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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ギャップから愛着へ

もっともそれらの美学者も指摘したとおり,この刺激は極端になれば不快でしかない。具体的にいえば,楽曲や振りを含む演出があまりにもギャップに富み,新奇さ,異質性,ジャンル横断的なハイブリッド性を過剰に備えてしまうと,ファンは面食らい,ときに無理解,幻滅,反発,不快さえ抱くことになる。
 これはももクロにかぎったことではない。しかし,次々に変わりゆくことを積極的に目指すももクロにあって,その種の事態はしばしば起こる。とくに新曲や新演出が発表されたときには,ほとんどつねに批判される。逆にいえば,そうした不快や批判さえ生むショックを与えないかぎり,ももクロの戦略としては失敗ということになるだろう。
 しかしやがてファンは最初のショックを乗り越え,楽曲や演出の良さを理解し,最終的にはかつてなかったほどの強い愛着さえ抱くようになる。それは単なる新し物好きや知ったかぶりを超える。というのも,ももクロの楽曲・演出は,全体として入念に仕上げられ,途切れない全力の身体パフォーマンスによって繋がれているからである。そのためファンは,ももクロ自体への信頼や愛情にも支えられて,楽曲・演出をできるだけ好意的に解釈しようという意思を働かせる。おかげで,各断片は徐々に適切な意味づけと関連を与えられ,最終的にはその場にぴったりと来るようにおもえてくる。そして最初は無理解や反発さえ抱いていたギャップや異質性が,むしろ快く,愛着のわくものになる。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.108-109
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パクリ指摘に意味なし

 現代では,あまりにも多くの音楽があふれ,音楽情報が大量に氾濫している結果,どんな曲のどんな断片でも,類似した先例を,どこかでかならずみつけることができる状況にいたっている。しかもその先例にはかならず先例があり,さらにその先例にも先例がある……といった具合である。たとえ意図しなくとも,すべての音楽が二次創作,ないしN次創作にならざるを得ない状況といってもよい。それゆえ,よほどたちの悪い全面的な無断借用でない限り,盗作やパクリを云々することはほとんど意味がなくなってしまう。
 こうした状況は,少なくとも近年のアイドル界については,たびたび指摘されてきた。そのことは楽曲のみならず,外見や演出にもあてはまり,強い既視感をももたらす。かくして,新しいものは何も生まれないような閉塞状況が生じた。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.91

カオス感

 前山田氏自身は,最近の若者が飽きっぽいので,曲の中で次々に目先を変えているのだという。もっとも最近では,世代間の差がフラット化し,中高年も若者と似たような嗜好をもつ場合が少なくないし,中高年も音楽にかんしては経験豊富な人が多いから,このことは若者だけにあてはまるわけではなかろう。
 いずれにせよ,ギャップある異質な断片の,ときに高速のハイブリッド化が,ももクロの楽曲の大きな特徴と魅力をなすことは疑いない。大槻ケンヂ氏も,ももクロの音楽とは,最近のアニメやテレビなどの急激な画面展開を音楽化した新ジャンルだと評している。同様に怒髪天の増子直純氏も,1曲の中で色々なものがメチャメチャに展開してゆくカオス感が,ももクロの楽曲の特徴だと評価する。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.80-82

断片とハイブリッド

 このようにももクロの楽曲にあっては,たった1曲の内部でさえ,ギャップある異質な断片のハイブリッドがさまざまに生成される。
 同じことが,複数の楽曲のあいだにもみられる。ももクロの持ち歌は2013年1月現在,カバー曲を含め70曲強ほどあるが,それらは歌詞を度外視しても,提供者が固定していないことも手伝って,スタイルやジャンルの点で見事なまでにバラバラである。そのスタイルやジャンル自体は,各々歴史的な文脈に属する古いものといってよい。しかしライブやアルバム全体の中では,各曲が異質な断片となり,次々とハイブリッド化され,斬新な効果をもたらす。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.80

多様で雑多

 そもそも5人は,メジャーなアイドルとしては例のないほど,声も,歌も,背丈も,性格(キャラ)も,踊り方さえも,バラバラで,むしろそれを強調してきた。この個性差に応じてまた,各メンバーを応援する(推す)ファンたちの好みも分かれる。さらにそれら多様なメンバーたちが,多様な楽曲,ダンス,演出を繰り広げる。その組み合わせの可能性たるや,万華鏡のごとく無限大といってよい。
 かくしてファンは,きわめて多様で雑多なももクロの中から,自分の好みに合った側面のみに注目し,それを楽しむことができる。しかもファンは,ももクロにたいして強い感情的な一体感をもつことが多い。その結果,互いに相容れない通約不可能な<私だけのももクロ>像が,ファンの数だけ存在する事態になりやすい。
 重要なのは,それら<私だけのももクロ>像は,いずれも正しいことである。各々,ももクロの汲みつくせない多様性の全体を,少しずつ部分的に写し出したものなのだから。
 一般に現代日本では,音楽等にかんする人びとの好みが,多様化し細分化し,オタク的・排他的な「島宇宙」(宮台真司氏)と化す傾向が強い。もはやかつてのように,国民の誰もが同じ大スターを好むことはない。各人は自分の好きなものだけを追求し,ほかのジャンルやアーティストにはまったく無関心というわけだ。そのような状況にあってなお,ももクロが多様なファン層を獲得し,国民的現象にまでなり得たのは,ももクロ自体の中に,多様な島宇宙を包摂できる,<わけのわからない>雑多な多様性が併存するからに違いない。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.16-17

大学に例えると

 「俗に浅草フランス座がストリップ界の東京大学といわれていた。そして新宿フランス座が早稲田大学,池袋フランス座が立教大学,浅草ロック座がなぜかストリップ界の日本大学ということになっていました。
 仮にも大学というからには,高校があるはずですが,これに当たるのは,浅草の百万ドル劇場,美人座,浅草座といったところ。あるいは横浜セントラルなどの東京周辺の小屋でしょうか。この伝で云えば,喜劇役者の中学は地方巡回劇団ということになります。
 また『大学』卒業後にもそれなりの進路があって,丸の内の日劇ミュージックホールが東大大学院でしょうか。ここを経て,日劇の『春の踊り』や『夏の踊り』に出演すると,いわば大蔵省へ入省したようなもの。さらにここから映画に出るとか,そのころ仕事を始めたテレビに行くとか,社会の中に喜劇役者のための登攀装置が埋め込まれていたのです。逆に云えば,一人前の喜劇役者になるには,生の舞台で,それも厳しい観客の前で,長い間,修行しなければならなかった」(『浅草フランス座の時間』)

松倉久幸 (2011). 浅草で,渥美清,由利徹,三波伸介,伊東四朗,東八郎,萩本欽一,ビートたけし…が歌った,踊った,喋った,泣いた,笑われた。 ゴマブックス No.456-465(Kindle)

フランス座野球チーム

 また余談になりますが,野球といえば親父の宇七も無類の野球好きで,ついに軟式のクラブチームまでつくって,これが「フランス座」チーム。東京では有数の強豪でして,俳優の鶴田浩二のチームと,よく国体の代表を争っていたんです。昭和29年には東京都大会で優勝,私も内野手として出場しましたが,投手が豪速球の持ち主でバッタバッタと三振を取る。これが土橋正幸という選手で浅草の魚屋の息子。優勝がきっかけになってプロ野球の東映に入り,最多投手になり監督にまでなりました。またまた余談ついでにいえば,のちにフランス座の文芸部員としてはいってきた,現在の作家井上ひさしもよく練習試合に駆り出され,球拾いなんかやらされてましたよ。

松倉久幸 (2011). 浅草で,渥美清,由利徹,三波伸介,伊東四朗,東八郎,萩本欽一,ビートたけし…が歌った,踊った,喋った,泣いた,笑われた。 ゴマブックス No.358(Kindle)

なぜそれが必要なのか

 人生をもっと豊かで謎めいたものにするために,なぜパラノーマルの世界や神が必要なのか,そもそも私には理解できない。もっとも,そういった信念体系が単純な答えやわかりやすい意味をもたらしてくれるという点で魅力があるのはわかるし,そういった単純な答えやわかりやすい意味に魅力を感じる人が,子どもの頃に洗脳された人のなかにはとりわけたくさんいることも理解している。それでも,繰り返すが,そういったものに惹かれる気持ちやその理由のほうが,信者の心の中に根を下ろす作り物の概念よりもはるかに興味深いはずだ。
 私は今でも幽霊や天使といった概念が大好きだし,超常現象のとてつもない話に心惹かれる。そういったものが惹起するイマジネーションにわくわくするからだ。「未知のもの」は私たちをぞくぞくさせてくれる。それでも,そうしたものは単なるストーリーにすぎないし,私たちにはわからないことがまだたくさんあるからといって,これからも永遠に解明できないとは限らない。「超常」や「超感覚」の話をする前に,「通常」や「感覚」の限界を理解し,定義する必要がある。それをせずに何かを超常現象と決めつけることは,好奇心と学ぶ意欲を殺いでしまう。わかりやすいレッテルを貼り,単純な意味を付与して,考えることを好まない人たちを満足させ,考えることを好む人たちを貶め,物事を超常現象で片付けてしまうことは,私たちの思考や世界や宇宙から,目も眩むような複雑さや豊かさを奪ってしまう。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.458-459

驚くべき偶然は必ず起きる

 次の例についてちょっと考えて欲しい。きみが宝くじに当たる確率は1400万分の1だ。当たる確率は恐ろしく低い。すでに挙げた統計結果からもわかるように,宝くじに当たるよりも,きみの家の屋根に飛行機が墜落してくる可能性のほうがおよそ56倍も高い。それでも,どこかの誰かが宝くじに当たる。その部分に関しては,起きそうにない出来事ではない。むしろ,誰かが当たることはわかりきっている。だからもし私がきみに,「さあ,科学大好き人間くん,1400万分の1の可能性しかないのに,どうして当たるのか説明してみろよ」と迫ったら,きみは不思議そうに私を見て,説明すべきことなど何もないと答えるだろう。誰が当たりくじを引くかを予言できるというなら話は別だが,どこかの誰かが当たりを引くことは,わかりきった事実だ。謎めいたところは何もない。ひと組の番号があたり番号であるという驚くべき「偶然」は,どこかの誰かに必ず起きる。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.381

無題

 たとえば,もしある人が,ホメオパシーか何かの“代替”療法を飲んで,体の具合が良くなり,霊能者に会いに行って満足感を覚えたなら,うまくいったわけだし,その人の治療法の偽りを証明する必要はないと主張する人は多いかもしれない。そういった人々の心の安らぎを,私たちは否定すべきだろうか?個人的には,そういった人たちが私に議論を吹っかけてこない限り(たいていの場合,「それじゃあ,これをきみはどう説明するんだ?」という形だ),そのような治療法によって人が手に入れる幸福感や満足感を減らしてやろうという気は,私にはさらさらない。何らかの形で私に影響を及ぼしたり,危険な原理主義につながったりしない限り,人が何を信じようと私には関係ないことだと思っている。人生における厄介な問題には単純な答えのないものがほとんどであり,真実はおそらくは数え切れないほどの矛盾によって成り立っているのだろうということも,私は心得ている。だから私は,どんな政治的イデオロギーにも与するのは難しいと感じる。1つの立場がすべてを包括できるなどということは想像できないからだ。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.369-370

主張する側が証拠を

 まず,なんらかの主張をする際には,主張する側が根拠を提示しなければならないという点だ。ある主張を信じない人たちは,その主張が間違いであることを証明する義務などない。例えば,地球のまわりをティーポットが回っていないことをちゃんと証明することは私にはできないが,回っているときみが主張するからといって,回っていないことを私が証明する必要はない。万が一回っているときみが信じていて,私にも同じことを信じさせたいなら,証明するのはきみの仕事だ。私はおそらく,「回っているって直観でわかっている。だから信じているんだ」という説明よりもまともな証拠を要求するだろう。私の言っていることが間違っていると思うなら,無いものを証明してみてくれ。そんなことが不可能なことは,きみにもすぐにわかるだろう。
 きみの家に緑色のねずみがいると,私がきみに信じさせたがっているとしよう。そのねずみを見つけ出し,きみに見せるのは私の仕事だ。緑色のねずみなどいないことをきみが証明するのは,どうやったって不可能だ。緑色のねずみを探し回り,家の中の物をすべて外に出しても,ねずみはきみがまだ見ていない場所に隠れているかもしれない。緑色のねずみが家の中にいると人に言われたからではなく,そういうねずみがいるという確かな証拠が得られたときにはじめてねずみの存在を信じる人が,“そんなねずみはいないだろう”と予測したり,“いるという証拠を見せてくれ”と要求することは,心が狭いわけではない。健康的な懐疑心だ。突拍子もないことを主張する,その現実的な証拠を見せてくれ。そうすれば信じるから。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.358-359

嘘を見分ける方法

 嘘を見分ける方法は3つある。1つは,相手が“言わない言葉”に注目すること,2つ目は相手が口にする言葉に注目すること,そして3つ目は血圧,心拍数,手のひらにかく汗といった,かすかな生理的変化に注目することだ。この3つ目の方法を担うのは,嘘発見器と誤って呼ばれることの多いポリグラフである。ポリグラフは嘘発見器ではなく,何の罪も犯していない人でも何らかの理由で緊張していたり,イライラしているときに示すわずかな生理的変化を測定する装置。したがって,被験者の扱いと測定値を解釈する技術に長けた検査者が扱ってはじめて,その人が嘘をついているかどうかを判断できる。それでも主観的解釈にならざるを得ず,手順に関しても批判が多いため,ポリグラフ検査の精度は議論の的となっている。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.312-313

筆跡診断

 筆跡分析や性格診断は,性格について大胆に断定してしまうと最初のハードルでつまづいてしまう。個人的には,就職活動の際に筆跡診断で不採用にされた人は,不服を申し立ててしかるべきだと思う。占星術に基づいて不採用にされるのと大差ないからだ。筆跡心理学は,その見事なルールや脱構築,もっともらしい表面的な理論のわりには,観光地の遊歩道で手相占いをしている,まともとは思えない老人と同じくらい当てにならない。筆跡鑑定家は,ある種の傾向(正直さや社交性)を筆跡から見抜くことができると主張するが,曖昧な指摘は誰にでも当てはまるように解釈できるし,文字を書いたのが男性か女性かといった,もっとも基本的かつ検証可能な情報は筆跡分析からは得られない。
 性格というものは流動的で,自分と対話をしている人は自分に反応しているのだから,自分の影響を受けている,というこの事実は物理主義であり,ボディ・ランゲージなどのツールを基にした簡単すぎる性格診断は避けるべきだ。単純に,正しくないからである。同様に,相手に対する自分の先入観も捨てる必要がある。この人はわがままで嘘つきな人だと感じたら,それを裏付ける身振りや仕草を探すだろう。言葉を用いない非言語コミュニケーションでの反応を発達させるには,あるレベルの距離感,客観性,厳密性が必要だ。これができなければ誤った結論を導き出し,人間関係を台無しにする結果になりかねない。もちろん,完璧に客観的になることなどほとんど不可能。多少の個人的見解は常に入ってくるが,それでも先入観を取り除く重要性に気づくことがきわめて大切なのである。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.308-309

ラポール

 多くの人は,人と馬が合うとき,無意識に“ラポール(親和)”状態になる。彼らは気づかずにお互いのボディランゲージなどを真似るようになるのだ。結果,カップルが向かい合ってレストランのテーブルに座って同じ格好をしているというよく見かける図ができ上がる。夜更けまで友達と2人で話し込んだとき,1人が椅子から床に座れば,ラポールを維持しようという欲求から,ほとんど間をおかずにもう1人も絨毯の上に座るはずだ。同じ理屈で,相手がそろそろ帰りそうだなとわかったという不思議な感覚を経験したことは誰にでもあるだろう(普通こんな話はしないだろうが)。突然空気が変わり,そこに何らかの力がかかったか変化が起こり,きみは相手が「そろそろ行こう」と言うだろうと察知できる。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.252

催眠手術

 催眠状態での手術という例を考える前に,理解するべき重要点がある。体の中で一番感覚が敏感なのは皮膚であり,内臓や細胞の組織は痛みにほとんど無感覚だ。私たちは内臓が引っ張られたり伸ばされたりすることには敏感かもしれないが,内臓のどこを切られても痛みはごくわずか,またはまるで感じない。そのため,皮膚の切開による痛みを最小限にするためのリラクゼーションや暗示といった比較的普通の効果だけで,痛みを感じず手術を行うことができるかもしれない。ワグスタッフは,現代の外科医が一般的な麻酔薬を好んで使用するのは,そうすることが必要なのではなく,そのほうが恐怖と緊張を緩和できるからというだけの理由だと,1974年のある医学論文に明記されていると指摘する。これは驚くべき事実であり,このことを理解し,“催眠的”手術の多くは今でも実際は皮膚麻酔を使っているという事実を併せて考えると,“特別な状態”が痛みを抑制してくれるという考え,ひいては“催眠による手術”という概念自体がやや不要に思えてくる。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.191-192

マジック体験とは

 実際に起きていることを説明するには,本当にさまざまな問題がある。“マジック”の比喩に戻って,私たちがマジック体験というのはどういうものなのかを理解しようとする宇宙人の種族だと想像してみよう(私の一部のファンが興奮する前にはっきりと言っておくが,私は宇宙人が本当にいるなどとは信じていないし,それを理解しようとしているわけでもない)。私たちはまず何をすればいいだろう?自分でマジックを観るのもいいが,(a)何も役に立たない,もしくは(b)自分たちが体験したことしかわからない。マジックのトリックを目撃した人たちにインタビューするという実験をして,どんなものだったのかを調べるのもいいかもしれない。確実にその人たちは,「催眠術にかけられちゃった」とか「彼は私に催眠術をかけたんだ」と言うのと同じように,「マジックだったよ」とか「彼は私にマジックをして見せたよ」と言うだろう。比喩としては成立している。しかし,いくつかの問題にぶつかるだろう。まず,トリックに対する反応の仕方は膨大にある。本物の魔術だと思う人も少しいれば,本物の「魔法」ではないが,マジシャンが何か特別な精神力,さらには超能力的な力を持っていると信じる人もいるかもしれない。イライラするパズルだと思う人もいれば,仕組みがすっかりわかってしまったけど,それを言うのは失礼だと思っている人もいるかもしれない。よく見られる反応としては,マジックで“あるかのように”便乗して楽しみ,その状況を説明するのに“マジック”という言葉を使うことに抵抗を示さない人は多い。そういう人たちは,「このトリックは本物じゃない」という,ゲームを台無しにしてしまうようなことを言って,マジシャンを困らせるようなことはしたくない。調査するにはあなどれない人たちだ。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.179-180

だましにくい人

 以上のすべての理由を考え合わせると,一般的に騙すことがもっとも難しいのは,関心が非常に薄い観客ということになる。私がこの手のマジックをパーティで大人数のグループに向かって演じたとき,一番危険だったのは,端のほうに腕を組んで立ち,隣同士で会話しながらなんとなく見ている観客だった。集中して見ていない彼らをこのゲームに巻き込むことはできない。彼らは集中して見ている時間こそ少なかったが,見えているものは多かったはずだ。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.64

驚いた時には

 人の心理は面白いものだ。トリックに驚くと,人は“普通ではあり得ないようなことを体験した”という魅惑的な思い違いをする。自分は騙されているに違いないという内心の知識よりも驚きの感情のほうがずっと大きく,抵抗できないのだ。実際,自分の驚きがあまりにも広がってしまい,騙されたという知識など取るに足らないことになってしまうのである。それどころか,見事に騙してくれた相手に称賛の気持ちすら覚える。当惑と同様,驚嘆は暗示にかかりやすくなっている状態であり,キツネにつままれた状態の観客はマジシャンに与えられたあらゆる暗示を即座に受け入れるだろう。すべては,マジシャンのテクニックがよりいっそうあり得ないものに見えるよう計算されているのだ。騙された客たちは,トリックが,いかに素晴らしいものだったかを確固たるものにするために,どんなことでもしてくれる。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.55

マジックとは

 つまり,マジックとは何かというと,ごまかしや,すり替えや,膝の上にコインを落とすことではない。相手を手際良く,巧みに誘導し,不思議な体験をしているのだと思わせるような関係を相手とのあいだに踏み込んで作り上げることだ。子どものようにびっくりする体験ともどこか似ているが,大人の知的なナゾナゾのような要素もある。それは観客の頭の中にしか存在しない体験で,その体験はきみの技術が導き出したものかもしれないが,技術そのものと体験は同じではない。それは観客の体験の中にあり,マジシャンが使っている手法の中で見つかることはないのだ。つまり,何より大切なのはプレゼンテーションということになる。かの有名な,素晴らしいマジシャンであるユージン・バーガー(クロースアップ・マジシャンの権威である)は,3つか4つのトリックを学ぶだけに残りの人生をすべてかけることだってできる,と言っている。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.54

倫理的一線

 私をはじめとするメンタリストたちの多くは(とはいえ,どうも私はこの肩書きが好きになれないが),メンタルを得意とするようになる前は(おかしくなる前,とも言えるのだが),マジシャンとしてスタートしている。たいていのマジシャンは比較的分かりやすく,何パターンかにタイプ分けできるのに対して,メンタリストは人数も少なく,それぞれの分野も離れていて,極端にタイプが違っていたりもする。テクニックを習得するのもマジックよりずっと難しく,人間性が何より最重要になってくる。
 多くのメンタリストは,私から見れば倫理的な一線を越えており,タロット占い師や,いわゆる“超能力者”になったり,中には死者と会話する者もいる。スピリチュアリストとして,または正統派のキリスト教徒として協会で働いている者もいる。エンターテイナーにとどまりながらも,「本物の超能力を持っている」と,ごく普通に主張する者もいれば,同業者のインチキを暴く輩もいる。一方では,「モチベーションを上げるためのビルダーシップ」などと名付けたセミナーを週末に開催し,自分の能力を100パーセントの精度に鍛え上げた心理学的スキルとして売っている者もいる。現場での実際のスキルは純然たる手品かもしれないし,あるいは,自分が聞きたい答えをいかに相手に言わせるかというテクニックに頼っている者もいるだろう。しかし悪意はなく,人を楽しませ,有益で,そして弁解の余地がないほど人を巧みに操る。儲けやエゴに,あるいは逆に心からの博愛精神に突き動かされているのかもしれない。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.32-33

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