私は,「演じる」ということを30年近く考えてきたけれど,一般市民が「演じさせられる」という言葉を使っているのには初めて出会った。なんという「操られ感」,なんという「乖離感」。
「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに,「もう演じなくていいんだよ,本当の自分を見つけなさい」と囁くのは,大人の欺瞞に過ぎない。
いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが,教育の目的ではなかったか。あるいは,できることなら,いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい。
日本では,「演じる」という言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは,自分を偽ることであり,相手を騙すことのように思われている。加藤被告もまた,「騙すのには慣れている」と書いている。彼は,人生を,まっとうに演じきることもできなかったくせに。
人びとは,父親・母親という役割や,夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。それもまた自分の人生の一部分として受け入れ,楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。いや,そのような市民を作ることこそが,教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに,問題が起こる。ならばまず,主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。
平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 2026-2036/2130(Kindle)
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