大学が先延ばし人間であふれている理由の一端は,キャンパスの住人が若く,衝動に負けやすいことにあるが,キャンパスの環境が及ぼす影響も無視できない。それぞれ単独でも先延ばしを生む強力な要因になりかねないシステムが2つ組み合わさることにより,大学には最悪の環境が出来上がっている。
問題の原因となっているシステムの1つは,レポート課題だ。私たちは課題を不愉快に感じるほど(つまり,課題をやり遂げることで得られる主観的な価値が小さいほど),課題に取り組むことに消極的になる。レポート執筆を課されると,大半の学生は不安を感じる。嫌悪感をいだく学生もいるだろう。ひとことで言えば,レポートは大学生にとって不愉快な課題なのだ。
これは,大学生に限ったことではない。文章を書くのは,誰にとってもつらい作業だ。『1984年』や『動物農場』などの傑作を残した作家ジョージ・オーウェルは,こう述べている。「本を書くとは,心身ともに消耗する激務だ。このような行為に乗り出す人間は,抗いようのない不可解な悪魔に取りつかれているとしか思えない」。20冊近い本と脚本を執筆した作家・脚本家のジーン・ファウラーは,逆説的な言い回しでこう書いている。「ものを書くのは難しくない。椅子に腰掛け,真っ白の紙をじっと見つめる。額から血の滴がしたたり落ちるまでそうしているだけでいいのだから」。私は本書を書くうえで,ウィリアム・ジンサーの文章読本『よい文章の書き方』を大いに参考にしたが,この本の87ページでジンサーもこう告白している。「私は文章を書くのが嫌いだ」
レポート課題は,執筆がつらいだけでなく,評価が恣意的にならざるをえないという問題もある。そのせいで,学生が大きな期待をいだけない。レポートの採点を別の教授にやり直させると,評価が大きく変わるケースがある。「B+」が「A+」になることもあれば,「B+」が「C+」になることもある。教授たちがいい加減に採点しているわけではない。この種の成績評価は,そもそも難しいものなのだ。オリンピックで採点競技のスコアが審判員ごとに大きく異なったり,映画批評家の間で作品の評価が二分されたりするケースを考えれば,納得できるだろう。しかし学生は,これでは一生懸命レポートを書いても報われる保証がないと感じる。
レポート課題が先延ばしされやすい理由は,もう1つある。それは,提出期限の遠さ,つまり時間の遅れが大きいことだ。たいてい,レポート課題は学期のはじめに言い渡される。その後,提出するまでの中間のステップはいっさいなく,レポートを書き上げたときに提出するだけ。はじめのうち,締め切りはだいぶ先に思えるが,それこそ深い谷底に転げ落ちる急斜面の入り口だ。課題から目をそむけているうちに,数ヵ月あった猶予が数週間になり,それがやがて数日になり,そしてついに数時間になる。そうなると,学生は「次善の策」を考えはじめる。
課題の提出期限に間に合わなかったり,試験に失敗したりした理由として学生が述べることのざっと7割は,単なる言い訳にすぎない。「先延ばしのせい」本当の理由を認めるわけにいかないからだ。学生たちが最もよく用いる戦略は敏腕弁護士さながらに教授の課題説明の文章をくまなくチェックし,誤解の余地がある表現を探すというものだ。「指示の内容を誤解していたんです」と,あとで弁解しようという魂胆である。
以上でわかったように,大学のレポート課題は,先延ばしを助長する3つの主要な要素をことごとく備えている。レポートを書くのは苦痛だし(=価値の小ささ),努力が報われる保証がなく(=期待の低さ),しかも締切は遠い先だ(=遅れの大きさ)。そこへもってきて,大学の学生寮ほど,レポートを書くのに不向きな場所は珍しい。レポート課題とともに,大学生の先延ばしを助長しているのが学生寮である。
ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.57-59.