などない。つまり,本当は恐れるに足らないものなのだ。また,嫌悪感をいだかせるのに充分な理由があったとしても,私たちには影響を及ぼさないものもある。自分たちの文化と考え方が,それを許容できるものに変えていくからだ。たとえば,ゴキブリやヘビは,パソコンや,いま流行りのペットである外来種の爬虫類に比べたら,人間に実際に危害も加えないし気分を悪くさせることもはるかに少ない。現在アメリカでは,保険会社の魅力的な広告のおかげで,可愛らしい緑色のヤモリ(gecko)が大人気のペットになっている。ところが,ヤモリにはこれまで研究された爬虫類のなかでも最も数多くのサルモネラ菌がいる。アメリカではサルモネラ菌が原因で年間約500人が死亡している。特に乳幼児が,爬虫類が運ぶサルモネラ菌に感染しやすい(肉や卵にいるサルモネラ菌とは対照的に)。アメリカでは,サルモネラ菌が原因となる疾病が急速に増加しており,明らかに爬虫類ペットの売り上げ増加と密接に関連している。低温動物の家庭用ペットの売り上げの急激な伸びは,独創的なマーケティングの影響がどれだけ効果的だったかの表れかもしれない。それにしても,カリスマ人気のヤモリにいとも簡単に騙されてしまうなんて,あまりにもおめでたいではないだろうか。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.321-322

怒りと嫌悪

 怒りを覚える状況と,嫌悪感を覚える状況の違いは,共通の表現から判断することができる。アリゾナ大学のロビン・ナビは,大学生らに,“怒っている angry”“むかつく disgust”“げんなりする,ぞっとする gross out”で表現できる感情をいだいた時のことを記述するように指示した。怒った時のことを書くようにいわれた学生は全員,自分が,何らかの手段で干渉されたり危害を加えられたりした時の出来事を記述した。ところが,「むかついた」体験を報告するようにいわれた被験者の75%は,怒りが引き起こされたのとまったく同じタイプの出来事——たとえば不公平な扱いを受けたことや他人の行動に気を悪くしたことや,スキャンダルを書き立てられたことや騙されたことを挙げた。ところが,「ぞっとした」体験を書くようにいわれた学生の92%が,体液や死や昆虫に関する出来事について報告していた。つまり,むかついた状況を書くようにいわれた時に,怒っているときと異なるタイプの出来事について報告したのは25%だけだったということになる。このことからは,「むかついた」という時には,怒っていることが多いとわかった。「ぞっとした」という表現は,実際に吐き気を催すようなかなり限定したシチュエーションで使われるが,「むかついた」は実はそうではないことがわかった。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.284

道徳的パニック

 ある行動を道徳観に欠けるとみなす論理的な根拠がないにもかかわらず,単にタブーと嫌悪感の許容範囲を超えたという理由だけで,間違っていると罰したくなる抑えがたい気持ちを「道徳的パニック」という。何かに嫌悪感をいだいたら,私たちはその気持ちを裏付ける理由を探す。たとえば,ホモフォビアや文化的な保守派は,ホモセクシュアルは「家族の価値」と従来の結婚の概念にダメージを与えるという根拠からよく議論する。道徳的に間違っていることが裏づけられると,次に,感情的反応が正当化され,そこからは堂々巡りである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.279-280

価値転換

 かなり最近まで,喫煙はおしゃれで好ましい行動だった。しかしいまや,喫煙は汚く危険で,本人だけでなく他人も汚染し,喫煙者は下賎で,がさつ,哀れだということになってしまった。はっきりと謳われていなくても,喫煙は嫌悪すべき習慣で喫煙者は汚染された社会の負け犬であり,道徳観に欠けるというメッセージを広告は発信している。この方法は,成人の喫煙マーケットが衰退を見せるまでの数十年にわたってよく宣伝されていた「喫煙は健康に害があります」という禁煙キャンペーンよりも,ずっと効果的だった。最近の喫煙に対する「道徳観の欠如した」観点からの非難の最たるものは,受動煙または副流煙(非喫煙者が吸い込む煙)には命に関わる影響があり,子供など罪もない犠牲者に特に有害だという「新しいデータ」が伝えられていることだ。わかりやすくいうと,喫煙者は,その無責任で自己中心的な行動で赤ん坊を殺してしまう道徳観のない落伍者なのである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.271

ネクロフィリア

 臨床的に見て,ネクロフィリアには3つのタイプがある。
1.「情欲殺人」またはネクロフィリア的殺人。殺した後にレイプするために,被害者は計画的に殺される。
2.「通常の」ネクロフィリア。行き当たりばったりで,性欲を満たすために死体が使われる。
3.「空想の」ネクロフィリア。死体は実際には乱暴されていないが,死体とのセックスを空想してマスターベーションをするのが最大の楽しみとなっている。

 男性にも女性にもネクロフィリア愛好者はいるものの,大多数は男性で,ホモセクシュアル,ヘテロセクシュアル,そしてバイセクシュアルの順に多い。ネクロフィリア愛好者の知的レベルは標準であることが多く,精神障害者でもサディスティックでもない。むしろ,一貫してもっともよくみられる性格的特徴は,きわめて自己評価が低いことだ。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.246-247

無害なマゾヒズム

 人々が引きもきらずに強い不快感を催す映画を観ようとするもうひとつの理由は,ポール・ロジンが「無害なマゾヒズム」と名づけた,人間ならではのひねくれた性質である。無害なマゾヒズムとは,たとえばホラー映画を観たり,燃えるように辛いチリペッパーを食べたり,ジェットコースターに乗ったりするという,本来は好ましくなく,生物学的な利点もないことを求めて喜びを得ることなのだが,これはまた人々がなぜ嫌悪を催すようなセックスを観たがり,幻想を抱きたがるかの説明にもなる。こうした性行為は,私たちの心中あるいは映画館のスクリーンでしか存在しないので害はない。私たち自身に危害が及ぶことはない。危険を伴わない穢らわしさは,時にセクシーなのである。穢らわしいものに対しては,嫌悪感を抱きながらも,魅惑される。そして実際に身体を傷つけられたり何かに汚染されたりするのでなければ,私たちはヒエロニムス・ボスが描いたような,罪深き悦楽に耽ることができるのだ。また,ホラーやグロスアウト(げんなりする)映画に出かける観客らを見ると,少なくとも一部の男性にとっては,セックスや気持ちの悪いものを観た興奮が相乗効果を生み,映画鑑賞後に性的に興奮していることもわかった。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.230

日本よ

 文化が違えば,吐き気を催させるほど最低のシーンが,エロティックなシーンに変わることもある。55億ドル規模といわれる日本のアダルト産業は,排泄物や道ならぬ行為を混然と見せるのを楽しんでいることにかけては,他国の追随を許さない。日本の社会というのは表向きは慎ましやかで秩序があり,礼儀正しく謙虚だが,ひと皮剥くと奔放であられもない性であふれかえっている。タコにクンニリングスされてよがっている裸の女性を描いた官能的芸術から,観た者の多くが吐き気を催して洗面所に駆け込み,また別の者は泣きながら逃げ去ったと伝えられる動画まで——この4分間のビデオについては,あるブログに「ありとあらゆる排泄物に混じりあい,誰かがランチにタコベル(タコス専門店)に行った(後で吐いた)みたいだった」と書かれていた——日本のポルノは,エロ・グロを妄想することにかけては果てしなく自由であるらしい。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.226-227

覚醒レベルの問題

 どれだけ刺激を受けたいかは,神経学的に覚醒レベルが通常どの程度であるかによって決まる。つまり,脳が生まれつきどれだけ敏感で活動的かで決まるのである。生まれつき敏感な人は,強い刺激を好まない。なぜなら,強い刺激によって簡単に針が振りきってしまい不機嫌になるからだ。一方,生まれつき神経覚醒の値が低い人を盛り上げるには,さらに多くの刺激が必要になる。つまり,刺激希求性の高い人は実は比較的低レベルの神経覚醒で機能している。そういう人にとって,生きているという実感をより強く得るには激しい経験が必要になるが,低い刺激しか求めない人は内面ですでに興奮しているため,それ以上の覚醒を避けたがる。あるいは現在の興奮を弱めようとする。刺激希求性の高い人も刺激希求性の低い人も,それぞれ,感情を高めたり抑えたりしようとして行動し,環境を調節することで快適に生きようとしている。刺激希求性の高い人は,消防士やレーシングドライバーになることが多いが,低い刺激しか求めない人は図書館司書や庭師になることが多い。当然,刺激希求性の高い人は刺激希求性の低い人よりもはるかに多くのホラー映画を観て,存分に楽しむ。元気づけられるからだけではない。観た以上の見返りが期待できるからである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.203-204

死から守るために

 人類は,肉体的にも心理的にも死の問題からわが身を守るために,何かを苦手に思う感情を生み出したのである。そのせいで私たちは,かさぶたに覆われた傷やブタに似た食べ方や自分の生活を脅かす人々を避けようとする。誰かに嫌悪感を催すとその人を蔑んだ態度をとる。こうした人々によって免れられない死を思い起こさせられたり,いつか死ぬという真理を寄せつけずにいてくれる社会構造や幻想が脅かされたりすると,反発心が生じる。嫌悪感は死に対する拒絶反応だといわれてきた。嫌悪感こそが「今,目の前にあるこれを拒絶する」,あるいは「あなたを拒絶する」と訴える。そうすることによって,拒絶された「これ」が象徴的にも実際にも予感させる,破滅の道に向かう可能性から私たちは守られる。拒絶とは,すべての嫌悪感の裏に隠れている原則的な姿勢なのである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.184

嫌悪感の利用は

 嫌悪への感度が摂食障害の原因になっているかを検証する,唯一の実験がある。摂食障害のある女性にこっそり「4種類のひどいにおいのリンバーガー チーズ(悪臭で有名なベルギー産チーズ)」をかがせたところ,対象グループの健康で食事のできる人と同じように,気分が悪くなった。ところが,このチーズを使った操作は,被験者のセルフイメージ,食餌行動,体重を増やそう(または減らそう)とする作戦や高カロリーの食べ物への反応には何の影響も及ぼさなかった。言い換えると,嫌悪感を活用して悪い食習慣をやめさせるには,その嫌悪感が内面からのもので,しかも自分に向けられたものでなくてはならないのだ。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.166

非難メッセージ

 1940年には,国民啓蒙・宣伝省は映画部を作り,同年,史上最も有名なナチのプロパガンダ映画『永遠のユダヤ人』を制作した。この映画には,ナチのポーランド侵攻のドキュメンタリー場面と,ポーランド系ユダヤ人は堕落しており下品で怠惰で醜悪で邪悪だとするスタジオ収録の場面とが交互に登場する。ここでは,ユダヤ人は汚れた下水管からもがき出て,「権力と信仰を毒性の強い病気のようにまき散らしているネズミの群れ」にたとえられている。当時は医学書でさえ,ユダヤ人を「菌のようにはびこる」バクテリア,腫瘍,がんになぞらえていた。1936年(ベルリンオリンピックの年)の医学生に向けた講義では,ナチ親衛隊に属していた放射線科教授ハンス・ホルフェダー博士が学生らに見せたスライドで,ユダヤ人はがん細胞として,ナチの突撃隊員は当然ながらがんと闘う放射線として描かれていた。ナチは,ユダヤ人に病原体という烙印を押した上に,彼らが病気の原因となる物品,たとえばタバコを取引していることを非難した。世間に広められたメッセージは「ユダヤの害虫と伝染病を根絶せよ」。悲しいことに,このメッセージは功を奏した。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.158

もやしてしまえば

 ポール・ロジンに師事し,現在はアリゾナ州立大学教授になったキャリル・ネメロフは,学位論文を書くためにこんな実験をした。まず,新品のセーターが,ヒトラー,イヌの糞,肝炎といった,さまざまな不快な人やものと触れたとする。被験者には,セーターを消毒したり,マザー・テレサのような善人に着てもらうといったさまざまな手続きを経ると,セーターの属性がどれほど更新されるか想像するように指示した。興味深いことに,消毒は,肝炎のようなセーターの物理的な不快感の浄化には有効だった。ところがヒトラーのセーターを着た場合にだけ,その悪徳を薄めることができたものの,だからといってその穢れを完全に消し去ることはできなかった。ヒトラーの不快なエッセンスを完全に消し去る唯一の手段は,セーターを徹底的に破壊すること——燃やすことだった。魔女狩りの不幸な時代や,内容が精神を蝕むとされる本を燃やした事件などにもみられるように,昔から,何かを燃やすことは人智を超えた悪を駆逐する方法だった。燃やすことによって,文字どおり,また象徴的な意味でも,悪を灰に帰してしまうからである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.155

呪いを信じたくなるのは

 私たちがなぜ,呪いを信じたくなるのかについて,進化学の観点から説明するとこうなる。「怪しい」サインに対してより用心深く反応した祖先のほうが,たとえば木の葉がたてるサラサラという音を聞いてそれが幽霊なのか,風なのか,敵が跡をつけてきたのではないかと考えた祖先のほうが,何も気に留めなかった祖先よりも長く生き延びた。同じように,破滅の兆候となるサインに気を配り,警戒して暮らした祖先は,自分の姿をかたどった人形がピンクッションにされていても気にしなかった祖先よりも長生きしたのである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.153-154

伝染

 ペンシルヴァニア大学のポール・ロジンと各種研究機関の協力者による多くの実験で,一般に私たちは,人または物の真髄が「伝染する」ことを嫌うと証明された。これらの実験では,被験者に,アドルフ・ヒトラーのものだったセーターをドライクリーニングと衛生処理を施したら着ることができるか,以前殺人者が所有していた車を運転できるか,または大好物のジュースのなかに死後殺菌処理をしたゴキブリを浸したものを飲めるか,といった質問をした。すべてのケースで,多くの人が「汚染された」対象を嫌がり,そのことを想像しただけで気分が悪くなり虫唾が走った,と証言した。ところが,どこが悪いのか原因を尋ねても,なぜそれほど気分を害したのか正当化しようとしても,つじつまが合わず,多くの人がうまく説明できなかった。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.149-150

糞便インプラント

 最近の例では,恐ろしい胃の感染症(クロストリウム ディフィシル)の治療事例がある。ある女性患者は下痢に間断なく襲われ,8ヵ月間で27キロも痩せ,おむつをして車椅子の生活を送るまでになってしまった。従来の抗生物質を使った治療はうまくいかず,担当した胃腸科専門医は数ある選択肢のなかから糞便インプラント(着床)という珍しい治療を試した。彼女の夫の排泄物のサンプルをとり,それを生理食塩水のなかに混ぜたものを患者の腸内に注入するのだ。腸内で夫の細菌が優勢になり,患者の腸内細菌が正常化した。彼女の下痢症状は24時間以内に消え,数日後には完全に回復し,現在に至るまで病気は再発していない。嫌悪感のせいでこの治療の発明や応用が妨げられなかったのは幸いだ。もしそうだったなら,この女性やこの病気にかかった患者たちは死ぬしかなかったはずだ。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.141

食中毒を防ぐには

 食の安全問題を追求する消費者擁護団体,アメリカ公益科学センターによると,ホウレンソウとレタスは,肉以外で発生する食中毒の原因の24%を占めており,食中毒患者のなかには長期にわたる身体障害に陥ったり,死に至ったケースもある。2011年の夏,大腸菌に汚染された野菜でヨーロッパで40人以上の人々が亡くなった例もある。原因は,動物との接触,不潔な水,汚れた洗浄器具または不衛生な取り扱いである。この話から得られる教訓は,夕食で食中毒を起こすのを防ぐには,作家デヴィッド・ソロー的発想の生き方に回帰しなければならないということだ。何よりもシンプルで,おそらく安全な対策は,店で買った野菜は徹底的に洗い,サーロインを目の前で挽いてくれる肉屋でしかひき肉を買わないようにすること。そして,皿に載る食べ物が農場から食卓に届くまでの情報をできるだけ集めることだ。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.136

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