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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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忘却曲線

 エビングハウスの忘却曲線は多くの研究者の心をとらえ,忘れられることはなかった。1914年,アメリカの教育研究の権威であるエドワード・ソーンダイクは,エビングハウスの忘却曲線を「学習の法則」に変えた。ソーンダイクはそれを「不使用の法則」と名づけ,情報を学習しても,使い続けなければ記憶から消え去ると断言した。使わなければ失うというわけだ。
 この法則は正しいと思われていた。少なくとも経験に合致するのは確かで,いまなおこの法則を学習の定義として思い浮かべる人がほとんどだ。しかし,この定義には裏がある。
ベネディクト・キャリー 花塚 恵(訳) (2015). 脳が認める勉強法:「学習の科学」が明かす驚きの真実! ダイヤモンド社 pp. 42

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すべてを覚えていたら

 19世紀のアメリカ人心理学者ウィリアム・ジェームズは,「人間がすべてを覚えているとすれば,何一つ覚えていない場合と同様に都合が悪いことがほとんどだ」と言ったが,本当にそのとおりだろう。
ベネディクト・キャリー 花塚 恵(訳) (2015). 脳が認める勉強法:「学習の科学」が明かす驚きの真実! ダイヤモンド社 pp. 34

コンピュータではない

 つまり,脳に保存される事実,アイデア,経験は,コンピュータに保存されるような形では保存されないということだ。クリック1つで開くファイルとして,いつでもまったく同じアイコンを表示させるようにはいかない。脳の場合は,知覚,事実,思考のネットワークに組み込まれるという形で保存される。そして,思い出すたびに,そのネットワークに組み込まれるものが若干変わる。そうして思いだした記憶は,以前に思いだした記憶を上書きするものではない。それと結びつき,重なりあうものである。完全に失われるものは何もないが,たどった記憶は絶えず変化し続ける。
ベネディクト・キャリー 花塚 恵(訳) (2015). 脳が認める勉強法:「学習の科学」が明かす驚きの真実! ダイヤモンド社 pp. 29

人の感情

 人の感情というのは,人を動かしている心の動きというのは,なんて複雑なんだろう。考えや気持ち,愛憎や好悪が人を動かしているんだ!他人の気持ちをどうすれば理解できるのか。眉や唇の動きをどうやって読み取るのか。例えばピナリッピーを衝き動かしている心の動きを,どう察すればいいのか。それについて書かれた解説書はない。彼女の場合はたいてい,その複雑に組み合わさったものがいきなり目の前で爆発する。まるで,彼女には従うべき規則などなくて,自分の思うままに規則を作っているかのように。彼女には実にさまざまな心模様がある。
エドワード・ケリー 古屋美登里(訳) (2017). アイアマンガー三部作3 肺都 東京創元社 pp. 362

風紀を乱している

 ベイズウォーター・ロードには,もっと多くの警官がいた。気の毒な浮浪者を捕まえて,連行しようとしていた。あの人は,浮浪者であるっていうことのほかに,なにか悪いことでもしたのだろうか。このあたりではこんなことがおこなわれているのだ。風紀を乱している,と警官は言う。あの気の毒な家のない人たち。ぬくぬくと過ごせる家があるわたしたちが,家のない人たちに気づかないふりをしている。まるでその人たちの姿が見えていないみたいに。警察はそういう人たちを連行しているけれど,あの人たちはどうなるの。私たちの住んでいる通りよりもっと暗い場所で,あの人たちをどんな悲惨なことが待ち受けているのだろう。
エドワード・ケリー 古屋美登里(訳) (2017). アイアマンガー三部作3 肺都 東京創元社 pp. 43

ロンドンのスモッグ

さらに,煙は長年にわたって都市生活の一部だと考えられていた。ロンドン市民はそうした生活妨害に慣れていて,霧を近代社会の避けられない副産物とみなし,黒い天蓋もイギリス独自のもので,大都会にふさわしい特徴だと思っていた。「スモーク」や「ビッグ・スモーク」がロンドンの代名詞として使われるようになり,ロンドンといえば汚染だった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.353

女性用公衆便所

 19世紀末には,この話題が公の場でもちきりとなったので,自治体の選挙では女性用公衆便所が進歩派のスローガンとなった。だがやはり,女性は非常に貞淑で清らかで慎み深いので公衆便所を必要としないと主張する保守派の人も,まだ存在していた。セント・パンクラスの教区委員だったジョージ・バーナード・ショーは,1900年にカムデン・ハイ・ストリートの女性用公衆便所を頑固に認めたがらない他の教区委員について詳述している。ひとりは,地元の貧しい花売り娘がスミレを洗うためだけに公衆便所に行っていることに不服だった。別の教区委員は,そうした設備を求める女性は「女性であることを忘れてしまったのだ」と主張した。交通に与える影響を知るために設置された公衆便所の実物大木造模型は,ショーによると,乗合馬車や荷馬車が通りかかるたびに故意による破壊の対象となり,「ありとあらゆる人にからかわれ続ける」物笑いの種になったという。問題は,1905年にようやく女性用地下公衆便所が建設されるまで解決しなかった。ショーの説明が興味深いのは,年老いた教区委員は,女性の身体について忍び笑いをする感じの悪い男子生徒と同じだという実態はもとより,階級に対するある種の先入観も表しているからだ。ウェストエンドの上品な中流階級の女性に公衆便所を提供するのと,贅沢品の利用方法をほとんどわかっていないカムデンの花売り娘や工場労働者向けに公衆便所を提供するのとは別問題だというのだ。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.264-265

公衆便所

 小便所の建設は19世紀初め頃に始まったようだが,正確な日付を確認するのはかなり難しい(それ以前は,小便所を表す英語「urinal」は,医師が患者の尿を集めて調べるのに使用したガラス容器を意味したから)。ある教区民が1814年にホルボーン教区会に送った手紙は,「彼の要請で,彼の家の横に,委員会によって設置された小便所」に触れている。1830年代になると,ホルボーンには,教区会の小便所がいくつかあるだけでなく,小便所の清掃人も週3シリングで雇っていた(以前は週2シリングで貧困者を雇っていたが,あまり熱心に働かなかった)。
 そうした初期の小便所は複雑な作りではなかった。通常は,壁に薄い石版や石が取りつけられている程度で,屋外に設置され,男性の下半身を覆い隠す石版が立ててある場合もあった。パブが設置した小便所の多くは排水設備がなく,基本的には,壁続きでつながる建物の状態を維持することだけが目的だった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.238

川に浮かぶプール

 市民の間に「遊泳」の人気が高まってきたのを利用して,利益を上げようとした者もいた。1875年,フローティング・スイミングバス社は,鉄とガラスで覆われた,テムズ川に浮かぶ小さな水晶宮殿のような遊泳浴槽を製造し,チャネリング・クロス駅のそばの,かつて汽船の桟橋だった場所に設置した。このプールには,川からポンプでくみ上げ,ろ過して温めた——「もとの塩分とソフトで心地よい性質はそのままで,浮遊する泥やゴミを完全に除去した」——水が使われた。この豪華な設備は,当然ながら男性労働者向けのものではなかったが——入場料は1シリング——冬の間は水上アイスリンクとして利用されつつ,10年ほどは繁盛していた。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.227

体を洗わない

 少なくとも,裕福な人には選択肢があったわけだが,貧しい人々は,手と顔を洗う以外にほとんど何もできず,多くの者はそれさえしなかった(「世のなかには手と顔以外の部分を洗わずに一生をすごす人がいて,そうでない者はまれである」)。なかには,毎日の手洗いと洗顔を指導されると,不慣れな厄介ごとだと感じる者さえいた。ランカシャーで「禁酒ツアー」に参加した失業中の紡績工は,「一番ひどかった罰は,毎朝手と顔を洗わないといけなかったことだ」と述べている。入浴となるとさらに異質な行為だ。1848年,ロンドン各地の救貧院でコレラ患者の治療体制が整っているかどうかを調べる調査が行われたが,その報告書には入浴を嫌う多くの事例が記されていた。いくつかの救貧院は,入院希望者に入浴を義務づける規則が(温水をたっぷり使えるにもかかわらず),「希望者の数を減らす非常に効果的な方法のひとつだった」と報告している。身体の汚れはプライドでさえあった。1860年代,労働者のスポークスマンを自称していたトーマス・ライトは,労働者階級は「グレート・アンウウォッシュト」という言葉を受け入れるようになっていると主張した。汚れた手は,彼らと「カウンター・スキッパー」(商店の定員)のような,本物の肉体労働に携わっていない人とを区別する証だというのだ。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.206-207

洗濯屋

 この他にも,洗濯婦に「洗濯物を出す」というぜいたくな手段があり,19世紀の後期には,機械化された規模の大きな洗濯屋へ出すようになった。洗濯屋の利用にはお金がかかり,衛生問題の専門家に言わせれば非衛生的で危険だった。洗濯婦たちは自分の家で洗った洗濯物を裏庭で乾かしたが,そこは貧困者たちが使うごみ箱と水洗便所に近く,「最底辺の人々が頻繁に足を運ぶ」場所でもあった。そのような環境が天然痘などの病気を媒介するという報告がときおり出されたが,洗濯のビジネスにはほとんど影響がなかった。中産階級の主婦にとって,「洗濯屋に出した方がはるかに快適」なのは,逃れがたい事実だった。利点は多かった。使用人たちが流し場で丸一日,あるいはそれ以上の時間を使って,洗濯物を次々と懸命に洗い,煮沸し,すすぐ必要がなくなり,家の主は普段の快適さを奪われずにすみ(「ディナーは遅れ,ちゃんとした服もなく,洗濯中だから,と告げられる」),冬の数ヵ月間,家の中が乾燥中の服で溢れる「蒸気風呂」に変わることもなかった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.204-205

死体の処理

 ロンドンには下水の他にも頭の痛い「廃棄物除去」の問題があった——死体の処理である。埋葬の方法については,ほとんど議論は行われなかった。土葬が主流で,火葬は外国の特殊な習慣と考えられていたからだ。問題は,増え続ける死体を収容するスペースを見つけることにあった。首都の人口は急増し,教会墓地や埋葬地,地下納骨所は死体で満杯で,結果として,需要が供給を上回った場所は,どこも不快極まりない状態だった。深さ6メートルほどの縦穴に,棺を積み重ね,一番上の棺は地面からわずか10センチメートルほどのところにある。腐った遺体は,新参者に場所を譲るために,かき乱され,バラバラに切断され,破壊されることも珍しくない。掘り返した骨を不注意な墓掘り人が落とし,墓石の間に散らかして放置し,棺は粉砕されて貧困者に薪として売られる。聖職者と寺男は,埋葬料が収入の大半を占めていたため,この最悪の習慣に目をつぶっていた。また,墓掘り人の仕事を間近で覗いたりすれば,おぞましい光景が待ち受けていた。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.163

化学薬品中毒

 工場から流出した化学薬品が下水道の汚水と反応して,中毒事故が起きたケースもあった。1875年,ワンズワース地区の委員会に雇われた洗い流し作業員の一団が,「ウォレス薬品製造会社」の工場の敷地に近い支線下水道に入った。そこでは,「道路の通気口が……(中略)……夜になると濃い高熱の蒸気を放出する」ため,通行人が気分を悪くするので,地域住民で組織した「抗議委員会」が,以前から抗議を行っていた。下水道の中の工場の排水口からは「作業員の手にひどい火傷を負わせて,あらゆる色に変えてしまう青い物質」が噴き出ていた。ごみを取り除こうとしていた作業員は,突然,「ジンジャービアを開けたときのような,シューッという音」の蒸気と硫黄のにおいに襲われた。四人の男はみな意識を失って倒れ,うちひとりは死亡した。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.146

コレラの原因

 現存するコレラの調査記録でもっとも詳細だったのは,シティ・オブ・ロンドンによるものだ。当時のシティの一番の問題は,ごみ収集人がスラム街のごみ収集を拒むことだった。当局はさっそく,ごみ収集人の契約条項や,作業にあたっては「住民や賃借人に料金や費用を請求しない」という条件を列挙したポスターを作成した。さらに,貧困者の便所の惨状はごみと一,二を争うほど不快な問題としていた。
 原因は放置だった。スラム街の家には,便所の設備が存在しないか,存在したとしても,ひとつの便所や汚物だめを数十人の賃借人が使い,大家は一度も汲み取りをせずに放置した。水洗便所はほとんど知られておらず,不潔を極める最悪のところでは,「床や便座に汚物が30センチメートルも積もり,道路の排水溝を流れていた」。首都が拡大するにつれて,家主は老朽化した建物にさらに多くの賃借人を詰め込み,賃借人は自分の部屋をまた貸しした。おびただしい数の陰気な路地や裏通りで,不潔な状態が当たり前となっていた。汚物だめの汲み取りには金がかかり,スラム街の家主は汲み取り代を払いたがらず,住人には払えないし,払う気もなかった。その結果,便所のなか,周囲,地下鉄に,さらには放ったらかしの路地に——やむを得ずどこでも——汚物がおぞましく堆積していった。テムズ川を行く船の乗客は,あろうことか,潮汐がある川の上にせり出すように家が立ち並ぶスラム街から,目を逸らさねばならなかった。「積荷も何もあったものではなく,川面に張り出した便所に女性が入っていくと汚物が川に落ちるのが,通りがかりの誰の目にも見えるのだ」
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.83

上下水道

 下水道に関連する公衆衛生の不祥事が初めて起きたのは,1827年のことだ。きっかけは,ジャーナリストで議会議事録の編集者でもあったジョン・ライトが執筆した,100ページを超える扇動的なパンフレットで『ドルフィン,あるいはグランド・ジャンクション社の迷惑行為——ウェストミンスター及びその周辺の7000世帯に供給されている水は,見るも不快で,想像するだけでもおぞましく,健康を破壊する状態にあることの証明』と題されていた。ライトはグランド・ジャンクション水道会社が,テムズ川から蒸気機関で水を汲み出していること——そして,同社が吸水する配管は下水の排水口から数メートルの位置にあること——を明らかにした。給水管の位置はきわめて明確で,木製の係船杭,「ドルフィン」がすぐそばにあった。給水した水は貯水場(不純物が沈殿して取り除かれる)を経由せず,濾過もされずに7000戸の家庭に届けられ,その多くがウェストエンドの貴族の家庭だった。首都のエリートは薄められた排泄物を供給されて,飲み物や料理や洗濯に使っている——しかもその特権に大金を払っているというわけだった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.74-75

自動車の出現

 「馬のない車」が初めてロンドンに現れたのは1896年のことだ。なかには,この機械には血が通っていない——「ニンジンや角砂糖をあげられない」——とか,自動車での移動は「感動のない満足感をもたらす」などと嘆く人もいた。また,軽はずみな予測をする人もいた——「鉄道だって馬を一掃してしまうはずだったが,どうだろう?今じゃ,かつてないほど多くの馬がいるではないか」
 確かに,馬はその後も数十年にわたってロンドンの路上にとどまり続けたが,その数はヴィクトリア朝が終わると減少し始めた。特にバスが急速に普及し,たちまち血と肉を有する競争相手をしのぐ人気を得た(「乗客は必ずといってよいほど,速い方の乗り物を選んだ」)。何より確かな兆しとなったのは,1905年にロンドン乗合馬車会社が,乗合馬車の客室部分を自動車の車台に乗せると決断したことだった——やがて馬が使われなくなるのは明らかで,あとは時間の問題だった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.66

道路の汚泥

 人もまた汚泥で転んだ——「多くが足をくじき,背骨を『ぶつけ』,神経系に『衝撃』を受け」,安全に道路を渡れるところを探すのが,危険な行為となりかねなかった。けれども何よりの問題は衣類への影響だった。汚れないようにと,スカートの下のたっぷりしたペチコートをしとやかにたくし上げるには,かなりの技術と判断力が必要で,たとえとても優雅に,注意深く歩いたとしても,通り過ぎる車に泥をかけられることがある。靴や服の泥を取り除くのは,当時の人々の日課となっていた。女性誌のコラムには,ブラシで泥汚れを払う方法や,布地の適切な取り扱い方,便利な化学薬品についての助言が溢れていた。傷みやすい布地の場合は,理想をいえば,街路で衣服を露出すべきでない。リージェント・ストリートやボンド・ストリートで馬車から降りずに,帽子職人や店員に馬車まで見本を持ってこさせる貴族の女性は,社会的地位を誇示していただけでなく,舗道上の危険から衣服を守っていたのだ。外を歩かねばならない人にとって,解決策のひとつはガロッシュというゴム製のオーバーシューズで,これを履けば「冬場にロンドンの街路をほんの少し歩いただけで泥が跳ねて汚れてしまうブーツではなく,気のきいた履物で,友人宅の応接間に入ることができた」
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.45

道路の汚泥の中身

 元凶となっていたのは汚泥で,道路を覆い,歩道にまで飛び散っていた。その正体は,畑の泥でもなければ,厩舎がある庭の泥でもなく,実は馬の糞が主体なのだが,色は黒い。煤で汚れた大気が,触れるものすべてを,道路の泥でさえも汚染していたからだ。また,ロンドンの泥は,「ブーツが脱げるほど」強くねばついたが,それは,ほとんどの車道の舗装に花崗岩を多く含む骨材,マカダムが使われていたためだ。マカダム舗装は,比較的安価で細かな石をぎっしりと敷き詰めるなど,いくつかの長所があったが,くぼみができやすく,轍がつきやすかった。削り取られた石の粉は湿った馬糞と混じり合い,ねっとりとした糊状になる。「溶け込んだ」砂粒は驚くべき量だった。シティ・オブ・ロンドンの医療担当者だったレゼビー博士は,12ヵ月にわたる調査の結果,乾燥させたロンドンの汚泥の成分を明らかにした。57パーセントが馬糞,30パーセントが削られた石,13パーセントが削られた鉄粉(鉄製の車輪や馬の蹄鉄から出た)だった。もちろん,泥の全体的な粘度には水分が極めて大きく関係しており,道路は「霧が出るとべたつき,靄で滑りやすくなり,小ぬか雨が降ると液状になった」。だが,最も雨が少ない夏でも悩みが消えるわけではなく,乾燥した泥の「コーヒー色の熱風」が吹き,衣服を汚し,目やのどを刺激した。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.43-44

廃棄物焼却炉

 問題解決に必死だった教区会は,新しい機械に大いに関心を持った。1870年代半ばに初めて開発され,マンチェスター,リバプール,リーズといった工業都市ではすでに使われていた廃棄物焼却炉,つまり巨大焼却炉だった。ロンドンでも,一部の自治体や請負業者はすでにごみを焼却処分していたが,たいていは,ゴミ置き場でたいして大きくもない炉を使うか,戸外でごみの山に火を放つのが関の山だった。ところが廃棄物焼却炉なら,一日に24トンのゴミを焼却して,4トンの不活性の「燃え殻(クリンカー)」に量を減らし,それを道路工事などでバラストとして使えた。そのうえ,設計次第で,家庭のごみだけでなく,道路清掃で出るごみや「下水路の残滓」まで償却できた。LCCの1892年の調査では,早期に燃焼実験をした自治体が明らかにされている。先駆けとなったのはホワイトチャペル地区で,1876年に「フライヤー式」廃棄物焼却炉(アルバート・フライヤーが1874年に原特許権を取得)を購入し,続いてマイルエンドが1881年に,シティ・オブ・ロンドンが1884年に購入した。やがて1888年には,バタシーとハムステッドが初めて地域のすべてのごみを焼却処分し,1892年にはウリッジが後に続いた。焼却処分の大きな利点はごみの減量で,その結果,輸送費も削減できた。欠点は施設建設への高額な投資で,自治体の中心部に建設しなければならないことも難点だった。廃棄物焼却炉の煙突から出る悪臭と煙は,地元住民を悩ませた。公衆衛生のための施策が首都の環境を悪化させるとは,皮肉なものだ。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.37-38

ゴミという金鉱

 だが,そのようなたぐいのものは,家庭から出るごみの大部分を占める灰や石炭の燃え殻の脇役にすぎず,灰や燃え殻こそがごみのリサイクルを金鉱にする可能性を秘めていた。灰はもともと肥料とされていて,農民にとってはそれなりの価値があり,道路清掃で集めた馬の糞と混ぜればさらに儲けを生んだが,19世紀初頭の大きな市場は,拡大し続ける首都の周辺部に工場を構えるレンガ製造業界だった。灰の細粒はレンガの製造過程で粘土と混ぜられ,「粗粒(ブリーズ)」と呼ばれる大きめの燃え殻――家庭の炉で燃えきらなかった石炭――は燃料として使われた。燃え殻は,広大な露天の敷地に粘土レンガを積み上げる際,レンガとレンガの間に挟んで置かれた。火をつけても,燃え殻のおかげでレンガ同士がくっつくのを防げ,レンガ製造に不可欠となる緩慢な燃焼がもたらされた。ロンドンがかつてない速度で発展するにつれて,建設業界におけるレンガ――すなわち粗粒――の需要もうなぎ上りとなり,塵芥請負業者の利益もそれに比例して増加した。ロンドンは不死鳥であり,自らの灰から蘇ったと冗談を言うお調子者もいた。だが,実のところ,それは二重の意味で正しかった。一般にハードコアは,道路のみならず,新築の家の基礎にも用いられていたからだ。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.21-22

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