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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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精神医学の反撃

 精神科治療薬が一般社会で名誉を挽回する行程は,1970年代に始まった。精神科医は「医師」の機能を果たしていないというサズの批判に脅かされたことを契機に,APAは,精神科医はもっと誰の目にも明らかな形で医師の役割を果すべきだと主張するようになった。1977年,APAのサブシンは「医療としての精神医学を復権するための積極的努力を,強力に支援すべきである」と訴えた。それが何を意味するのかは,American Journal of Psychiatryや他の専門誌に掲載された多くの論文から,窺い知ることができる。ケンタッキー大学の精神科医アーノルド・ルドヴィグは,「医学モデル」は「精神科医の第一のアイデンティティは医師であるという前提」を土台にしていると述べた。テキサス大学のポール・ブラニーは,精神障害は「器質的疾患」としてとらえるべきだと書いた。またワシントン大学のサムエル・グーズは,精神科医は「病気の症状や兆候」の分類に基づいて適切な診断をすることに力を注ぐべきだと主張した。そして「今日,精神病患者にとって最も有効な治療,つまり積極的な投薬と電気ショック療法を最適なかたちで施すのに必要な医学的訓練」を受けているのは,精神科医だけだと付け加えた。
 彼らが想定したのは,内科学から直輸入した治療モデルだった。内科医は患者の体温を測り,診断のために血糖値やその他の検査をする。そして病名を突き止めたら,それに適した薬を処方する。精神医学の「医療としての復権」は,フロイト流の精神分析をお払い箱にすることを意味した。そうすることにより精神医学のイメージは回復すると,彼らは期待したのだ。「一般人の頭のなかで,科学的真理と最も強く結びつくのは医学モデル」だからだと,タフツ大学の精神科医デビッド・アドラーは言った。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.400-401
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精神医学への攻撃

 最初に降りかかった問題は,精神医学の正当性に対する知的レベルの反論だった。1961年,ニューヨーク市立大学シラキュース校の精神科医トーマス・サズが,その最初ののろしを上げた。彼は著書The Myth of Mental Illnessで,精神障害は医学的問題ではなく,「生の問題」に苦しむ人,あるいは単に社会的に逸脱した行動をする人に貼られたレッテルに過ぎないと主張した。精神科医は,他の分野の医者との共通項よりも牧師や警察官と共通項が多いというのだ。サズの批判に精神医学界は騒然とした。『アトランティック』や『サイエンス』のような主流誌までもが,彼の訴えを説得力のある意義ある主張として受け入れ,『サイエンス』は,サズの論文は「非常に勇気のある啓発的な発言で……大胆で卓越している」と評価した。サズは後に『ニューヨーク・タイムズ』に,「タバコの煙のたちこめる部屋で,私は何度も,サズが精神医学を殺したという見解を聞かされた。もっともそれは私の望むところだったが」と語っている。
 彼の著書は「反精神医学」運動の火付け役となり,アメリカやヨーロッパの学者たち——ミシェル・フーコー,R.D.レイン,デビッド・クーパー,アーヴィング・ゴフマンなど——がそれに加わった。皆,精神障害の「医学モデル」に疑問を投げかけ,狂気とは抑圧的な社会に対する「正気」の反応ではないかと問題提起した。精神病院は治療というより社会的統制が目的の施設だという考え方は,1975年にアカデミー賞の各章を総なめにした『カッコーの巣の上で』によって見えるかたちをとり,一般の人々にまで広がった。この映画では看護師長ラチェッドが悪役として描かれ,物語の最後にはジャック・ニコルソン演じるランドル・マクマーフィーが秩序を乱したことを理由にロボトミー手術を施されてしまうのだ。
 精神医学が直面した第2の問題は,患者をめぐる競争の激化である。1960年代から70年代にかけて,アメリカでは心理療法が大きく発展した。フロイトが精神分析をアメリカに導入して以来,精神科医の縄張りだったはずの「神経症」患者に,たくさんの心理療法士やカウンセラーがサービスの提供を始めたのである。アメリカでは1975年までに,医師資格を持たないセラピストの数が精神科医よりも多くなっていた。またベンゾジアゼピンが人気を失うと,1960年代に「幸せの薬」に満足していた神経症患者は,傷ついた魂の癒しになるというプライマル・スクリーム療法(原初療法)やエサレン研究所のワークショップ,その他いろいろな「代替」療法に目を向けるようになった。こうした競争も手伝って,1970年代後半のアメリカの精神科医の所得のメジアンは,わずか7万600ドルだった。もちろん当時としては高給だが,それでも医療職では最底辺に近かった。「精神科医以外の精神保健の専門家が精神科の領域の一部,あるいは全部を自分たちの領域だとして権利を主張していた」とタフツ大学の精神科医デビッド・アドラーは言った。「精神医学の死」を憂えるのはそれなりの根拠があったと,彼は言う。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.395-396

双極性障害と診断される

 薬のせいで精神病を発症した子どもは,たいてい双極性障害と診断される。加えて,ADHDの薬物療法を経て双極性障害へと進むこうした診断名の変化は,精神医学界の専門家の間ではよく知られた現象である。デミトリ・パポロスは,双極性障害の子どもと青年195人を調べた研究で,65パーセントが「刺激薬療法に軽躁,躁,攻撃的な反応を示す」ことを確認した。シンシナティ大学付属病院のメリッサ・デルベロは2001年,躁病で入院した思春期患者34人のうち21人が,「感情エピソード発現前に」刺激薬を服用していたと報告した。この薬が,「通常は双極性障害を発症しなかっただろう子どもたちに,うつや躁を引き起こしている」可能性がある,とデルベロは認める。
 だが刺激薬には,さらに大きな問題がある。刺激薬のせいで子どもたちは,日常的に興奮状態と不安状態を行き来するようになる。子どもが薬を飲むと,シナプス内のドーパミン濃度が上昇し興奮状態が生じる。すると活発になり,集中力が高まり強い興奮状態を示すこともあれば,不安で落ち着きがなくなり,攻撃性や反抗性を示す,眠れないといった状態になることもある。さらに激しい興奮症状として,強迫行動や軽躁行動なども生じる。だが薬が脳内から排出されると,シナプス内のドーパミン濃度が急激に低下するため,疲労,嗜眠,無気力,社会的引きこもり,抑うつなどの不安症状が現れる。患者はたいてい,毎日のように経験する「精神崩壊]を訴える。けれど——この点が重要なのだが——こうした興奮症状と不安症状こそが,NIMHが双極性障害の子どもの特徴とする症状なのだ。NIMHによると,子どもの躁症状は活力増大,目標志向性の活動増加,不眠,イライラ,興奮,破壊的な感情爆発などである。また子どものうつ症状として,活力低下,社会的孤立,活動意欲の減退(無気力),悲嘆などが挙げられる。
 つまり,刺激薬を服用するとどんな子どももいくらか双極的になるのだ。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.349-351

リタリンが?

 子どもの双極性障害の「表面化」は,すぐに加速した。1980年代後半から90年代初めにかけて,リタリンと抗うつ薬の処方件数が飛躍的に増加すると,それに伴って双極性障害が蔓延した。精神科病棟に入院する反抗的,攻撃的で手がつけられない子どもの数が急激に増加し,1995年にはオレゴン研究所のピーター・レウィンソンが,今やアメリカの思春期人口の1パーセントが双極性障害であると結論づけた。その3年後にはカールソンが,自分が勤める大学病院の小児患者のうち63パーセントが躁病(他でもなく,薬物療法以前は子どもにほぼ皆無であったその症状)であると報告した。「躁症状は例外ではなくてむしろ通例である」と彼女は述べた。それどころか,レウィン損の疫学的データはもはや時代遅れとなっている。双極性と診断されて退院した子どもの数は,1996年から2004年の間に5倍に増加し,今やアメリカの思春期前の子どもの50人に1人がこの「恐るべき精神疾患」に罹っているとされる。「双極性障害という病気が実際にあり,過小評価されているのは確かだ。だがそれを除けば,正確な罹患数はまだ分かっていない」とテキサス大学の精神科医ロバート・ヒルシュフェルトは,2002年の『タイム』で語っている。
 双極性障害の流行は最盛期を迎えた。そして歴史を振り返ると,この流行は子どもへの刺激薬や抗うつ薬の処方に呼応して広がりを見せたことが,明らかになる。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.346-347

どこに外的因子が

 まずADHDが爆発的に増大し,ついで小児期うつ病が広がっているというニュースが舞い込んだ。それからまもない1990年代後半には,子どもの双極性障害が広く知られるようになった。新聞や雑誌がこの現象をこぞって取り上げ,またしても精神医学界は,この病気の登場を科学的発見というシナリオに沿って説明した。「精神医学界では長らく,10代半ば以降になるまで子どもが双極性障害と診断されることはなく,子どもの躁病は極めて稀だと考えられてきた」。精神科医のデミトリ・パポロスは,ベストセラーとなった著書The Bipolar Childでこう論じている。「だが最先端の研究により,双極性障害は極めて早期に発生する可能性があり,従来考えられていたよりはるかに広く見られる障害であることが,証明されつつある」。だが双極性障害と診断された子どもの数が驚くべき勢いで増加した——1995〜2003年までに40倍——ため,『タイム』は「若者と双極性」と題した記事を掲載し,何か他の要因が関与しているのではないかと疑問を投げかけた。「双極性障害の存在が新たに認識されたというだけでは,子どもの双極性障害の爆発的増加を十分に説明できない」と同誌は論じている。「一部の研究者は,周囲の環境や現代のライフスタイルの中に,通常なら発症しない子どもに双極性障害の発現を促す要因があるのではないかと懸念している」。
 この推測は,全く理にかなったものだった。重度の精神疾患がこれほど長い間発見されず,今になって初めて数千人の子どもが深刻な躁病だと判明することなど,あり得るのだろうか?だがもし,環境の中にこうした行動を促す新たな誘因があるなら,この病気が蔓延した理由を論理的に説明できるのではないか,と『タイム』は読者に問いかけた。感染因子が病気の流行を引き起こすのだから,子どもの双極性障害が発生した原因をたどれば,その感染因子を発見できるはずだ。果たして私たちは,この現代の疫病を引き起こしている「外的因子」を特定できるのか?
 前に述べたように,精神科薬物療法が登場する以前は躁うつ病は,おそらく1万人に1人という割合で発症する珍しい病気だった。15〜19歳で発症する場合もあるものの,通常は20代まで発症は現れなかった。さらに重要なことだが,躁うつ病が13歳未満の子どもに現れることはほぼ皆無であり,小児科医も医学研究者も必ずこの点を強調した。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.343-345

効果なし?

 どんな薬でも効果とリスクを分析すべきだが,通常は,効果がリスクを上回るよう期待される。だが今回の場合,NIMHは長期的にみて効果に算入できるものが何一つないことを確認した。そうなると,残るのはリスクのみである。そこで今度は,刺激薬が子どもにどのような悪影響を与えるのかを見ていきたい。
 リタリンなどのADHD治療薬は,数多くの身体的,情緒的,精神的な副作用を引き起こす。身体的問題として,眠気,食欲減退,倦怠感,不眠,頭痛,腹痛,運動異常,顔面・音声チック,歯ぎしり,皮膚炎,肝臓障害,体重減少,成長抑制,高血圧,心臓突然死などが挙げられる。情緒面の問題には,抑うつ,無気力,全身倦怠感,気分変動,泣き続ける,苛立ち,不安,世界への敵対感などがある。精神的問題には,強迫症状,躁病,妄想症,精神病エピソード,幻覚などがある。メチルフェニデートは,脳内の血流やブドウ糖代謝も低下させ,一般に「神経病理学的状態」に伴う変化を引き起こす。
 刺激薬に関する動物実験も,警告を発するものだ。イェール大学医学部の研究者らは1999年に,アンフェタミンに何度も暴露されるとサルは「異常行動」を示し,その行動は薬の使用を中止後も長期的に続くことを報告した。ラットを用いた様々な研究でも,メチルフェニデートへの長期的暴露により,ドーパミン作動性経路の感受性が恒久的に鈍ること,またドーパミンは脳内の「報酬系」であるため,仔ラットに薬物を与えると「快楽を感じる能力が低い」成ラットに育つ可能性があることが示唆された。ダラス市にあるテキサス大学サウスウェスタン医療センターの研究者らは,「思春期前の」ラットを15日間メチルフェニデートに暴露すると,不安と抑うつを示す「成」ラットになることを明かした。この成ラットは,運動量が少なく新しい環境への反応行動が希薄で,「性行動異常」が見られた。同センターの研究者らは,脳の発達途上で「メチルフェニデートを投与」すると,「成長後の行動適応に異常が生じる」との結論を下した。
 以上が,リタリンをはじめとするADHD治療薬の転帰に関する文献である。こうした薬は,多動な子どもの行動を,短期的には教師や一部の親に望ましい方向へと変えるが,それを除けば薬によって多くの面で子どもの生活が損なわれ,喜びを体験する生理学的な能力が低い大人になってしまうおそれがある。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.337-338

リタリンの物語

 これらの報告は,いずれも同じ事実を物語っている。リタリンを飲むと,これまで教室の厄介者で,先生が黒板に板書している間に椅子の上をもぞもぞしたり,周りの友達に話しかけたりしていた生徒がおとなしくなるのだ。あまり立ち歩かなくなり,友達にちょっかいをだすことも少なくなる。算数の問題などの課題を与えると,熱心に取り組むこともある。チャールズ・ブラッドレーはこうした態度の変化を「社会的見地から見て改善」と捉えており,リタリンや他のADHD治療薬の有効性試験にもこの観点が表れている。教師や他の観察者は,子どもの動きや他者との関わりの減少をプラスと捉える評価尺度にスコアを記入し,その結果を集計した数値に基づき,70〜90パーセントの子どもがADHD治療薬に「良好な反応を示す」と報告されている。NIMHの研究者らは1995年,こうした薬は「課題に無関係な活動(指をトントン叩く,落ち着きがない,細かな動き,直接監視しても課題から外れた行動をとるなど),授業妨害といった,ADHDの様々な中核症状の大幅な軽減」に極めて効果的であると述べた。マサチューセッツ総合病院のADHD専門家らも,学術文献を同様のこう要約している。「現存する文献には,精神刺激薬が多動,衝動性,不注意などのADHDに典型的な行動を低減することが,明確に記録されている」。
 だが,これらはいずれも,薬物治療が子どもに有益であることを示すものではない。精神刺激薬は教師には有用だが,子どものためになっているのか?ここで研究者らは,最初から壁に突き当たる。イリノイ大学の医師エスター・スリーターは,52人の子どもにリタリンに対する感想をたずねた結果,こう記している。「何よりも重要なことに,他動の子どもたちは一様に刺激薬の服用を嫌がっていることが判明した」。テキサス大学の心理学者デボラ・ジャコビッツが1990年に行った報告によると,リタリンを服用中の子どもは「自己満足度が低く精神的により不安定である」との自己評価を下した。友だちづくりや友人関係の維持に関しては,刺激薬に「有意な効果はほとんどなく,悪影響が高い割合で見られた」とジャコビッツは述べる。他の研究者らも,薬を止めれば自分はきっと「悪くなる」「馬鹿になる」と感じるなど,リタリンによる子どもの自尊心低下を詳細に記述している。「子どもは,自分の心身の健康や,学習と行動抑制における自分の成長力を信じるのではなく,『僕をいい子にしてくれる魔法の薬』を信じるようになる」とミネソタ大学の心理学者アラン・スルーフは述べている。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.331-333

ADHD

 研究によってADHDが「脳疾患」と証明されたという話をしばしば耳にするが,実際にはADHDの病因はいまだ不明のままである。「ADHDの生物学的基盤を明らかにしようとする試みは,これまで一貫して失敗に終わってきた」と小児神経学者のジェラルド・ゴールデンは1991年に述べている。「画像研究で示されたように,脳の神経構造は正常である。神経病理的な基質は全く認められない」。7年後には,国立衛生研究所が主催した専門委員会がこれと同じ見解をとり,「ADHDに関する長年の臨床研究および臨床経験を経た今も,ADHDの原因についての我々の知識は,おおむね推測にとどまっている」と改めて表明した。1990年代にはCHADDが一般市民に対し,ADHDの子どもにはドーパミン系の活動低下を特徴とする脳内化学物質のアンバランスが生じているとの見解を示したが,それは単に薬の売上を伸ばすための方便だった。リタリンなどの精神刺激薬はシナプス間隙のドーパミン値を上昇させるため,CHADDは薬が脳内の化学的バランスを「正常化」させると思わせたかったが,アメリカ精神医学会出版が1997年のTextbook of Neuropsychiatryで明らかにしたように,「[ADHDの子どもに]選択的な神経科学的アンバランスを特定しようとする試みは,期待はずれに終わっている」。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.327-328

双極性障害

 現在の双極性障害は,かつてとかけ離れた姿になっている。精神薬理学が登場する以前,双極性障害はおそらく1万人に1人ほどしか罹患しない珍しい病気だった。それが今では40人に1人(統計によっては20人に1人)の割合で発生している。現在の患者の大半は,(初回診断時には)かつての入院患者ほど症状はひどくないものの,その長期的な転帰は不可解なほどに悪化している。バルデッサリーニは2007年のレビューで,この転帰の大幅な悪化を段階を追って詳しく説明してさえいる。薬が登場する以前は,「エピソードの合間に正常気分[無症状]への回復と望ましい機能的適応」が見られた。だが現在は,「急性エピソードからの緩慢または不完全な回復,再発リスクの持続,および病的状態の長期的継続」が認められる。かつては双極性障害の85パーセントが,「罹患前の」機能を完全に回復し仕事に復帰していた。現在,「罹患前のレベルの社会的・職業的機能の完全な回復」を達成しているのは3分の1に過ぎない。かつては,患者に長期的な認知機能低下は見られなかったが,今では統合失調症患者とほぼ同程度の機能低下に至っている。これらは全て,驚くべき医療災害の存在を物語るものである。バルデッサリーニは,薬物療法革命という現象全体に相応しい評価として次のように書き記している。

 双極性障害の転帰は,かつて比較的良好とみなされていたが,現代の知見から,治療法の大幅な進歩にもかかわらず,この障害が蔓延し不良な転帰が広く見られると示唆される。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.283-285

基準の広がり

 双極性障害と躁うつ病が初めて区別された当時,双極性障害と診断されるには,躁,うつ各々について入院が必要なほど重篤な発作を繰り返している必要があった。だがその後1976年に,NIMHのグッドウィンらが,躁病でなくうつ病が原因で入院したが軽度の躁エピソード(軽躁)もある患者については,同じ双極性障害でも重篤度が低い双極II型と診断してはどうかと提案した。やがて双極II型の診断基準が拡大し,躁うついずれの症状で入院したこともないが,単に双方のエピソードを経験した患者を含むようになった。ついで1990年代に精神医学界は,軽躁と診断されるには「高揚した,開放的な,または易怒的な気分」が4日間続く必要はなく,単にそうした気分症状が2日続けばよいとの判断が下された。双極性障害は広がりつつあり,診断上の境界線がこのように拡大したのを受け,突如として研究者の間から,人口の最大5パーセントが双極性障害に罹患しているとの発表がなされた。だが,双極性障害の大流行はこれで終わりではなかった。2003年にはNIMHの元所長のルイス・ジャッドらが,多くの人に躁病とうつ病の「診断閾値下」症状が認められるため,この人々は「双極性スペクトラム障害」と診断できると主張した。こうして双極I型,双極II型に加えていまや「双極性障害と正常との間の中間双極性(Bipolarity Intermediate)」が登場したのだ,と双極性障害に詳しいある専門家は説明している。ジャッドの計算では,アメリカの成人の6.4パーセントが双極性症状をもつというが,今では成人の4人に1人が双極性という枠の中にひとくくりにでき,かつては珍しかったこの病気が風邪と変わらぬほどありふれたものになっていると主張する論者もいる。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.269-270

告白

 告白が次から次に飛び出した。むろん精神医学界には,双極性障害への抗うつ薬使用を裏付ける「証拠基盤」が存在したが,ポストによると,製薬会社が実施した臨床治験は「われわれ臨床家には実質的に何の役にも立たない。……それは,われわれが本当に必要とする知識,すなわち予想される患者の反応や,初回治療で反応が得られなければ次の反復治療はどうすべきか,どれくらい治療を続けるべきかといったことを教えてくれない」。実際に「抗うつ薬のような低質な治療法に反応を示す」のは,一握りの患者にすぎない,と彼は付け加えた。抗精神病薬を中止した双極性障害患者の再発率が高いことを示した,製薬企業の助成を受けた近年の臨床知見に関しては,こうした研究は理論的には長期的服用の必要性を示す証拠となるものだが,研究自体が「[プラセボ群の]再発を引き起こすデザインだった」とグッドウィンは語る。「この研究は,薬がやはり必要であることを示す証拠ではない。薬に適応した脳が突然変化に直面すれば,再発するということを示す証拠なのだ」。ポストもそう言い添えた。「抗うつ薬の誕生から50年経った今,われわれはいまだに双極性うつ病の治療法をよく分かっていない。新たな治療アルゴリズムが必要なのに,それがまだ考案されていないのだ」。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.262

治療しなくても?

 最後にもう1つ検討すべき研究がある。2006年に,ブラウン大学の精神科医マイケル・ポスターナックは,「残念ながら,大うつ病を治療しなかった場合の経過について,我々は直接体な知識をほとんど持っていない」と告白した。APAの教科書やNIMHの研究で詳細に記述された長期的な転帰が悪いことは,投薬を行ったうつ病についての話であり,全く性質の異なる問題だと考えられる。現代における無治療のうつ病の経過を調査するため,ポスターナックらは,NIMHの「うつ病に関する精神生物学プログラム」に参加した患者のうち,初回のうつ病発作から回復したのち再発したが,薬物療法に戻らなかった患者84人を特定した。これらの患者は「非暴露」群ではなかったが,それでも彼らが2回めのうつ病エピソードから「治療を受けず」回復した経緯を追跡することができた。結果は,次のようなものだった。23パーセントが1カ月で,67パーセントが6カ月で,85パーセントが1年以内に回復した。かつてクレペリンは,うつ病エピソードは治療しなくても一般に6〜8ヵ月以内に消失すると述べたが,今回の研究結果は「おそらくこの推定に対し,方法論的に最も厳密な形で裏付け」を提供するものだとポスターナックは指摘している。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.245

SSRIの影響?

 他のいくつかの国でも,SSRIの登場以後,うつ病により生活機能が低下した国民の数が大幅に増加していることが確認された。イギリスでは,うつ病や神経障害による「就労不能日数」が1984年の3800万日から,1999年には1億1700万日へと,3倍に増加した。アイスランドでは,うつ病により機能が低下した人の割合が,1976年から2000年の間にほぼ倍増したことが,報告された。アイスランドの研究者らは,もし抗うつ薬が本当に効果的なら,薬の使用を通じて「うつ病障害による障害者の率,罹患率,死亡率の減少による公衆衛生への好影響が想定されるのではないか」と推論した。アメリカでは,うつ病のため生活機能の低下に陥っていると回答した労働年齢人口の割合が,1990年代に3倍に増えた。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.244-245

何故か再発

 あらゆる場所で,同じメッセージが発せられていた。すなわち,抗うつ薬をはじめた後に服用を中止した患者は,たいてい再発するというのだ。1997年にはハーバード大学医学部のロス・バルデッサリーニが文献のメタ分析を行い,再発リスクを定量化したところ,退薬患者の50パーセントが14ヵ月以内に再発した。またバルデッサリーニは,抗うつ薬の服用期間が長いほど,退薬後の再発率も高くなることを発見した。あたかも,薬を服用すると,次第に生理学的に薬なしでいられなくなるかのようだった。イギリスの研究者らも,同じ冷静な認識にたどり着いた。「抗うつ薬の中止後,症状が次第に増幅し慢性化する傾向にある」。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.232

セント・ジョンズ・ワート

 この研究の歴史には,もう1つ面白いおまけがある。1980年代後半,うつ病に罹った多くのドイツ人がセイヨウオトギリソウ(Hypericum perforatum,通称セント・ジョンズ・ワート)という植物に救いを求めた。ドイツの研究者らはこの薬草の二重盲検試験を開始し,その結果の概要が1996年のBritish Medical Journal誌に掲載された。13件のプラセボ対照試験において,セント・ジョンズ・ワートを服用した患者の55パーセントが有意な改善を示したのに対し,プラセボ投与患者では22パーセントだった。この薬草は直接比較でも抗うつ薬に優り,直接比較した試験では投薬患者の改善率が55パーセントであったのに対し,薬草を服用した患者の改善率は66パーセントだった。ドイツではセント・ジョンズ・ワートは効果的だったが,アメリカ人にも同じ効力を示すのだろうか?2001年,アメリカの11施設の精神科医は,セント・ジョンズ・ワートに全く効果はないと報告した。この薬草を服用した外来うつ病患者のうち,8週間の試験で改善を示したのは15パーセントに過ぎなかった。だが——これが興味深い点だが——この試験ではプラセボ患者の改善率もわずか5パーセントと,通常のプラセボ反応をはるかに下回った。アメリカの研究者らは,薬草の効果が証明されないよう,どんな患者であれ改善してほしくなかったように思われる。だがその後,NIHの出資によりセント・ジョンズ・ワートに対し2回目の臨床治験が行われた。この試験のデザインは,抗鬱薬をえこひいきしたがる研究者にとって事態を複雑にするものだった。NIHの試験では,セント・ジョンズ・ワートをゾロフトとプラセボの両方と比較したのだ。薬草には口内乾燥などの副作用があるため,少なくとも活性プラセボと同程度の作用をもたらすと想定された。精神科医も副作用を手がかりに患者が何を服用したか知ることができなかったため,そういう意味ではこの試験は心の盲検試験だった。結果は次のようなものだった。セント・ジョンズ・ワートを服用した患者のうち「完全反応」を示したのは24パーセントであったのに対し,ゾロフト群では25パーセント,プラセボ群では32パーセントだった。「この試験によって,中程度のうつ病におけるセイヨウオトギリソウの有効性を裏付けることはできない」と研究者らは結論づけたが,実は抗うつ薬もこの試験で失格となった事実には触れなかった。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.229-230

効果検証の歴史

 抗うつ薬の短期的効果に関する臨床治験の歴史は,実に興味深い。というのもこの歴史を振り返れば,臨床治験では概ね残念な結果が出ているにもかかわらず,社会や医療関係者が,薬には魔法のような効果があるという思い込みにいかに執着しているかが明かされるからだ。1950年代に開発された2種類の抗うつ薬,イプロニアジドとイミプラミンを基にして,モノアミン酸化酵素阻害剤(Monoamine Oxdase Inhibitors; MAOI)と三環系という大きく分けて2つのうつ病治療薬が誕生した。1950年代末から60年代初めに行われた研究の結果,どちらも素晴らしい効果を示すことが判明した。だがこれらの研究の質は疑わしく,英国医師会は1965年,2種類の薬に対しさらに厳密な検証を実施した。三環系(イミプラミン)はプラセボに対しある程度の優位性を示したが,MAOI(フェネルジン)の優位性は認められなかった。MAOIを用いた治療は「全く成功しなかった」。
 4年後,NIMHは全ての抗うつ薬試験のレビューを実施し,「適切な対照群と比較した試験ほど,報告された薬による改善率は低くなる」ことを明らかにした。十分に統制された研究では,投薬治療患者の61パーセントが改善したのに対しプラセボ患者の改善率は46パーセントと,両者の差は正味15パーセントに過ぎなかった。「抗うつ薬とプラセボの効果の差は,印象的ではない」とNIMHは述べた。ついでNIMHは,イミプラミンに対し独自の試験を実施したが,三環系がプラセボに対して有意な効果を示したのは精神病性うつ病の患者のみだった。投薬治療を実施した患者のうち,7週間の試験を終了したのは40パーセントにとどまり,多くの脱落者が出た理由は症状の「悪化」だった。多くのうつ病患者にとって,「疾患の臨床経過への影響という点で,薬が果たす役割は軽微である」とNIMHは1970年に結論を下した。
 イミプラミンや他の抗うつ薬の効果の小ささから,一部の研究者らは,実は患者はプラセボ反応により改善したと感じているのではないかと考え始めた。薬は実際には,このプラセボ反応を増幅させているのであり,薬に身体的な副作用があるせいで,患者は自分がうつ病に効く「魔法の薬」を飲んでいると信じこんでいるのではないか,と推測する声もあった。この仮説を検証するため,研究者らは三環系抗うつ薬を不活性プラセボではなく,「活性」プラセボ(口内乾燥など,何らかの種類の不快な副作用をもたらす化学物質)と比較する試験を7件以上実施した。7件中6件で,転帰に差は認められなかった。
 つまり不活性プラセボをわずかに上回るが,活性プラセボと差はないというのが,1970年代に三環系抗うつ薬が積み上げた有効性に関する記録だった。NIMHは,イミプラミンの有効性をめぐるこの問題を1980年代に改めて検討し,イミプラミンを2種類の心理療法,およびプラセボと比較したが,転帰に変化は見られなかった。16週間の試験終了時,「重篤度が低いうつ病患者と機能障害患者について,プラセボ+臨床管理を含め治療群間に有意差は認められなかった」。重度のうつ病患者のみ,イミプラミンの方がプラセボに比べ経過が良好だった。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.225-227

ヒポクラテスと憂うつ

 ヒポクラテスも,2000年以上前にこれと同じように持続的な憂うつを区別し,黒胆汁(ギリシャ語でmelania chole)の過剰が引き起こす病気であるとした。症状として,「長期的な恐怖感」を伴う「悲嘆,不安,落胆,[および]自殺傾向」が挙げられた。黒胆汁の過剰を抑え四体液のバランスを取り戻すため,ヒポクラテスは,マンドレイクとヘレボルスを煎じて飲むこと,食生活の見直し,それに下剤効果・催吐効果のある薬草の服用を勧めた。
 中世には,深刻な憂うつに陥った人間は,悪魔にとりつかれていると見なされ,悪魔払いのため司祭や祈祷師が呼ばれた。ルネッサンス期の到来とともに,古代ギリシャの教えが改めて見直され,15世紀の医師は持続的な憂鬱を再び医学的見地から説明するようになった。1628年に医学者ウィリアム・ハーベーが血液の循環を発見すると,ヨーロッパの多くの医師が憂うつは脳への血液不足から生じると推理した。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.221-222

続けられている

 米英の政府審査委員会がベンゾジアゼピンは長期処方すべきでないと判断したのは,30年前のことであり,以後10件以上の研究でこの勧告の正しさが裏付けられたにもかかわらず,継続使用を目的としたベンゾジアゼピンの処方が続けられている。それどころか,ニューイングランド地方の不安障害患者を対象とした2005年の調査では,半数以上が定期的にベンゾジアゼピンを服用していることが判明し,今では双極性障害患者の多くが治療カクテルの一環としてベンゾジアゼピンを服用している。科学的証拠は,多くの医師の処方習慣に全く影響を与えていないようにみえる。「過去の教訓が全く学ばれていないか,あるいは見過ごされている」とマルコム・レイダーは述べている。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.213-214

GABA

 1977年,ベンゾジアゼピンは脳内のガンマアミノ酪酸(gamma-aminobutyric acid; GABA)という神経伝達物質に影響を及ぼすことが発見された。「興奮性」神経伝達を行うドーパミンやセロトニンと異なり,GABAはニューロンの活動を抑制する。GABAが分泌されると,ニューロンは活動測度を落とすか,一定期間活動を停止する。脳内のニューロンの大部分がGABA受容体を持つため,この神経伝達物質GABAが脳内の神経活動にブレーキをかける役割を果たす。ベンゾジアゼピンはこのGABA受容体と結合することで,GABAの抑制作用を増幅する。いわばベンゾジアゼピンによってGABAという脳内のブレーキが踏まれ,その結果として中枢神経系の活動が抑制されるのだ。
 脳の側は,これに対応してGABAの分泌量を減らしGABA受容体の密度を減らす。イギリスの研究者らが1982年に説明したように,「GABAによる正常な神経伝達を回復」しようとするわけだ。だがこの適応的変化によって,脳内のブレーキが生理的に壊れた状態になる。ブレーキオイル(GABA分泌量)は少なく,ブレーキパッド(GABA受容体)は摩耗している。そのためベンゾジアゼピンを中止すると,脳はもはや神経活動を十分に抑制できなくなり,ニューロンが常軌を逸したペースで活動しはじめる。ヘザー・アシュトンは,この過活動によって「離脱作用の多くを説明」できる,と結論づけている。不安や不眠,皮膚の上を虫が這う感覚,妄想,非現実感,けいれん——こうした厄介な症状全てが,神経の過剰活動によって生じている可能性がある。
 少しずつベンゾジアゼピンを減量すれば,GABA伝達系は徐々に正常に復帰するため離脱症状は軽いかもしれない。その一方,一部の長期服用者に「長期的な症状」が現れるという事実はおそらく,「[GABA]受容体が正常な状態に戻れないため」生じているのではないか,とアシュトンは述べる。ベンゾジアゼピンの長期使用は,「中枢神経系に緩慢に回復する機能的変化をもたらすだけでなく,時としてニューロンに構造的損傷を引き起こすおそれがある」と彼女は説明する。こうした場合,GABA伝達系というブレーキが本来の機能を取り戻すことは決してない。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.197-198

精神分析学

 人間の心理に不安は付き物で,進化によって私たちは心配や恐怖に適応したとはいえ,中には他の人より強く不安を感じる人もいる。こうした感情的苦痛は診断できる症状であるという考え方を初めて提起したのは,ニューヨークの神経科医ジョージ・ビアードだった。ビアードは1869年,心配や不安,疲労,不眠は「神経の疲弊」から生じると発表し,この身体疾患を「神経衰弱症」と名付けた。この診断が広く見受けられることが判明し,神経衰弱症は,南北戦争後のアメリカを席巻していた産業革命の副産物と考えられた。特許約メーカーは,アヘンやコカイン,アルコールを配合した「神経強壮剤」を発売した。神経学者が電気の持つ回復力を喧伝したのを受け,神経衰弱症と診断された人々は電気ベルトや電気サスペンダー,携帯マッサージ機器を買い求めた。裕福な人々は「安静療法」が受けられる温泉場に足を運び,鎮静効果のある入浴やマッサージ,多様な電気機器による癒しで神経を回復させた。
 ジグムンド・フロイトは,この患者集団を治療するため精神分析を行ったが,それによって精神医学は精神病院から診察室へと進出を果たした。1856年生まれのフロイトは,1886年にウィーンで神経科を開業したが,彼の患者の多くは神経衰弱に苦しむ女性だった(ビアードが発見した病気は,ヨーロッパでも一般的になっていた)。クライアントと長時間会話した末,フロイトは患者らの不安や心配は疲弊した神経のせいではなく,本質的に精神的なものだと確信した。彼は1895年に女性の「不安神経症」について執筆し,この症状は概ね,性的欲望や夢想の無意識的な抑圧が原因で生じると理論づけた。こうした精神的葛藤に苦しむ人は,ソファに横になり医師の助けを借りて自分の無意識を探求する精神分析を通じて,安らぎを見出だせるという。
 当時,精神科医は精神病院で頭のおかしい患者を治療する職業であり,神経が疲弊した人は神経科医か一般医を受診した。だがもし不安が,神経の消耗でなく脳の精神障害から生じるなら,精神科医がこうした患者の面倒をみるのも筋が通ったことである。フロイトが1909年に訪米して以降,ニューヨークを中心として精神分析学コミュニティが形成され始めた。1909年には個人診療を行っていた精神分析医は全米でわずか3%だったが,30年後には38パーセントが個人の診療所で患者を診ていた。加えてフロイト学派の理論により,ほぼ誰もが精神分析の対象となった。フロイトは1909年の訪米中にこう語っている。「神経症患者は,健康な人が抱えるのと同じコンプレックスのせいで病気になる」。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.186-187

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