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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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生きているからこそ

 これ読んでイライラしている人もいると思います。
 なんでそこまで弱いのか,って。
 そんなの騙されてるだけ,買わされてるだけじゃないか,って。
 でもねぇ,これって本当に否定されるようなものなのかなと思っちゃうんです。
 僕たちだって「本当に欲しいモノ」を買っていますか?
 「一度も後悔してない買い物」を最後にしたのは,いつですか?
 深夜にピザのCMや通販のCMが多いのは,ちゃんと統計的マーケティングに基づいているんですよね。僕たちは普段ダラダラとしてるんですけども,ピザーラお届けのCMが流れた瞬間に,何か生きてる実感が湧いて,思わず電話してしまったり。
 人間ってそんな程度のバカなもんだと思うんです。
 で,そのバカさの源は何かというと,生きていることによる迷いや夢ですよ。
 生きているいからこそ,そんなCMの口車に乗って買わされる。生きるエネルギーがあるからこそ,「寂しいかな?」と自覚するんです。

岡田斗司夫・FREEex (2012). オタクの息子に悩んでいます:朝日新聞「悩みのるつぼ」より 幻冬舎 pp.117
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悩みとは

 いきなりですけど,“悩み”とは何でしょうか?
 「複数の問題がこんがらがった状態」
 これが“悩み”です。
 個々の問題は単純なんですね。でも,それがこんがらがってしまう。こんがらがって互いにリンクして,まるで解決も考えるのも不可能に思えてしまう状態。それが“悩み”です。
 たとえば,ですよ。
 「お腹がすいた」
 「お金がない」
 「人にお金を借りるのは恥ずかしい」
 これら個別の問題がこんがらがると,
 「お腹がすいてご飯食べたいんだけど,お金がない。でも,誰に借りに行ったらいいんだろう。人にお金借りるなんて恥ずかしい。どうすればいいんだろう」というふうに,同じ問題を何度も考えてしまいます。
 「それにしても,お腹がすいた。でも,お金がない。誰かに借りに行かなきゃ。でも,誰に借りたらいいんだ。恥ずかしいし。でも,お腹がすいた。このままだったら病気になってしまう」と,ぐるぐるぐるぐるループし始める。
 分解していけば個別の問題は,「お腹がすいた」「お金がない」「恥ずかしい」というだけです。
 もし,この“悩み”を因数分解するように分解してしまえば,解決可能なポイントがはっきりします。
 「お腹が空いた」→無料で食事するには?スーパーたデパ地下で試食する?パンぐらい恵んでくれそうな知人はいないか?小麦粉や米など部屋にないか?
 「お金がない」→今すぐブックオフに売れる本はないか?
 「お金を借りるのは恥ずかしい」→恥ずかしがらずに借りられるのは?親に電話してみる?
 これは仕分けです。はっきりすれば対処できるんです。
 個別の「問題」に戻すこと。複数の問題を混ぜてしまって,“悩み”に進化させないこと。
 これが“悩み”に対する最短アプローチです。

岡田斗司夫・FREEex (2012). オタクの息子に悩んでいます:朝日新聞「悩みのるつぼ」より 幻冬舎 pp.42-43

共感のコツ

 共感のコツは相談者と“同じ温度の風呂に入る”ことにあります。
 恋愛で悩んでいるとか,借金のことで困っているとか,いろんな悩みがありますよね。
 その時に,ついつい僕たちはその相談者と“同じ温度の風呂”に入らないんです。
 その人が熱くて困っているとか,冷たくて困っていると言っても,自分は服着て標準の温度で快適に過ごしながら,つまり安全地帯から「こういうふうにすればいいよ」と忠告してしまう。
 とくに男性はこれをやってしまいがちです。女の人が男性相手に相談をすると,ムダに疲れてしんどいというのをよく聞きます。
 というのも,男性はすぐに答えを出そうとする。
 僕と同じで,役に立とうとするあまり,その人に対していま自分が言える一番論理的で,行動可能で,こういうふうにすれば状況が改善されるのにといった指針を,手早く言おうとしすぎるんです。
 結論だけじゃダメなんです。それよりもっと前の段階で,「相手と同じ温度の風呂に入る」これが必要です。

岡田斗司夫・FREEex (2012). オタクの息子に悩んでいます:朝日新聞「悩みのるつぼ」より 幻冬舎 pp.34-35

互恵的関係

 イチローのような仕事とトイレ掃除の仕事とでは,みための魅力という主観的・感情的側面にも,収入という客観的側面にも雲泥の差がある社会に,たまたま私たちは生きています。人が生きているかぎり,遺伝的な条件の差異から生じた能力の差が,その時代社会のさまざまな社会的,経済的,心理的条件の中で,さまざまな偶然と必然の経験の連鎖を経ながら,それぞれの仕事を通じて互いに互いを補い合っています。
 だれでも野球をし,トイレ掃除をする潜在能力は持ち合わせているでしょう。しかしアメリカ大リーグで10年連続200安打を達成するような,多くの人々をわくわくさせるようなことをするには,たくさんの特別な遺伝的才能がそろっていることが必要とされます。そして同じように,安い賃金でも誇りと喜びをみつけながら毎日毎日トイレをきれいに清潔に保つ仕事をするにも高度な遺伝的才能が求められます。いずれも生物学的にはだれもがもてるものではない稀有な才能なはずですが,いまの世の中では圧倒的に前者の方が「恵まれた」とみなされるのです。
 かくして本来,世の中の様々なところに「ある部分についてそれぞれ遺伝的に優れた人が,それについて劣っている人を助けあう」互恵的関係が目の前に実現しているにもかかわらず,理不尽な不平等がこの世の中に蔓延しているのではないかと思われます。こうなってしまったのには,さまざまな歴史的社会的,心理的,政治経済的理由が交錯しています。また世の中で本当に役に立つ仕事を創発して成功する企業,それまでだれもしなかった仕事を成し遂げて人々を感動させてくれる人は,それまで意識されていなかった互恵的関係に気づき,顕在化することによって,それを成し遂げているように思われます。古来,宗教が「縁」とか「愛」などという概念を通して共同体に共有させようとするのも,行動レベルでは事実上そのとおりにふるまわざるを得ないのに,意識レベルでは多くの人がそれに気づかなかった互恵的利他性を,コトバを通じて無理やり意識させようとした営みではないかと考えられます。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.207-208

潜在的な優生的態度

 私のこの発言を聞いて,私に遺伝差別論者とレッテルを貼る人もいることでしょう。そしてこのようなことを平然と論ずる私のことを,軽率で不穏当だと受けとめるかもしれません。しかし考えてみてください。実は,そのような発想こそが,事実上の人種差別や集団間格差を容認し,助長していることに気がつかねばなりません。なぜなら,「もし知能に遺伝的人種差があることがわかると差別に結びつくから,遺伝的差異はないことにしなければならない」と主張する人は,「実際に遺伝的差異があったら,自分はそれを理由に差別する」という優生的態度に潜在的にとどまっているからです。そしてその主張に固執するかぎり,問題の本質は解決されず,事実上の優生社会,差別社会が温存されつづけてしまうのです。
 もし将来的に人種その他の集団間に認知能力をはじめ,私たちの価値観に重要な位置を占める心理的・行動的形質に遺伝的差異が実際にみいだされてしまったとき,私たちは倫理的に対処する術を失います。むしろいかなる心理的,行動的形質に集団間の遺伝的差異があったとしても,それが特定の集団の人たちの尊厳を脅かしたり社会的差別の正当化に結びつかないような考え方と社会制度の構築が必要なのです。少なくともこの議論をタブー視し,価値命題にとっておさまりのよい事実命題を勝手に導き出して安穏としてはいられないのです。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.193-194

決めない

 しつこいようですが,誤解されては困るので,もう一度繰り返します。このことはこれらの行動が遺伝によって「決まっている」といっているのではありません。「決まっている」という表現は明らかに状況を適切に記述していません。なぜならこれらの遺伝の影響はどれも50%以下,つまり逆にいえば相対的には非遺伝的な影響の方が多いこともまぎれもない事実だからです。ですから私は自分の学生に,テストで「遺伝によって決まっている」という言葉遣いをしたら落第させると「脅迫」し,「言論統制」しているくらいなのです。遺伝子の表れは同時に特定の環境に対する適応の表れなのですから,環境が異なればその表れ方も異なります。
 またなにかひとつの遺伝子の働きで説明されるものでもありません。「朝食遺伝子」「歯磨き遺伝子」「不倫遺伝子」などというものをイメージするのが荒唐無稽であることはいうまでもないことです。この遺伝子の影響を支えているのはポリジーンという無名の遺伝子たちの織り成す,抽象的で何ものとも名づけにくいカタチが,私たちの文化の中で表れ,「解釈」され意味づけられていることを忘れてはいけません。
 これらすべてをわかったうえで,やはり遺伝要因は無視できないと言っているのです。なぜ規則正しく朝食を食べ,きちんと歯を磨き,不特定多数の人とセックスをしたがるのかは,それぞれの人の社会的事情だけでなく遺伝的事情によっても異なるのです。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.160-161

遺伝と環境の交互作用

 こんにち行動遺伝学の研究では,このような遺伝と環境の交互作用の現象,つまり「遺伝と環境の影響は,遺伝と環境の条件の違いによって異なる」という現象が非常に数多くみいだされています。
 たとえば,おしなべてみると遺伝の影響が大きいとされる知能についても,80を超える高齢者全体からみれば遺伝の影響は中程度にあるのですが,特に認知症にはなっていないけれど知的能力が低い方(下位40%)の人に限ってみると,その中での知能の差には遺伝の影響がまったくみられないという報告があります。これは高齢者の認知症のはじまるきっかけやその重篤度に,遺伝よりも環境の違いが大きく影響していることを示唆する結果です。
 また青年期の知能の個人差は,社会階層が高いと遺伝の影響が大きいが,低い方では逆に共有環境の影響が大きいという報告もあります。つまり社会階層が低いほど親の育て方や家庭の状況の違いが直接,知的能力を大きく左右することを示唆します。このことは遺伝と環境についての議論をするときに,エビデンス(科学的根拠)に基づいて,さまざまな条件を考慮した厳密な議論が必要であり,またそれが可能であることを意味します。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.151-152

共有環境の本質

 このような共有環境の本質は「社会的ルール」あるいは「手続き的知識」の学習として一般化されるのではないかと私は考えています。社会的ルールとは,必ずしも法律や礼儀作法に限りません。いわゆる手続き的知識とは一般的に「こういう場合はこうする」という形で実際に行動として表現される知識のことです。何時になったら机に向かって参考書を開いて勉強するといった生活習慣,わからなくなったらきちんと論理を追って考え直すといった認知スキル,これらはある程度ルール化されて学習可能なものです。それが家族で明示的に学ばされる機会があれば(あるいはなければ),それを身に着け(あるいは身に着けられず),共有環境としての効果を発揮するでしょう。
 飲酒や喫煙,マリファナなど違法な薬物の習慣に共有環境があるのは,端的にその物質が環境の中にあるかないか,つまり家族やふたごのきょうだいのだれかひとりでもそれをもっているか,あるいは住んでいる地域や家族が関わりやすい人を通じて手に入れやすい物理的環境にいるかいないかが,かなり影響を持つからではないでしょうか。
 これがその人の個性や発達障害などの心理的形質と違う点です。家族をおしなべて「外向的」パーソナリティにさせる,あるいはADHD(注意欠陥多動性障害)にさせるために使われる物質的ツールや社会的ルールなど想像できませんが,物質依存は,文字通りその物質があるかないかが最初の決め手となります。もちろん物質に依存しやすい遺伝的素因,依存しにくい遺伝的素因はあります。依存しやすい人は自分から進んでその物質を手に入れようとする傾向が高くなるでしょう。しかしやはりそのものがズバリ目の前にあるかないかにも大きく依存することは想像に難くありません。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.144-145

長方形の比喩

 よく用いられる「長方形の面積」の比喩をここでも紹介しておきましょう。長方形の面積は縦の辺の長さと横の辺の長さのどちらで決まるでしょう。この問いはナンセンスですね。どちらの辺の長さのほうが重要でしょう。この問いもナンセンスです。縦と横の両方で決まり,どちらも重要です。遺伝と環境の関係もそれと同じです。しかしここに横の長さは一定で,縦の長さが違う5つの長方形があるとすると,その面積の違いは縦と横のどちらで決まるでしょう(図表4−3)。この問いには意味があります。当然,縦だけで決まるといえるからです。
 あなた自身のことだけ考えれば,その遺伝条件は変わりません。つまり横の長さは一定です。ですから縦の長さ,つまり環境の影響だけがあなたの変化に影響を与えていると感じる。しかし世の中にいる人たちはみんな,横の長さも違うのです。その結果として,この世の中の人たちの違いの少なからぬ部分が横の長さ(遺伝)でも説明され,どちらか一方だけではないというわけです。そしてどちらも人生に少なからぬ意味をもたらすのです。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.136-137

バイオリンパートのような

 たしかにふたご研究では,ここに挙げられたさまざまな能力について,遺伝率にして30〜50%,多い場合は60%を超す大きな遺伝子全体の効果量を繰り返し報告しています。しかし遺伝子ひとつひとつについてみた場合は,その効果量は決して大きなものではないのです。仮に全部で10%を説明する数個の遺伝子の型がわかり,それだけである能力が高いと予想されたとしても,まだ説明されていない残り3〜40%の遺伝子が逆にその能力を低めるようであれば,予想は覆ります。しかもこれらは疾患ではなく健常な状態の個人差です。疾患に関わる遺伝子であれば,それが全体のバランスを乱すことからそれを発見することもできますが,健常な範囲内での個人差は全体とうまく調和しているので,その発見が困難です。
 これはオーケストラのバイオリンのパートのようなものです。オーケストラの中で一斉にバイオリンを弾いている奏者たちは,そのひとりひとりの演奏を聞けばそれぞれに個性的です。また100人のオーケストラの中で20人程度を占めるバイオリンパートの働きは,それ全体としてはとても大きいものです。しかしみんながそろって同じ旋律を奏でるとき,その中のひとりひとりの個性の違いは,よほど調子っぱずれの困った演奏でない限り,決して大きなものではありませんし,そもそもバイオリン協奏曲のソリストのように大きく目立ってもいけないものです。そのうち10%がとびきり上手なバイオリン奏者だったとしても,残りの90%のバイオリン奏者が凡庸だったりへたくそだったりしたら,そのオーケストラのバイオリンパートの音はあまり上手には響きません。だから特定の1人のバイオリニストの演奏(つまり1つの遺伝子の効果)だけではほとんど何も言えないのです。またたった1人,全体の調子を狂わすほど変な音を出す奏者が混ざっていたら,その音楽は聞くに耐えないものにすらなるでしょう。それは単一遺伝子による遺伝病にたとえられます。
 しかも特定の遺伝子と心理学的形質との関係を調べた研究結果の再現性は,必ずしも高くありません。多くの追試研究をみると,その効果を支持する論文もありますが,支持しない研究もあり,全体としてみたとき,その信頼性は,現時点でははなはだ怪しいと言わざるを得ないという点が指摘されます。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.116-118

光が強ければ影も

 そう遠くない将来,あなたの「すべての」DNAの塩基配列,すべての遺伝子のタイプが廉価で読み解かれるようになるでしょう。それによって,あなたの健康にかかわるさまざまな側面について,遺伝子の情報から理解され,予測され,コントロールされるようになるでしょう。そうすることによって病気や不健康で苦しむ人々は減り,今とは比べものにならないほどの健康が維持され,人々の幸福が増進される医学的ユートピア,「すばらしい新世界」の到来が思い描かれます。
 これはとりもなおさず,特定の人物について遺伝情報から理解することが当然のことになる世界です。パーソナルゲノムが当たり前になった時,私が「遺伝情報の人格化」とよぶ状況がおとずれるでしょう。こんにちでも,収入や学歴に関する情報は,それがその人の人格を評価するときに好むと好まざるとにかかわらずついてまわるものです。その意味で資産情報の人格化,学歴情報の人格化は私たちの世界ではすでに進んでいます。それに遺伝情報が加わるというわけです。
 資産や学歴は自分の意志や努力,時代状況や運などによって,ある程度,後天的に変わる/変えることができます。しかし遺伝的組成は一生変わることがありません。ゲノム科学に携わる人たちは,生まれたときにわかるその人の全ゲノム情報をICチップに入れて持ち歩き,いざというときの治療に役立つようにするなどということも考えています。結婚するときに,相手の遺伝情報は,いまの学歴や収入とおなじように,いやそれ以上に,少なからぬ人々にとって「気になる」情報になるでしょう。ユートピアのもつ光は,その光が強ければ強いほど,そこにできる影も暗く濃く深くなる可能性があります。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.111-112

遺伝は遺伝しない

 ですから,「遺伝の影響があると親と同じ性質をもった子どもが生まれる」という先入観は捨てなければなりません。親の学歴が低くとも勉強のよくできる子どもが生まれる可能性も,親が有名な大学教授なのにとんでもなくできの悪い子どもが生まれる可能性も,どちらも「遺伝的」にありうるわけです(もちろん大学教授の中にもいくらでもヘンなのがいますので,そのヘンさ加減がそのまま「遺伝」している可能性もありますけど)。
 相加的遺伝の効果,非相加的遺伝の効果を合わせて考えてみると,親とおなじ遺伝的素質をもった子はむしろ非常に現れにくいことを意味します。むしろ常に古今東西一度も生まれたことのない新しい個体を生み出す仕組みが遺伝子たちにはある,というほうが本質的と言えるかもしれません。ですから逆説的に「遺伝は遺伝しない」とすらいうことができるのです。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.82-83

そのまま伝わらない

 行動遺伝学を学ぶなかで,「遺伝」という概念が,私たちが素朴に使う意味と,実際に遺伝子が働くときの意味と,ずいぶん異なることもわかりました。
 最も陥りやすい誤解は,遺伝が「親の特徴をそのまま子どもが受け継ぐこと」と考えてしまうことです。「知能には遺伝が関わっている」と聞くと,決まって「ああ,頭のいい子は両親もいい大学出てるもんね」というような話になってしまいます。無理もありません。「遺伝」とは「遺し伝える」と書くのですから。
 しかしそれが誤解なのです。遺し伝わっているのは,親の持つ遺伝子の半分だけです。子どもには父親の半分の遺伝子と母親の半分の遺伝子,つまりまるごと伝わって来るのではありません。しかもそれが2万個以上あって,それぞれ2つのうちのどちらが受け継がれるかはババ抜きのようなものです。そして今までに一度もなかった新しい組み合わせが生まれます。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.78

両方

 教育の重要性,環境の重要性はいうまでもありません。遺伝を理由に人を差別してはならないというのも当然のことです。しかしだからといって,遺伝による個人差があるという事実を無視したり否定しようとするのは,いかにそれが善意と正義に満ちたものであっても,知的に誠実であるとは言えないはずです。必要なのは,まさに「遺伝も環境も両方論」,つまり遺伝の影響をきちんとみすえたうえで,環境とのかかわりを理解し,設計していくことしかない。この結論は論理的に必然の帰結としかいいようがありません。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.56-57

グールドのバート批判

 確かに人種差別が科学の名のもとに正当化されてはならないのは言うまでもありません。しかしグールドのバート批判は,バート批判を通り越して,統計学の一般的テクニックとして確立した因子分析という手法の考え方や技法そのものを批判の対象とするという無謀な試みになっており,残念ながら作戦失敗としか言いようがありません。ところが,このことを知らない専門家以外の人や,専門家であっても彼のイデオロギーに賛同する人は,相変わらずこの本の主張を,称賛をこめて引用しようとします。そこに筆者は大きな当惑の念をいだかざるを得ないのです。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.37

かけたらどうなる?

 実際にどうなるのか。食塩と砂糖を使って,台所で実験してみた。協力してもらったのはチャコウラ2匹。
 テーブルの上に黒い髪を敷き,全長5センチほどのチャコウラを置く。上から姿が見えないくらい食塩をふりかける。1分で隊長は2.5センチに縮まり,体は塩を含んだ大量の粘液で覆われた。5分後,塩を洗い落とす。塩を含んだ粘液は体の周囲にびりつき,離れない。15分後,水を含んだスポンジに載せ,1日回復を待ったが,固まったまま。どうやら塩をかけた直後に絶命した模様だ。体内の水分の欠乏,それに食塩を含んだドロドロの粘液が呼吸孔をふさいだことが死因と思われる。
 やはり全長5センチほどのチャコウラを,黒い紙の上に載せ,姿が見えなくなるまで,砂糖をかける。1分後,砂糖からはい出す。尻尾の方が少し水分を奪われた模様だが,姿はほとんど変わらない。2分後には,平常の歩き方に戻った。
 小麦粉はどうなのだろう。数日後,テーブルにラップを張り,全長5センチほどのチャコウラにたっぷり小麦粉を盛ってみた。チャコウラは,粉の中であっちこっちに方角を変えながら,8分30秒後にはい出してきた。体の後部がやや細くなったものの,命に別状はなかった。

足立則夫 (2012). ナメクジの言い分 岩波書店 pp.66-67

ナメクジの事情

 成長段階で見ると,孵化したばかりの赤ちゃんナメクジは,卵を覆っている膜を栄養源として,その後,腐植土や腐りかけた植物を口にする。やがて近くにある植物の葉を食べるようになる。食欲旺盛なのは,成長の初期段階にあたる春と繁殖活動の直前にあたる晩秋である。彼らの世界では「天高くナメクジ肥ゆる春と晩秋」のことわざが通用する。野菜農家やベランダ園芸家がナメクジに特に悩まされるのは,孵化の時期である春と,繁殖活動前の晩秋。丹誠込めて育てた野菜や生花が見るも無残な穴だらけの姿になったら,「ナメクジ憎し」とせん滅作戦に出る気持ちは十二分に分かる。
 でも,しかしである。憎悪を燃えたぎらせる前に,彼らの事情にも目を向けてほしい。まずナメクジの短い一生を思いやる。次に,彼らがまともに生きるには,春や晩秋が大切な時期であることを理解する。その上で,孵化したばかりの赤ちゃんの写真を見る。三段階のプロセスを経れば,育てた花や野菜が少し食べられても,そう怒ることもなくなるのではないだろうか。人間以外の動物にも菜食主義者がいるんだな,ぐらいの受け止め方ができるようになれば,しめたものだ。

足立則夫 (2012). ナメクジの言い分 岩波書店 pp.59-60

ナメクジの食べ方

 我ら哺乳類,例えば人間が食パンのトーストを食べるとき,トーストは端から欠けて行く。ところがナメクジは決して端から食べない。ナメクジに与えたキャベツを取り出すと,内側に孔が開けられている。彼らの食べる様子を,穴があくほどじっと観察しても,さっぱり分からない。例の米ソの専門書をのぞくと,謎は解ける。秘密は彼らの口の構造にある。
 触覚の下に口はある。人間の唇にあたる唇弁に囲まれ,中央に開いた口腔の上側に顎板と呼ばれる顎がある。その下の奥に口球という丸みを帯びた舌がある。その表面に矢じりのような形をした軟骨性の小さな歯がびっしり生え,これで葉の面をこすってこそぎ落とすのだ。あるナメクジの歯はざっと2万7000枚もある。

足立則夫 (2012). ナメクジの言い分 岩波書店 pp.43

企業内研究

 彼が達成したことのうち,アイデアとその実現が完全であったものがある。それは,企業内研究というアイデアを実業家と消費者に売り込んだことである。ウェストオレンジ研究所は,実験が生活の質を高め,企業と製造業者に無限の機会を与える場所だった。その産物に「テクノロジー」という威厳ある名称が与えられるまで数年が経過した。エジソンの研究所や機械ショップにはそのような言葉がまだなかった。彼が死んだときには,米産業界には数百もの研究所があった。1931年には1600もの企業内研究所が存在し,3万2000人もの職員が働いていた。ベル研究所などの有名な研究機関とともに,コーンフレークで有名なケロッグ社,チョコレートのハーシー社,そしてジェロー社などにも小さな研究施設があった。企業内研究の主唱者のねらいは単純だった。技術は善で制御可能であり,何よりも企業内研究は利益につながる,というものだった。そのテーマに関するさまざまな記事には,「研究——企業の医者」「企業科学——最良の保険」「研究によってなされる産業の進歩」「進歩の光としての研究」といった表題が付けられていた。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.389-390

産業界への貢献

 彼の米産業界への貢献は,ほとんど注意を払われてこなかった。企業内研究,すなわち古い製品を改良し新しい製品を探しだすための常設の研究施設というアイデアを生み出した栄誉は,エジソンに与えられなければならない。1920年代にはTAE社は,「発明とはエジソン研究所からの組織されたサービスである」と言うことができた。
 エジソンは企業内研究を管理し,研究所からもたらされる新しいアイデアと製品の流れのまわりに事業を組織するという方法をつくり出した。彼は技術研究にもとづく多角経営の先駆者だった。TAE社創設までには,音楽用蓄音機,口述用蓄音機,一次電池,蓄電池,セメントという5つの製品系列にもとづく企業連合ができ上がった。これは,デュポン社,GE社,RCA社といった企業によって採用された戦略であった。RCA社によれば,「研究と多角化はRCAビクター社の将来への計画的な投資であった」。
 経営者かつ組織設立者として,エジソンは失敗もした。彼が始めた多角化の方針は,彼の事業をつくり出し,また没落もさせた。多角化のために財源も研究所の人材と設備も,つねに限界まで追求された。結果として事業をどれか1つでも完全に支配することができなかった。だが1920年代まで,彼はつねに新領域に移ることで事業の破滅を避けることができた。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.389

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