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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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操られ感

 私は,「演じる」ということを30年近く考えてきたけれど,一般市民が「演じさせられる」という言葉を使っているのには初めて出会った。なんという「操られ感」,なんという「乖離感」。
 「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに,「もう演じなくていいんだよ,本当の自分を見つけなさい」と囁くのは,大人の欺瞞に過ぎない。
 いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが,教育の目的ではなかったか。あるいは,できることなら,いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい。
 日本では,「演じる」という言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは,自分を偽ることであり,相手を騙すことのように思われている。加藤被告もまた,「騙すのには慣れている」と書いている。彼は,人生を,まっとうに演じきることもできなかったくせに。
 人びとは,父親・母親という役割や,夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。それもまた自分の人生の一部分として受け入れ,楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。いや,そのような市民を作ることこそが,教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに,問題が起こる。ならばまず,主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 2026-2036/2130(Kindle)
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排除につながる

 心からわかりあえることを前提とし,最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか,「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が,どうにかして共有できる部分を見つけて,それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。
 「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉は,耳に心地よいけれど,そこには,心からわかりあう可能性のない人びとをあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いてはいないだろうか。
 実際に,私たちは,パレスチナの子どもたちの気持ちはわからない。アフガニスタンの人びとの気持ちもわからない。
 しかし,わからないから放っておいていいというわけではないだろう。価値観や文化的な背景の違う人びととも,どうにかして共有できる部分を見つけて,最悪の事態である戦争やテロを回避するのが外交であり国際関係だ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1905-1913/2130(Kindle)

管理職の責務

 企業は利潤を追求する場所だ。そして,管理職が,本当に若者たちの多様な意見を欲しているとすれば,彼らが意見を言いやすい場所をセッティングするのが,管理職の責務である。もしもそれを怠って,「近頃の若者は……」と愚痴をこぼしているだけなら,それは,「はい,私は,会議もデザインできない無能な管理職です」と公言しているようなものだ。
 若者の側が,この理屈に甘えていいわけではない。若い世代は,個々人のプレゼンテーション能力をもっと伸ばす努力もするべきだろう。だが果たして,意見が出ないという状況は,どちらにより責任があるかと問われれば,それは当然,数倍の給与をもらっている管理職の側ということになる。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1775-1785/2130(Kindle)

「ずれ」の積み重なり

 私たち日本人は,靴を脱いで上がり框に足をかけるとき,脱いだ靴をくるりと反転させる。しかし,聞くところによると,韓国の人たちはこれを嫌がるらしい。「そんなに早く帰りたいのか」と思うのだそうだ。
 この現象は,靴を脱いで家に上がるという文化を共有しているからこそ起こる摩擦だろう。西洋人との間なら,「ここは靴を脱いでください」という言語コミュニケーションが介在するから,摩擦は顕在化し,その都度解消される。しかし,靴の向きを変えるか変えないかといった些細な事柄は,私達の日常の中では見過ごされがちだ。
 両国にいまだに根強い嫌韓,反日の感情も,こういった近親憎悪的な事例,あるいはそこに由来・派生する事柄が多くある。日韓だけではない。世界中を見渡しても,隣国同士はたいてい仲が悪い。その原因の1つは,文化が近すぎたり,共有できる部分が多すぎて,摩擦が顕在化せず,その顕在化しない「ずれ」がつもりつもって,抜き差しならない状態になったときに噴出し,衝突を起こすという面があるのではないか。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1520-1530/2130(Kindle)

学んでおいて損はない

 遠回しの話になってしまったが,言いたいことは簡単なことだ。
 「コミュニケーション教育,異文化理解能力が大事だと世間では言うが,それは別に,日本人が西洋人,白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが,とりたてて優れているわけでもない。だが多数派は向こうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない」
 この当たり前のことが,なかなか当たり前に受け入れられない。
 しかし,これを受け入れてもらわないと困るのは,日本人が西洋人(のよう)になるというのには,どうしても限界があるからだ。もしこれを強引に押し進めれば,明治から太平洋戦争に至るまでの過程のように,どこかで「やっぱり大和魂だ!」といった逆ギレが起こるだろう。
 身体に無理はよろしくないのであって,私たちは,素直に,謙虚に,大らかに,すこしずつ異文化コミュニケーションを体得していけばよい。ダブルバインドをダブルバインドとして受け入れ,そこから出発した方がいい。
 だから異文化理解の教育はやはり,「アメリカでエレベーターに乗ったら,『Hi』とか『How are you?』と言っておけ」という程度でいいはずなのだ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1354-1362/2130(Kindle)

「かわいい」

 たとえば一般によく言われることだが,日本語には対等な関係で褒める語彙が極端に少ない。上に向かって尊敬の念を示すか,下に向かって褒めてつかわすような言葉は豊富にあっても,対等な関係の褒め言葉があまり見つからないのだ。
 欧米の言葉ならば,この手の言葉には,まさに枚挙にいとまがない。「wonderful」「marvelous」「amazing」「great」「lovely」「splendid」……。
 しかし日本語には,このような褒め言葉が非常に少ない。そこでたとえば,スポーツの世界などで相手を褒めようとすると外来語に頼らざるをえなくなる。「ナイス・ショット」「ナイス・ピッチ」「ドンマイ」……。
 だが,ここに1つだけ,現代日本語にも,非常に汎用性の高い褒め言葉がある。
 「かわいい」
 これはとにかく,何にでも使える。
 よく中高年の男性が,
 「いまどきの子は,なんでも『かわいい』『かわいい』で,ボキャブラリーがないなぁ」
 とおっしゃっているのを見かけるが,ボキャブラリーがないのは,そう言っている私も含めたオヤジたちの方なのだ。
 「対等な関係における褒め言葉」という日本語の欠落を「かわいい」は,一手に引き受けて補っていると言ってもいい。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1049-1057/2130(Kindle)

冗長率

 「冗長率」という言葉がある。
 1つの段落,1つの文章に,どれくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを,数値で表したものだ。
 先に掲げた話し言葉のカテゴリーの中で,さてでは,もっとも冗長率が高いのは,どれだろう。当然,多くの方は,「会話」だと考える。「無駄話」というくらいだから,親しい人同士のおしゃべりが,冗長率が高いだろうと感じる。
 しかし「会話」は,内容はたしかに冗長かもしれないが,冗長率自体は高くならない。お互いが知り合いだと,余計なことはあまり喋らない。もっとも冗長率の低い話し言葉は長年連れ添った夫婦の会話だろう。「メシ・フロ・シンブン」というやつだ。
 もちろん演説やスピーチは,基本的に冗長率が低い方が優れているとされる。「えー」とか「まー」が多用されると聞きづらい。
 実は,もっとも冗長率が高くなるのは,「対話」なのだ。対話は,異なる価値観を摺り合わせていく行為だから,最初はどうしても当たり障りのないところから入っていく。腹の探りあいも起こる。
 「えーと,まぁ,そうおっしゃるところはわからないでもないですが,ここは1つどうでしょうか,別の,たとえば,こういった見方もあるんじゃないかと……」
 とここまで,何一つ語っていない。冗長率は圧倒的に高くなる。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 960-967/2130(Kindle)

無駄な動き

 人間は何かの行為をするときに,必ず無駄な動きが入る。たとえばコップをつかもうとするときに,最初からきちんとコップをつかむのではなく,手前で躊躇したり,一呼吸置いたりといった行為が挿入される。こういった無駄な動きを,認知心理学の世界ではマイクロスリップと呼ぶそうだ。
 すぐれた俳優もまた,この無駄な動き,マイクロスリップを,演技の中に適切に入れている。要するに私たちが,「あの俳優はうまい,あの俳優はへただ」と感じる要素の1つに,この無駄な動きの挿入の度合い(量とタイミング)があるということがわかってきた。この無駄な動きは,多すぎても少なすぎてもいけない。うまい(と言われる)俳優は,これを無意識にコントロールしているのだろう。
 人間は誰しも,演技をしようとすれば緊張する。この緊張が,マイクロスリップを過度にしたり,あるいはマイクロスリップを消してしまうことになる。
 もう1点,研究の過程でわかってきたことは,この無駄な動きは,練習を繰り返すうちに少なくなっていく(埋没していく)という点だ。だから演劇の場合,稽古を続けていると演出家から,「なんだか最初の頃の方がよかったなぁ」と言われることがままある。
 プロの俳優は,同じ舞台を50回,100回とこなさなければならない。しかし演技を続ければ続けるほど,動作は安定するが,そこから無駄な動きがそぎ落とされ,結果として新鮮味が薄れていく。もちろん,こういった演技の摩耗から逃れられる人もいる。世間は,それを「天才」と呼ぶ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 555-564/2130(Kindle)

国語の問題?

 1つは,はたしてこういったコミュニケーション教育のための授業が,国語という枠組みの中に収まるのかどうかという問題。文科省は昨今,「聞く,話す」ための力の重視を打ち出してはいるが,現場は戸惑うばかりだ。だいたい,少し考えてみればわかることだが,国語の教師がコミュニケーションが得意とは限らない。そもそも国語教師の半分は,部屋に籠もって本を読むのが好きな人たちだ。彼らは,言葉について多少詳しいかもしれないが,コミュニケーション教育のスペシャリストではない。それを急に,「さぁ,コミュニケーションです。子どもたちに聞く,話すの能力をつけてあげてください」と押しつけるのは,とてもかわいそうな話ではないか。
 かつて技術化にコンピューターが入ってきたときに,中高年の教師たちがパニック状態になったのと似た現象が,いま国語教育の水面下で,その問題の本質が明らかにされないままに,静かに進行しているのだ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 512/2130(Kindle)

教えすぎ

 私が公教育の世界に入って一番に驚いたのも,実はこの点だった。教師が教えすぎるのだ。もうすぐ子どもたちが,すばらしいアイデアにたどり着こうとする。その直前で,教師が結論を出してしまう。おそらくその方が,教師としては教えた気になれるし,対面も保てるからだろう。だいたいその教え方というのも全国共通で,「ヒント出そうか?」と言うのだが,その「ヒント」はたいていの場合,その教師のやりたいことなのだ。
 義務教育には,子どもたちから表現が出て来るのを「待つ勇気」が必要だ。しかし,この勇気を培うことは難しい。ただの勇気では蛮勇になってしまう。経験に裏打ちされた自信が「待つ勇気」「教えない勇気」を支える。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 404-414/2130(Kindle)

現場で?

 「そんなものは現場で……」という発言には,2つの問題が内包されている。
 1つは,その「現場」というのが,まさに上意下達のコミュニケーションで成り立っている従来型の組織だという点。たしかにそのようなコミュニケーションは,現場で無理矢理学んでいくしかない類のものだったのだろう。しかし,いま求められているのは,対等な人間関係の中で,いかに合意を形成していくかといった能力なのだから,これはやはり教育の中で,ある程度きちんと体系的に身につけさせていく必要がある。
 もう1点は,やはり時代の変化という問題だ。
 いま,医者の卵,たとえば25歳くらいになっても,身近な人の死を1度も経験していないという学生は珍しくない。祖父,祖母が亡くなっても,一緒に暮らしていたかどうかによって感じ方も大きく違うだろう。
 身近な人の死を一度も経験したこともなく医者や看護師になるというのは,一般市民からすれば,たしかに不安なことだ。そんなことで患者や家族の気持ちがわかるのだろうかと思ってしまう。ではしかし,その学生を教育する立場の者が,「身近な人の死を経験もせずに医者なんかなれるか!とっとと経験して来い」と言えるだろうか。いったい,この体験の欠如を,学生個人の責任に帰せるのだろうか。
 「現場で云々」という発言は,実はこの「とっとと経験して来い」という無茶な注文と同質なのだ。こうして時代が変わった以上,あるいは,こういった少子化,核家族化の社会を作ってしまった以上,私たちは,これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会教育の機能や慣習を,公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 331-349/2130(Kindle)

慣れの問題

 いま,中堅大学では,就職に強い学生は2つのタイプしかないと言われている。1つは体育会系の学生,もう1つはアルバイトをたくさん経験してきた学生。
 要するに大人(年長者)とのつきあいに慣れている学生ということだ。
 これもまた,「そんなものは企業に都合のいい人材というだけのことではないか」という批判があることは十分に承知している。私もその批判は正しいと思うが,これが就職活動の現実なのだ。
 だとすれば,「そんなものは,慣れてしまえばいいではないか」と私は思う。ここで求められているコミュニケーション能力は,せいぜい「慣れ」のレベルであって,これもまた,人格などの問題ではない。そうであるならば,「就職差別だ」「企業の論理のゴリ押しだ」と騒ぐ前に,慣れてしまえばいいではないか。
 私は,自分のクラスの大学院生たちには,常に次のように言っている。
 「世間で言うコミュニケーション能力の大半は,たかだか慣れのレベルの問題だ。でもね,20歳過ぎたら,慣れも実力のうちなんだよ」

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 313-323/2130(Kindle)

その程度のもの

 理科の授業が多少苦手だからといって,その子の人格に問題があるとは誰も思わない。音楽が多少苦手な子でも,きちんとした指導を受ければカスタネットは叩けるようになるし,縦笛も吹けるようになるだろう。誰もがモーツァルトのピアノソナタを弾ける必要はなく,できれば中学卒業までに縦笛くらいは吹けるようになっておこうよ,現代社会では,それくらいの音感やリズム感は必要だからというのが,社会的なコンセンサスであり,義務教育の役割だ。
 だとすれば,コミュニケーション教育もまた,その程度のものだと考えられないか。コミュニケーション教育は,ペラペラと口のうまい子どもを作る教育ではない。口べたな子でも,現代社会で生きていくための最低限の能力を身につけさせるための教育だ。
 口べたな子どもが,人格に問題があるわけではない。だから,そういう子どもは,あと少しだけ,はっきりとものが言えるようにしてあげればいい。
 コミュニケーション教育に,過度な期待をしてはいけない。その程度のものだ。その程度のものであることが重要だ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 261-270/2130(Kindle)

コミュニケーション問題の顕在化

 若者全体のコミュニケーション能力は,どちらかと言えば向上している。「近頃の若者は……」としたり顔で言うオヤジ評論家たちには,「でも,あなたたちより,今の子たちの方がダンスはうまいですよ」と言ってあげたいといつも私は思う。人間の気持ちを表現するのに,言葉ではなく,たとえばダンスをもって最高の表現とする文化体系であれば(いや,実際に,そういう国はいくらでもあるだろう),日本の中高年の男性は,もっともコミュニケーション能力の低い劣った部族ということになるだろう。
 リズム感や音感は,今の子どもたちの方が明らかに発達しているし,ファッションのセンスもいい。異文化コミュニケーションの経験値も高い。けっしていまの若者たちは,表現力もコミュニケーション能力も低下していない。
 実態は,実は,逆なのではないか。
 全体のコミュニケーション能力が上がっているからこそ,見えてくる問題があるのだと私は考えている。それを私は,「コミュニケーション問題の顕在化」と呼んできた。
 さほど難しい話ではない。
 どんなに若者のコミュニケーション能力が向上したとしても,やはり一定数,口べたな人はいるということだ。
 これらの人びとは,かつては,旋盤工やオフセット印刷といった高度な技術を身につけ,文字通り「手に職をつける」ことによって生涯を保証されていた。しかし,いまや日本の製造業はじり貧の状態で,こういった職人の卵たちの就職が極めて厳しい状態になってきている。現在は,多くの工業高校で(工業高校だからこそ),就職の事前指導に力を入れ面接の練習などを入念に行っている。
 しかし,つい十数年前までは,「無口な職人」とは,プラスのイメージではなかったか。それがいつの間にか,無口では就職できない世知辛い世の中になってしまった。
 いままでは問題にならなかったレベルの生徒が問題になる。これが「コミュニケーション問題の顕在化」だ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 225-243/2130(Kindle)

「伝わらない」経験

 私たち言語教育に関わる者は,子どもの表現力をつけるという名目のもと,スピーチだ,ディベートだといろいろな試みを行ってきた。その1つ1つには,それぞれ意味があり,価値があったのだろう。
 しかし,そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで,「伝えたい」という気持ちが子どもの側にないのなら,その技術は定着していかない。では,その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は,それは,「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
 いまの子どもたちには,この「伝わらない」という経験が,決定的に不足しているのだ。現行のコミュニケーション教育の問題点も,おそらくここに集約される。この問題意識を前提とせずに,しゃかりきになって「表現だ!」「コミュニケーションだ!」と叫んだところで意味はない。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 201/2130(Kindle)

コミュニケーション教育

 日本でも,この10年,20年,表現教育,コミュニケーション教育ということが,やかましいほどに言われてきた。しかし,どうも私たち表現の専門家の側からすると,日本のこれまでの表現教育というものは,教師が子どもの首を絞めながら,「表現しろ,表現しろ!」と言っているようにしか見えない。そういう教員は,たいていが熱心な先生で,周りも「なんか違うな」と思っていても口出しができない。
 私は,そういう熱心な先生には,そっと後ろから近づいていって肩を叩いて,「いや,まだ,その子は表現したいと思っていませんよ」と言ってあげたいといつも感じる。
 この点が,現在の日本の表現教育が抱える一番の問題点ではないかと私は思っている。いまどきの子どもたちをどう捉えるかの,大事な観点がここにある。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 141-147/2130(Kindle)

異文化理解能力

 現在,表向き,企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は,「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。OECD(経済協力開発機構)もまた,PISA調査などを通じて,この能力を重視している。この点は,本書でもあとで詳しく触れる。
 「異文化理解能力」とは,おおよそ以下のようなイメージだろう。
 異なる文化,異なる価値観を持った人に対しても,きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も,その背景(コンテクスト)を理解し,時間をかけて説得・納得し,妥協点を見いだすことができる。そして,そのような能力を以って,グローバルな経済環境でも,存分に力を発揮できる。
 まぁ,なんと素晴らしい能力であろうか。これを企業が求めることも当然だろうし,私もまた,大学の教員として,1人でも多く,そのような学生を育てて社会に送り出したいと願う。
 しかし,実は,日本企業は人事採用にあたって,自分たちも気がつかないうちに,もう1つの能力を学生たちに求めている。あるいはそのまったく別の能力は,採用にあたってというよりも,その後の社員教育,もしくは現場での職務の中で,無意識に若者たちに要求されてくる。
 日本企業の中で求められているもう1つの能力とは,「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。
 いま就職活動をしている学生たちは,あきらかに,このような矛盾した2つの能力を同時に要求されている。しかも,何より始末に悪いのは,これを要求している側が,その矛盾に気がついていない点だ。ダブルバインドの典型例である。パワハラの典型例とさえ言える。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 106-115/2130(Kindle)

プロフェッショナリズム

 どの専門職にもプロフェッショナリズムというものがある。その職務の理念と義務をまとめた,行動の規範だ。どこかに書かれている時もあるが,共通意識として存在しているだけの場合もある。いずれにしろ,プロフェッショナリズムには3つの要素が必ず含まれている。
 第1に無私であること。医師,弁護士,教師,公務員,兵士,パイロットなど,どの職業であれ,他人から責任を預かる者は,自分の利益よりも頼ってくる者の問題や心情を考えるべきだ。第2に腕があること。技術と知識を日々研鑽することが求められている。第3に信用に足ること。自分の職務に誠実な態度で臨む必要がある。
 航空業界の人々は,そこに4つ目を加えた。規律だ。よくできた手順には絶対に従うこと。必ず他者と協力しあうこと。医療を含む,他の多くの業種では考えられないようなことだ。医療では自主性こそがプロの証だと考えられているが,自主性は規律の対極にある。だが,大きな病院,何人もの医者,リスクの大きい治療法,そして1人ではとても習得しきれない膨大な量の知識を要する現代医療では,個人の判断に任せるのは愚策だ。古い価値観にしがみついていては良い医療は提供できない。時々思い出したように「仲良く協力しあいましょう」といっているようでは駄目なのだ。本当に必要なのは,絶対に協力しあうという決まりを作り,常にそれに忠実であることだ。

アトゥール・ガワンデ 吉田 竜(訳) (2011). アナタはなぜチェックリスト使わないのか?:重大な局面で“正しい決断”をする方法 晋遊舎 pp.209-210

洗練されたチェックリスト

 私が見てきた中でも,ひときわ洗練されたチェックリストを1つ紹介しよう。単発のセスナ機での飛行中に,エンジンが停止した時のためのチェックリストだ。ハドソン川の状況と似ているが,この場合はパイロットが1人だけだ。このチェックリストには,エンジン再始動の方法が6つの手順に凝縮されている。燃料バルブを開く,予備燃料ポンプのスイッチを入れる,などだ。だが,1つ目の手順が最も興味深い。そこには「飛行機を飛ばせ」とだけ書いてあるのだ。パイロットは,エンジンの再始動や原因の分析に一所懸命になり,最も異本的なことを忘れてしまうことがある。「飛行機を飛ばせ」硬直した思考を解きほぐし,生存の確率を少しでも上げるためにそう書いてあるのだ。

アトゥール・ガワンデ 吉田 竜(訳) (2011). アナタはなぜチェックリスト使わないのか?:重大な局面で“正しい決断”をする方法 晋遊舎 pp.203-204

なんとかなると思い込んでいる

 チェックリストは手間がかかるし,面白くない。怠慢な私たちはチェックリストが嫌いなのだ。だが,いくらチェックリストが面倒でも,それだけの理由で命を救うこと,さらにはお金を儲けることまで放棄してしまうだろうか。原因はもっと根深いように思う。私たちは,チェックリストを使うのは恥ずかしいことだと心の奥底で思っているのだ。本当に優秀な人はアニュアルやチェックリストなんて使わない。複雑で危険な状況も度胸と工夫で乗り切ってしまう,と思い込んでいるのだ。
 「優秀」という概念自体を変えていく必要があるのかもしれない。

アトゥール・ガワンデ 吉田 竜(訳) (2011). アナタはなぜチェックリスト使わないのか?:重大な局面で“正しい決断”をする方法 晋遊舎 pp.198

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