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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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不確実性を守るもの

 情報とは,直観に従って形式張らずに定義してみると,「不確実性を守るもの」のようになるかもしれない。実は,これはきちんとした定義でもあるとわかった——情報の量は,不確実性を低減させるものの量によって決まる(ゆえに,圧縮したファイルはランダムに見える。0番のビットからn番のビットまでの値がわかったところで,n+1番のビットにどんな値があるかはまったく予測できない——もし予測できるのであれば,まだ圧縮する余地があるということになる)。情報の量,つまり情報の「質量」に相当するものは,もともとシャノンの1948年の論文で発表されたもので,「情報エントロピー」,「シャノンのエントロピー」,または単に「エントロピー」と呼ばれている。エントロピーが高いほど情報量は多くなる。いまや驚くほど多くのもの——コイントスから電話での通話,ジョイスの小説,初デート,遺言,チューリングテストにいたるまで——の情報量が,測定可能であることがわかっている。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.308
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情報量

 コイントスを100回してみよう。偏りのないコインであれば,表が50回,裏が50回出ると予想されるが,当然,100回のうち表と裏がどんな順序で出るかはランダムである。次に,1回目から100回目まで,それぞれ表と裏のどちらが出たかをだれかに伝えるとする——口頭で伝えるには長すぎるのは言うまでもない。伝え方は,すべての結果を続けて言うのでもいいし(「表,表,裏,表,裏……」),表または裏が出た回の番号だけを言い(「1回目,2回目,4回目……」),もう一方が出たときは言わないというのでもいい。どちらの場合も,伝える言葉はほぼ同じ長さになる。
 しかし,表裏の出方に偏りのあるコインであれば,話はもっと簡単になる。表が30パーセントしか出ないコインであれば,表が出た方だけを言えば,伝える言葉を短くできる。表が80パーセント出るコインであれば,裏が出た方だけを言えばいい。コインの偏りが強ければ強いほど,伝える言葉は短くでき,この場合の「限界」である完全に出方が偏ったコインであれば,すべての結果を一言——「表」または「裏」——にまで圧縮できる。
 コインの偏りが強いほどコイントスの結果を短い言葉で表現できるとすれば,その場合,その結果に含まれている情報は文字通り少ないと言っていいだろう。この論理を延長すれば同じことが1回1回のコイントスにも当てはまる。直感的でないため不気味に思えるかもしれないが,何回目のコイントスであれ,コインの偏りが強いほど,その回のコイントス自体に含まれる情報は少なくなるのだ。表が70回出て裏が30回出るコイントスは,表も裏も50回ずつ出るコインを使ったコイントスと比べて情報は少ないというのはいいだろう。これが「情報エントロピー」の直感的な意味で,情報の量を測定できるという概念である。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.306-307

言葉の意味の変化

 「知恵遅れ(retarded)」という言葉は,かつては丁寧な言葉だった。この言葉は「白痴(idiot)」「痴愚(imbecile)」「軽愚(moron)」といった言葉の代わりとして使われはじめたが,これらの言葉ももともとは丁寧な言葉だった。言語学者はこのように丁寧な表現が悪い意味になっていく過程を「延々と続く婉曲表現の置き換え」と呼んでいる。皮肉なことに,人やアイデアをけなすときに「知恵遅れ」と言うと,「白痴」や「軽愚」と言った場合よりも侮蔑的な響きになる。「白痴」や「軽愚」などの表現は——あまりに侮蔑的であるために——使われなくなり,代わりに「知恵遅れ」という表現が使われるようになったのにもかかわらず。大統領首席補佐官のラーム・エマニュエルが2009年の戦略会議で,自分の気に入らない提案を「知恵遅れ」と呼んだところ,大物の共和党員たちから彼の辞任を求める声が湧き上がり,(辞任しないのであれば)特別オリンピック[知的障害者のためのオリンピック]の委員長に対して個人的に謝罪するべきだと非難された。2010年5月,上院の健康,労働,年金に関する委員会で,ローザ法と呼ばれる法案が可決された。これは,連邦の文書で「知恵遅れ」という言葉を使うのを禁止し,代わりに「知的障害者(intellectually disabled)」という言葉を使わなければならない,というものである。延々と続く置き換えは続いているのだ。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.284

職業由来

 アメリカ人の姓の多くは「職業的」なものだ——つまり祖先の職業に由来している。「フレッチャー」は矢を作り,「クーパー」は樽を作り,「ソーヤー」は木を切っていた,という具合である。まったくの偶然で,姓と職業がぴったり一致する場合もある——たとえば,ポーカーのチャンピオンであるクリス・マネーメーカー(金を作る人),短距離の世界記録保持者ウサイン・ボルト(電光),イギリスの神経学者コンビで共著書もいくつか出ているヘンリー・ヘッド(頭)とラッセル・ブレイン(脳)など。このように,その人物の職業に偶然ぴったりの姓は「アプトロニム」と呼ばれていて,この単語は僕のお気に入りの1つである。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.255

デュエット

 言うまでもなく,ゲームがどのようにプレイされるかは得点の記録方法によってある程度決まる。たとえばアシストを評価して集計するスポーツ(アイスホッケーでは,得点者の前にパックに触れた最後の2人の選手も評価される)では,どれも選手同士の団結力が強く,チーム精神が高いように思える。
 ところが,中高生がおこなうコミュニケーションの「ゲーム」——すなわちディベート——には,会話をゼロ和の対決にしているものがあまりに多いことを,僕は残念に思っている。ゼロ和モードの対決的会話では,他の人の主張を弱めることが自分の主張を強めることになる。おまけに,アメリカで弁証やディベート,意見の相違を言い表すために使われている比喩表現は,ほとんどが軍事用語である。供述を擁護(ディフェンド)する,論拠を攻撃(アタック)する,控えめな主張に後退(フォール・バック)する,告訴に対して反訴(カウンター)で応じる。だが同時に,会話とは協調であり,即興であり,相手と息を合わせて真実に突き進むものであることも多い——激突(デュエル)というよりも二重奏(デュエット)なのだ。英語の比喩表現と子どもたちの課外活動を見直して,会話は協調的なものであると学べる機会を与えてみてはいかがだろうか。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.242-243

世界初のプログラマ

 コンピュータ科学という分野は昔から男性中心だと思われがちだが,世界で最初のプログラマーは女性である。1843年にエイダ・ラヴレス(1815〜1852年,ちなみに詩人のバイロン男爵の娘である)が当時「解析機関」と呼ばれていたコンピュータについて書いた文章が,現在まで続いているほぼすべてのコンピュータと独創性に関する議論のはじまりである。
 チューリングは,チューリングテストを提案した論文のなかで,1つのセクションを彼の言う「ラヴレス婦人の反論」に割いている。特に,1843年に彼女が書いた次の一節についてだ。「解析機関はどんなことでも自分でははじめられない。人間が命令の仕方を知っていれば,解析機関はどんなことでも実行できる」。
 このような主張は,コンピュータに対する大多数の意見を集約しているようにも思えるし,こうした主張を受けてさまざまな意見が考えられるが,チューリングは素直に急所を突いた。「ラヴレス婦人の反論を変形させると,機械は『本当に新しいことはなにもできない』ということになる。これについては当面,『太陽の下に新しいものなどなにもない』ということわざで言い返すことができる。自分がした『独創的な仕事』が,ただ教育によって自分のなかにまかれた種が育っただけ,あるいはよく知られた一般則に従っただけのものではないと確信できる人がいるだろうか」。
 チューリングは,ラヴレス婦人の反論をコンピュータの限界だと認めるわけでもなく,実はコンピュータは「独創的」になれるのだと主張するわけでもなく,これ以上ない痛烈で衝撃的な手段を選んだ。人間が誇りにしている意味での独創性など,存在しないと言い放ったのである。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.190-191

定跡

 手紙は「序盤定跡」と「終盤定跡」が人間関係にも起こりうることを示す好例だ。どの学校でも,手紙の頭語と結語を子どもたちに教えている。これらはきわめて定型的で儀礼的であり,コンピュータにも簡単に真似できる。MSワードで改行したあとに「Your」と打てば,すぎに黄色い小さなボックスが現れて,そのなかに「Yours truly(敬具)」と書かれている。ここでエンターキーを押せば,自動で補われて全文が入力される仕組みだ。「To who」と打てば,自動で補われて「To whom it may concern(関係各位)」と入力される。「Dear S」と打てば,自動で補われて「Dear Sir or Madam(拝啓)」が,「Cord」と打てば自動で補われて「Cordially(敬具)」が入力される,といった具合である。
 学校では,このような「序盤定跡」と「終盤定跡」を一字一句教え込まれる。ところが社会に出ると——意識的かどうかはともかく——,言外の意味や文脈や流行について,微妙な傾向や兆候に耳を澄ませることになる。僕は子どもの頃,「What’s up(やあ元気)」というあいさつが苦手だった。他人の真似をしているだけで,不自然だし,本物ではない——このあいさつを口にするときは,いつも心のなかで引用符のようなものをつけていた——ところが,やがて「Hi(やあ)」と同じように自然に言えるようになっていた。それから数年後,僕の両親も同じ経験をした。両親が最初に「What’s up?」と言いはじめたとき,僕には2人が「流行に乗る」ために涙ぐましい努力をしていると思えたが,次第にほとんど気にならなくなった。僕の中学時代には,「What’s up」を省略した「What up」や「Sup」がそれまで流行していたあいさつに代わってクールな同級生のあいだで広まると思われたが,そうはならなかった。大学や大学院に進学して,形式的でありながらも形式張らない,下手でありながらも対等という微妙なメールを教授たちと交換するようになると,僕は直観的に「Talk to you soon(近いうちに話しましょう)」という結語を使っていたが,そのうちにこれでは返信を催促しているのではないかと気になりはじめ,失礼な言い方かもしれないと思えてきた。僕は他人のメールを見て,それを真似して「Best(では)」という結語をすぐに使いはじめたが,数か月もすると,言葉が短すぎると感じはじめた。やがて,「All the best(ではごきげんよう)」という言葉に切り替えて,最近ではこれが僕の定番になっている。礼儀作法はどこかファッションに似ている。最先端に追いつこうと思えばきりがないのだ。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.157-159

誰が想像できたか

 だれが想像しただろうか。コンピュータが,人間をこの星のどんなものとも違う唯一無二の存在に保ってきた「論理分析」という能力を真っ先に実現することを。自転車にも乗れないのに,自動車を運転し,ミサイルを誘導できることを。それなりの世間話もできないのに,それなりの前奏曲をバッハ風に奏でられることを。言い換えもできないのに,翻訳できることを。椅子を見て「椅子」と答えるという幼児でもできることもできないのに,それなりのポストモダン論のエッセーを書き上げられることを。
 人間は,なにが大事なのかを見失っている。コンピュータがそれを教えてくれるのだ。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.100

統計的技法

 多くの研究者は,類語集や文法規則に従って言語を分析しようとしても,翻訳の問題は解決できないと考えている。そこで,こうした従来の作戦をほとんど放棄した新しい手法が生まれた。たとえば2006年の米国標準技術局の機械翻訳コンテストでは,グーグルのチームが圧倒的な差で優勝し,多くの機械翻訳の専門家を驚かせた。グーグルのチームでは,コンテストで使用された言語(アラビア語と中国語)をだれも理解していなかった。そして,ソフト自体も同じように理解していなかったかと言えるかもしれない。このソフトは,意味や文法規則をなに1つ知らなかったのだ。ただ人間による質の高い翻訳(ほとんどは国連の議事録からのもので,この議事録はおかげで21世紀のデジタルのロゼッタ石になりつつある)の膨大なデータベースを利用して,過去の訳文に従って語句をつなぎ合わせたのである。それから5年後のいま,こうした「統計的」な技法はまだ完全ではないものの,ルールベースのシステムを完全に圧倒している。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.96

分離脳患者の実験

 なかでも不気味な実験の1つとして,ガザニガは2つの画像——ハンマーとのこぎり——をジョーの異なる視野で見せた。つまり,ハンマーの画像は左半球で,のこぎりの画像は右半球で見えるようにしたのだ。そのあとで「なにが見えた?」とガザニガはジョーに尋ねる。
 「ハンマーが見えた」とジョーが答える。
 ガザニガは少し間を置いて,「では,目を閉じて左手で描いてごらん」と言う。ジョーは左手でマジックを拾い上げるが,その行動をつかさどっているのは彼の右半球である。「やってごらん」とガザニガが言うと,ジョーは左手でのこぎりを描く。
 「上手に描けたね。それはなんだい?」とガザニガが尋ねる。
 「のこぎりかな?」ジョーは少し戸惑いながら答える。
 「そうだね。君が見たのはなに?」
 「ハンマーだ」
 「どういうつもりでその絵を描いた?」
 「わからねえ」とジョーは,というよりも彼の左半球は答える。
 別の実験では,ガザニガは分離脳患者の「言語を発する」左半球にニワトリの足を見せて,「言語を発しない」右半球に積もった雪を見せる。この患者は雪かき用のシャベルを描き,ガザニガがなぜシャベルを描いたのかと患者に尋ねても,彼は気後れした様子をまったく見せず,動揺することもなかった。「ああ,単純な話さ。ニワトリの足といえばニワトリだし,ニワトリ小屋を掃除するにはシャベルが必要だろ」と何ごともないように答えたのだ。言うまでもなく,これはまるで説明になっていない。
 左半球は常に経験に基づいて因果関係を推測し,常に事象の意味を理解しようとしているようだ。ガザニガはこのモジュール(と呼ぶのが正確かどうかはわからないが)を「解釈者」と呼んでいる。分離能患者の例からわかるように,この解釈者はためらうことなく間違った原因や間違った理由を作り出して口にする。実際のところ,これを「嘘]と言っては言い過ぎになる——むしろ「自身を持って最善の推量をしている」のだ。この例からもわかるように,右半球でなにが起こっているのか知ることができなければ,その推量は単なる憶測になりかねない。だが非常に興味深いことに,健常な脳であっても常に正しく推測できるとは限らないのだ。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.78-80

人間コンピュータ

 18世紀半ば以降,企業や設計事務所や大学に雇われた計算係(コンピュータ)(多くは女性)が,ときには原始的な計算機を使って,計算や数値解析をおこなっていた。このような元祖の人間コンピュータは,ハレー彗星の回帰時期に関する最初の精密予測——それまで惑星軌道についてしか確認できていなかったニュートンの万有引力の法則に関する初期の証明——から,ノーベル賞を受賞した物理学者リチャード・ファインマンがロスアラモスで大勢の人間コンピュータを監督したマンハッタン計画まで,あらゆるものの計算を支えていた。
 コンピュータ科学の黎明期に書かれた論文をいくつか読み返すと,執筆者たちが人間に先駆けてこの新しい機械装置の正体を明らかにしようとしていることに感心させられる。たとえばチューリングの論文では,一般には知られていない「デジタルコンピュータ」を人間コンピュータになぞらえ,「デジタルコンピュータの背後にある考えは,こうした機械は人間コンピュータが実行できるどんな処理でも実行できるようにつくられていると説明できるかもしれない」と述べている。それから数十年が経ち,「コンピュータ」という言葉に対する認識が変わり,いまや「コンピュータ」とは一般にデジタルコンピュータを指す言葉になった。というよりも,事実上その意味しか持たなくなった。「人間コンピュータ」のほうが不条理なたとえになったのだ。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.23-24

親も目一杯

親ごさんは親ごさんで,いっぱいいっぱいなのでしょうね。Aさんのご両親にしてみれば,自分の子どもがそのような行為をしたということは,ご自分たちの恥とお感じになるのだと思います。自分の恥なので,そのことについて話すことは耐え難い屈辱と感じてしまうのでしょう。なので,自分に恥をかかせた子どもを叱る,感情的になれば殴るということもあるのでしょう。学校に対しては,十分に叱ったので,もうこれで終わりにしてください,これ以上私たちの恥に触れないでくださいといった感じになってしまうのでしょうね。
 この場合,お子さんの感情と親ごさん自身の感情の区別がついていないわけです。お子さんの話を聴いてあげるという対応ができるためには,親自身の感情と子どもの感情がきちんと別のものになっていることが必要なのです。

大河原美以 (2006). ちゃんと泣ける子に育てよう:親には子どもの感情を育てる義務がある 河出書房新社 pp.149

やればできる

まちがうことを恐れる傾向は,大学生にも見られる深刻な問題だと感じます。優秀な大学生の場合,大学にくるまで「やればできる」という経験のみをしているので,「やってもできない」経験を大学ではじめて経験すると,ショックを受けてしまうということがあります。
 幼いころから,「やればできる」と励まされて育って努力してきたわけですから,無理もないかもしれません。社会人として職業専門性を身につけて行くときの学び方は,「まちがうことから学ぶ」という学び方になるわけですが,「予習をしてまちがわないようにする」ことに必死になってきた子どもたちは,社会人になってから,挫折しやすい脆さを抱えてしまっています。
 そういう意味では,親ごさんたちも,その不安を抱えたまま親になり,子どもがまちがわないようにコントロールしようとする悪循環になっていると言えるかもしれません。

大河原美以 (2006). ちゃんと泣ける子に育てよう:親には子どもの感情を育てる義務がある 河出書房新社 pp.135-136

適切な言葉を

現実の大人から認めてもらえない身体感覚としてのネガティヴな感情は,言葉とのつながりをもてずにエネルギーとしてのみ存在することになります。そのような状態でテレビやゲームに浸るとき,自分の身体を流れるネガティヴな感情とフィットする言葉に出会うわけです。
 いらいらむかむかしているときに,ゲームで「死ね!」と言いながら敵を倒すと,すっきりする。そのようなとき自分の身体感覚とともに,自分の感情をあらわす言葉として,不適切な乱暴な言葉を獲得してしまうのではないかと想像します。
 だから,「死ね!」と言っているときには,本当は「くやしい」という気持ちであるかもしれないし,「つかれた」と言っているときには本当は「悲しい」という気持ちであるかもしれないし,「別に」は「不安だ」という気持ちであるかもしれないわけです。
 単純な言い方をすると,子どもたちは,ネガティヴな感情をあらわす言葉をまちがって学習してきたといえるでしょう。ゲームやテレビやインターネットの問題は,大人が子どものネガティヴな感情を承認できなくなっている傾向と対になっているときに,子どもに重大な悪影響をもたらすものになると言えるのではないかと思います。

大河原美以 (2006). ちゃんと泣ける子に育てよう:親には子どもの感情を育てる義務がある 河出書房新社 pp.123-124

身体と言葉

赤ちゃんが言葉を覚えていくとき,どうやって覚えていくでしょうか?
 「まま」とか「まんま」といったお母さんやごはんをあらわすコトバを最初に覚えるお子さんが多いですよね。一番ほしいもの,その欲求を満たしてくれる「もの」と「ものの名前」が一致することで,言葉を覚えていきます。いちご,バナナ,テレビ,お花,いす,テーブル,など「ものの名前」の獲得によって言葉を増やしていきます。
 しかし,「うれしい」「悲しい」「さみしい」など感情をあらわす言葉は,「もの」がありません。では,「もの」がないのに,どうやって覚えるのでしょうか?
 あゆみちゃんを,ブランコに乗せて後ろから押してあげると,きゃっきゃっと大喜びしますよね。風が気持ちよくて,お空がゆれて,ふわふわした気分で大喜びです。ママもパパも自然に「うれしいねぇ」「楽しいねぇ」と声をかけますね。
 そのとき,あゆみちゃんの身体の中を流れている喜びのエネルギーを,ママとパパが自然に感じ取って,それを言葉にして返すという相互作用が自然に起こっています。子どもにとっては,自分の身体の中を流れているエネルギーの感じ,身体感覚と「うれしい」という言葉が結びつくという学習をしていることになります。
 つまり,身体感覚が「もの」にあたり,「うれしい」が「ものの名前」にあたるのです。だから,感情をあらわす言葉を獲得するためには,大人との相互作用がいつも必要なのです。感情は,身体の中を流れる混沌としたエネルギーにすぎませんが,言葉を結びつくことによって,他者にそれを伝えることができるものになります。このプロセスを環状の社会化と言います。「うれしい」という感情が社会化されている人たちの間では,「うれしい」という言葉を使うと,その感情があらわす身体感覚を推測することができます。それによって,共感するということが可能になるわけですよね。

大河原美以 (2006). ちゃんと泣ける子に育てよう:親には子どもの感情を育てる義務がある 河出書房新社 pp.32-33

見かけ

 ところが,定員割れの私立大学の総数はこの1〜2年,横ばい傾向にある。しかし,そこにはトリックが隠されていて,実際には入学者が増加したわけではないケースも多い。入学定員や入学者数,在籍者数などの教育情報の公開が2011年4月から義務化され,どうしても自学の実態を公表せざるを得なくなったことが背景にある。
 個々のデータを調べると,入学者が減少している分,入学定員も減少させて,入学定員充足率を見かけ上,良い数字にしている大学がある(もちろん募集力を高めて入学状況が好転しているところもないではないが)。基本的には,収容定員は文部科学省にも届けている適正規模の数字であり,それに対して在籍学生が何人いるかを見極めなければならないのだ。「数合わせ」で入学定員割れを逃れたとしたら,「トリック」といわれても仕方ないだろう。

木村誠 (2012). 危ない私立大学 残る私立大学 朝日新聞出版 pp.17

消える理由

 その私立大学が100校以上も消えてしまう。
 それはなぜなのか。
 まず若年人口と進学率の推移,経済状況などを見てみよう。
 2001年から2011年までの10年間で,18歳人口は151万人から120万人に減少している。この間,私立大学は496校から599校に増加した。
 一方,在校生は進学率の上昇で203万人から213万人になっている。しかし大学数では20%も増加しているのに,在校生は9.5%の伸びにすぎない。定員割れも起きるはずである。
 10年後の18歳人口は,さらに116万人台前半にまで減る。現在,定員数を充足できていない私立大学は,599校の39%,230校を超える。何年にもわたって定員割れが続くようなら,存亡の危機に直面することになる。なにしろ私立大学は学生納入金が収入源の大きな柱だからだ。

木村誠 (2012). 危ない私立大学 残る私立大学 朝日新聞出版 pp.16-17

現状…

 もし嘘や隠し立てがなければ,流行病はとっくの昔に防げていたかもしれない。長期的な転帰が一般に公開され議論されていれば,社会に警鐘を鳴らすことができただろう。ところが精神医学界が薬のイメージを守る筋書きに固執したので,とんでもなく大きな惨禍を生む結果になった。現在,アメリカでは,65歳未満の成人400万人が精神病による障害によって,SSIまたはSSDIの給付を受けている。また若年成人(18歳から26歳)の15人に1人に,精神病による「機能的障害」がある。そして毎日,約250人の子どもたちが精神病を理由に,新たにSSIに登録されている。こうした衝撃的な数字にもかかわらず,流行病を生むシステムは相変わらず稼働し続けている。今やこの国では2歳児が双極性障害の「治療」を受けているのだ。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.532-533

否定すると

 アイルランドの精神科医デビッド・ヒーリーのキャリアの頓挫は,どこかモッシャーの失脚を思い起こさせる。1990年代のヒーリーは精神医学史研究の第一人者と目されており,主に薬物療法時代に焦点を当てた著作があった。ヒーリーはイギリス精神や栗学会の事務局長を務めていたが,2000年初めにトロント大学中毒・精神保健センターから気分・不安に関するプログラムの責任者に誘われた。その時まで彼はモッシャーと同様,精神医学界の主流派のど真ん中にいた。一方,彼は数年来,SSRIが自殺を誘発する可能性に関心を寄せており,「健康なボランティア」による研究を完了したところだった。20人のボランティアのうち2人にSSRI服用後,自殺傾向が現れ,薬が自殺念慮を引き起こす可能性があるのが明らかになった。トロント大学への就職が決まってまもなく,彼は研究結果をイギリス精神薬理学会の会合で発表した。そこで彼は,あるアメリカ精神医学会の重鎮から,この研究から手を引くよう忠告された。「もしこういう結果を発表し続けるなら,キャリアを潰すことになると警告されました。私には薬の危険性を公表する権利はないというのです」とヒーリーは言った。
 2000年11月,トロントでの新しい仕事が始まる数カ月前,ヒーリーは同大主催のセミナーで精神薬理学の歴史について講演した。この講演で,ヒーリーは1950年代に神経遮断薬が導入されてから発生した問題を取り上げ,プロザックや他のSSRIが自殺のリスクを高めるというデータを簡単に紹介し,ついでに,現代の感情障害の転帰が1世紀前よりも悪いことにも触れた。もし「今日の薬が本当に有効なら」,そうなるはずはないと言ったのである。
 講演は,そのセミナーで最も優れた講演として参加者から評価されたが,ヒーリーがウェールズに帰り着く前に,トロント大学は彼の採用を取り消した。「貴殿の現代精神医学史の研究者としての業績を高く評価しておりますが,貴殿のアプローチは本学の学究的および臨床的リソースの構築という目標と相容れないと感じております」という電子メールが,センターの精神科医長デビッド・ゴールドブルームから届いていたのである。これを見て,精神医学に携わる者が引き出せる教訓は1つしかない。「批判的発言をすれば,ろくなことにならない。治療の効果を疑うとか,医者に任せておけば安心とは限らないなどと言うのは,もってのほかです」とヒーリーはインタビューで語った。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.454-455

癒着

 製薬会社にとって,この新しい協力関係の一番おいしい部分は一流医大の精神科医を——医師自身は「中立」のつもりかもしれないが——「スピーカー(講師)」に迎えられることだった。この関係は,年次総会の有料シンポジウムを通して深まった。シンポジウムは「教育的」プレゼンテーションで,製薬会社は専門家の言説を「統制」しないという約束にはなっていたが,プレゼンテーションにはリハーサルがあり,もし講師が台本から逸れて薬の欠点を指摘したりすれば,二度と講演を頼まれないことは,誰もが承知していた。業界後援のシンポジウムでは,「過敏性精神病」やベンゾジアゼピンの中毒作用,抗うつ薬と陽性プラセボの効果に差はないことなどは,決して取り上げられなかった。講演をした精神科医は「オピニオン・リーダー」として名声を博すようになり,シンポジウムのパネルに入れば精神医学界での「スター」のステータスを獲得できた。1回の講演につき2000ドルから1万ドルもの謝礼が支払われた。「今のシステムは高級売春に近づいている案ずる人もいた」とE.フラー・トーリーは言った。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.412-413

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