忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

人々の好みとの乖離

 第一次大戦の時代は,米国にとって社会変動の時代だった。趣味も価値も変化した。禁酒法も若い世代の情熱をおさえつけることはできなかった。大戦後の米国は新しいアイデアの時代であり,女性の裾が上がり紙が短くなったように新しいファッションの時代でもあった。音楽の趣味も劇的に変化した。「愛しのアデリーン」や「銀色の月光の下で」といった感傷的な愛好歌は,「アレグサンダーズ・ラグタイム・バンド」に道を譲っていた。戦時中に南部の米国人が北部の都市へ移住することで,多くの人々がニューオーリンズのスイング音楽に接するようになった。それにはすぐに「ジャズ」という名前が与えられ,北東部の都会に愛好者が現れた。ジャズへの熱狂は米国の新しい好みの一指標だった。
 ジャズ流行の市場開拓において,TAE社は競争相手に追従しようとはしなかった。社長がそれを嫌いで,蓄音機の購入者はよい音楽を聴くために買ったのだと誤って信じ込んでいたからである。エジソンは主要な都市におけるレコード音楽の市場とは,まったく波長が合わなかった。彼の愛好歌は「キャスリーン,君を故郷に連れ帰らん」であり,この曲がエジソン社の最も人気のレコードであると主張した。彼の強調点はまだ曲目よりも機械にあった。顧客からは「エジソン社製は機械はいいのだが,レコードの種類が少なすぎる」という言葉が寄せられた。
 ビクター社では,録音技術者が大衆の嗜好に自由に従い,聴衆のつきそうな新しい音楽を発掘することが奨励された。ビクター社は,1917年に専属のバンドによって初めてジャズを録音した。同社によるディスク市場の支配は,充実したレコード・カタログによるところが大きい。それは壮大なオペラからジョン・マコーミックら人気歌手による感傷的な歌までを含むものだった。さらにビクター製蓄音機を買えば,横切り溝のレコードを用いていたブランズウィック社やコロンビア社のレコードを聴くこともできた。だがTAE社は山と谷のレコードによって,孤高の位置を保っていた。独特なレコードの形式を守ろうとする決断は,20年代にはたいへんなハンディとなった。時代遅れの基準に固執したことで,TAE社は多くの客を失うことになった。創立者の趣味にはよく合ったろうが,同社はつけを払わねばならなかった。27年には同社のレコードは,レコード総売り上げの2パーセントを占めるにすぎなくなった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.356-357
PR

戦争への利用

 エジソンの製品は戦時中さまざまな形で利用された。蓄電池は戦艦の砲塔を動かし,通信隊には弱い電流を供給した。彼の口述用蓄音機は軍の事務部門で多く利用され,特性の携帯用機種が戦場用に開発された。味方兵も敵兵も塹壕やキャンプで蓄音機から流れるお気に入りの歌に聞き入り,戦争の恐怖をしばし忘れたことだろう。戦争によって多くの人々が音楽レコードに接し蓄音機の需要が着実に伸びることで,売り上げも大幅に増大していった。ニューヨークとウェストオレンジのエジソンの録音スタジオでは,戦場の歩兵や故郷に残る人々のために,行進曲や懐かしい曲など愛国的なレコードを生産した。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.334

戦争へ

 熱烈な愛国主義社のエジソンは,米国が参戦すればしかるべき役割を果たすつもりだった。1895年に彼はすでに戦争が起これば「すべてを捨てて国に奉仕する」つもりであると公表した。彼は多くの米国人と同様,この戦争を軍国主義に対して民主主義を守る戦い,絶対主義の力に対してアメリカ式の生活様式を守る戦いとして見ていた。国家の危機に直面してその国の経済の源泉である産業技術が救済者として活躍することは,適切でありおそらく不可避的でもあった。連邦政府が国家の産業的科学的資材と人材の動員を決定したときに,米国で最も有名な発明家がその努力を指導することもまた適切だった。海軍省長官は1915年エジソンに,軍の技術的諮問に答える技術専門家の頭脳集団というアイデアを提示してきた。海軍諮問評議会(NBC)と後に呼ばれるこのグループは,科学と技術は戦争で重要な役割を果たすという信念と米国人の「天賦の発明の才」が活用できるという信念にもとづいていた。エジソンはこの考えに両手を上げて賛成した。技術的解決が有効であるという彼の長年の信念は,今やより高い境地に達した。「差し迫った対立」において,科学は民主主義に奉仕するために必要とされたのである。エジソンはある漫画のメッセージがとりわけ気に入っていた。それは英雄的な発明者の姿が創意と技術革新の故郷とされる米国の大西洋岸に高く立ち構えているもので,エジソンはその絵を研究所の図書館の壁に貼らせた。ダニエルス長官はエジソンに助言をしてもらうだけでなく,海軍では扱えないような重要な実験作業をウェストオレンジのエジソン「自身のすばらしい施設」でこなしてくれるよう要望した。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.324

口述蓄音機

 口述用蓄音機をいざ売り込む段になって,ショップ文化の価値観が市場では通用しないことが示された。この技術によって事務所にいる熟練労働者は不要になると研究所は踏んでいた。「あなたの会社の速記者は昼食をとりに家に帰り,ときどき休暇をとる……蓄音機は食事をとらないし,いつも手元にあり,いつでも準備ができている」。機会は利用しやすかった。「しゃべれるだけ速くチューブにしゃべって下さい。それだけです」。それによる経済的利益は,高い購入費と保守管理のめんどうを上回るはずであった。
 この戦略は,不要になるとされた従業員自身の手ですぐに握りつぶされた。速記者は,蓄音機が信頼性に欠け複雑で理解できないと主張し,その使用を拒否した。産業化の初期の事務労働者は一定の地位を保っていたが,その後徐々に低下しつつあった。エジソン社のA.O.テイトのように,彼らは中流階級出身で管理職になるのが通例だった。事務作業は,技能や自由の度合いなどで職人の作業になぞらえられたりした。1880年代の米国の典型的な事務所では,速記者は通常男性で給料もよく(エジソン社の広告文によると週20ドルも稼いだ),自分の速記技能や事務管理能力を自由に伸ばしていくことができた。彼らは事務労働者の頂点に位置し,事務係,コピー係,帳簿係,伝令よりも地位が上だった。速記者を蓄音機によって置き換えることは容易ではなかった。
 19世紀末におけるタイプライターの導入と事務量の急速な増大によって事務作業に革命が起こり,そこに口述用蓄音機の製造業者が入り込む余地が生まれた。女性がますます事務所に進出し,タイピストという新しい職につくようになった。だが彼女らには昇進の機会や男性速記者並みの幅広い仕事が与えられていなかった。1900年には速記者とタイピストの75パーセントは女性になった。事務職への女性の進出によって,低賃金で召使い的な労働者層が生み出された。エジソンのセールスマンは口述用蓄音機の売り込み方を変え,蓄音機によって高級のすぐれた速記者をタイピストで置き換えられると説得するようになった。タイピストは,蓄音機に吹きこまれた手紙を書き起こすだけでいい。販売部のスローガンはその利点を,「熟練した速記者の代わりに,半額の給料のタイピストですますことができます」とうたった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.308-310

一生の仕事

 有数の蓄音機会社の提供する音楽が,60代の偏った好みの男性の遠くなった耳によって選ばれていたことはいかにも皮肉なことである。エジソンは演出家としての仕事を楽しみ,録音と音楽家との契約を取りしきった。音楽に対する彼の独断が,ウォルター・ミラーやジョージ・ワーナーら部下たちに押しつけられ,彼らは音楽録音に関するエジソンの偏った方針に従わざるをえなかった。エジソンの音楽の趣味は平凡なものだったけれども,彼の野心は大オーケストラで演奏されるクラシック音楽を録音することだった。さらに多くの音楽家たちの録音が可能になるよう,エジソンの指示に従って新しいスタジオがウェストオレンジ研究所の4号棟に建てられた。彼は完全で本物そっくりの音を再生しようと,何千もの実験を繰り返し研究を続けた。エジソンは,電灯という脅威を世にもたらした人物として多くの人に記憶されているが,蓄音機の実験に費やされた時間の長さを考えれば,むしろ何年にもわたって音楽の明瞭で忠実な再生ができるよう努力した人物として記憶されるべきであろう。これこそ彼の一生の仕事だった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.265-266

衰え

 1900年にエジソンは53歳で活動的だったが,彼の健康は衰え始めていた。彼は1900年と1901年に大病をわずらった。若いときに傷めた耳の聴力がますます悪化していた。彼は1906年と1908年に耳の感染症で緊急手術を受けたが,1907年には病状が深刻だったため「すべての商業的事業から引退する」と決心するほどだった。エジソンは商業的な仕事から引退し自分だけの楽しみのためにいろいろな実験に専念すると,事業の支援者や一般の人々に告げられた。1908年に秘書がうかつにも「われわれは研究所ではもう商業的仕事をしない」と宣言するほどだった。
 創設者の健康問題は,エジソン企業連合の経営陣に抜き差しならない問題を突きつけた。無秩序に拡大するエジソン産業帝国を,エジソンなしで運営できるような組織に改変していく必要が緊急に生じたのである。エジソンは自分の会社で,取締役会長・発明家・技術者・経理担当といった多くの役職を務めていた。これらの役職の仕事がそれぞれ明確にされ,その部門の日々の運営を維持できる専門の経営者によって継承されなければならなかった。1907年にはウィリアム・ギルモアが各部局の部長を通じて,エジソン企業連合を運営していた。彼の権限は事務棟から蓄音機工場,さらにその先にまでおよんでいた。彼は部下たちを「エジソン氏を煩わせたり悩ませたりせず,賢く抜かりなくやるように」指示した。事務部門の目標は,親方が研究所で忙しい間操業を支障なく維持することであった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.232

姿勢の違い

 GE社のX線の開発は,エジソンの研究所の運営とあざやかな対比をなしている。GE社はエリュー・トムソンによって開発された機械を徐々に導入するよう進めていったが,すぐそれを販売リストからはずした。X線の問題はそれが制御不能なことだった。最初のX線管の予期せぬ振るまいによってこの技術の有用性が疑問視され,X線にさらされたことによる負傷や死亡の例によってX線特有の危険性が示された。エジソンの助手の1人であるクラレンス・ダリーは放射能の害毒により,ウェストオレンジでの最初の死者となった。GE社の警戒感は市場が小さかったことで和らげられた。大きく改良されたX線管には新しい電球と同じ材料が使われており,そのことがGE社の経営陣がX線装置の製造販売への進出を決断する際の要因になった。同社は1914年にその中心事業で不況を味わって以来,分散化の可能性をいろいろと考慮するようになっていた。第一次大戦中において無線通信の需要がその将来を保証したように,大戦でのX線機器の需要はその実用技術としての将来を保証した。この2つの驚くべき20世紀の技術に利用される真空管を割よく製造することによって,GE社は経営基盤を確立させたのである。
 X線にかんして,エジソンは利益もあまり得なければ名声もまったく得なかった。X線の発見後,1896年のニューヨークの電気博覧会でのぞき穴装置を展示するなどこの新現象を利用したが,彼はすぐに次のプロジェクトへと移り,X線についてもう実験作業をすることはなかった。X線を利用する試みは多少はなされたが,エジソン製造会社は病院へのX線機器の販売を1914年以前に終了した。一方は企業的で他方は混沌という2つの開発の道筋の差は,技術産業のビジネスに対する2つの異なるやり方を示している。GE社に成功をもたらした忍耐や警戒心が,エジソンにはまったく欠けていた。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.187-188

X線

 この戦略において典型的だったのが,X線を実用技術としてすみやかに開発していったことである。ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンは,1895年の末にX線(未知という意味を込めて命名された)を発見した。この種の電磁気力は光と同程度の波長をもち,個体を貫通することができた。レントゲンの発見が電信で報じられるのを聞くや,10時間後にはその実験を開始した,とエジソンは言っている。このプロジェクトは研究所の電気,写真,電気医療の専門家を活用することになった。ただちに必要な機器すべて,特にX線を生み出すのに必要な高電圧の発電装置などがそろえられた。ウェストオレンジ研究所は活気づき,エジソンと彼のチームは日夜作業を続け,レントゲンの実験を再現するとともに,フルオロスコープと呼ばれる装置を2週間以内でつくり上げた。フルオロスコープは,蛍光乳剤を塗ったスクリーンと2つの電極をもつ真空管からつくられており,電荷が金属の標的にあたることでX線を放射し,X線は患者を通りぬけスクリーンに届いて像をむすぶのである。エジソンは作業用のフルオロスコープを1896年3月末にコロンビア大学のマイケル・ピューピンに送り,7月までにウェストオレンジにフルオロスコープの製造工場を完成させた。彼の研究所が1880年代の操業で示していたすばやさは,まだ失われていなかった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.182-184

扇風機

 電気扇風機はウェストオレンジで生産される一連のモーター製品のうち最初のものだった。それはモーター,基盤,羽,針金のガードからなる単純な機械であり,蓄音機工場での組み立ても容易だった。一号棟の電気研究所の職員はどんな家庭用電源でも使えるモーターを設計し,工作室ですみやかにエジソン=ラランド電池の不要な扇風機として製作された。扇風機は,広く一般に流行した。世紀末までに電気扇風機は,電話や電動エレベーターと同じように事務作業にとって不可欠のものとなった。
 エジソンが切り開いていくところは,すぐに多くの人が追いかけてきた。扇風機をまねすることは難しくなかった。エジソン製造会社も多数販売したが,家電製品の市場に参入しようとする小企業のつくる何千もの電気扇風機によってすぐに凌駕された。エジソンはこの分野で競争がなかなか起こらないなどとは楽観していなかった。彼は述べている。「発明が競争によって十分な利益を上げない場合には,中断して別の発明で置き換えていけばいい」。映画はまさにそのたぐいの置き換わるべき技術だった。研究所のこれまでの経験にしっかりもとづいており,模倣は電気扇風機の場合よりずっと難しかった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.180-181

多くの人が

 映画の真の発明家を探そうとしても,あまり意味がない。エジソンの研究所の流動的な組織の中で,何人もの人たちがこの技術の誕生に重要な貢献をした。研究所外部の人々も,科学出版物を通じてあるいはエジソンや彼の部下との個人的な接触によって実験結果を提供した。この新技術創生の歴史におけるポイントは,それがけっして1人だけの作業ではできなかったということである。電気照明と同様に,映画の開発も国際的広がりをもつものだった。エジソンの技術的工夫はまさに絶好の場所とタイミングでなされた。キネトスコープはもともとエジソンのアイデアだったが,その発明の成功は,彼のアイデアを実際の装置に仕立てあげた部下たちの技能によるところが大きい。エジソンは映画の発明にはあまり権利は主張できないかもしれないが,彼の発明工場(それこそが彼独自のアイデアだった)の職員の協力がなければ19世紀のうちに映画は生まれなかっただろう。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.164

GE社

 1892年にエジソンの名前が社名から削られジェネラル・エレクトリック社(GE社)が設立されたことにエジソンは不満だったが,しばしばいわれているように同社と関係を切ることはしなかった。エジソンは自分がつくり出した産業から自分の名前がなくなることで悩んでいると秘書テイトは考えたようだが,エジソン自身はそれよりも合併においてトムソン=ヒューストン社の資産価値の方が高く評価されたことに驚いていた。予想に違わず,ヘンリー・ヴィラードは小さかったトムソン=ヒューストン社の株式を水増しし,EGE社の株式と同程度にさせていたのである。GE社の設立は,エジソンの電機産業とのかかわりにおける分水嶺になっているとよく指摘される。マスコミは独占企業と孤高の発明家との対立とみなし,エジソンが自分のつくり上げた産業から追い出されたと論評した。一方多くの啓蒙書やテレビ番組では,エジソンをGE社の創業者としてみなしていた。(実際には同社の設立はヘンリー・ヴィラードとJ.P.モルガンの仕事であった)。電力供給と電気製品の製造の業界では競争が激しく,エジソンはあまりそこに自分の金銭の利害をかかわらせたくなかった。ウェストオレンジ研究所を設立する目的は,まさにこのような過当競争的な市場から,新しい製品による新事業へ移行することにあり,エジソンは最組織された電機産業にあまり未練はなかった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.156-157

交流と直流

 好奇心をもつ大衆と歴史家にとって,エジソンの交流の使用への反対は彼の怒りを表すものだとされてきた。偉大な発明家は自分の傑作を脅威にさらすような新しい技術を攻撃したように見えた。なぜ他の点では「時代の最も進歩的な人間」が進歩を止めさせようと叫んだのか。その答えは独学の天才の限界としばしば結論づけられてきた。エジソンは交流を理解しなかったから反対したのだ,と。この見解から,エジソンが新しい技術を中傷したのはそれに対する答えをもっておらず,「ただ不公正な戦いが熱心になされた」と結論する歴史家もいた。この結論は,エジソンの研究所が交流の脅威に対して,高圧直流の開発,新たな交流システムの開発,そしてウェスチングハウス社の「死の電流」の信用を失墜させるキャンペーンという3つの対抗措置を講じていた事実を無視するものである。エジソンは交流理論の複雑さを理解するような数学教育を受けておらず,そのせいで取り組みをためらっていたのかもしれない。しかし彼は数学に対して特別な適性をもっていたし,1880年代の交流技術は科学的に複雑といえるほどではなかった。それに彼の研究所にはあらゆる交流機器を開発するための機器と訓練された職員がそなわっていた。たとえばアーサー・ケネリーは非常に有能な電気技師で,後にこの分野を教えるとともに高電圧技術でいくつかの重要な貢献をしている。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.128

蓄音機への愛

 エジソンは「純粋で単純な発明」品の蓄音機を,わが子のように可愛がった。蓄音機は他のアイデアを発展させる過程で偶然に発見されたもので,発明以前には思いもおよばなかったたぐいの数少ない発明の一例である。エジソンの言い方によれば,蓄音機は発明ではなく発見だった。それは,自動電信機(動く紙にモールス信号を記録する装置)を研究しているときに発見されたのである。1977年,彼は回転する紙の円盤に点と線とを打ち出して記録する自動電信機の特許を取り,このアイデアを利用して電話の受信内容を記録する装置をつくろうとしていた。この実験をやっている最中に,エジソンはトンとツーの刻み目が,人間の声に似た音を再生することを見つけたのである。
 電話と音響通信の仕事から,エジソンは音とその波形の研究へと乗り出した。彼はドイツの物理学者ヘルマン・ヘルムホルツの音波の研究を聞きつけ,音波の振動の跡を追うための,振動膜に棒のついた自動録音機のような装置の存在を知った。いつもメンローパークの実験室でそうだったように,自動電信の研究は,電話の中継器(増幅器)や記録器などの開発といった他のいくつかの計画と並行して進められた。電話を研究したことで,エジソンは振動板のように音波を生み出す金属や動物の膜に精通していた。針を振動膜につけて紙片をその下で走らせることによって,エジソンは自分のどなり声の音波をパラフィンを塗った紙の上に刻み込むことができた。この実験の成功によって,音波をスズ箔でおおった回転シリンダーの上に刻印することができる別の装置をつくり上げた。1つは音を刻印するためのもので,もう1つは音を再現し聴く人を驚かせるものだった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.77-78

ドラッカーのエジソン像

 ピーター・ドラッカーは,エジソン神話が語る「実験に熱中し商売を忘れた奇人発明家」というエジソン像を信じ込んでいる。この神話は,よくいわれる彼の帳簿嫌いに由来するようだ。伝えられるところによれば,彼はニューアークの仕事場で受け取った請求書を,請求者が訴訟を起こすまでピンで留めたままにしていたという。事業にかかわる時間がないほど忙しい発明家,エジソンはそのように見られたかった。時間を食いつぶすたび重なる訴訟では,このイメージが役立った。法廷に召喚されたエジソンは,実業家たちの物欲とは無縁なので無実だと言い張れたのである。このような主張は,偉大な発明家だがつたない実業家でもあるエジソンという神話を助長し広めた。エジソンはそのような自分のイメージを大事にしたが,それにはもっともな理由があった。
 だが彼の事業の同僚たちは,そうでないエジソンを知っていた。市場に対して的確な判断を下し,計算だかい賢い人物としてのエジソンである。彼は,実験と同じ精力と巧妙さを事業にも振り向けた。彼は1870年代にニューアークで100人にのぼる雇用者をもつ工場を操業し,ニューアークのショップの1つは,1874年に米国最大の電気製造工場の1つとされた。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.61-62

わざとそう見せる

 エジソンは自分を,投資家が臆病なために発明を自分で実用化しなければならない発明家に見せようとした。自分は研究所にいて誰かが資金を集め工場を管理してくれることを望んでいると,彼は思わせようとした。エジソンの実業家としての評判はけっして高くはなかった。エジソンは世界最高の発明家だが最悪の実業家であるという,友人ヘンリー・フォードの言葉はその事情をよく表している。このエジソン像は今日まで存続し,革新的企業の衰退は技術が劣っていたからではなく経営が拙かったからだと説明される。経営学の専門家ピーター・ドラッカーは最近の著作で,エジソンは自分の発明を発展させるために立てた会社を破滅させたひどい経営者であると論じた。たしかに多くのエジソンの会社が破産したが,この事実上の失敗がすべて拙い経営によるわけではない。ドラッカーは,「ほとんどではないにしても多くのハイテク企業は,エジソンと同じやり方で経営されている,というより経営されそこなっている」と述べるが,それは二重に誤っている。エジソンの多角経営を模倣できるハイテク企業など,今日わずかしかないだろう。研究事業を少なくとも3つの異なる技術にもとづかせるという彼の事業戦略によって,技術的失敗や経済的不況に対するクッションが与えられた。エジソンの事業経営の歴史は成功の連続の歴史ではないが,失敗の連続だったわけでもない。金ピカの時代と大恐慌という生き馬の目を抜く実業界を生き抜いたことは,まさしく彼が誇りとするところである。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.60-61

試行錯誤の実験ではない

 エジソンの発明工場は,実用的目的に向かって組織的,体系的研究を遂行する先駆的な企業内研究所だったのである。彼らの仕事は広範だった。もしもエジソンが試行錯誤だけを念頭に計画を立てていたならば,それぞれの作業場に置かれる研究所のノートにすべての実験を記録するようこだわることはなかっただろう。手さぐり仕事の名人エジソンは,大きな貯蔵庫をつくることで仕事を楽にした。しかし,彼は購入できる最高の検査測定機も備えつけており,研究所の仕事が試行錯誤の実験ではなかったことを物語っている。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.24

エジソン研究所の図書室

 図書室は,新研究所のどの計画書にも必ず描かれていた,エジソンの方法は次の2つの作業に始まる。「1.問題の現況を研究せよ。2.すべての過去の経験を尋ねよ。そしてできる限りそのテーマのものすべてを研究し読み込むこと」。エジソンは十分な下調べもせずに新しい領域に乗り出すようなまねをする人物ではなかった。彼の多くの発明は他人の成果にもとづいて進められたのであり,電気照明を発展させる上でもそのことは歴然としていた。電気技術は世界的に広がり,人・機械・アイデアが大西洋を渡って交換されるからこそ急速な発展をとげていたのである。エジソンは彼の研究所にやって来る外国の機会(たとえばフランスからのグラム・ダイナモ)や文献からはかりしれない恩恵を受けており,自分の電気機械を制作するにあたり大事なヒントを得たりしていた。突破のきっかけとなる重要な情報は,パチノッティの環状電機子の発見のようにしばしば見慣れない科学文献の中に隠れていることをエジソンは電機産業の経験から心得ており,彼のまわりに流れ込む科学技術の最新の情報をいつでも利用してやろうとしていたのである。技術情報の流れは19世紀が下るにつれて大河のようになっていたが,発明工場の第1の役割はこの大量の技術情報の流れからいいアイデアをすくい取ることであった。エジソンにとっては電気の研究を進めることで新しい科学的地平が開かれるとともに,必要な知識を得るための資金ももたらされた。蔵書数約10万冊とされるウェストオレンジ研究所の図書室は,所員全員にとっての重要な情報源だった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.12-13

エジソン最大の発明

 エジソンの最大の発明は,発明工場というアイデア(科学的研究の商業目的への組織的応用)であると主張する歴史家もいる。彼は「10日ごとに小さな発明をし,約6ヵ月ごとに大発明をする」ことを約束し,実際ある時期にはその約束を果たしていた。蓄音機と電気照明とはこのアイデアが有効であることを実証した。今や彼は「現存する中で最もよく装備され最も大きな研究所,そして発明のすみやかで安価な開発にあたってはどの施設よりも優れた設備」をつくり出そうと望んだ。メンローパークの実験施設は1870年代に米国最大の研究所だったが,今やエジソンはさらに大きい施設,かつてない規模での企業内研究が可能で,米国の指導的発明家としての地位を反映した施設の建設を計画した。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.9

ODの気持ち

 この年の秋に開かれた昆虫学会の大会で,私は,分散型幼虫のゴール間移動を発表した。しかし,私の考えを十分理解してもらえたとは思えなかった。1978年になっても,まだ日本の研究者の多くは,生物の持っている形質はその“種にとって有利”であるはずだという仮説にどっぷりとつかっており,社会生物学などどこ吹く風であった。その一方で,時代遅れの実証主義的規範を携えて,仮説メーカーを笑っていたのである。『アニマ』という雑誌に載った匿名の学会印象記には,「視点の新しい」講演は「ほとんどなかった」と書いてあった。
 またこの年に,私はこれまでの結果を論文にまとめた。この論文は翌年の秋に印刷になった。嬉しかったことには,A.F.G.ディクソン,ロバート・トリヴァース,ウィリアム・ハミルトンの3人が,感激したとの手紙をくれた。これは何ものにも増して私を勇気づけた。この時には,もう私はドクター・コースの5年目を終える年であった。O・D(オーバードクター)の何たるかを知っておられる方には,当時の私の気持ちはわかっていただけることと思う。

青木重幸 (1984). 兵隊を持ったアブラムシ どうぶつ社 pp.172-173

時代

 第2に,私の時代は,疑いなく自由に想像を駆けめぐらせることが許される時代であった。問題状況をうまく説明できるような仮説を作ることは,必ずしもたやすいことではない。自分自身に自由に考えることを奨励しなかったとしたら,私には単刎型幼虫の問題は解けなかっただろう。
 もちろん,いまだに多くの大学の先生が,仮説作りをたしなめ,そして「偏見のない眼で事実を集め,それに基づいて物を言わねばならない」と声を大にしているのを私は知っている。彼らにとって,“お話”はだれにでもできるものなのだ。自らを頭脳労働者とみなしている人種が,考えることの価値を認めたがらないのだから奇妙である。だが,ポパーの『科学的発見の論理』,クーンの『科学革命の構造』が邦訳されたのが共に1971年であったことを考えると,これはある程度は仕方のないことかもしれない。私は良い時代に生まれたのだ。
 ちなみに,私が科学方法論に興味を持ったのも,分類学の危機と関連がある。一分類学者として私は,分類学に向けられた批判——その中には正当なものも見当はずれのものもあったが——に対して反論を試みようとした。そのために,科学論は必要であった。ポパーやクーンの著作に出会ったのは,この時だった。

青木重幸 (1984). 兵隊を持ったアブラムシ どうぶつ社 pp.132-133

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]