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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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AO入試の変貌

 このAO入試は,本来「受験偏差値エリート」以外のやる気のある生徒を見つけるのが目的だったが,その拡大とともにだんだんとその意図が変質していく。
 上位大学では,AO入試の条件である「単願で第一志望」,そして秋の時期に行われることを利用して,優秀な学生を確保するのが目的になった。いわゆる「青田買い」である。
 一方下位大学には,とにかく学生を確保する目的がある。実際には下位大学では志願者全入に近い状態だ。無試験,学力試験なしの入学である。偏差値で50以下の大学では推薦・AOで学生数を確保できなければ経営が成り立たないのが現状だ。「一昔前では考えられなかったレベルの生徒が推薦・AOで合格しています」との都立高の教員の声もある。今やAO入試は二極化している。そして,こうしたことが「AO入試=『学力低下』元凶論」の背景にあるのだ。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.89
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AO入試

 大学入試における二大改革は小論文入試とAO入試であった。そのうち,小論文入試は「一般入試」の枠内での改革である。
 それに対して,AO入試や自己推薦入試などは,「一般入試」の枠外での入試で,「一般入試」それ自体を相対化するような改革である。AO入試とは慶應のSFC(湘南藤沢キャンパス)の新設学部である総合政策学部,環境情報学部によって1990年から始まった入試制度である。 

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.86

早稲田の改革

 早稲田文学部は,AO入試の類を導入していないが,それを真剣に検討していた時期がある。2000年頃で,専修によっては定員が埋まらなくなっていたからだ。25〜30人の半分も集まらない場合,その不足分を努力して集めるという発想だった。
 07年度から早稲田大学文学部は以前の第一文学部,第二文学部(夜間)を,新たに二学部に編成し直しての出発となった。文化研究の伝統を継承する「文学部」と,従来の学問領域を超えた新たな文化の領域にいどむ「文化構想学部」だ。この背景には,こうした問題があったのである。またこれは,学生への対応の1つでもあった。
 文学部では教務主任が長期にわたり1年生へのアンケートを蓄積していた。そこにはさまざまな不満が噴出していた。事務の対応の悪さ。英語教育への不満。その中で一番大きかったのが,希望の専修に行けないことだった。第1希望はもちろん,第2,第3希望も無理で,第4希望に進むしかない学生もいて,彼らの不満は大きかった。そこで,少なくとも「第2希望まで」に進めるように小規模の改革を重ねてきた。
 しかし,再編には大きな困難があった。スクラップ・アンド・ビルドには,既得権益を失う教員たちが多数出てくる。反対が多くて進まないことも予想された。
 そこで,人事権とカリキュラム編成権を専修から学部に移すことを試みたのである。それに着手したのは95年頃。土田健次郎が教務主任の時だが,一部の大反対にあってすぐには動かせなかった。しかし次第に危機感が広がっていく。当時,第一文学部,第二文学部では,それぞれに専任を置くのが建前だが,どうしても二文に非常勤が多くなる。そこで文学部所属の全教員を1つの学術院所属として,そこから「第一文学部」「第二文学部」「大学院」に出勤する形を構想した。
 この形が固まったのは03年。こうして,人事委員会とカリキュラム委員会とが,文学学術院全体の人事とカリキュラムを決定できるようになった。これによって学部の再編が可能にもなった。また,こうした体制ができたことで,教育内容やカリキュラムの改革が可能にもなった。1年次では,英語とレポート作成などの基礎をしっかり身につけてもらう。小論文廃止にもそうした背景があったのである。このようにして1年次の「基礎演習」は生まれた。基礎演習は各クラス30人。専任教員だけが担当し,1人が1クラスを見て,それが事実上のクラス担任にもなり,個別の面倒を見ることにした。新設学部の1年次には「基礎講義」として,新たに生まれた各論系・コースから,その分野を紹介する授業がある。すべてDVDによるオンデマンドで,自由な時間に,好きなだけ見ることができる。これは文学部全体で開発したものであるが,時間的制約のある第二文学部で特に有効であり,今回組織的に2つの新設学部に展開することになった。本部の大隈タワー地下にスタジオを持ち,そこで収録されている。講義も,インタビューも,座談会もある。
 こうして,新たなスタートを切った早稲田文学部だが,その背後には次代の変化に対応するべく大きな組織改革が進んでいた。それが教育カリキュラムにも入試にも,変化をもたらしていたのだ。
 なお,この文学部の学術院構想は本部の他学部にも広がった。他学部では関係学部のすべての長を院長が必ずしも兼任していないが,文学部では1人が兼任している。「そうでなければ機能しない」(土田)。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.60-63

公平・公正

 私が,今回の未履修問題で一番笑ってしまったのは,未履修の対応策を協議する際に,マスコミも,文科省や教育委員会などの行政側も,政治家たちも,「不公平」を口にしたことだ。甘い措置をしたら世界史を履修した生徒が「損をする」。不心得者が「得をする」。そうしたことがないようにすべきだ。それが「公平・公正」だ。
 しかし,こうした「損・得」で考える思考こそ,学歴社会の中で「ゆがんだ」学習をしてきた人間の発想だろう。本来は「得」をしたのは世界史を学習できた高校生ではないのか。また,ここにある「公平・公正」の考えこそ,横並びでしかものを考えられない人たちの古い価値観なのだ。みなが高校に進学することを「公平」だと単純に信じられている人たちなのだろう。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.40

それは違う

 一体,マスコミは何を問題にしていたのだろうか。
 彼らは未履修問題を「悪]として報じていた。なぜか。それが学習指導要領に「違反」するからだ。さらには,違反した理由がけしからん,と言うのだ。それは受験指導のためだったからだ。進学校は,進学実績を上げるために奔走し,教員と生徒が一丸となって受験対策に邁進している。そのために,健全な教育がゆがめられている。こうした背景には依然として学歴社会が影を落としており,ゆがんだ受験指導がある。
 これが彼らのイメージなのだろう。しかし,これがまるで違うのだ。
 第1に,大学はすでに全入であり,一部を除けば入ることは簡単なのだ。慥かに東大などの難関校はあるが,今回の未履修で問題になった中で,そうした大学を対象とする進学校は一部でしかない。むしろ問題は,大学受験が多様化などで簡単になりすぎており,それがかえって高校教育の細分化,断片化をもたらしていることなのだ。
 第2に,「教員と生徒が一丸となって受験対策に邁進する」ような高校はいまや日本のどこにも存在しないだろう。高校生はもっとあっけらかんとしており,上位大学への執着は弱い。できるだけ「安全」に,負担を小さく,少しランクを落としてでも,しんどい思いを早く終わりにしたい。そうした高校生に手を焼いているのが実情なのだ。
 第3に,「学歴社会」の重圧など今の高校生は感じていない。多くの場合は無目的で浮遊している。東大を目指している層でも,この点では変わらない。
 マスコミはいまだに,「受験勉強」か「健全な教育」か,「詰め込み」か「ゆとり」か,といった対立軸でしか語れないでいる。もはやこうした古い図式では,今の状況をとらえられないのである。

中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.37-38

笑いモノこそ

 「左様。物が生き物になった時から居る——あれが所謂,霊(モノ)だ。恐ろしいモノだ。恐怖そのものだ。人間は——いや,動物は,あれから逃れるために様々な発達を遂げ,知識を蓄えて来たのだ。その成果のひとつが,我ら妖怪だ」
 「そうなんですか?」
 「そうだ。ただ怖い,ただ恐ろしい,おっかない——これはな,獣でも思うことだ。その,何だか解らないモノと戦うことが生き物の歴史なのである。しかし戦うばかりが戦術ではなかろう。封じ込め,祀り上げ,共存するという手もあるわい。訳の解らぬ怖いモノを,畏怖心,嫌悪感,不快感と細分化し,更に様々な解釈を加え,それぞれに規定して,爪を抜き牙を抜いて飼い馴らし,最後には笑い物にしてしまう——その笑いモノこそが我ら妖怪なのだ」

京極夏彦 (2010). 文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし 角川書店 pp.687

取って代わっただけ

 それまでは無批判に忌み嫌われておりましたようなものでございましても,蓋を開ければ何の科学的根拠もなかったとなりますれば,これは考え方を改めましょうと——普通ならこうなるはずでございましょう。
 ところが現状はその逆なのでございますな。
 まあ,この国も,文明開化,四民平等,近代化,民主主義化と,どんどん変わった訳でございます。最初にまず迷信が排除されましたな。で,身分やら階級やらの差も表向きはなくなりました。そうして,憑物筋という前近代の装置が徐々に機能しなくなって参ります。
 それは,まあ仕方がない。
 しかし,よくよく考えてみますってェと,迷信に科学が,身分やら階級やらに貧富の差やら学歴やらが取って代わりましただけのことでございまして,構造自体はそう代わり映えしていないのでございますな。結局,説明の体系やら解釈やらは大きく変わりましたものの,差別意識だの何だのというものはそのままの形で温存されておりましょう。
 人間,そう進歩は致しませんな。

京極夏彦 (2010). 文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし 角川書店 pp.519-520

世間話から昔話へ

 世間話と申しますものは,これリアルタイムなものでございまして,真偽の程は別としてもほんとうのこととして語られます。事実であろうとなかろうと面白可笑しく語られるものでございます。
 この世間話,事実のみを残すなら単なる記録でございますが,語りを語りとして伝えました時に,それは説話となり得るのでございます。
 この,語りの構造だけを抽出致しまして——つまりコード化致しまして,固有名詞を一般名詞に置き換えましてお話しますってェと,これは昔話になりましょう。純粋に語りの面白さだけを伝える——これは口承文芸でございます。
 口承文芸という部分に力点を置かずに,説話をただ後世に伝えた場合が,民話と呼ばれる訳でございます。一方で物語の面白さを重視せず,所謂事実としての側面を重視して後世に語り伝えました場合は,伝説になりましょう。伝説にはリアリティが必要なのでございます。
 因みにこの説話,事実の部分だけを記しますってェと,単なる記録になってしまう訳でございまするが,語ること——物語の方を文字で記しますと説話文学となるのでございます。これは小説のハシリでございましょうか。また,語りのテクニックが職業化致しますと,これはお噺——いわゆる落語などの話芸になって参ります。落語はその昔,昔話と呼ばれていたのでございます。
 世間話の妖怪から昔話の妖怪になると申しますのは,つまりリアリティを失うということでございます。

京極夏彦 (2010). 文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし 角川書店 pp.460

妖怪は1

 例えば数字の1を思い浮かべて戴けましょうか。
 1という概念は慥かにありましょう。しかしこの世に1というモノは存在しませんな。存在しませんから,もちろん見えも致しません。致しませんが,ない訳ではございません。仕方がないので1なり一という記号で表しますな。多くの方は,イチと聞けば,1や一を思い浮かべることでございましょう。
 妖怪は,この1と同じでございます。

京極夏彦 (2010). 文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし 角川書店 pp.11

最善から遠ざけるもの

 最善が何か,自分1人の頭で考えていても「がむしゃらに頑張る」といった程度のアイディアしか生まれないかもしれない。だが世の中にはいろいろな分野で「最善が何か」を明らかにすることだけに命をかけている人たちがいる。無責任な評論家が偽物の「最善」を世に広める一方で,彼らが辿りついた真実の多くは,文献データベースの中に大量に蓄積はされていても,あまり我々の目には触れることはない。
 おそらく我々がすべきことの多くは,すでに文献やデータの上では明らかなのである。だがそれを現実のものとして実行するまでのギャップが我々を「最善」から遠ざけているのではないかと思う。

西内 啓 (2013). 統計学が最強の学問である ダイヤモンド社 3278/3361(Kindle)

オールラウンダーに

 これだけさまざまな分野で統計学が用いられるようになると,自分と異なる分野の異なる考え方で用いられる統計手法の意味を理解するのも一苦労である。しかしながら,自分の習った統計学と考え方が異なるという理由で拒絶したり,見当違いな批判を行うことはたいへんもったいない。それよりも,この章で紹介したような統計家たちの考えの違いをきちんと理解し,異なる立場で培われた知恵を自分の必要に応じて活用することのほうがよっぽど賢明なやり方である。
 統計学はそれ自体最強の学問であるが,その最強をさらに盤石なものにするためには,ありとあらゆる統計学の考え方に対してオールラウンダーになることが求められるのである。

西内 啓 (2013). 統計学が最強の学問である ダイヤモンド社 No.3040-3049/3361(Kindle)

アンケート

 ちなみに以前自分が見せてもらった,ある企業が新卒採用のために作った「適性検査」は,まさしく「ただのアンケート」だった。ストレスに強くて根性がある人が欲しいんだろうなぁということだけはわかったが,それを直接尋ねたところで正直に「自分は根性ないです」と答える学生はいないだろう。実際にこの「適性検査」は,ほとんど採用の役には立たなかったそうだ。統計家としてはぜひ入社後の業績と,この「適性検査」の相関を分析させてほしいところである。おそらくこの企業は,1人ぐらい根性がなくても心理統計学を勉強してきた学生を人事部に採用したほうがよいのではないか。
 社会調査や疫学研究の質問紙に「あなたの親しい人にタバコを吸っている人はいますか?」と書いていた場合,単純に「受動喫煙してる人って何%いるんだろうか」とか,「受動喫煙してるかどうかと健康状態って関連してるんだろうか」という興味で質問しているだけだが,心理統計家たちはそう単純には考えない。
 質問に対する回答は必ず回答者の主観というフィルターと無関係ではないし,心理統計家たちは100年間,人間の主観を含む心の扱いについて議論を重ねてきたのだ。
 「同じように喫煙者の友人がいる人の中にも,その存在を意識している人としていない人がいる」とか,「喫煙に嫌悪感のある人は,友人が喫煙者でも『親しい』という単語に引っかかってNoと答えるのではないか」といった可能性を考え,同様の質問項目を何パターンか用意し,因子分析を行ない,そこから得られた何らかの因子に対して意味を見出すべき,というのが彼らのやり方だろう。

西内 啓 (2013). 統計学が最強の学問である ダイヤモンド社 2480-2498/3361(kindle)

学問的な視座の違い

 だから疫学者や生物統計家は,「ランダムサンプリングによる正確な推定値」よりも,「ランダム化による妥当な判断」を大事にする。そしてたまに社会調査を中心とした統計を教育された者(あるいは単に聞きかじった者)から「ランダムサンプリングでないからこの結果は信用ならない」という批判をもらうと,終わりのない論争に突入する。たとえば以下の様なやり取りになるだろう。

 「全国民からのランダムサンプリングじゃないから信用できない」
 「確かに解析したのは若者だけのデータですが,年齢と喫煙リスクの間によっぽど強力な交互作用が存在していない限り,喫煙がリスクとなるという結果に変わりはないと思います」
 「その交互作用が存在しているかしていないか,わからないじゃないか」
 「何か高齢者だと喫煙が体にいいと考えられる根拠はあるんですか?」
 「それはないけど,結局タバコが体にわるいのか,一般化して言えるわけじゃないだろう」
 「だから今回の研究はあくまで若者に偏ったデータなので,他の年代については今後の課題だと言ってますよね」
 「じゃあなんでそんな結果をもとに喫煙の害を一般化して訴えたりできるんだ」
 「だからよっぽどの交互作用が存在してない限り喫煙が体に悪いことに変わりないじゃないですか」

 なお,社会調査の分野で発展した欠測に対する補完方法を疫学的な推定に持ちこむこともできるのだが,こうした補完方法は社会調査系の統計家にとっては,「ベストを尽くしたランダムサンプリング調査に付け加える最終手段」であり,そもそもキレイなランダムサンプルにする気ゼロのデータ自体がかなり気持ちの悪いものらしい。
 そんなわけでこの両者が議論をすると,しばしば疫学者や生物統計家は内心「いくら正確なデータと推定値でも,関連性を分析しないんじゃ意味ないじゃねぇか」と毒づいている。一方,社会調査の専門家は「偏ったデータだけしかないのに何を偉そうなことぬかしてやがる」と腹を立てる。
 だが両者のうちどちらが正しいか,と言われれば,それは単に学問的な視座の違いによるというだけの話であり,状況によって適した考え方はどちらなのかきちんと考えられることが重要なのである。

西内 啓 (2013). 統計学が最強の学問である ダイヤモンド社 No.2349-2365/3361(Kindle)

正しい判断へ

 社内のありとあらゆる「正解のない意思決定」について,正解がないのであればとりあえずランダムに決めてしまう,という選択肢の価値はもっと認められるべきだろう。ただ決定をランダムにすることと継続的にデータを採取することさえ心がければ,後で正確に「それがよかったのか」「どれぐらいの利益に繋がったのか」が評価できるのだから,少なくともそちらのほうがより確実に「正しい判断」へと近づく道になることもある。

西内 啓 (2013). 統計学が最強の学問である ダイヤモンド社 No.1421-1422/3361(Kindle)

こんな分析しか出来ない人たち

 仕事で出会うビジネスパーソンたちから,「結局のところデータ分析なんかでビジネスは推し量れない」といった意見をいただくこともしばしばあるのだが,このような「何の問いにも答えていない単純集計だけでは推し量れない」というのであれば,全面的に賛成である。結局のところ彼らは,「ビジネスを推し量れないデータ分析しかできない人たち」としか出会ってこなかったのだ。

西内 啓 (2013). 統計学が最強の学問である ダイヤモンド社 No.771/3361(Kindle)

最初の鉄道

 ところで学校の歴史の授業では,世界初の鉄道は,1825年にストックトン〜ダーリントンの間に敷設された,と習った記憶がある人も多いのではないだろうか。事実,炭鉱のエンジニアであったジョージ・スチーブンソンは,ストックトンとダーリントンの間に敷設された線路で,蒸気機関車「ロコモーション」の走行に成功する。これが「世界初の鉄道」という認識が日本では一般的だ。ところがこの「ロコモーション」は,鉄道馬車の力を借りてようやく動くことができた,という程度の代物だった。スチーブンソンは,息子のロバートとともに改良を重ね,世界初の営業路線として決まったリバプール〜マンチェスター線に,その成果でもある「ロケット」を投入した。これが1830年である。
 それでも1825年が“世界初”であるように思えるが,実用に耐えうるかどうかがイギリスでは大きなポイントになるらしい。イギリスにおいても25年説は少なくないが,たとえばイングランド銀行の5ポンド紙幣(旧)に大きく描かれているのは「ロケット」のほうであり,「ロコモーション」は紙幣の隅に,申し訳程度に挿入されているに過ぎない。
 さらに言えば,イギリスで,いや世界で初めて蒸気機関車の製造に成功したのはスチーブンソン親子ではなく,リチャード・トレシビックなる人物である。彼がSLを製造したのはスチーブンソンより20年以上も早い1804年で,試験走行にも成功している。だが,それはとても実用にはならず,彼は試行錯誤を繰り返す。そのうちにスチーブンソン親子が「ロコモーション」,そして「ロケット」を世に送り出し,トレシビックの名前は鉄道史の陰に葬り去られてしまうのである。

秋山岳志 (2010). 機関車トーマスと世界鉄道遺産 集英社 pp.180-182

歴史を知れば

 ウィルバートの第12作目『8だいの機関車』所収の「ゆうめいになったゴードン」は,ゴードンが急遽ロンドンに行くことになったお話である。ロンドン行きに先立ちゴードンは,自分が昔ロンドンのキングス・クロス駅で活躍していたと自慢する。ところが,ほかの機関車がゴードンにこう反論するのである。

 「ロンドンの駅は,ユーストンだよ。そんなこと,だれだって,しってるよ」

 これを訊いたダックは黙っていない。

 「そんな ばかな! ロンドンの駅は,パディントンだよ」

(『8だいの機関車』)

 これは,ゴードンはもともとLNERの機関車であり,同社がロンドンでターミナル駅としていたのがキングス・クロス駅,ダックはGWR出身なのでターミナルがパディントン駅であることを知らないと,何を言い争っているのか皆目わからないのではないだろうか。ちなみにユーストン駅は,ジェームスなどが属していたLMSの発着駅。各自が自分の駅,すなわち自分の鉄道会社が一番だと譲らない当時の状況を揶揄しているのである。
 四大鉄道時代以前,鉄道会社は各自バラバラに首都ロンドンに乗り入れ,専用のターミナル駅を作っていった。その結果,膨大な数の駅が狭いロンドンに出現する。4つの会社に統合された後も,合併前の会社の駅をそのまま受け継いだため,やはり各社別々の駅を利用していた。フランスなどヨーロッパ大陸の国でも複数の駅がある都市は珍しくないが,ロンドンが群を抜いて多いのは,そのためだ。

秋山岳志 (2010). 機関車トーマスと世界鉄道遺産 集英社 pp.105-107

チャリティ

 実際,イギリスの街中を歩くと,チャリティ・ショップの数の多さに驚かされる。ガン,心臓病患者や難病患者への支援,発展途上国への援助など,各分野のチャリティ団体が店を出し,中古衣料や雑貨を販売して,活動費に充てている。チャリティ・ショップは日常風景の一部であり,買い手も,一般の店舗と特に変わらない認識で利用している人が多い。ここで買い物をすることが社会貢献である,という気負いや衒いもまったく見られない。
 日本で「チャリティ」というと,困窮している人間に対する「恵み」「施し」というイメージで語られるが,イギリスにおいてはその意味がかなり拡大解釈される。危機に瀕している動物,あるいは機械も救済の対象に成り得る。消滅しかかっている機関車や線路を自らの財布と労働力で救うという行為は,イギリス伝統のフィランソロピーやチャリティの延長線上にある。

秋山岳志 (2010). 機関車トーマスと世界鉄道遺産 集英社 pp.40

鉄道遺産

 鉄道遺産(ヘリテージ・レイルウェイ)とは,経済的な理由などで廃止された路線や機関車を保存し,一般に公開するものである。日本では「保存鉄道]と呼ばれることが多く,イギリスでも同じ言い方(ブリザーブド・レイルウェイ)をすることもある。しかし,鉄道は人類共通の「遺産」なのだから,保存するだけにとどまらず,より多くの人々に知らしめるべきである,という認識がイギリスでは強い。
 日本においても,「産業遺産」「近代化遺産」というカテゴリーで,工場やインフラなどの産業分野の遺産を認識する動きも出てはいるが,鉄道車両や線路を1つのカテゴリーとし,しかも大規模かつ全国的に保存しているという点では,イギリスにははるかに及ばない。

秋山岳志 (2010). 機関車トーマスと世界鉄道遺産 集英社 pp.28-29

入力予測

 携帯電話で文章を書いたことのある人なら——いまや,ほとんどの人が当てはまるだろう——情報エントロピーに出くわしたことがあるはずだ。こちらが入力しようとしている言葉を,そして次に入力しようと思っている言葉を携帯電話が常に予測しているのに気づいたことがあるだろう。これがまさにシャノンのゲームである。
 したがって,エントロピー(拡大解釈すればその「文字の」価値と言えるかもしれない)を経験的に測定する手段が欲しいのならば,実はすでに持っていることになる。携帯電話の推奨する単語にどれだけがっかりするか,文章を書き上げるのにどれだけ時間がかかるかが,エントロピーの高さを示している。書く時間がかかればかかるほど,書くときにイライラすればするほど,ほぼ間違いなく面白いメッセージになるだろう。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.336-337

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