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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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Big Five

 嫌悪しやすい性格だけが健康に影響を与えるわけではない。性格を形成するいくつかの構成要素——心理学者が『ビッグ ファイブ』と呼んでいる——も健康(あるいは不健康さ)を保つこととの関係を根源としている。『ビッグ ファイブ』の性格特徴のひとつである,「実直さ」——ボーイ スカウトのモットー,「備えよつねに!」の理想化——は,嫌悪感が情動のひとつとして健康と結びついている。これは,実直な人は規律をよく守り思慮深いため,いきあたりばったりでだらしなく実直さを欠く人よりも頻繁に手を洗い,衛生面全般への予防策を講じていることが多いからだ。心の状態に気を配る人は身体にも気を配っている。実直さがあれば,長生きもできる。『長寿プロジェクト』では,医学博士のハワード・フリードマンとレスリー・マーティンが,子供時代から80代までの人々を追った大がかりな研究結果を報告している。それによると,長寿で健康な人生を送った人を最もよく言い表した子供時代の性質をひとつだけ挙げるならば,それは「実直さ」だった。これとは逆に,『ビッグ ファイブ』で得点の高かった他の2つの性格特徴は,病気をもたらすことが多く,人を早く天に召してしまうことがある。その2つとは,生き生きとした想像力や芸術・感情・冒険や今までにないアイデアを全般的に理解するといった「新しい経験を受け入れようとする姿勢」と,他人と一緒にいたがり,パーティ好きで,知らない人にも積極的に会おうという気持ちを示す「外向性」だった。こうした特性もまた,リスクをはらんだ行動を試そうとする可能性を高める。タイの僻地で新しい料理を試そうとしたり,出会ったばかりの人と気軽にセックスしたりすることは,経験としてはいい思い出になるかもしれないが,感染症,あるいはそれよりも悪いことにつながる恐れもある。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.120-121

(引用者注:「実直さ」は”Conscientiouness”であり,「勤勉性」「誠実性」と訳されることもある)
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disgust sensitivity

 嫌悪に対する態度(disgust sensitivity)が高い人はとりわけ汚染に敏感であり,しかも,「誰か他人が触ったことがわかっているものに触れることに抵抗がある」といった記述に同意する人は,この記述に同意しない人に比べて,風邪や腹痛,感染性の病気にかかることが実際には少ないことがわかった。少しOCDの傾向があるくらいのほうが,健康でいられる。もっとわかりやすくいうと,不快な気分にさせるものに敏感な気質であればあるほど,実は病気になりにくいのである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.120

最新で先進的

 嫌悪は,人間の感情をつかさどる基本感情のなかでも,最新でかつ先進的であると私は確信している。そもそも嫌悪感は,恐怖とは違い,人間を捕食する最たるもの,病原菌に直面した時に役立つよう,独自に進化したのだと思う。病気は緩慢に進行し,不確実なものなので,嫌悪には学習と推論が求められる。そして,人間はこの複雑さを処理するのに充分に発達した脳を備えた唯一の動物である。成熟し,社会に適応した大人でなければ,嫌悪感を充分に知りつくし,物理的にも象徴的にもそれが何を意味するのかを理解できるようにはならない。幼い子供もサルもイヌも,そんな感情は持ち合わせておらず,理解もできない。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.116

味覚嫌悪学習

 広食性動物にとって,樹木からぶら下がっているもの,土から生えているもの,野山を駆け回っているもの,水のなかで身をくねられるものすべてが,いざとなったら食料にできる。ところが,ものによっては,食すると命とりになりかねないものもある。およそ有機物だったら何であれ,自分たちの食料バスケットに蓄えても構わない環境で,何は大丈夫で,何は大丈夫でないかの目星をつけるのは難しい。たとえば,ある地方では「毒キノコ」のにおいが,別の土地では「栄養たっぷりの食べ物」のにおいと同じかもしれない。したがって広食性動物は,自分たちが生きている特定の環境では何がよくて何が悪いのかを学習しなければならない。幸いなことに,人間の嗅覚システムはどの食べ物に毒性があり,どの食べ物が栄養に富んでいるのかを,きわめて迅速に学ぶようにできている。このことは,多少誤解のある名前のつけられた現象「味覚嫌悪学習」で示されている。
 たとえば,こうだ。香り豊かな食べ物を呑み込んだ後に吐いたら——私の場合,ペペロニ ピッツァがそうだったが——それを再び食べたくはなくなる。ところが,その後その食べ物を警戒するように作用しているのは,実はその味ではなくてにおいのほうなのである。シアトルにあるワシントン大学の行動神経科学者イレーヌ・バーンスタインは,(ひどい吐き気を催させる)化学療法を受けている子供たちを対象に行った実験で,味覚の嫌悪というのは実は嗅覚の嫌悪であることを示している。子供たちには,化学療法の診療が始まる前に「メイプルオフ」という珍しいフレーバーのアイスクリームを食べさせた。化学療法のセッション後,子供たちは2種類のアイスクリームを薦められた。先ほどの「メイプルオフ」か「ハワイアン デライト(ハワイの楽しみ)」という新しいフレーバーだった。子供たち全員が「メイプルオフ」を食べるのを嫌がり「ハワイアン デライト」を,喜んで食べた。どちらのアイスクリームも同じくらい甘くてクリーミーだったが,フレーバーが違っていた。「メイプルオフ」はひどい吐き気を催す化学療法と結び付けられてしまったため避けられたが,一方の「ハワイアン デライト」は病気との連想が何もないため,受け入れられたのだ。私たちが食べ物を拒否するシステムがこれほどすぐに影響するのは,こうした反応があるおかげで,生存適応性が大いに高まるからである。もし何か毒性のあるものを食べて気持ちが悪くなったことがあるならば,死ぬまで同じ間違いを繰り返したくはないだろう。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.102-103

ラプンツェル症候群

 保険会社のレスポンス インシュランスが2005年に行った調査によると,アメリカ人の17%が,運転中に鼻をほじっていて事故を起こしそうになったことを認めている。私の想像では,運転しながら鼻をほじったことのある人の割合は,ほぼ100%に達すると思う。にもかかわらず,運転中に鼻をほじるのは,携帯電話で話をするよりも危ないと考えられており,カナダでは運転しながら鼻をほじったら850ドルの罰金を科せられるという新しい法律が制定された。これは運転中に携帯電話で通話をしたときより,350ドル高い。
 私たちを社会に縛りつけているうわべのしきたりや教養ある行動をかなぐり捨てたら,一体どうなるのだろう?
 自分や他人の体液に好きなだけまみれたがるのだろうか?
 そうする人もいるだろう。ラプンツェル症候群は,髪の毛を食べることに矢も盾もたまらず惹きつけられてしまう病気である。誰の頭髪であろうとこだわらない。この症候群に陥った者は,あなたのバスルームに入ってきて,ヘアブラシから髪の毛をむしりとり,むさぼり食う。髪の毛を食べたい衝動が,毛髪の大きな塊を取り除くために胃の手術をしなければならなくなるほどに強くなる。こうなると,原始的な肉体的な欲求に従順なのも行き過ぎである。ところが,動物的な衝動と表向きの抑制との間の葛藤こそが,人間が人間たる真髄である。子どもにはこうした葛藤はない。人間は成長したらおもちゃを捨てなければならない。そのおもちゃが風変わりな発想から作られたものであろうと,身体がつくり出したものであろうとだ。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.75-76

嫌悪感の特徴

 ミネソタ州にあるメイヨー クリニックが行った最近の研究では,採血のために病院にやってきた19〜99歳までの3300人の患者に対し,採血についての心身の反応と,過去のいきさつについて答えてもらうアンケートを実施した。回答からは,注射針が「不快だ」と答えた人のなかに採血恐怖症が多いことがわかった。対照的に,3000人以上の患者の中で,採血に恐怖心がなかった人は,針にもまったく不快感を示さなかった。「不快だ」と答えた針恐怖症の人たちはまた,若年層と女性に多いことがわかった。このことは嫌悪感が女性に多くみられ,成長するにつれて薄れていくという数々の見解と一致している。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.57

道徳化

 道徳化というのは,ある対象や活動が,新たに生まれた道徳的な考え方の影響を受けて,倫理的に中立的なものから倫理に反するものに——通常は悪い方向に転じるプロセスをいう。ここ50年間で,北米では喫煙に対する人々の考えが,格好いいことから格下げになったのはその典型である。「副流煙」はその場に居合わせる罪のない人々,特に子供たちにいかに深刻な害を及ぼすか,警告するマスメディアの健康キャンペーンの矢面に立たされ,喫煙者は過失致死を犯した悪人同然であると後ろ指をさされている。道徳化が反対方向に作用し,たとえば昆虫を料理として食べるのを気持ちの悪いことから高潔なことに変えさせる作戦として使える場合もある。「バッタのディナーは母なる地球への恵みとなる」といったスローガンが未来の屋外広告に使われている場面を,私は想像できる。環境志向の広告はこれまで,たとえば,ガソリンを食うハマー(アメリカのSUV車)に乗る人々をあざ笑い,電気自動車シェビー(シボレー)ボルトを欲しがらせるのに成功してきた。似たようなマーケティング的アピールによって,人々が虫料理を切望するように働きかけられるのではないだろうか。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.31

嫌悪感は気持ちが決める

 私はチーズ好きだが,虫はどうしても苦手だ。だから,難題となる発酵食品は,カース マルツゥである。カース マルツゥはイタリアのサルディーニャ島でよく食べられている羊のチーズだ。「腐ったチーズ」,俗に「うじ虫チーズ」と呼ばれていることからもわかるように,このチーズには文字どおり生きたうじ虫がひしめいている。このうじ虫チーズを作るには,まずこの地方で作られる羊のチーズ,ペコリーノ サルドの厚切れを用意する。そのチーズは,通常の発酵を通り越し,腐っていると思われかねない状態まで,放置する。腐敗していく途中で,チーズバエの幼虫が加えられ,このハエの消化器官から出された酸がチーズの脂肪分を分解するためそのまま分解が進むとチーズは最後にとても柔らかくなり,どろりとする。食べ頃になったカース マルツゥには通常,何千もの幼虫が宿っている。それどころか,地元の人々は,幼虫が死んでいるカース マルツゥは危ないと考えている。そのため,生きた幼虫が蠢いたままで,供される。
 この幼虫は,白く透き通った蠕虫,つまりうじ虫で,太町はおよそ8ミリほど。うじ虫を取り除いてからチーズを食べる人もいるが,取り除かず食べる人もいる。うじ虫がまだ蠢いている状態でこのチーズを食べる時には,この無視が自分やあたりの何かをめがけて飛びかかってこないように,手でチーズを覆う必要がある。刺激を与えると,うじ虫たちは15センチもの高さまで跳ねることがあるからだ。このチーズは,サルディーニャ特産のパンと強い赤ワインと一緒に食することが多い。このカース マルツゥさえ「食べてはいけないチーズ リスト」に載せておけば大丈夫,などと思ってはいけない。ヨーロッパの他の国々でも,生きた昆虫を使ってチーズを醸成しているのだから用心が必要だ。たとえば,ドイツのミルベンケーゼやフランスのミモレットは,どちらもチーズの熟成や風味を出すのに,ダニの力を借りている。
 ここまで読んで,こうした数々の発酵食品への私の説明にあなたが嫌悪感を覚えたとしても,無理はない。最も原始的な嫌悪感情の生来の目的は,私たちが,腐敗して毒性をもつ食べ物を口にしてしまうのを避けさせることにあるからだ。だとしたら,なぜ,発酵した唾液や腐敗したサメやうじ虫蠢くチーズが,これほどまでに私たちを惹きつけるのか?これは単に,腐敗のありとあらゆるシグナルを放つものを食べたがってしまう,という人間のおかしな矛盾にすぎないのだろうか?そうではない。ほとんどの場合,何かに嫌悪感をいだくか否かというのは,見る側の気持ちが決めるものだからだ。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.8-9

定員の自由化を

 しかし入試制度に関して入試問題より重大と思われるのは入学定員の問題である。先述したとおり,現在は定員内であればどんな受験生でも原則合格させなければならないというルールが有る。そのため高校で学ぶ気がまったくない生徒や普通高校での勉強についていけない能力の生徒も合格させざるを得ない事態を引き起こしている。
 実際に現場にいる教師は,このルールにいつも歯がゆい思いをさせられる。教育へ「民営化」視点を導入し,個々の学校の競争と効率化を煽るのなら,この定員内全員合格のルールの可否を各学校に委ねてほしいと切に願う。中学校からも「あれだけやりたい放題やっていてすんなり高校に入ってしまったら他の生徒に示しがつかない。ぜひ落としてほしい」といわれている生徒,入っても周囲に迷惑をかけるだけとわかっている生徒を入れざるを得ない専攻会議の辛さ,重苦しさはたまらないものがある。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.112-113

貧困が背景に

 修学旅行やスキー学校など宿泊を伴う学校行事の際には,保護者から保険証の写しを提出してもらうことになっているが,これがなかなか集まらない。提出物にルーズということもあるのだが,それ以上に健康保険に加入していない家庭が多いからだ。毎年結局は全員分の保険証が集まらず当日を迎え,途中で事故がないか心配しながら引率に行くことになる。
 当然,日頃も具合が悪くとも医者に行けない訳で,何か病気になってもほとんど医者にかからない。人生で最も体力のある高校時代なのでなんとか過ごしているようだが。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.56

余裕なし

 教師が自分の能力や活動を反省し改善していくのは絶対に必要なことだ。恥ずかしい話だが,教える熱意のまったく感じられない,教科書をそのまま書かせたりするだけ,あるいは生徒の理解力も考えず,教師の虎の巻ともいうべき指導書をそのまま教える教師もいる。そんな無益な教師をたたき直すためにも反省・改善は不可欠だ。しかしそれには,素晴らしい授業を行う教師・学校を視察・研究に行くとか,自分の教科に関連する研究の最先端を学ぶ,正しく効果的に伝達するためのプレゼンテーションスキルを学ぶ,正しく効果的に伝達するためのプレゼンテーションスキルを学ぶ,さらに学校という閉ざされた場に留まりがちな教員に様々な社会的体験を行なわせるといいった方法が有効であると思う。現実の教育現場では。ことに「底辺校」ではこのような研修や体験を行う余裕がまったくないといっていいほどない。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.98

受験料って,自分で払うんですか?

 進学希望者にしばしば質問されるのが,「受験料は自分で払うのか」ということである。この質問には2通りの意味があって,その1つは受験料を学校が払ってくれるのかと思っている恐ろしい誤解の確認という意味である。同様に「入学金は誰が払うのか」という質問をされたこともある。もう1つは,自分で払うことはわかっているが,どこで・どうやって払うのかという意味の質問である。つまり,銀行や郵便局で振込をしたことがないのである。「底辺校」に限らず高校生の年齢では,そんな経験がないと思われる方もいらっしゃるかもしれないが,保護者はどうなのかという疑問は残るであろう。なぜ保護者が教えないのだろう。なぜ保護者に聞かないのだろうと,指導をしながら教師はいつも不思議に思う。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.47

夢や希望

 「底辺校」の生徒や親に接していると,彼らには本当に夢や希望がないことに気づく。仮にもっていたにしても,いつまでたっても幼児期に見た夢,「大きくなったらテレビアニメのヒーローになりたい」といった不可能な夢,あるいは一攫千金の夢を,文字どおり夢見ているのだ。実現不可能な夢を見ることが思うようにならない現実からの逃避なのかもしれない。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.71

底辺校の英語教育

 生徒たちの苦手意識は英語に集中する。アルファベットを書けない生徒がいることは先に挙げた。特に「b」と「d」の区別ができない生徒が多いという。ひらがな同様これらを学ぶ最初の段階で,周囲がほんの少しこの児童・生徒を見て注意し指導していれば防げる躓きだと思うのだが。動詞の過去形などの変化がわからない。be動詞と他の動詞を一緒に使ってしまうというのは当たり前の例となっている。英語教師もなんとか基礎力をつけようと努力しているが,一向に改善される気配がない。従って高校3年生になっても曜日の名前や月の名前を書かせる試験問題が出され続けることになる。
 「底辺校」にもALTと呼ばれる外国人語学教師が配属される。彼らの生の声を聞いてみるといい。様々な学校で授業を行う彼らこそ,現在の高校生の学力差を体感していると思う。「底辺校」では彼らは本当に暇そうである。授業が成立しない状況であることも多いので,日本人教師はALTと授業しようとしない。また生徒も英語に苦手意識があり無関心でもあるので,積極的に彼らに接しようとしない。一日中職員室で読書をしているALTもいるのだ。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.45

近代史の無知

 多くの「底辺校」の生徒にとって,近代史はブラックホール状態である。まず授業でそこまで進めないし,仮に進めたとしても複雑な国際関係が理解できない。近年の,緊張を増しているアジア近隣諸国との関係の中で「日本人は過去について知らなさすぎる」という批評を受けることがあるが,至極もっともである。学んでいないのか,学んでも覚えなかったのか,少なくとも「底辺校」の生徒は無知といってよい状況なのだ。そして,自分で学ぼうとする努力も,現時点ではまったくしていないのだから。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.44

ひらがなが

 国語の学力に関しては漢字能力の欠如が巷ではよく話題になっているが,もっと根本的な能力に欠けていることを感じる。ひらがなが書けない生徒同様にカタカナが書けない生徒も少なからずいる。字の書き方が乱暴だからではなく,元々知らなくて「ヨ」「ヲ」の区別がつかない生徒もいる。「あいうえお」の語順さえ完璧でない生徒もいるが,もっとひどいのは「いろは」である。高校生なら「いろは」を学ぶ機会が既にあったであろうと思う高校教師の思いは誤解であった。ほとんど全員の生徒が「いろは」の語順を知らない。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.41-42

調査漏れ

 しかし「底辺校」で教育に携わった経験をもつ立場からいえば,これらの調査結果に100パーセント納得することはできない。特に高校生を対象としている場合,偏差値層別があまりに大区分すぎると考える。学力の二極分化に関しても,分析対象が模試を受けることができる生徒の集団であることに疑問を感じる。実は「底辺校」の生徒のほとんどは模試を受けていない。学力面と費用面の両面から受けさせることができないのだ。従って統計にも載ってこない低学力の高校生は見逃されている。彼らを含めた日本の高校生全体を見ると学習時間や学習習慣,学力そのものに関して,きっともっと驚嘆すべきデータが出るのではないかと想像する。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.35

学力の構成要素

 学力に関する調査が行われると,いつも問われるのは「学力」とは何かという概念である。学力を明快に分析している専門家に,大阪大学の清水宏吉氏がおられる。氏は学力を「知識の詰め込み」で獲得できるA学力,「思考力」「判断力」「考える力」などと呼ばれるB学力,「意欲」や「関心」「態度」といったC学力と3領域に分け,この3つの学力のうちC学力が「根」となり,B学力が「幹」に,A学力が「葉」となる「学力の樹」をイメージしている。そして「3つの学力が文字どおり一体となって,ひとつの学力の樹を形づくって」おり,どの1つでも欠けたら生きた樹とはいえないと明言されている。この魅力的なイメージの学力観を基に「底辺校」の生徒たちの「学力」を見てみたい。すると「底辺校」の生徒たちは既に小・中と9年間学校教育を受けてきたはずなのに,ほとんどの生徒が先の3つの領域の学力を表面的にはまったくといってよいほど身につけていない「無学力」状態であることがわかる。「生きた樹」を形づくっていないのだ。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.32

性的魅力の後景化

 要するにももクロにあっては,女性アイドルの定石とは逆に,性的魅力を前面に出す演出がなされないのである。たまさか前面に出ても,ジョークか,ハイブリッド化の一断片となってしまう。ももクロと共演している氣志團の綾小路翔氏は,ももクロについて「人生で初めて,性の対象ではない女子を好きになった」とすらいう。
 このような性的魅力の後景化は,逆説的なことに,ももクロの魅力を増しているようにおもわれる。イヤラシさや男性目線への媚びないことが,先の「近さ」「かわいさ」ともあいまって,女性ファンの獲得に貢献しているのは明らかだろう。あるいは<性的でないのに傑出していること>が,女性には憧れや同化への欲求を生むのかもしれない。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.146

無題

 こうした<日常生の美学>,<近さの美学>とも呼ぶべきものこそが,青春ガールズムービーのみならず,ももクロの大きな特徴と魅力をなしている。ももクロは,アイドルであり,その意味では非日常的で「遠い」存在かもしれない。しかし彼女らは,手の届かない「スター」ではない。あくまで「今会えるアイドル」である。ももクロは,どれほど有名になってもそれを強調し続けてきた。ももクロのもうひとつのキャッチフレーズ「週末ヒロイン」も,彼女たちが学校に通う,普通の中高生にすぎないことを強調する効果をもつ。
 このことは,ももクロを含む最近の「ライブアイドル」,あるいは「ご当地アイドル」全般に,多かれ少なかれあてはまる。彼女たちは,近接ライブ,握手会,撮影会などを盛んに行ない,その近さをアピールする。現在は高嶺の花になった AKB48でさえ,秋葉原の専用劇場にゆけばいつでも会える「会いに行けるアイドル」であることを売りにしてきた。宇野氏が村上春樹から借りたいい方をすれば,「リトル・ピープルの時代」のヒロインである。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.134

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