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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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陰謀論の出処

 陰謀論は,ゆがんだパターン認識から生まれる——聖母マリア・チーズサンドの認知版である。陰謀論の信奉者は,9・11の事件を,予定していたイラク侵攻計画を正当化するためのブッシュ大統領の画策と,頭から思い込んだ。そして,タワーに衝突した最初の飛行機に関する大統領の記憶の誤りを,彼が前もって攻撃を知っていた証拠と考えた。ヒラリー・クリントンは選挙に勝つためなら,どんな発言でもすると思い込んでいた人々は,ボスニアの空港で狙撃されたという彼女の誤った記憶を,選挙に有利になるようについた嘘だと即座に考えた。どちらの場合も,人びとは相手に対する自分のパターン化した見方を,事件にあてはめた。それに沿って裏にある原因を推理し,自説の正しさに確信をもつあまり,もっと理にかなったべつの説明を見落とした。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.208
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フィードバックループ

 カード合わせのゲームも,現実世界のデートや恋人探しも,拒絶という形で直接的な(そして痛みもともなう)フィードバックが即座にあたえられる。残念ながら私たちは,人生の中で自分が下した決断について,それが正しかったのかどうか,正確なフィードバックを日ごと,年ごとに手に入れることはできない。翌朝の天気を見れば当たりはずれがわかる,気象予報官のようにはいかないのだ。そこに気象学と,医学のような分野との大きなちがいがある。診断や外科処置の正しさに関する情報は,原則として入手可能だ。だが,実際には情報が気象データのように系統だって集められ,蓄えられ,分析されることはめったにない。肺炎を診断し処置をした医者は,処置が有効だったかどうかわかるまで,しばらく待たされる(あるいは永遠にわからずじまいになる)。結果がわかったあとも,処置の効果と自然治癒の要素とを区別するのはむずかしい。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.188-189

ブラウザ状態

 ブリティッシュコロンビア大学の視覚科学者で,変化の見落としに関する研究のリーダーであるロナルド・レンシンクは,脳の働きがウェブブラウザに似ているという興味深い指摘をおこなった。コンピュータが発明されるずっと以前に生まれたクリスの父親は,インターネットの膨大な情報がどうやって自分の受信機(彼は自分のパソコンをそう呼んでいる)に入ってこられるのか,教えてほしいと繰り返しクリスに訊ねる。たいていの人は,インターネットの情報は何千万台ものパソコンに配信されるもので,パソコン1台ごとに情報のコピーが蓄えられているわけではないのを知っている。だが,インターネットの接続が早く,ネットワークのサーバーの速度も早い場合,インターネットの仕組みについて,そう考えたくなるのもわかる。画面上では,ブラウザのリンクに沿って進むとページの中身がたちどころに現れ,知りたい情報が即座に手に入るからだ。1台1台のパソコンに情報が蓄えられているというのは,納得できる誤解であり,誤解してもふつうは支障がない。だが,いったんインターネットの接続に不具合が生じた場合,あなたの「受信機」は,機械の中にそなわっていると思っていた情報へアクセスできなくなる。そして自分が話していた相手が別人に代わっても気づかないという実験結果が示すとおり,パソコンと同じく私たちの記憶の中にも情報がほとんど蓄えられていない。パソコンがウェブの中身を蓄える必要がないのと同じように,私たちは情報を蓄える必要がないのだ。自分の目の前にいる相手を見たり,サイトへアクセスしたりすれば,たいていその場で情報を入手できるからである。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.179

思い込みを捨てる

 知識の錯覚を避けるためにまず必要なのは,自分の計画はほかに類がないという思い込み,その計画にかかる経費や時間に対する自分の予測が正しいという思い込み,それをすべてやめることだ。やめるのは,むずかしいかもしれない。なぜなら自分の計画については,ほかの誰よりもあなたがよく知っているはずだから。だが,この「自分が知っている」という感覚が,誤りのもとである。その感覚があるため,計画について正確に見積もれるのは,もっとよく理解している自分以外ないと思い込んでしまうのだ。かわりにお勧めしたいのは,ほかの人や組織が立てた同様な計画で,すでに完成したもの(あなたの計画に類似したものほどいいことは,言うまでもない)を探しだすこと。そしてそれらの計画にかかった実際の時間や経費を参考にして,自分の計画に予測を立てること。自分の内部にしまってあるものに対して,こうした“第3者の目”を取り入れると,計画に対する見方が大きく変わってくる。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.165

限界を知ろうとしない

 大学で教えていると,私たちの研究室に学生がやってきて,自分はあんなに一生懸命勉強したのに,なぜ試験に失敗したのだろうと嘆くことがよくある。彼らは何度も教科書や授業のノートを読み返し,試験を受ける時点ではすべてよく理解したつもりだったと訴える。おそらく教材の内容のあちらこちらを頭に入れたのだろうが,知識の錯覚から,繰り返し目にして見慣れた感覚を,内容に対する真の理解と取りちがえたのだ。教科書を何度も読み返すと,実際の知識から遠ざかってしまいがちだが,馴染んだ感覚は強まり,理解したという誤解がはぐくまれる。自分自身を試してみて,はじめて自分が本当に理解したかどうかがわかる。だからこそ,教師はテストをあたえるのであり,すぐれたテストは知識の深さを確かめられる。「ロックには,シリンダーがついていますか?」という質問では,鍵の部品に関する記憶を調べることしかできない。だが,「鍵は,どのようにして開くのでしょう」という質問なら,ロックにシリンダーがついている理由と,シリンダーのはたす役割についての理解度を調べられる。
 知識の錯覚でとりわけ驚かされるのは,私たちが自分の知識の限界を知ろうとしない,という点だ——知ろうとすれば,いとも簡単にできるのに。あたかも,「空がなぜ青いのか,私にはわかっている」と誰かに言う前に,まずは自分で「聞きたがり屋の子ども」ゲームをやってみて,本当にわかっているかどうか確かめる方がいい。私たちは,錯覚の餌食になりやすい。自分がもっている知識に,疑問をもとうとしないためだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.159-160

法廷での自信の影響

 アイオワ州立大学のゲイリー・ウェルズは,目撃者の自信が陪審員の評決にあたえる影響について調べるために,仲間と説得力のある実験をおこなった。彼らは犯罪行為の目撃から,陪審員による評決まで,犯罪にからむ全過程を再現した。まず,研究者は犯罪行為を設定し,1回につき108人の被験者がそれを目撃した。被験者たちがなにか書類に書き込んでいる部屋に,犯人に扮した役者が入り込んで計算機を盗み出すのだ。ウェルズは実験のたびごとに犯人が部屋にいる時間,犯人が被験者に言う言葉の内容,帽子(顔がわかりにくくなる)のあるなしを変えた。犯人がでていってから間もなく,実験者が部屋に入り,何人かが並ぶラインナップ写真を被験者に見せ,犯人を選びだすよう頼み,その選択に対する自信の度合も答えさせた。結果では,犯人を見る時間が短かった被験者のほうが,写真からの犯人選びで不正解が多かった。だが,自分の選択に対する自信度は長時間犯人を見た被験者と同じほど強かった。
 この実験でもっとも興味深いのは,自信過剰が証明された点ではない。ラインナップ写真から犯人を選び,選択に対する自信度を答えたあと,被験者は彼らの回答についてなにも知らされていないべつの実験者から,“反対尋問”を受けた。この反対尋問を撮影したビデオが,新たな被験者グループに見せられた。彼らの役目は,目撃証言による犯人の識別が正しいかどうかを判断する陪審員である。結果を見ると,陪審員はきわめて自信度の高い証人の識別を77パーセント信用した。自信度の低い証人に対する信用度は,59パーセントだった。さらに重要なのは,目撃条件がよくなかった(目撃した時間が短く,犯人が帽子をかぶっていた)場合でも,証人の自信がきわめて強いと,陪審員がその言葉を信じたことである。つまり,たとえ頼りない情報でも,証人の自信が陪審員の判断に大きな影響をあたえるのだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.145-146

自信は役立つか

 自己啓発書では,自信をもつことが大切だと力説されている。たしかに。自分の考えを自信をもって表明できれば,多くの人を説得して成功を手に入れられそうだ(少なくとも当座のあいだは)。自分の診断に疑問を抱かせず,患者を納得させることを目標にする人は,もちろん白衣を着たほうがいいだろう。装った自信にはご利益がありそうだ(相手を納得させられるほど自信の装いがうまい人は,もともと自信の強い人だとも言えるが)。だが,誰もが自己啓発書の勧めどおりに自信をもって行動すると,すでに信号として限りのある自信の価値がさらに損なわれ,自信の錯覚がより危険なものになる。極端な場合,人は正しい判断にまったくつながらない手がかりを,頼りにするようになる。自信を強めることは当人には役に立つかもしれないが,周囲の人たちを犠牲にしかねない。

チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.139-140

自信の連鎖

 医療の世界では,自信の連鎖はかぎりなく続いていく。医師は修行の1つとして自身をもった話し方を学ぶ(もちろん,生来自信のある人が医師になる場合もあるが)。そして患者は医師を,見かけほどの権威はないとは思わず,神のごとき明察力をもった聖職者のように扱う。その患者のへりくだりが,医師の振る舞い方に影響をあたえ,彼らの自信をさらに強める。危険なのは,自信が知識や能力を上回ったときだ。キーティングは言う。「医師に求められるのは平常心ですが,その境地にいたるには,技術力を磨くことが必要です。そして,つねに“不明”な要素がなければ,学び続けることはできません。医師という仕事には,謙虚であるべき部分が沢山あるのです」医師には,事実に耳を傾ける姿勢が欠かせない。知らないことは正直に認め,患者から学ぶ必要がある。だが,すべての医師が自信過剰を克服できるわけではない。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.136-137

対象になる

 チェスとちがい,ユーモア感覚を測る方法はないが,20世紀の心理学研究で1つ明らかになったのは,人のほぼすべての特徴が,科学的な研究の対象になりえるほど,計量が可能ということだ。といっても,人を笑わせるという,いわく言いがたい特徴が簡単に計量できる,というわけではない。もし簡単であれば,ユーモアのセンスがない人も,コンピュータでうまい冗談を作り上げることも可能だろう。私たちが言いたいのは,おかしいものとつまらないものに対する人びとの判断に,驚くほどばらつきが少ないということだ。同じことが,一見計量不可能に思える数多くの特徴にも言える。美は見る者の目に宿ると言われる。だが,じつはちがう——複数の顔写真で魅力を判断してもらうと,それぞれ趣味も好みも異なる人たちの評価が,みごとに重なり合う。誰もが俳優やモデルになれるわけではないのは,そのためだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.116

記憶の歪み

 ブラウンとクーリックのフラッシュバルブ記憶説にもとづいて,記憶の正確さを調べる実験がいくつかおこなわれている。その多くは悲劇的な事件の直後の記憶を集め,同じ対象者に数か月後,あるいは数年後にもう1度話を聞くという形がとられた。これらの実験では,フラッシュバルブ記憶が(いかに豊かで鮮明ではあっても),ふつうの記憶と同じようにゆがむという結果が一貫してでている。1986年1月28日の朝,スペースシャトル,チャレンジャー号が打ち上げ間もなく爆発した。その翌朝,心理学者ウルリック・ナイサーとニコル・ハーシュは,エモリー大学の大学生たちに,自分が爆発事故について知っていたいきさつを書いてもらったあと,細かく質問をおこなった。それを知ったのは何時だったか,そのときなにをしていたか,誰から教えられたか,ほかに誰かいいたか,事故についてどう思ったかなどである。直後に書かれたこのようなレポートは,実際にあったできごとに関する最良の記録的証拠になる——ボビー・ナイトとニール・リードの事件で,首をしめたかどうかビデオが事実を記録していたように。
 その2年半後,ナイサーとハーシュは,同じ学生たちにチャレンジャーの爆発事故について同様なアンケートに答えてもらった。すると学生の記憶は大幅に変わっていた。自分が事故について知ったいきさつに合わせて,ありそうではあっても実際にはなかったできごとが,混じり込んでいたのだ。たとえばある学生は,事故の翌日のレポートに,自己についてはスイス人の学生Yから聞かされ,部屋でテレビをつけるように言われたと書いた。聞いたのは午後1時10分,車で出かけられなくなるのが心配だった。一緒にいたのは,友人Zだった。ところが同じ学生が2年半後には,授業のあと寮に帰ると,入り口のホールでみんなが騒いでいたと書いている。そしてXという友人から事故のことを聞き,テレビをつけて爆発時の映像を見た。時刻は午前11時半,自分の部屋にもどったあと,自分以外には誰もいなかった。つまり,ときとともに事故について知ったいきさつ,知った時刻,一緒にいた仲間についての記憶が変わっていたのだ。
 こうした食いちがいにもかかわらず,学生たちは数年前の自分に関する記憶に,驚くほど自信をもっていた。それはできごとを非常に鮮明に思い出せるためだった——これもまた記憶の錯覚作用である。2度目の調査のとき,アンケートに書き込んでもらったあとの面接で,ナイサーとハーシュはチャレンジャー号爆発の翌日書かれた回答を,本人に見せた。学生の多くは,自分が以前に書いた回答と現在もっている記憶の食い違いにショックを受けた。そしてなんと,以前書いたものを見て,自分の記憶ちがいを認めるよりも,自分の「現在の」記憶のほうが正しいと言い張る学生のほうが多かったのだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.96-98

誤った思い込み

 ある意味で変化の見落とし以上に要注意なのが,自分が見落としを“するわけがない”という,誤った思い込みである。ダニエル・レヴィンはこの誤った思い込みを,「見落としを見落とす見落とし」と冗談めかして呼んだ。すなわち,自分が変化を見落としたことも気づかないほどの,盲目状態である。ある実験でレヴィンは,大学生のグループにサバイナ/アンドレアの会話場面のスチール写真を見せ,ビデオについて説明し,赤い皿が次のカットでは白く変わっていると教えた。つまり,変化の見落とし実験をするかわりに,作為的に入れ込んであるミスをふくめ,すべての種明かしをしたのだ。そして学生たちに,途中で皿の色が変わることを教えられずにビデオを見た場合,自分は変化に気づくと思うか訊ねた。すると7割以上の学生が自信ありげに,変化に気づくと答えた。もとの実験では,誰も気づかなかったのに!消えるスカーフについても,9割以上の学生が自分なら気づくと答えたが,もとの実験では,やはり全員が見落としている。これはまさに,記憶力に対する錯覚である。たいていの人は,自分は予期せぬ変化に気づくと思いがちだが,実際にはほとんど誰も気づかない。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.76-77

ゼロサムゲーム

 人間の脳にとって,注意力は本質的にゼロサムゲームである。1つの場所,目標物,あるいはできごとに注意を向ければ,必然的にほかへの注意がおろそかになる。つまり非注意による見落としは,注意や知覚の働きに(残念ながら)かならずついてまわる副産物なのだ。そのように,非注意による見落としの原因が視覚的な注意力の限界にあるとすれば,見落としを減らしたり取り除いたりすることは不可能だろう。つまり,非注意による見落としをなくそうとするのは,人間に両腕をパタパタ動かして飛べと言うようなものなのだ。人間の体の構造は,飛ぶようにできていない。同様に脳の構造も,つねにまわりの世界をすみずみまで知覚するようにはできていないのだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.56

注意の個人差はあるか

 だが,1つの仕事に対して注意を集中させる能力に,個人差があるということは考えられる。ただしその能力は,一般知能や教育程度とは関係がない。そして注意力の個人差で,予想外のものに気づく割合もちがうとしたら,パスを数える作業をらくにこなせる人のほうが,ゴリラに気づく確率が高いはずだ。数える仕事に苦労がいらないため,ゆとりができるからである。
 この仮説を試そうと考えて,ダンと大学院生のメリンダ・ジェンセンが最近実験をおこなった。彼らはまず,「赤いゴリラ」の実験で使ったような,コンピュータ画面でパスを数える仕事を被験者に頼んだ。はたしてパスを正確に数えられた人のほうが,予想外のものに気づく割合が高かっただろうか。結果はそうはならなかった。予想外のものに気づく能力は,注意力と関係がなさそうだった。同様に,ダンとスポーツ科学者ダニエル・メンメルト(ゴリラのビデオを眺める子どもの目の動きを調べた研究者)も,予想外のものに気づく能力は注意力を無関係であることを発見した。これらの発見は重要な実際的意味をもっている。訓練で注意力を高めても,予想外のものに気づく助けにならないのだ。完全に予想外のものについては,いかに集中力のいい人でも(悪い人でも)気づく可能性は低い。
 私たちに言えるのは,世の中には「気づき屋」も「見落とし屋」も存在しないということだ。どんなときも予想外のものをつねに見逃さないという人もいないし,つねに見落とすという人もいないのだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.49-50

携帯しながら運転

 運転,携帯電話,気が散るという話を聞いて,こう思う人は多い。運転中に助手席の相手と話すのは,べつに悪いことではない。なぜ電話で話すのは,それ以上に危険なのだろう(読者の中には,これまでの私たちの話に深くうなずき,「話しながらの運転」をすべて彙報にする運動を,はじめようと思った人もいるかもしれないが)。じつは,助手席と話すことは携帯電話で話すよりも問題が少ないのだ。実際に,助手席と話しても運転能力への影響力はゼロに近いことが,数々の調査で証明されている。
 助手席の相手と話すことは,携帯で話すよりはるかに問題が少ない。それにはいくつか理由がある。第1に,となりにいる相手と話すほうが,話が聞きやすくわかりやすい。そのため,携帯の場合ほど会話に注意を奪われずにすむ。第2に,となりにいる相手の目も,あなたの助けになる——不意になにかが道路に飛び出してきたときに,気づいて知らせてくれるかもしれない。それは携帯で話している相手には,できないことだ。携帯の相手と助手席にいる相手とのちがいで,もっとも注目すべき第3の理由は,会話に対する社会的要求と関係がある。車の中にいる相手と話す場合,相手にはあなたの状況がわかっている。そのため,運転のむずかしい場所にさしかかったあなたが急に口をつぐんでも,相手はすぐにそのわけを理解する。あなたに対して,会話を続けるようにという社会的要求はなされない。あなたが運転中であることを車にいる全員がわかっており,それにあわせて会話に求められる社会性も調整される。だが,携帯で話している場合,たとえ運転のむずかしい場所にさしかかっても,あなたは会話を続けるようにという強い社会的要求を感じる。なぜなら会話の相手には,あなたが突然黙り込む理由が見えないからだ。これら3つの要素がからみあうため,運転中の携帯電話はあなたの気を散らすその他のことがら以上に危険である。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.41-42

予想できるものに

 非注意による見落としを少なくするには,証明済みの方法が1つある。予想外のものやできごとを,できるだけ予想のつくものにすることだ。自転車および歩行者が遭遇する事故は,車がバイクを見落としてはねてしまう事故と共通点が多い。カリフォルニアの公衆衛生コンサルタント,ピーター・ジェイコブセンは,歩行者および自転車が遭遇する事故の割合を,カリフォルニアの各都市とヨーロッパ数か国について調べた。2000年の1年間に自転車と歩行者がはねられて負傷や死亡につながった事故の件数を,百万キロメートル単位で都市別に統計をとったのだ。パターンは明確で驚くべきものだった。歩行者と自転車が事故に遭う件数は,この手段による移動がもっとも多い都市部でもっとも少なく,自転車や歩行者が少ない地域でもっとも多かった。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.32

見ていても見えていない

 潜水艦がほかの船に衝突することは,めったにない。だから,あなたも船に乗るのを恐れる必要はない。だが,このたぐいの「目は向けていても,見えていない」ことによる事故は,地上ではひんぱんに起きる。あなたも駐車場や脇道から車を出そうとして,それまで見えていなかったよその車にぶつかりかけ,あやうく急停車した経験はおありだろう。事故のあと,運転者はいつもこんなふうに言う。「ちゃんと前を見て運転していたんだ。でも,いきなり車が現れて……それまでなにも見えなかったのに」こういう状況は,脳の注意力や認知力に関する私たちの直感的理解と矛盾するので,とりわけ厄介だ。私たちは,自分には目の前のものがすべて見えると考える。だが実際には,私たちはどんな瞬間にも目の前の世界のごく一部しか意識していないのだ。目は向けていても見えないという発想は,自分の能力に関する理解とまったく相いれない。そこでこの誤った理解が,自信過剰の軽率な判断を生むことになる。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.26

残酷なトレードオフ

 犯罪に問われる恐れがあるのに武装解除や和平に応じるお人好しはいない。DDRで仕事を得ても,自分たちが逮捕される可能性があれば意味がないからだ。そのため,多くの場合,和平合意の際は,武装勢力が武器を手放して兵士を辞めることと引き換えに無罪にすると明記される。結局,シエラレオネでも,兵士たちは恩赦を与えられ,経済的に不満を抱かないよう一般市民として生きるために手に職をつける権利を得た。
 平和とは,時に残酷なトレードオフのうえで成り立っている。その「加害者」には,元子ども兵のミランのように,好んで加害者になったわけではない,むしろ紛争の被害者といえる者もいる。物心ついたときから銃を持たされ,教育を受けたこともなく,戦うこと以外に自分の価値がないと心から信じてしまう者もいる。こういった人々への救済策は,確かに必要だ。
 一方で,家族を失ったり,身体に障害が残ったり,家を失い避難民となっている「被害者」に,同じレベルの恩赦が行き渡ることはめったにない。加害者の人数と比べて,被害者の数が圧倒的に多いからだ。シエラレオネで最終的に武装解除された兵士の数が7万2千人ほどであるのに対し,死者数は推定5万人,被害者数はおよそ50万人である。
 被害者たちは,元兵士たちの不満が爆発した時,犠牲になるのは自分たちであり,我が子であることがわかっている。そして,「平和」という大義のために,加害者の裁きをあきらめ,理不尽さをのみ込み,自らの正義を主張することを身を切られる思いであきらめる。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.66-68

子ども兵士

 子ども兵士は,スーダン,ソマリア,ウガンダ,ルワンダなどのアフリカの内戦のほか,アジアや南米の内戦でも存在してきた。子どもを使う理由は,大人に抵抗する力がない,洗脳しやすい,敵に警戒されない,身軽で目立たないのでスパイ活動や運び屋に適していることが挙げられる。AK47のように作りがシンプルで取り扱いしやすい自動小銃が出回るようになったことで,子どもでも銃を持てば1人前の兵士となれる。そして,先入観を持たないまま洗脳された子ども兵士ほど,残虐になれる。
 司令官たちは,子どもを兵士として使用していたことの罪を問われることを恐れ,子どもを解放したがらなかったり,子ども兵士の存在を隠したりする。また,18歳未満を子どもとする国際基準が自分の国には当てはまらない,自分たちの文化では15歳以上は大人だから,自分の国には子ども兵士はいない,と主張する国もある。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.60-62

選択肢の不在

 選択肢の不在。
 これ以降に訪れた多くの紛争地で,人々が繰り返し口にし,私が目の当たりにしてきたことだ。紛争の最中には,しばしば,選択肢とすら呼べない道しか目の前に存在しない状況に陥る。
 たとえ紛争が終わっても,食べ物がない,家がない,またいつか争いが勃発するかもわからない状態に生きる人々は,家族を失ったことを悲しむ間もなく,その日を生きることで精一杯だ。命はあるけど,自分が何のために生きているのかわからない。そして,自らの生き方を選ぶ選択肢も持っていない。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.48-50

言葉の凶器

 私は,現地を訪れるまで,「和解」とは良いことだと信じて疑わなかった。でも,その言葉を口にした時の現地の人々の表情を見て,自分が間違ったことをしているとやっと気づいた。部外者の私の無神経な問いは,たとえば日本で犯罪被害者の家族に,加害者との和解について尋ねるのと同じようなものだった。私が家族を失った立場だとして,ある日フラッとやってきた外国人に,加害者と和解しない理由を問い詰められたら,どんな気分になるだろう。被害者の心の傷を深める,いわば「言葉の凶器」と感じるのではないだろうか。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.41

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