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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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5240億匹!

 アブラムシは植物から汁液を吸う。それゆえ,何種類かのアブラムシは,悪名高い害虫である。彼らは好条件のもとでは,単為生殖かつ胎生で驚くべきスピードで増殖する。成虫には,翅のあるものとないものがあり,移住の必要がなければ翅のない無翅虫が主役である。無翅虫は,翅にまわすべき栄養を卵巣にまわし,このことが増殖率の高さに一役かっている。鉢植えの植物にアブラムシが“わく”のは,いつのまにやら飛来した有翅虫の子孫が無翅虫となり,あっという間に増殖するからである。ある計算によれば,1匹の雌が生んだ子供がすべて生き残ったとすると,1年後に5240億匹の子孫が生じていることになるという。

青木重幸 (1984). 兵隊を持ったアブラムシ どうぶつ社 pp.21-22
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分類学者

 分類学者とはどのような人種だろうか。(1)種わけ,(2)生物の系統関係の推定,(3)生物のカタログ作成。この3つが彼らの主な仕事である。
 この最後のカタログ作りという仕事が,分類学者をきわめて特色ある存在にしている。生物の名前を整理し,未記載種には名前を与え,情報の引き出しを容易にするようなカタログを作ること。これは,経験的知識の増加という観点からはさほどの意味はないかもしれない。しかし,実用上は非常に有用である。
 カタログ作りのために分類学者は,まず対象とする分類群に関する文献を徹底的に収集しなければならない。また,もちろん,できるだけ多くの材料を集め,形態を調べやすいような標本を作成する必要がある。これらの作業は時間とエネルギーがかかるけれども,逆に時間とエネルギーをかけさえすれば,まずまちがいなくある程度の成果が得られる。良くいえば堅実な,悪く言えば野心に乏しい研究なのだ。

青木重幸 (1984). 兵隊を持ったアブラムシ どうぶつ社 pp.18-19

「好き」じゃなく「いいね」

 みんながみんな「メタ的」で「評論家的」のようになってしまいました。そこでは,あらゆる物事に対して「良い/悪い」という「評価」をします。日本ではフェイスブックでも「好き!」ではなく「いいね!」です。評価をしているわけです。しかし,この「評価目線」は息苦しさを増長させる方向にしか作用しないのではないかと私は考えます。
 あらゆる物事に対して「良い/悪い」という評価をするのではなく,もっと「好き/嫌い」という感情を表現してみてはどうでしょうか。
 多くの人は,何かを「好き」あるいは「嫌い」と表明しているようで,あまりしていません。「嫌い」とは言わずに「ダメ」と言う。「良い/悪い」や「アリ/ナシ」もそう。最近では「これはひどい」なんていう便利な言い方もあります。
 私は「これは良い」「これは悪い」と言うのではなく,あえて「これは好き」「これは嫌い」と言っていきたいのです。「良い/悪い」というような超越的な言葉,評論的な言葉,神のような上から目線の言葉というのは,メタ視点的な言葉です。
 普通の人にとって「好き/嫌い」を表明することは,実は怖いことです。なぜなら,「好き/嫌い」を語ることによって,自分自身が剥き出しになるからです。
 一方,「良い/悪い」「アリ/ナシ」などの表現は,自分の嗜好はいったん脇に置いておいて,誰かの評価や大して根拠のない判断基準を借りてジャッジをしているだけなのです。

槙田雄司 (2012). 一億総ツッコミ時代 星海社 pp.132-133

自分を笑う

 日本人がこれだけお笑いというものが好きな国民なら,もう少し自分を笑うことを覚えるべきなのではないでしょうか?他者,弱者にツッコミの目線を向けるのではなく,自分にツッコミを入れる。そこで見つけた「しょうもない自分」「致し方のない自分」を愛してあげてほしいのです。
 「人間なんてものは,しょうもないところも持っていますよ。自分だってそうでしょ?」
 こういう目線を持つことができれば,とたんにユーモアにも深みが出るはずです。
 他人にツッコミを入れ続けたり,他人をイジり続けたりするだけで,自分のことに関しては極端にディフェンシブな人は,やっぱりどこかいびつに見えます。
 ましてや,そんな人ばかりが集まっていたら,社会はギスギスするに決まっています。

槙田雄司 (2012). 一億総ツッコミ時代 星海社 pp.119-120

自己愛の強い人

 自我が肥大して,自意識過剰になっている人は,「本当に自分を好きになるナルシシズムに転がる人」と,逆に「自分を嫌いになる方向に転がる人」がいると思います。自分を嫌いになってしまうと風邪をこじらせたような状態になり,八方塞がりになって本当に生きづらい状態になってしまいます。
 それに比べたら,他人に「アホだなぁ」と思われるような自己愛の強い人の方が生きやすいでしょう。私は今,そのような人になりたいと思っています。
 「自分嫌い」については,一度怖気づいてしまっているからです。

槙田雄司 (2012). 一億総ツッコミ時代 星海社 pp.95

自我のダイエット

 自らの芸に対しては,容赦無いツッコミとダメ出しが飛んできます。お笑いは「工業製品的」です。自我だけで勝負できない世界なのです。芸人は,楽屋などでツッコミを受けることによって,自我の不要な部分を削っていきます。そういう意味で,ツッコミを受けることによって救われたことも少なくありません。
 翻って一般の人に置き換えてみると,仕事でも何でもそうですが,上司からダメ出しをくらったり,叩かれて修正されたり,自我を削られたりすることは喜ぶべきことでしょう。「自分らしさ」がなくなってしまうのではないかと思う人もいるかもしれませんが,そうではありません。むしろ,叩かれたり,削られたりすることによって「自分」が形作られていくと思うのです。
 今は,誰もが自我を肥大させてしまっています。みんながツッコミをしたいと思うのは,ツッコミをすることによって肥大した自我を守ろうとしているわけです。しかし,ツッコミを受けることで,自我をシェイプアップしていくことも覚えておくといいでしょう。
 一度,自分の「しょうもない部分」を認めてあげたほうが楽になるのです。そこからさらに進んで「しょうもない部分」を持つ自分を「ボケ」として周囲に提示し,周囲からツッコミを受けてみる。
 これが「自我のダイエット」です。

槙田雄司 (2012). 一億総ツッコミ時代 星海社 pp.72-73

キレ芸

 「キレ芸」の始祖は松本人志でしょう。いらだちのあまりイーッとなった後,「僕は○○が許せないんですよ!」といったフレーズで笑いを取る。
 「キレ芸」は,とても他罰的です。「自分の思う通りにならない」ということを強く言っているわけです。
 松本さんは,普段からすごく細やかな神経でいろいろ人間の心理,心の綾を見つめているのだと思います。神経過敏と言ってもいいぐらいです。
 「Aをしたら,Bにならないといけないのに,なんでCになんねん!」とキレる。そこには「Aをしたら,Bになるはずだ」という彼が想定した「あるべき姿」があります。それはとても細やかな神経から生み出されているのです。
 また,松本さんが広めた言葉に「逆ギレ」があります。
 「逆ギレ」とは,自分と他人が関わったとき,どちらがキレるべきなのか,論理的に突き詰めて考えているからこそ生まれる発想です。手続き上,そちらがキレるのはおかしいし,正当性がない。そのことを怒りながら「逆ギレか!」と言う。これはつまり「思う通りにならないさま」を笑いに転化しているわけです。

槙田雄司 (2012). 一億総ツッコミ時代 星海社 pp.47-48

過剰防衛

 誰もがツッコミのスキルを搭載している以上,常に誰もがツッコミの標的になる可能性があります。絶対に安全な領域はありません。
 ツッコミを入れられたくない。ツッコミを入れられたときの自分の打たれ弱さを隠すために,あえて自分からツッコミをすることも多いと思います。自意識を守るためのツッコミです。
 弱さを隠すために,過剰防衛になってしまう。ケンカ慣れしていない人が,過剰に人を殴り続けてしまうのと同じような感じです。そうやって集団でツッコミを浴びせて,炎上させてしまう。

槙田雄司 (2012). 一億総ツッコミ時代 星海社 pp.45

メタなセリフ

 今の人は,日常会話の中で「そこはツッコまないと」という言い方もします。なんと高度なセリフでしょう!これはどういうことかというと,加工されたコミュニケーションを先回りして想像し,そこにはツッコミが入らないと成り立たない。そう言いたいのです。「そこはツッコまないと」というセリフは「メタ」が行き過ぎた,いい例だと言えるでしょう。

槙田雄司 (2012). 一億総ツッコミ時代 星海社 pp.37

気にしない方がいい

 誰でも「面白い人」であることにしがみつきたい瞬間があります。でも,そういうときはお笑いのことを気にしないほうがいいのです。
 何かを語っている人に対して,「で,オチは?」なんてことを言わないであげてほしい。「今,噛んだ!」なんて指摘をしないでほしい。そんな言葉で袈裟斬りにしないでほしいのです。
 これに留まらず,日常でもお笑いの世界から学んだ「ツッコミ」によって他人を容赦なく斬っていることが多々あります。
 普通の人がそのことに気づくのは難しいでしょう。でも,そんなツッコミをして,鬼の首を取ったような気分になってほしくはないと思います。

槙田雄司 (2012). 一億総ツッコミ時代 星海社 pp.27

逆説

 そして,今もビートたけしの逆説が分からない若者の多さには呆れている。
 それはサブカルチャー論にも共通する。
 いつの間にか,サブがメインになり,本来カウンターで発言すべきサブカルチャーが正論の如く流通している。
 昨今の太田光が,番組の中で総理を自称し,実にお笑いにあるまじき,まともな正論をぶつ論客となっているのも,本来のメインカルチャーの方が脆弱すぎて立ち位置としては,正論をぶつ方が,むしろ異端でありカウンターであるからだろう。
 太田光は年齢を重ねると共に,正論の方が少数派であることを意識し,空気を読めていない正論バカをお笑いの役柄の一つとして演じている。
 そのポジション取りを汲むこともなく「太田光は文化人気取りだけど,本気で政治家になりたいんじゃない?」としたり顔で言う,芸人の真意が読めない人々がいるが,「政治家よりお笑いのほうが圧倒的に影響力のある存在」であるのに気が付かないのだろうか。

水道橋博士 (2012). 藝人春秋 文藝春秋 pp.267

よく計算間違いをする

「どうして,人間は,人間を殺すんだ?」
 彼が一瞬,目を見開き,黙った。駐車場の脇に立つ街灯が,電気を撒いて震えるような音を発し,明滅した。
 「どうして俺に,そんなことを」
 「ちょうど君がそこに立っていたからだ。別の人間がそこにいたら,そいつに訊ねただろうな。たまたま,質問があって,その質問の先に君が立っていた」
 青年はしばらくの間,口を閉ざしていた。ずいぶん経ってから,「恨みや怒り,計算。人を殺す理由はそんなところじゃないかな」と言った。
 「計算?」
 「あいつがいなければ,俺の人生は楽になるのに,とかそういう計算だよ。金の面,精神的な面で,損得を計算するんだ」
 「人間はよく計算間違いをする」
 「その通りだね」と青年が歯を見せた。

伊坂幸太郎 (2008). 死神の精度 文藝春秋 No.2655/3977(Kindle)

人間のことで悩んでいない

 「俺がもっとすごいことを教えてやる」私は言った。
 「うっせえな」
 「あんなにたくさんの人がいて,人間のことで悩んでいる奴は,たぶん一人もいない」
 「馬鹿じゃねえの。みんな悩みばっかだって」
 「自分のことで悩んでいるだけだ。人間のことで悩んではいない」確かこれも,以前,どこかの思想家が言っていた台詞だな,と私は思い出す。


伊坂幸太郎 (2008). 死神の精度 文藝春秋 No.2598/3977(Kindle)

不十分な監察医制度

本書の中でも述べたように,私は現在の監察医制度では不十分だと思う。変死体の死因究明は,もっと全国規模で徹底して行われるべきだ。だが,そのためには死因究明制度を抜本的に見なおさなければならない。まずは縦割り行政を廃して組織を一元化することだ。現在,司法解剖は警察庁,行政解剖は厚労省と自治体,大学の法医学教室は文科省と管轄がそれぞれ分かれていて,横のつながりがない。監察医や法医学者などの専門家が,もっと自由に交流できるようにすべきだろう。

上野正彦 (2010). 死体の犯罪心理学 アスキー・メディアワークス No.2124/2162(Kindle)

不要な物体

 “バラバラ殺人”と聞くと,一般の人はその犯人に対して,“残虐”“凶暴”“猟奇的”などのイメージを抱く。だが,それは正しくない。ご遺族の感情をあえて度外視していえば,ごく一部の快楽殺人犯を除いて,ほとんどが分別をわきまえた殺人犯だといえる。
 人を殺してしまった場合,犯人にとって最大の課題となるのが,死体をどう処理するか,だ。死体が発見されれば,死体に残った傷や残留物から自分が犯人だと特定されるおそれがあるし,死体の身元が判明すれば,人間関係から自分にまで捜査の手が及ぶ可能性もある。殺人犯は,できれば死体そのものをこの世から永久に消してしまいたいのだ。そこで殺害後,第三者に見つからないだけの時間的余裕があれば,海中に沈めたり,山に埋めたりして証拠隠滅をはかる。
 だが,自宅など屋内で殺人を犯した場合,死体を屋外に運び出す際に誰かに見られる可能性が高い。また,犯人が女性の場合,女性の力では死体を持ち運ぶことさえ難しい。死体は想像以上に重いものだ。では,どうやって証拠隠滅をはかるか。多少の手間はかかるが,死体をバラバラに切断するのは,きわめて合理的な方法である。細かく切断すれば持ち運びやすくなるし,バッグや袋に入れれば他人に怪しまれずに持ち出すこともできる。いってみれば,いらなくなった重い家具を分解して粗大ゴミに出すようなものだ。あるいは「自己保身」という意味では,不要な重要書類をシュレッダーにかける行為に近いだろう。いずれにしろ,たとえ処分することになっても,家具や書類に対して特に悪意を抱いているわけではないのだ。それと同様に,バラバラ殺人犯も,死体に対して悪意があるわけではない。殺してしまった時点で,死体は犯人にとって「不要な物体」でしかないのだから。

上野正彦 (2010). 死体の犯罪心理学 アスキー・メディアワークス No.1721-1723/2162(Kindle)

コントロール

 人間の身体は,血液の成分,組成,温度などをつねに厳重にコントロールしている。たとえば,pH(酸性やアルカリ性をはかる「物差し」のようなもの。pHの値には0〜14までの目盛りがあり,7を中性もしくは化学的中性点という。7より小さくなるほど酸性が強く,大きくなるものほどアルカリ性が強くなる。)は7.35〜7.45の間で調整されていて,何らかの理由でpH7.0以下になれば昏睡に陥り,逆に7.7以上になれば痙攣を起こす。それほど微妙なバランスの上に成り立っているものなのである。

上野正彦 (2010). 死体の犯罪心理学 アスキー・メディアワークス No.1221-1222/2162(Kindle)

代理ミュンヒハウゼン症候群

 ミュンヒハウゼン症候群とは,周囲の関心を引きつけておくために病気を装ったり,自傷行為に走ったりする精神疾患のこと。病院の待合室などでは,多少の“病気自慢”を見かけることもあるが,それの度がすぎると一種の精神疾患とみなされるようだ。
 病気を装うという点では,「詐病」に近い。だが詐病には,病気を装うことで仕事をサボるとか,保険金を詐取するとか,心神喪失で罪を免れるなど,本人にとって病気以外の具体的なメリットがある。一方,ミュンヒハウゼン症候群の場合,具体的なメリットは何も求めない。ただただ「つらそうだね,大丈夫?」という他人の同情をかいたいだけなのだ。これがエスカレートすると,なにか病気を見つけてくれるまでいくつもの病院を受診して歩く。あれこれ症状を訴えてはさまざまな検査を受け,ときには検査の検体まですり替えてしまう。同じ部位を何度も傷つけるため,その部分が壊死して瘡蓋のようになっている場合もある。
 そういった障害が自分ではなく近親者に向けられるのが「代理ミュンヒハウゼン症候群」だ。健康な家族や子どもに危害を加えたり,病気を捏造することで不必要な検査や治療などの医療を受けさせ,他人の同情や援助を引き出す。虚偽性の精神疾患である。ほとんどの場合,子どもに代理させるため,しばしば児童虐待と間違われる。だが,本人は子どもが憎いわけではない。逆に,病気の子どもを愛おしく思う。そして,愛おしい子どもの世話をしている自分に酔い,周囲からも褒められたいのだ。特にアメリカでは,この疾患を病んでいる母親が多く,年間600〜1000の症例が報告されているという。

上野正彦 (2010). 死体の犯罪心理学 アスキー・メディアワークス No.1144-1145/2162(Kindle)

指紋除去

 事件当時,林受刑者はオウム真理教の治癒省大臣として,犯罪にかかわった信者の指紋除去手術などを行っていた。その方法は,両手の指先の皮膚をすべて剝ぎ取ってしまうという乱暴なものだった。表皮だけでなく,真皮までも切除し,筋肉を露出させてしまうのだ。そうなれば当然,指紋は採取できない。真皮そのものが削り取られているから,指の根元から指先へ皮膚が少しずつ再生されていっても,決して元と同じ指紋にはならない。だが,真皮まで剥がされたら,人は痛くて痛くて指先を使うことはできない。この手術を受けた信者は,その後数ヶ月間,物を持つときに両手のひらだけを使うなど,かなり不自由な生活を強いられたようだ。
 私に言わせれば,林受刑者はあまりに法医学を知らなさすぎる。犯人を特定する証拠は指紋だけではないのだ。掌紋もある。また,「指紋消去手術」などという言葉を安易に使ってほしくない。それは「手術」でも「医療」でもない。証拠隠滅をはかった,ただの忌むべき犯罪(傷害罪)行為である。そんな林受刑者を,私は医療人として絶対に許すことができない。

上野正彦 (2010). 死体の犯罪心理学 アスキー・メディアワークス No.707-709/2162(Kindle)

血の赤さ

 よく知られているように,動脈血は鮮やかな赤色,静脈血は黒ずんだ赤色をしている。献血や血液検査で採血するのは,すべて静脈血だ。それに比べて動脈血は赤ペンキのように真っ赤なため,一目で区別できる。テレビの刑事ドラマで犯罪被害者が流血しているシーンを見ると,なぜか血液は暗赤色で表現されていることが多い。おそらく製作者サイドが,採血などで静脈血しか見ていないせいだろう。だが実際には,静脈血を切断されて死に至るケースは少ない。逆に,外傷から真っ赤な鮮血が流れていれば,動脈からの出血失血の可能性が高い。

上野正彦 (2010). 死体の犯罪心理学 アスキー・メディアワークス No.637/2162(Kindle)

一酸化炭素中毒

 一酸化炭素は,赤血球に対して酸素の200倍以上の吸着力があり,一度吸着すると容易に離れない。そして一酸化炭素を吸い続ければ,一酸化炭素中毒でガス交換できない赤血球が体内で急速に増えていき,やがていくら肺呼吸してもガス交換できない状態に至る。こうした赤血球レベルでの窒息を「内窒息」,肺呼吸レベルでの窒息を「外窒息」という。いずれにしろガス交換できないわけだから,同様に死に至るのだ。

上野正彦 (2010). 死体の犯罪心理学 アスキー・メディアワークス No.612-613/2162(Kindle)

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