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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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出口なき信仰

私が出会った超常現象の信者を見て気づいたのは,誰もが“出口なき信仰”というシステムを持っているということだった。つまり,あまりにも強くXを信じているため,Xを立証できないものは無視され,Xに当てはまる出来事はすべて拡大解釈される。たとえば,サイキックヒーラーとして働いていた親しい友人の女性がこんな話をしてくれた。
 目の前でボイラーが破裂して腕にひどい火傷を負った男性を,あるパーティの席で治療したときのことだ。彼女の言い草に注目して欲しいのだが,男性にしばらく手をかざしていると,痛みと水ぶくれが「あっという間に引いてきた」というのだ。この話が事実かどうか,同じパーティに参加していた共通の友人に確認すると,彼は声を立てて笑った。たしかに彼女はその男性の体に手をかざしてはいたけれど,それは氷と雪で1時間以上冷やしたあとの話だったのである。超能力をもつその友人は,私を騙そうとしたわけではない。氷雪でパックした話は,語るほどのことではないと省いただけなのだ。事実,その一件は彼女にとっては自分の能力を確認できたエピソードであり,それは彼女の信念に油を注いだ。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.26-27
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権力の退廃

 あらゆる権力の退廃は,思想・信仰の自由を踏みにじるところからはじまる。そして,権力による思想・信仰の自由の圧殺は,必ず革命思想・革命信仰の自由の圧殺からはじまる。それと同様に,あらゆる革命の退廃は,反革命思想・反革命信仰の自由の圧殺からはじまる。
 “反革命”のレッテルさえはれば,思想・信仰の自由を奪ってよいという発想は,“非国民”のレッテルさえはれば,思想・信仰の自由を奪ってもよいというファシズムの論理となんら変るところはない。
 退廃なしの革命をめざそうと思うなら,反革命にも思想・信仰の自由をみとめるところからはじめねばならない。
 むろん,私が語っているのは,思想・信仰の自由に関してであって,テロや暴力の自由に関してではない。権力に革命的暴力の自由を暴力的に拒否する権利があるように,革命には反革命的暴力の自由を暴力的に拒否する権利があるだろう。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(下) 講談社 pp.231-232

3つに1つ

 一方,狂信者ほど他人の信仰に無理解である。自分の信仰を絶対的に正しいと信じることは,他のすべての信仰が絶対的に誤りであると信じることでもある。だから,誤ったことを信じている人間に,真理を教えてやれば,真理に目が開かれ,ただちにその誤りを捨てるだろうと思いこんでしまう。実際,それまでは信仰のなかった者や,信仰があってもそれが浅かった者に対しては,そうした伝道行為が有効で,信者を獲得することができる。
 しかし,互いに別の信仰を持つ狂信者同士がぶつかりあったときにはそうはいかない。どちらの伝道も成功しない。ぶっても叩いてもだめである。暴力で決着をつけようと思うなら,どちらかがどちらかを殺すところまでやらねば決着がつかない。
 狂信者集団同士がぶつかりあった場合も同じである。ほんとの決着は相手を殺しつくすところまでいかないとつかない。だから,歴史上すべての宗教戦争は,みな殺し戦争となるか,百年戦争となるか,戦争で決着をつけることをあきらめて自由を認めあって妥協するか,3つに1つしかない。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(下) 講談社 pp.229-230

暴力と狂信

 普通の人の目から見れば,あれだけお互いに残虐なテロやリンチをやりあえば,みんないやになって組織を抜けたがっているだろうと思われるかもしれない。どちらの組織にも千人単位の人間が残って頑張っているのが不思議に思われるだろう。ちょうど帝政期のローマ人たちが,次々に虐殺されながらも,なおも自分たちの信仰を守って頑張りぬくキリスト教信者たちに奇異の目を見張ったように。
 しかし,これは不思議でも何でもない。政治的信仰でも,宗教的信仰でも,弱い信仰の持ち主には暴力による脅迫が有効だが,確信者・狂信者に対しては,無効なのである。無効どころか逆効果なのである。拷問も処刑もききめがない。
 信仰心の弱い者には一定のききめがあることから,しばしば思想・宗教の弾圧に暴力が用いられてきた。しかし,いつでもそうした暴力は確信者・狂信者の壁にあたってはねかえされてきた。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(下) 講談社 pp.229

破防法

 暴力革命とは,暴力による国家権力の転覆であり,内乱にほかならない。その過程では当然にも騒擾,放火,殺人,爆発物使用,公務執行妨害が起きるであろうから,いかなる党派,団体であれ,日本で暴力革命を起こそうとするなら,破防法の圧力をはねのけて,あるいは,その網の目をくぐってそれをしなければならない。
 他の刑法などの法律は,あくまでも一定の違法行為があってから後に,そのなされた行為が取締まられる。しかし,破防法は「破壊活動防止」の名の下に,教唆,扇動という形で,破壊活動を事前に取締まることができる。とくに,団体適用し,活動制限をしてしまえば,活動をしただけでその組織員を検挙できる。破防法の下で,暴力革命をめざすというのは,そう簡単にできることではない。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(上) 講談社 pp.143-144

信仰においてのみ

 人が悪の意識なしに人を殺せるのは,信仰の中においてだけである。我々の時代の物神化された革命概念は,革命への帰依者たちに,いかなる宗教にも優るとも劣らぬ強固な信仰を与えている。今日,自己の信ずる神概念のために従容として死につくことができ,あるいは冷静に人を殺せる多数の信者たちを擁している宗教はさして多くないと思われるが,革命への帰依者の中には,そうした信者たちを多数算えることができる。物神化された革命概念は,現代社会で質量ともに最大の信者群を有する神概念となっている。
 そして,あらゆる神概念が,信者の数が一定限度多くなると,神概念の解釈をめぐって教義が分かれ,教団が分立するように,革命という神概念においても,革命理論の分化,革命党派の分立という形においてそれが起きていることは,ご存じのとおりだ。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(上) 講談社 pp.135-136

自分が正統

 やっかいなことは,政治組織が分裂する場合,どちらも自分が正統だと思いこむことである。一見正統でない側にしてもそうなのだ。ブントと共産党の場合,形式的な正統性は共産党にあると客観的に見えるかもしれないが,ブントの論理からすれば,共産党は革命の任務を放擲した革命党であり,大衆を裏切り,プロレタリアートを裏切り,革命家を裏切った“代々木官僚”が,党を私物化してしまったのだから,組織の正統な所有権は真の前衛をめざすブントの側にあるということになる。現在の中核派と革マル派にしても,その分裂に際して,互いに自分たちが正統であり,相手方は裏切者で組織を私物化しようとしていると考えたのである。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(上) 講談社 pp.64-65

絶対の確信

 正義感からの殺人は,相手の存在そのものが悪であるとの絶対の確信にもとづいてなされる。殺すことは,悪を滅することであるから,正義なのである。歴史上,この殺人がもっとも多い。だいたい,すべての戦争における殺人がそうだ。すべての戦争は正義のための戦争で,敵は悪,味方は正義なのである。ベトナム戦争だって,米軍の側からすれば正義の戦いなのだ。
 中世における異端者の虐殺も,あらゆる革命での反革命者の粛清も,ナチスのユダヤ人虐殺ですら,すべて正義の名のもとにおいてなされてきた。各国でおこなわれている凶悪犯罪者の処刑だって,社会正義の名のもとにおこなわれていることである。
 殺人が正義の名のもとにおこなわれるとき,人はそれを是認するばかりか,歓喜し,賞揚さえする。しかし,正義というのは,必ずしも普遍的なものではないから,ある正義の尺度を持つ者にとっては喜ぶべき処刑が,他の正義の尺度を持つ者には吐き気がするほどおそろしいこと,ということは,よくあることだ。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(上) 講談社 pp.34

言葉にせよ

 ある行動を習慣化するために必要な条件の多くは,新しいキューを取り入れる場合と共通している。重要なのは,予測可能性を高めることだ。習慣化したい行動を儀式化し,なるべく一定の状況でそれをおこなうようにするといい。時間と場所を決めるのは,とくに有効だ。たとえば,いつも決まった時間にエクササイズをおこない,あれこれ考える余地なく機械的に行動するようにする。毎週火曜日の午後5時にバーベルを上げ,毎週木曜日の午前6時にランニングをするという具合に決めておくのだ。先延ばししがちな課題があれば,それをいつ,どこでおこなうかをまず決めよう。そのうえで,「土曜の朝ごはんを食べ終わったら,ガレージの掃除をするぞ」と言葉にして誓う。
 あまりに簡単すぎる?しかし,効果はある。心理学者のピーター・ゴルウィッツアーによれば,ほぼどのような行動でも,その行動を取るという意図を言葉にすれば,実際に行動する確率が2倍近くに高まるという。子宮癌検査の受診や睾丸癌の自己検診に始まり,リサイクルや休日返上での報告書執筆にいたるまで,その効果が科学的に実証されている。手軽なうえに効果が大きいという意味で,これほど理想的な方法はないかもしれない。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.259-260

接近目標に言い換え

 モチベーションをいっそう高めるうえで有効なのは,「なにを避けたいか」(=回避目標)ではなく,「なにを実現したいか」(=接近目標)という形で長期の目標を決めることだ。さまざざまな研究によると,ポジティブな長期目標を立てている人は,比較的先延ばしをせず,大きな成果を上げるケースが多い。足元が危なっかしい場所に立っている人に「落ちないように気をつけて!」と言ったり,コンサート前の歌手に「歌詞を忘れるなよ!」と念押ししたりすると,避けなくてはならない結果が現実になる可能性をむしろ高めてしまう。
 「酷評されるような本を書かない」ことを目標にするより,「高く評価される本を書く」ことを目標にしたほうがいい。「振られたくない」と思うより,「あの娘を振り向かせたい」と思うほうがいい。回避目標はほぼ例外なく,接近目標に言い換えられる。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.201

計画の錯誤

 課題をやり遂げるまでに要する時間を想定するときはとりわけ,過度の楽観主義に陥りやすい。心理学の世界では,この落とし穴を「計画の錯誤」と呼ぶ。ごくありきたりの課題を終わらせるまでにどれだけ時間がかかるのかさえ,ほとんどの人は正確に予測できない。家族にクリスマスプレゼントを買うにせよ,取引先に電話をかけるにせよ,レポートを完成させるにせよ,たいてい思っていたより時間がかかる。私自身,いまこの章の原稿を推敲しているが,こんなに締め切りぎりぎりまで作業が終わらないとは想定していなかった。
 計画の錯誤に陥ることが避けがたいのは,誤った先入観が私たちの記憶に埋め込まれているせいだ。私たちは未来の課題の所要時間を予測するとき,過去に同様の課題に要した時間を思い返す。しかしその際,過去の所要時間を実際より短く考え,課題達成の過程でつぎ込んだ努力と直面した障害を軽く考えてしまう。この計算違いにより,先延ばしの弊害にますます拍車がかかる。締め切りから逆算してぎりぎり間に合う時間に作業を始めたつもりが,残された時間では十分でなかった,という結果になりかねない。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.165

政治の先延ばし

 目先の問題を手っ取り早く解決するための行動ばかり取りたがるのは,政府の性質だ。本当に重要な問題より,目の前の問題が優先される。アメリカ建国の父たちも,この点を理解していた。章の冒頭で,アメリカ合衆国憲法の父,アレクサンダー・ハミルトンの言葉を紹介したが,権利章典(合衆国憲法の人権規定)の生みの親であるジェームズ・マディソンも次のように述べている。「最初のうちは課題を先延ばしし,最後になってあわてて行動するのは,この種の(立法)機関の性質である」

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.156

宗教と先延ばし

 宗教的な発想に立てば,もしある日突然,私たちの生命が停止すれば,それまで善行と瞑想と改悛を先延ばししてきた人の魂は永遠に地獄に堕ちかねない。あらゆる宗教が聖なる戦いで敵とすべきなのは,邪悪な力ではなく,ごく自然な人間の性質だ。実際,どの宗教も信者の先延ばし癖と戦ってきた。宗教が信者に約束するご褒美はほとんどの場合,遠い将来にならないと得られないからだ。死後の救済は,目先の快楽をもたらす罪深い行為と比べて,魅力の面でどうしても大きく見劣りがする。どの神を信じるかをめぐり世界には深い亀裂があるが,先延ばしという問題を抱えている点では,すべての宗教が多くの共通点をもっている。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.136

追い込まれたほうがアイデアが浮かぶ気になる理由

 仕事を先延ばしする人が最もよく口にする言い訳は,「追い込まれたほうがいいアイデアが浮かぶんですよ」というものだ。そう感じる理由は,非常にはっきりしている。締め切り間際にならないと仕事に手をつけないとすれば,もっぱら締め切り直前にアイデアが生まれるのは当たり前のことだ。
 しかし,土壇場で生まれるアイデアは,早い段階から取りかかる場合より質も量も劣る。厳しいスケジュールのもと,強いプレッシャーがかかる状況では,概して人間の創造性が低下するからだ。締め切り前夜に突貫工事で課題に取り組み,目がしょぼしょぼしてきた午前3時に思いついたアイデアは,たいてい平凡で,ぱっとしない。画期的なアイデアとは,一般的に,念入りな準備の上に花開くもの。骨折って題材への理解を深めたうえで,時間をかけてアイデアを「孵化」させる必要があるのだ。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.123

当たり前

 消費者行動論が専門のコーネル大学のブライアン・ワンシンク教授の研究によれば,食に関する私達の選択はおおむね,空腹の程度とはあまり関係がなく,食器のサイズや目の前にある食べ物の量,食べ物の見栄えなどの外的状況の影響を強く受ける。ワンシンクはノーベル賞のパロディ版「イグノーベル賞」を受賞した研究で,被験者に内緒で中身を注ぎ足せる仕組みのスープ皿を考案して実験をおこなった。すると,この「減らないスープ皿」で食べた被験者は,ふつうのスープ皿で食べた被験者に比べて,食事を終わりにするまでに飲んだスープの量が76%も多かった。
 私たちの日々の行動の約45%は,「スープは1皿分すべて飲むものである」といった類の習慣に基づく行動によって占められている。この割合をさらに高める目的で,人びとがある行動を取りやすい状況をつくり出したり,ある場面である行動を取るのが当たり前だと人々に思い込ませたりすることが,大きなビジネスになっている。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.112-113

変動スケジュール

 心理学者のB.F.スキナーとC.B.フェスターの1957年の古典的な著作『強化スケジュール』以来,行動を後押し(強化)する刺激が不規則なタイミングで与えられると——行動心理学の分野では「変動スケジュール」と呼ばれる——中毒性がきわめて強いことがわかっている。スキナーの研究によれば,鳩に始まり霊長類にいたるまで,動物はことごとく,ご褒美が不規則なタイミングで与えられて,しかもご褒美が与えられた瞬間にその恩恵を味わえる場合,そのご褒美を得るための行動にものめり込む。
 「変動スケジュール」の威力は,ギャンブルの世界ではっきり見て取れる。たとえばカジノのスロットマシンは,プレーヤーを中毒状態にさせるべく,このメカニズムを意識的に織り込んでいる。スロットマシンで「当たり」が出るタイミングは不規則だし,「当たり」が出れば即座にコインを手にできる。おじいちゃんやおばあちゃんがスロットマシンにのめり込んで,かわいい孫に残せたはずの財産をなくす姿を見れば,モチベーションの心理学の説得力が理解できるだろう。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.96-97

先延ばしの起源

 先延ばしの起源は,おそらく9000年くらい前に農業が始まったときにさかのぼる。人類がはじめて人為的に設けた「締め切り」は,春に畑に種をまき,秋に作物を刈り取ることだった。こうした作業は,文明を築き,生き延びていくうえで不可欠だったが,進化のプロセスはこの課題を成し遂げる能力を私たちに備えてくれなかった。先延ばしに関して記している初期の文献がことごとく農業について書いているのは,偶然ではない。4000年前の古代エジプト人は,遅延を意味するヒエログリフ(神聖文字)を少なくとも8種類も用いており,とくにそのなかの1つは怠慢や忘却による遅延,つまり先延ばしを表すものだった。その「先延ばし」を意味するヒエログリフは,ナイル川の氾濫の周期など,農業に関する文脈で最も頻繁に用いられていた。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.88

進化が起きていない結果

 人間が他の動物に比べてすぐれた自己コントロール能力をもっているといっても,誘惑の多い現代社会で生きるには十分でない。スーパーマーケットや冷蔵庫がない時代であれば,私たちに備わっている忍耐力で十分だった。動物を狩ったり,木の実を集めたりしていた時代には,それで事足りた。しかし私達の忍耐力は,今日の社会で必要とされるレベルに及ばない。
 先延ばしは,現代の人類に必要な進化がまだ起きていない結果として発生する現象と言える。現代人は完了するまでに何週間,何ヵ月,何年もの時間を要するプロジェクトに取り組むようになったが,人間のモチベーションのメカニズムはそういう長期の課題に対応することに適していないのである。「手の中にすでに捕まえてある1羽の鳥は,藪の中にいる2羽の鳥と同等の価値がある」というのは,英語の有名なことわざだ。森の中では,たしかにそうだろう。未来の不確実なご褒美より,目先の確実なご褒美のほうが値打ちがある。しかし,現代の都会では事情が違う。原始時代のジャングルとは違うので,「未来のご褒美」の現在における価値をそこまで割り引いて考える必要はない。逆に言えば,いまあわてて1羽の鳥を捕まえても,明日の2羽分の価値はない。ごくわずかな利息がついて,せいぜい手羽先が1本増える程度だろう。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.84

大学での先延ばし

 大学が先延ばし人間であふれている理由の一端は,キャンパスの住人が若く,衝動に負けやすいことにあるが,キャンパスの環境が及ぼす影響も無視できない。それぞれ単独でも先延ばしを生む強力な要因になりかねないシステムが2つ組み合わさることにより,大学には最悪の環境が出来上がっている。
 問題の原因となっているシステムの1つは,レポート課題だ。私たちは課題を不愉快に感じるほど(つまり,課題をやり遂げることで得られる主観的な価値が小さいほど),課題に取り組むことに消極的になる。レポート執筆を課されると,大半の学生は不安を感じる。嫌悪感をいだく学生もいるだろう。ひとことで言えば,レポートは大学生にとって不愉快な課題なのだ。
 これは,大学生に限ったことではない。文章を書くのは,誰にとってもつらい作業だ。『1984年』や『動物農場』などの傑作を残した作家ジョージ・オーウェルは,こう述べている。「本を書くとは,心身ともに消耗する激務だ。このような行為に乗り出す人間は,抗いようのない不可解な悪魔に取りつかれているとしか思えない」。20冊近い本と脚本を執筆した作家・脚本家のジーン・ファウラーは,逆説的な言い回しでこう書いている。「ものを書くのは難しくない。椅子に腰掛け,真っ白の紙をじっと見つめる。額から血の滴がしたたり落ちるまでそうしているだけでいいのだから」。私は本書を書くうえで,ウィリアム・ジンサーの文章読本『よい文章の書き方』を大いに参考にしたが,この本の87ページでジンサーもこう告白している。「私は文章を書くのが嫌いだ」
 レポート課題は,執筆がつらいだけでなく,評価が恣意的にならざるをえないという問題もある。そのせいで,学生が大きな期待をいだけない。レポートの採点を別の教授にやり直させると,評価が大きく変わるケースがある。「B+」が「A+」になることもあれば,「B+」が「C+」になることもある。教授たちがいい加減に採点しているわけではない。この種の成績評価は,そもそも難しいものなのだ。オリンピックで採点競技のスコアが審判員ごとに大きく異なったり,映画批評家の間で作品の評価が二分されたりするケースを考えれば,納得できるだろう。しかし学生は,これでは一生懸命レポートを書いても報われる保証がないと感じる。
 レポート課題が先延ばしされやすい理由は,もう1つある。それは,提出期限の遠さ,つまり時間の遅れが大きいことだ。たいてい,レポート課題は学期のはじめに言い渡される。その後,提出するまでの中間のステップはいっさいなく,レポートを書き上げたときに提出するだけ。はじめのうち,締め切りはだいぶ先に思えるが,それこそ深い谷底に転げ落ちる急斜面の入り口だ。課題から目をそむけているうちに,数ヵ月あった猶予が数週間になり,それがやがて数日になり,そしてついに数時間になる。そうなると,学生は「次善の策」を考えはじめる。
 課題の提出期限に間に合わなかったり,試験に失敗したりした理由として学生が述べることのざっと7割は,単なる言い訳にすぎない。「先延ばしのせい」本当の理由を認めるわけにいかないからだ。学生たちが最もよく用いる戦略は敏腕弁護士さながらに教授の課題説明の文章をくまなくチェックし,誤解の余地がある表現を探すというものだ。「指示の内容を誤解していたんです」と,あとで弁解しようという魂胆である。
 以上でわかったように,大学のレポート課題は,先延ばしを助長する3つの主要な要素をことごとく備えている。レポートを書くのは苦痛だし(=価値の小ささ),努力が報われる保証がなく(=期待の低さ),しかも締切は遠い先だ(=遅れの大きさ)。そこへもってきて,大学の学生寮ほど,レポートを書くのに不向きな場所は珍しい。レポート課題とともに,大学生の先延ばしを助長しているのが学生寮である。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.57-59.

完全主義と先延ばし

 一般に,先延ばしをする人は完璧主義者なのだとよく言われる。自分に課す基準が高すぎて,その理想に届かないのがいやで,課題に手をつけられない,というわけだ。この「先延ばし人間=完璧主義者」説は,説得力がありそうに聞こえるし,耳に心地がいい。おおむね,完璧主義は好ましい資質とみなされているからだ。「あなたの最大の欠点は?」という問いに,あなたはどう答えるだろう?アメリカの視聴者チャレンジ型のテレビ番組『アプレンティス』で優勝を目前にしていたビル・ランチックという男性は,こう答えた。「ぼくは完璧主義すぎるんです。それが欠点ですね」。そう言われれば,相手はこう言わないわけにはいかない。「いや,完璧主義はいいことですよ。高い理想に向けて努力し続けるのですから」
 しかし,「先延ばし人間=完璧主義者」説にはデータの裏づけがない。この点は先延ばし研究の分野で最も詳しく研究がなされているテーマで,これまでに何万人もの人を対象に調査がおこなわれている。そうした研究結果を見る限り,完璧主義と先延ばしの間にはほとんど相関関係がない。完璧主義度の診断基準「オールモースト・パーフェクト・スケール(=おおむね完璧な基準)」を作成したカウンセリング心理学のロバート・スレーニーによると,「完璧主義者はそうでない人に比べて,先延ばし癖の持ち主が少なかった。つまり,これまで個別の事例に基づいて主張されてきた通説が覆されたのである」。私の調査でも,同様の結論が得られている。几帳面で,計画的・効率的に行動できる完璧主義者は,概してものごとをぐずぐず遅らせたりはしない。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.29-30

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