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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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基準の役割

 コミュニケーションにおける基準の役割は,次のような文章を考えてみるとよく理解できる。「大きなネズミがとても小さな象の鼻をよじ登っている」。このような文章を書くとき,私は,ネズミと象の大きさに関する読者の基準が私の基準とそう隔たっていない,と信頼している。この基準によって,ネズミと象の代表的な大きさや平均的な大きさは決まっているし,最小と最大の幅やばらつきもおおむね決まっている。読者か私のどちらかが,象より大きいネズミがネズミより小さい象をまたいでしまう,といったイメージを抱くことはまずない。読者と私はそれぞれに,しかし同時に,靴より小さなネズミがソファより大きな象の上をよじ登る図を思い浮かべる。このとき言語の理解を担当するシステム1はカテゴリーの基準にアクセスし,この2種類の動物について,大小の範囲と代表的な大きさを教えてもらっている。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.112
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問題

 5台の機械は5分間で5個のおもちゃを作ります。
 100台の機械が100個のおもちゃを作るのに何分かかりますか?
 100分  5分

 池に睡蓮の葉が浮かんでいます。葉の面積は毎日倍になります。
 睡蓮の葉が池を覆い尽くすのに48日かかりました。では,半分を覆うまでには何日かかったでしょうか?
 24日  47日

 正解はこの段落の最後に示してある。実験ではプリンストン大学の学生40名にテストを受けてもらった。うち20名には,小さなフォントを使いかすれたような印刷の問題用紙を渡した。読めないことはないが,認知的負荷は大きい。残り20名には,ふつうに読みやすく印刷した問題用紙を渡した。結果は雄弁だった。読みやすい印刷でテストを受けた学生の90%が,バットとボール問題を含めた3問のうちどれかでミスをしたのである。だが読みにくい印刷のグループは,誤答率は35%だった。つまり,読みにくいほうが成績がよかった。これは,認知的負担を感じたおかげでシステム2が動員され,その結果,システム1の直感的な答は却下されたためである。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.97-98


発音しやすい名前を

 あなたへの最後のアドバイスは,「誰かの文章や参考資料を引用するなら,発音しやすい人が書いたものを選びなさい」というものである。ある実験では,トルコの架空の企業について,2つの証券会社が提出した報告書に基づいて将来性を判断するよう参加者に指示した。証券会社の名前は,1つは発音しやすいアルタン,もう1つは厄介なターフートである。2冊の報告書は,いくつかの項目で不一致を来していた。このようなときは両者の中間をとるのが妥当と考えられるが,被験者はおおむねターフートよりもアルタンを信用したという。システム2が怠け者で,知的努力をいやがることを思い出してほしい。あなたの文章を読む人は,努力を要するものはできるだけ避けたいと考えているのだ——引用されたややこしい名前も含めて。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.96

認知的容易性

 人間は,意識があるときはいつでも,いや,おそらくないときでさえ,脳の中でたくさんの情報処理を同時に行っており,いくつもの重要な質問に対する答を常時アップデートしている。たとえば,何か目新しいことが起きていないか,何か危険な徴候はないか,万事うまくいっているか,新たに注意を向けるべきものはあるか,この仕事にはもっと努力が必要か,といった質問である。重要な変数の現在値を示す計器がずらりと並んだコックピットを考えるとよいだろう。数値の評価はシステム1が自動的に行う。システム2の応援が必要かどうかを決めるのも,システム1の役割である。
 コックピットには,「認知的容易性(cognitive ease)」を示す計器がある。針が「容易」のほうに寄っていれば,ものごとはうまくいっていると考えてよい。何も危険な徴候はなく,重大なニュースもなく,新たに注意を向けたり努力を投入したりする必要はない。一方,「負担」のほうに寄っていれば問題が発生しており,システム2の応援が必要になる。認知的負担は,その時点での努力の度合いや満たされていない要求の度合いに影響される。驚くのは,認知的容易性を計測するこのたった1つの計器が,さまざまなインプットとアウトプットを結ぶ大規模なネットワークに接続していることである。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.89

死を暗示させると

 プライミングに関する研究データは,国民に死を暗示すると,権威主義思想の訴求力が高まることを示唆している。死の恐怖を考えると,権威に頼るほうが安心できるからだ。また,無意識の連想において象徴と隠喩が果たす役割を指摘したのはフロイトだが,実験によってこの知見も確認されている。たとえば,「W( )( )H」と「S( )( )P」という虫食いの単語が並んでいるとしよう。この単語を完成させる実験で,直前に何か恥ずかしい行為を考えるように指示された被験者は,「WISH」と「SOUP」よりも「WASH」と「SOAP」を選ぶ確率が高くなる。それどころか,同僚の背中を突き刺すことを考えただけで,その人は電池,ジュース,チョコレートよりも,石けん,消毒液,洗剤を買いたくなる。これは,自分の魂が汚れたという感覚が,体をきれいにしたいという欲求につながるからだと考えられる。このような衝動は「レディ・マクベス効果」と呼ばれている。
 洗うという行為は,罪を犯した身体の部分と密接に結びついている。ある実験では,被験者が架空の人物に電話またはメールで「嘘」をつくよう誘導される。その後に何が欲しくなるかを調べたところ,電話で嘘をついた被験者は石けんよりうがい薬を,メールで嘘をついた被験者はうがい薬より石鹸を選んだ。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.83-84

フロリダ効果

 記憶に関する理解でもう1つ大きな進歩は,プライミングは概念や言葉に限られるわけではない,と判明したことである。意識的な経験からこれを確かめることは,もちろんできない。だが,自分では意識してもいなかった出来事がプライムとなって,行動や感情に影響を与えるという驚くべき事実は,受け入れなければならない。
 これについては,ジョン・バルフらが行った,早くも古典と言うべき実験がある。この実験では,ニューヨーク大学の学生(18〜22歳)に5つの単語のセットから4単語の短文をつくるよう指示する(たとえば,彼/見つける/それ/黄色/すぐに)。このとき1つのグループには,文章の半分に,高齢者を連想させるような単語(フロリダ,忘れっぽい,はげ,ごましお,しわなど)を混ぜておいた。この文章作成問題を終えると,学生グループは他の実験に臨むため,廊下の突き当たりにある別の教室に移動する。この短い移動こそが,実験の眼目である。実験者は学生たちの移動速度をこっそり計測する。するとバルフが予想したとおり,高齢者関連の単語をたくさん扱ったグループは,他のグループより明らかに歩く速度が遅かったのである。
 この「フロリダ効果」には,2段階のプライミングが働いている。第1に,一連の単語は,「高齢」といった言葉が1度も出てこないにもかかわらず,老人という観念のプライムとなった。第2に,老人という観念が,高齢者から連想される行動や歩く速度のプライムになった。これらは,まったく意識せずに起きたことである。
 実験後の調査で,出された単語に共通性があると気づいた学生は1人もいないことが判明した。彼らは,最初のタスクで接した単語から影響を受けたはずはない,と主張したものである。つまり老人という観念は,彼らの意識には上らなかった。それでも,学生たちの行動は変化した。観念によって行動が変わるというこの驚くべきプライミング現象は,イデオモーター効果として知られる。あなたが何も意識していなくても,このパラグラフを読んだことはプライムとなる。もしあなたが水を飲もうと立ち上がっていたとしたら,おそらくいつもより動作がゆっくりになっていただろう。ただし,たまたまあなたが老人嫌いなら,話は別である。調査によれば,その場合にはあなたの動作は通常より速くなるはずだ。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.79-80

プライミング

 1980年代になると,ある単語に接したときには,その関連語が想起されやすくなるという明らかな変化が認められることがわかった。たとえば,「食べる」という単語を見たり聞いたりした後は,単語の穴埋め問題で“SO( )P”と出されたときに,SOAP(石けん)よりSOUP(スープ)と答える確率が高まる。言うまでもなく,この逆も起こりうる。たちえば「洗う」という単語を見た後は,SOAPと答える確率が高まる。これを「プライミング効果(priming effect)」と呼び,「食べる」はSOUPのプライム(先行刺激),「洗う」はSOAPのプライムであると言う。
 プライミング効果は,さまざまな形をとる。たとえば,「食べる」という観念が頭の中にあるときは(それを意識するしないにかかわらず),「スープ」という単語が囁かれたり,かすれた字で書かれたりしていても,あなたはいつもより早くそれを認識する。もちろんスープだけでなく,食べ物に関連するさまざまなもの,たとえばフォーク,空腹,肥満,ダイエット,クッキーなども。最後に食事をしたときのレストランで椅子がぐらぐらしていたら,きっと「ぐらぐら」という言葉にも反応しやすくなるだろう。さらに,プライムで想起された観念は,効果は弱まるものの,別の観念のプライムになることもある。池に拡がるさざ波のように,連想活性化は広大な連想観念ネットワークの一カ所から始まって,拡がっていく。こうしたさざ波の分析は,今日の心理学研究において非常に興味深い分野と言えよう。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.78-79

三段論法

 それでは今度は,論理の問題を出題しよう。2つの前提と1つの結論を示すので,できるだけすばやく,論理的に成り立つかどうかを答えてほしい。2つの前提から最後の結論は導き出せるだろうか。

 すべてのバラは花である。
 一部の花はすぐにしおれる。
 したがって,一部のバラはすぐにしおれる。

 大学生の大部分が,この三段論法は成り立つと答える。しかし実際には成り立たない。すぐにしおれる花の中にバラが含まれないことはあり得るからだ。ほとんどの人の頭には,バットとボール問題の時と同じく,もっともらしい答がすぐに思い浮かぶ。これを打ち消すのは至難の業だ。というのも,「だってバラはすぐにしおれるじゃないか」という内なる声がしつこくまとわりついて,論理をチェックするのが難しくなるからだ。それに大半の人は,問題を深く考え抜くなどという面倒なことはしない。
 この実験結果は,日常生活の推論に関してははなはだ残念な意味合いを持つ。たいていの人は,結論が正しいと感じると,それを導くに至ったと思われる論理も正しいと思い込む。たとえ実際には成り立たない論理であっても,である。つまりシステム1が絡んでいるときは,はじめに結論ありきで論理はそれに従うことになる。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.68-69

我慢はエネルギーが必要

 心理学者のロイ・バウマイスターのチームは一連の驚くべき実験を行い,認知的,感情的,身体的のいずれかを問わず,あらゆる自発的な努力は,少なくとも部分的にはメンタルエネルギーの共有プールを利用していることを決定的に証明した。バウマイスターらの実験は,同時並行的なタスクではなく連続的なタスクを使って行われている。
 彼らの実験で繰り返し確認されたのは,強い意志やセルフコントロールの努力を続けるのは疲れるということである。何かを無理矢理がんばってこなした後で,次の難題が降りかかってきたとき,あなたはセルフコントロールをしたくなくなるか,うまくできなくなる。この現象は,「自我消耗(ego depletion)」と名づけられている。代表的な実験では,感情的な反応を抑えるよう指示したうえで被験者に感動的な映画を見せると,その後は身体的耐久力のテスト(握力計を握り続けるテスト)で成績が悪くなった。実験の前半で感情を抑える努力をしたために,筋収縮を保つ苦痛に耐える力が減ってしまったわけだ。
 このように自我消耗を起こした人は,「もうギブアップしたい」という衝動にいつもより早く駆り立てられる。別の実験では,被験者はチョコレートや甘いクッキーの誘惑に抵抗しながら,ラディッシュやセロリなど清く正しい野菜を食べさせられる。これで自我消耗した被験者は,この後で難しい認知的タスクを課されると,いつもより早く降参してしまう。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.62-63

システムの働き

 認知的錯覚は克服できますか,とよく質問される。いま挙げた例から考えるに,あまり期待はできそうにない。システム1は自動運転していてスイッチを切ることはできないため,直感的思考のエラーを防ぐのは難しいからだ。システム2がエラーの兆候を察知できないことも多々あるので,バイアスをつねに回避できるとは限らない。エラーが起きそうだという兆候があったときでさえ,エラーを何とか防げるのは,システム2による監視が強化され,精力的な介入が行われた場合に限られる。ところが日常生活を送るうえでは,つねにシステム2が監視するのは必ずしも望ましくはないし,まちがいなく非現実的である。
 のべつ自分の直感にけちをつけるのは,うんざりしてやっていられない。そもそもシステム2はのろくて効率が悪いので,システム1が定型的に行っている決定を肩代わりすることはできないのである。私たちにできる最善のことは妥協にすぎない。失敗しやすい状況を見分ける方法を学習し,懸かっているものが大きいときに,せめて重大な失敗を防ぐべく努力することだ。そして他人の失敗のほうが,自分の失敗より容易に認識できるものである。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.44

システム1,2

 私は脳の中の2つのシステムをシステム1,システム2と呼ぶことにしたい。この名称を最初に提案したのは,心理学者のキース・スタノビッチとリチャード・ウェストである。

・「システム1」は自動的に高速で働き,努力はまったく不要か,必要であってもわずかである。また,自分のほうからコントロールしている感覚は一切ない。
・「システム2」は,複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。システム2の働きは,代理,選択,集中などの主観的経験と関連づけられることが多い。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.32

わんわん

 心理学では,魔法のように見える直観も魔法とは見なさない。この点に関する最高の名言は,おそらくあの偉大なハーバート・サイモンによるものだろう。サイモンはチェスの名手を調査し,彼らが盤上の駒を素人とはちがう目で見られるようになるのは数線時間におよぶ鍛錬の賜物であることを示した。サイモンは次のように書いたが,この1文からも,専門家の直観を神秘化する傾向にむかっ腹を立てていたことがうかがえる。
 「状況が手がかりを与える。この手がかりをもとに,専門家は記憶に蓄積されていた情報を呼び出す。そして情報が答を与えてくれるのだ。直感とは,認識以上でもなければ以下でもない」
 2歳の子どもが犬を見て「わんわんだ」と言っても,私たちは驚かない。ものを認識し名前をつけることにかけて子どもが信じられないような学習能力を発揮することをよく知っているからだ。サイモンが言いたかったのは,専門家の信じられないような直感も,根は同じだということである。初めて遭遇する局面の中に慣れ親しんだ要素を見つけ,それに対して適切な行動を起こすことを学んだとき,いざというとき役に立つ直感が育まれる。すぐれた直感的判断は,まさに「わんわん」と同じように,すっと浮かんでくるのである。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.22

競争しないための競争

 私たちの国は,高度成長のために「ムラ社会」としての一体感を守りながら,しかし一方では「自由競争」で「能力主義」的な上下の移動を可能しなければならず,国全体としても効率的で的確なエリート養成,社会的な選抜と人員配置を行わなければならなかった。
 そのため絶対的な切り札が,「自由競争」としての大学受験制度だった。すべての人が参加でき,完全実力主義で競争できる。こうした形での「平等主義」と「能力主義」の両面の保証の上で,「ムラ社会」は運営されてきた。それがなければ,社会は活力を失い,高度成長は難しかっただろう。
 入試においてだけは,絶対的「自由競争」行われたが,それは唯一,大学の入り口だけのことであり,それ以外は移動のない「ムラ社会」だ。それによって「ムラ社会」内部の一体感を守ったのだ。これが「競争しないための競争」の実体であり,日本の大学入試の核心部分だ。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.252-253

安上がりに頼った

 1960年代後半から高校進学率が急上昇し,それにつれて大学進学率も上昇した。そこで大学の新設が急務になった。しかし,日本では,大学生の急激な拡大の受け入れはほとんどが私大で引き受けることになった。どこの国と比較しても,大学生の中で私大生の比率が最も高くなったのは日本で,80%に達していた。私大の中に放漫経営を行う大学が増え,500人,1000人のマンモス教室,非常勤講師の増大,水増し入学などが当たり前になっていた。水増しが定員の20倍を肥えるところもあった。
 本来の大学の大衆化とは,「誰でも望む者は,その能力に見合うような大学教育を受けられる」ようにすることだろう。したがって,国公立大を増加させるべきだったのだが,そうしなかった。同規模の大学を作るのに,私立ならば国立大の3分の1の支出で済むのだ。
 小泉前首相以来,「民営化」「民間活力」が錦の御旗になっているが,大学政策におけるそれは,教育に金をかけないという選択の結果だったのだ。そのことを,よく考えるべきであろう。
 この60年代,世界的な高度経済成長の時代に,先進国の中で高等教育のための公財政支出の比率が最も低かったのが日本だ。日本ほど教育をバカにし,私学にそのつけをまわし,その結果,教育全体の状況を悪化させた国はない。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.228-229

いんちき臭い

 日本の教育改革で頻出する「多様化」や「個性化」ほどインチキな言葉はない。「多様化」や「個性化」はいつも,上から強制され,いつも横並びの均一化・画一化しか意味しないからだ。「多様化」や「個性化」の名の下に,実は正反対のことが行われる。「多様化」の中に多様化をしないという選択肢は含まれず,「選択」の中に選択しないという選択肢が含まれない。どこまでも,横並びである。そのために,都立戸山高校のような理系も文系も同じ教養課程を学ぶ「全天候型」カリキュラムが不可能になってしまった。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.219-220

難問・奇問の理由

 大学側(特に国立大)の事情は次のようなものだった。
 国立大では1950年代までは論文入試が普通だった。戦前の旧帝大時代と同じである。しかし,60年代に受験者数が急増しそれが不可能になり,客観テストが一般化する。これは大学の「大衆化」にともなう避けがたい変化だった。
 これは単なる量的な問題だけではなく,大学に押し寄せる学生の中の「どんぐりの背比べ」状態の部分に序列を付ける上でも,その客観性の保証の上で優れていたのである。
 京大,東工大で当時出題の経験を持つ永井道雄は「高校の教科書を詳細に読み,なるべく高校教育の線にそった出題をすることが可能であった」と述べている。それが変わったのは,受験戦争がつぎの段階に入ったからだ。1つの大学が出題する問題の数は巨大になり,それが受験専門の出版社の問題集にも収められていく。そこで,過去に出題されていない,新しくすぐれた問題を作成することが困難になった。こうして「難問・奇問」が増えることになったのだ。
 ここでの変化の核心は,大学入試が高校時代の学習の教育評価の側面よりも,選抜に重きをおくようになったことだ。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.208-209

甘ったれ坊やとか保護ママ

 私は前から,国立大と文科省の関係を「甘ったれ坊や」と「過保護ママ」の関係にたとえている。国立大は親に対して文句ばかり言うものの自立はできず,内心では親を怖がっている。文科省も子どもを自立させることができず,ついつい過保護なまでに手を出しすぎてしまう。共に自立ができておらず,典型的な「共依存」関係だ。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.176

入試がなくても選抜できる理由

 アメリカで各大学に入試がなくても選抜ができるのは,全国統一テストと高校の成績や調査書に大きく依存しているからだ。その点,日本を考えると,全国統一テストを志向したのが「共通一次試験」「センター試験」だったのだがその役割を果たせず,大学側の高校への不信感は強く,その成績や調査書は参考程度にとどまっているのが現状だろう。SFCではむしろ,高校側との対決姿勢すら示していた。
 SFCのAO入試がアメリカのAO選抜と共通しているのは,書類の評価による点と,事務職員がかかわる点ぐらいだろう。しかし,違いは大きすぎて比較しようもない。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.111-112

米国の入試制度

 「入学選抜」がないのではない。それを説明するには,アメリカの大学全体について見てみなければならない。アメリカの大学の入学時の制度は大きく3つに分けられる。
 「開放入学制」「資格選抜制」「競争選抜制」の3つだ。
 「開放入学制」の大学は2年制の公立大学,コミュニティカレッジなどであり,高校の卒業あるいは18歳になったことを条件にして全員無条件で入学を許可するものだ。
 「資格選抜制」の大学は,全米各州の州立大学などであり,各大学が設定した入学要件をクリアした全員に入学を許可するもの。入学要件とは,高卒資格を前提に,(1)SAT,ACTなどの全米の統一試験の成績,(2)高校の成績(GPA)などで決められている。4年制大学全体の75%ほどがこれになる。
 「競争選抜制」の大学は有名私大や上位の州立大などであり,一定の入学要件を満たしている者の中から,さらに選抜する。4年制大学全体の15%ほどがこれになる。
 「入学選抜」を行っているのは「競争選抜制」の大学だけである。しかし,その選抜とは,先に述べたように各大学が「入試」を行うのではなく,書類で選抜するだけなのだ。ではその「選抜」とはいかなるものなのか。
 高卒資格を前提に,(1)SAT,ACTなどの全米統一試験の成績,(2)高校の成績(GPA)を評価する点は「資格選抜制」と変わらない。変わるのは,それ以外にも(3)高校からの調査書,(4)本人からの志望理由などの個人調書を加味して決める点だ。
 このうち,(3)(4)はAOの職員が2人以上で読み,ABCの評価をする。2人の違いが大きい時には3人目が判断するシステムになっている。ある程度の能力が必要だが,機械的な作業でありトレーニングすれば誰にでもできるという。日本のAO入試では面接が一般的だが,アメリカでは基本的には行わない。
 選抜はこの(1)から(4)の4種類の評価を足して上から順位を出して行われるのだ。その際に,この(1)から(4)をどの割合で足すかを決めるのが「アドミッション・ポリシー」であり,数値で示される。それを決めるのは,私大ではAOのディレクターと教員代表,大学の執行部で作る入試委員会や,州立大では州高等教育協議会などである。ここだけ教員代表が選抜にかかわることができるのだ。
 「アドミッション・ポリシー」とは,「多様性」や「独自性」などといったお題目ではない。それは,(1)から(4)をどの割合で評価するかという数値にまで具体化されたものなのだ。そして数値比率が決まれば,後は自動的に選抜が行われるだけである。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.109-111

米国のアドミッションズ・オフィス

 ここで,アメリカの大学の入学生度を見ておくことは重要だ。AO入試とはアメリカの大学で入試を担当する部局であるAO(アドミッションズ・オフィス)からネーミングされたものだからだ。
 しかし,そもそもアメリカには「AO入試」なるものは存在しない。AOが実施する選抜には「知識伝授型」に対する「創造性開発型」といった意味は全くない。元々アメリカには個々の大学が行う「入試」が存在しないのだ。どこの大学でもAOが入学者を決定するが,すべて同じような書類選抜であり,他の選抜方法があるわけではない。
 アメリカの大学では,入学者の決定と受け入れまでの作業はAOが行う。これは全米のすべての大学で変わらない。AOには教員はいない。すべてが事務職員で構成されている。
 入学決定者は,志願者から提出された書類をもとに,職員が行う。教員は直接にはかかわらない。この意味は,アメリカには各大学独自の「入試」が存在しないということだ。そこには「入試」にかかわる業務がいっさい存在しない。ここが肝心なところである。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.108-109

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