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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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死んでいませんね

 占い師なんか,逆にそれをうまく利用している。手相を見せると,ひとこと。
 「何かありますね」
 当たり前だろう。「何かある」からわざわざ来ているのに,「わー,すごい。当たっている!」って言うばかやろうがいる。「あなたは,とっても悩んでいますね」とか,そんなの聞かなくてもわかるよ。
 「あなたは早漏で悩んでいて,それが原因で奥さんとも離婚しましたね」って,いきなりそんな細かいことを言う占い師がいたらおもしろいけどね。それで「当たっている!」とか言ったらすごいけど。「お父さんは死んでいませんね」というのもあるよね。どう相手が答えても対応できる。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.143
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放っておけ

 自分の言いたいことを,相手に考える余裕を与えずに見せちゃうと,一方的な押しつけになる。でも,ある程度の“間”を与えれば,あるレベルの人は考えるから。それで「説明が少ない」とか言うバカは放っておけばいい。そういうやつは,さっきも言ったけど,ハリウッドのエンタテインメントだけ観ていればいいんだよ。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.139

ふわっとした感じ

 「編集」には専門の職人さんがいるんだけど,その技術はなかなかすごいもんだよ。例えば,景気よく銃を発砲するシーンがあるとする。「ドン!」と火を噴いた瞬間に,一瞬だけ“白味”を入れる。白味というのはなにも映っていないコマのことで,それを1コマだけ入れるの。そうすると,画面がちょっと「フワッ」となるんだよね。1/24秒で一瞬のことだから,普通に劇場で見ている分には気づくはずがないんだけど,それがあるのとないのとでは,感覚としては大違いになる。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.128

2つあります

 討論が上手くなる方法はまだあって,ちょっと長めにしゃべりたいと思ったら,「私の言いたいことは2つあるんですよ」とやる。「3つあります」というと,「おまえ3つもしゃべるのか!」となるから,2つがいい。ひどいやつは,「私の言いたいことは5つあるんです」とか言って,「多いよ!」って突っ込まれる。
 「最後に1つだけ言わせて」というやつも嫌われる。そう言うやつに限って,1つで終わった試しがない。
 「私の言いたいことは2つだけあるんですよ。1つめは〜」とやるんだけど,その1つめは,すごく短くするの。「1つめは,政府の見解には断固反対です」とか。そうやって,「あ,こいつの話はすぐに終わるな」と周りを油断させておいてから,「2つめ」に,自分が本当に言いたいことを長めに主張する。
 討論を聞いていて,「まあまあこの人うまいな」と思わせるのは,だいたいそういうやり方の人だね。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.91-92

呼吸するタイミング

 上手い人は,相手が呼吸するタイミングで入ってくるよね。その呼吸の間合いを読むのが上手い。ある人が「僕はね,そういうことはね,」と言って息をすった瞬間に,「いやあ,だけどさ」と入ってこられると,「ウッ」となって,話をとられる。そうやって相手がしゃべるのをつぶす。
 テレビで人気あるキャスターとかアナウンサーは,このあたりの間合いを熟知していて,息継ぎのタイミングをちゃんと研究しているから,みんな上手い。下手な人は,「もっと僕にもしゃべらせてくださいよ」なんて情けないこと言うから,「ちょっとあんたは黙っておいて!」とやられちゃう。呼吸と“間”というのは,だから密接につながっている。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.89-90

息を吸ってしまう

 “間”が悪い人というのは,話をしている途中で息を吸っちゃう。息継ぎが下手なの。自分の頭の中で,「この話のどこで息継ぎをするか」を考えていない。
 だから,「それはですね,原子力発電というもののリスクというのは政府が思っているより安全じゃなくてそれを信用するというのがそもそも(“スーッ”と息を吸う)間違いなわけであって」なんていうことになる。息継ぎがスムーズじゃないと,話している内容が頭に入ってこないから損をする。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.88

漫才のスピード

 おいらのときは,漫才のスピードをそれまでの倍にした。B&Bとツービートでジャンジャンジャンジャン速くした。それまでに漫才をしていた人たちの倍は速くしゃべって,そこに何倍もギャグを詰め込んだ。
 今の漫才もどんどんスピードが速くなっているけれど,おいらのときと決定的に違うのは,コンビ2人ともスピードが速いということかな。
 おいらと洋七がバリバリやってたときは,速いのはおいらたちだけで,相方は合間に手拍子入れるぐらいの感覚。なんてったって,きよしさんと洋八は,「紳助竜介」の竜介を加えて「うなずきトリオ」だから。
 おいらがバーっとしゃべって,相方が「ああ,そうです,そうです」とか「なるほど。それで」と言うだけだから,漫才を2倍速くしたといっても,2人して速いわけではなくて,片方が速いだけ。
 それが今の漫才は,ボケとツッコミの両方が速い。コンビが同じ速さでもって掛け合いをしている。そういう意味では,おいらのときよりも漫才自体が速くなっていると言えるし,それができるということは,掛け合いの技術が上がっているということでもあるんだろうね。
 なんでそうなったか。
 思うに,ツッコミが笑いを取ろうとし始めたからじゃないかな。それまでは,ボケが笑いを取って,ツッコミはそのリアクションだったりフォローだったりしたわけだろう。それがどんどん変化して,ボケとツッコミの両方で笑いを取ろうとし始めた。そのあたりが,今の漫才の最大の特徴と言える。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.58-59

どうやれば上手くなるのですか?

 よく「漫才というのはどうやれば上手くなるのですか?」と聞かれることがある。それを聞いてきたやつが芸人だとしたら,その時点でダメだな。
 要は客を笑わせればいい。それだけ。そこに至る方法やプロセスはいろいろあるけど,「これが正解」というのはない。芸人の数だけ方法論はあって,それぞれが違って当たり前。
 もし,お笑いや漫才にマニュアルがあったとしても,その通りやって笑いが取れる保証はない。むしろダメなんじゃないかな。とにかく結果がすべて。芸人はその結果が欲しくて欲しくてたまらない。中毒みたいなものだから。それに「客を笑わせる」ことに飢えていなければ,結局何も身につかない。
 「役者と乞食は一度やったらやめられない」というけれど,芸人にもそういうところがあるんだ。けれどそれは半分正しくて半分間違い。
 「芸人になって客を笑わせたことがあるやつは,もう辞めることができない」——これが正解。その代わり客を笑わせることができなかった芸人は,その場で首吊って死のうかと思うぐらい落ち込むけどね。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.54-55

間抜け

 なんでこんなに間抜けな失言をするのかというと,自分がどういう立場にいる人間かがわかっていないからだ。自分を客観視する能力がないからこういうことになる。グーッとカメラを引いて,自分のことを俯瞰で見下ろして,周りの状況を把握していれば,絶対こんなことにはならない。
 普通政治家ともなれば,そのぐらいのことは当たり前にできていると思っていたんだけど,発言の影響力とか,マスコミが失言を虎視眈々と狙っていることを,わかっていない。それがわからないから間抜けなんだよ。
 まあ,そういう失言をテレビや新聞の記者連中が,マイクを突きつけながら鬼の首をとったように,「国民に説明してください!」「真意はなんですか!」と,目くじら立てて非難するのも,それはそれで間抜けに映るけど。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.18

すぐに捨てない

 セルフ・ネグレクトの高齢者は変化を嫌います。必要以上の物に囲まれて生活していますが,それによって安心感もあるのです。そのため,物が一気に捨てられてしまうことによって不安を与えてしまうことになります。
 慎重に1つ1つ,捨ててもよいかを聞きながら行うことはすでに述べましたが,ここからが大事なところです。
 「捨ててよい」と本人が判断したからといって,すぐに捨てないことです。実は後になって「やっぱりあれは必要だった」ということも多いのです。そのときに,捨ててしまっていると,戻してあげることができません。一度決断してしまうと,取り返しのつかないことになると思うと,その後の片付けが消極的になり,進まなくなります。捨てるものを分けては置きますが,すぐにゴミとして処分してしまうのではなく,しばらく様子をみて本当に必要がないことが再度確認できたら,捨てるようにします。
 最初にこの慎重なプロセスを踏むことで,安心して片づけることや物を処分することができるようになり,その後はぐっとスムーズに作業が進むことが多いのです。例えば,「この部屋はあなたに任せます」とか「入院している間に片付けておいて」などと,信頼されてしまえば,その後の片付けは一気に進みます。

岸恵美子 (2012). ルポ ゴミ屋敷に棲む人々:孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態 幻冬舎 pp.172-173

「もう死にたい」

 「もう死にたい」という言葉は,必ずしも本心を表しているわけではありません。
 それは何かのメッセージではないでしょうか。
 こんなに人様に迷惑をかけるくらいなら「もう死にたい」。こんなに腰痛がひどくて自分でトイレにも行けないのだったら情けないから「もう死にたい」ということなのです。「死にたいくらい辛い」状況に置かれている,そのような人にこそ,手を差し伸べるべきではないでしょうか。そして少しでもそれが解決すれば,きっと次の希望が見出だせるはずです。

岸恵美子 (2012). ルポ ゴミ屋敷に棲む人々:孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態 幻冬舎 pp.71

セルフ・ネグレクト

 マリア・P・パヴロウは,セルフ・ネグレクトを次のように定義しています。

 (1)個人の,あるいは環境の衛生を継続的に怠る
 (2)QOL(Quality of Life = 生活の質)を高めるために当然必要とされるいくつか,あるいはすべてのサービスを繰り返し拒否する
 (3)明らかに危険な行為により,自身が危険にさらされる

 まず,定義(1)についてですが,ここでは個人の衛生,あるいは環境の衛生を「継続的に」怠り,極めて不衛生に陥ることがポイントです。
 例えば環境の衛生を考えてみましょう。仕事が落ち着くまで部屋の片付けを後回しにしていて,仕事が終わったら一気に部屋の片付けを始める人はいるでしょう。
 また,年末に大掃除をするのが一般的ですが,徹底的に掃除をする人もいれば,いつもより少しだけ念入りに掃除する人もいると思います。つまり,多くの人は,掃除や片付けを時々はサボっても,継続的に怠ることはしません。
 個人の衛生を考えてみましょう。風をひいてしばらくお風呂に入らないことはあっても,風邪が治ればお風呂に入るでしょう。またお風呂に入らない日が数日続けば,タオルで体を拭いたり,足だけでも洗ったりということを代わりにするのが通常です。
 次に定義(2)ですが,ここでは「当然必要とされる」サービスを,「繰り返し」拒否することがポイントです。
 介護が必要な状態になれば,何らかのサービスを受けて少しでも助けてもらおうとするのは当然のことです。もちろんすべてのサービスを受けるには費用もかかりますから,介護保険で利用できるサービスをケアマネジャーから勧められ,自分の意志でいくつかのサービスを選択し決定していくことになります。
 ただ,サービスを勧められても,なかなか即答できる人はいないはずです。ケアマネジャーの説明に納得できなかったり,ヘルパーに限らず他者を家の中に入れることに抵抗を感じたりするため,サービス利用をすぐに決断できる人の方がむしろ少ないかもしれません。
 それでも,ほとんどの人は,何度か説明を受ければ,必要なサービスであれば納得して受け入れるでしょう。セルフ・ネグレクトは,繰り返しの説明や説得にもかかわらず,自分に必要だと勧めてくれるサービスを断り続ける場合です。
 定義(3)は,「危険な行為」により「自身が危険にさらされる」ことがポイントです。「危険な行為」は「傷の手当てをしない」などの,必要な病気の治療やけがの処置を「怠る」つまり「放置する」ことが含まれます。また病気治療のために必要な食事制限を守らない,薬を飲まないことが,「危険な行為」にあたります。通常の生活をしていれば生活に危険は生じないのですが,自分自身の危険な行為や不注意により,自分自身を危険にさらすような状況が起きてしまうのです。

岸恵美子 (2012). ルポ ゴミ屋敷に棲む人々:孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態 幻冬舎 pp.23-25

母親だけ責められる

 大きな問題は,論理的に考えてみると,母親のみを責めることがこれほど広がっていることの説明がうまくつかないということだ。母親の育児の主な担い手であるような家族でさえ,子どもたちは他の人々や事物——父親,親戚,家族ぐるみの友人,教師,仲間,メディア,書籍,子ども自身の生得的な特徴(乳児は生まれた時から気質がそれぞれ異なることが知られている)——の影響にさらされている。専門雑誌に掲載されたメンタルヘルスの専門家の125本の論文を対象にした研究によると,母親は,おねしょから統合失調症までの72種類の子どもの問題について責められていた。その研究は,この125本の論文を,母親と父親のそれぞれを記述するために使われている単語の数,子どもの問題の原因を母親のみに直接に帰属するもの,過去の文献の母親非難を疑うことなく受け入れているもの,その過去の研究を子どもの問題に関する説明の中に組み入れているもの,といった基準をもとに63種類の母親非難に分類している。63種類の非難のいずれにおいても,父親やその他の人は母親ほど責められておらず,母親非難の頻度や激しさは圧倒的なものだった。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.242-243

1日3回にします

引用内容が貯まってきましたので,本Blogの更新頻度を1日3回にします。
朝:毎日午前7時
昼:毎日正午
夜:毎日午後7時

今後も書籍引用Blogをよろしくお願いします。

価値と未熟さ

 もう1つ重要なこととして,どのような文化でも,敬意がほとんど払われていない行動や価値の低い行動は,いわゆる専門家によって,未熟さの兆候だとか不適切なもの,あるいは望ましくないものというようなラベルを貼られる恐れがあるということだ。白人で中流階級の男性が,他の人々よりも敬意をもって扱われる傾向のある社会では,白人中流男性と結びつけられるような行動は,成熟の証拠や確固たる情緒的適応の証拠として扱われやすい。このように,依存性,対人関係能力,行動のラベルづけについての研究は,何が健康的で何が健康的でないのか,何が人生を豊かにしてくれなにがそうでないのかを整理する際に,特に重要になってくるのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.220

男性も周期的なのだが

 女性だけでなく,男性のホルモンも周期的なパターンをとっていることが示されてきたのに,ホルモンと行動が関連する可能性を検討した研究のほとんどすべてが,女性に焦点をあてているというのは,いったいどういうことなのだろうか。たとえば,女性は月経前には操縦技術が落ちる可能性があるので,飛行機の操縦を許可すべきではないと言われてきた。しかし,一部の女性が,PMSのような操縦操作を妨げる何かを抱えているというのが,仮に真実であったとしても,少なくとも,我々は——その女性たちの場合——彼女たちが飛行機を操縦すべきでない日を予測できる。しかし,男性の場合,血液検査を毎日行なってホルモンレベルをチェックしない限り,男性の操縦能力がホルモン要因によって妨げられる可能性があるのはいつなのかわからないのである。それゆえ,論理的には,この領域で多大な研究努力が費やされるとしたら,その目的は男性についてもっと理解するというものであるはずだ!興味をそそるのは,男性のホルモン周期についての報告や男性の行動周期についての報告が行われるようになったことである。実際,貨物鉄道の男性運転手の勤務日を28日周期で決めたところ,事故の件数は「他のいかなる方策によるものよりも,劇的に少なくなった」という。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.168-169

ホルモン

 まず,重要なのは,性ホルモンに関する基本的で一般的な2つの原理を理解することだろう。第1の原理として,あるホルモンを「女性」,別のホルモンを「男性」と名づけることで,誤った二分類が生まれてしまった。多くの人は女性だけに女性ホルモン——エストロゲンとプロゲステロン——があり,男性だけに男性ホルモン——テストステロンなどのアンドロゲン——があると仮定している。これは誤った仮定で,男女は完全に異なるホルモンをもち,それゆえに身体的にも行動的にもその特徴が完全に違うという信念を増長させている。実際には,男性の身体にも女性の身体にも,「男性」ホルモンと「女性」ホルモンが両方とも存在するのである。実際,たとえば,男女とも身体にテストステロンがあるが,成人女性は成人男性に比べると,血液中のテストステロンが少なく,そして,血流からのホルモンによって影響を受ける受容体が男女で異なっているのである。そして,思春期に,男性ではテストステロンの効果が目につく——性器の発達,体毛の増加,声変わりなど——が,テストステロンはまた,女性の陰毛の発毛やクリトリスの成長を刺激してもいるのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.144-145

都市の機能のよう

 脳のどの部分がどの機能を補助しているのかを把握することが難しいのは,脳の驚くべき複雑さのせいである。脳は並はずれて複雑であり,1000億個の細胞からなり,それぞれの細胞が複数(しばしば未知数)の細胞とつながっており,それぞれの細胞が未知の数の細胞を活性化したり抑制したりしている可能性をもち,それぞれの細胞が他のニューロンの影響を受け,その人が何を食べるか,何をするか,何を感じるか,そしてその人が細胞に何をしたかによって影響を受けるのである(実際のところ,ある理論家は,脳梁の中で興奮性ニューロンが増加すると数学能力が高まると述べているが,そのニューロンに抑制機能が数学能力を高めると述べる者もいる)。さらに,前述したように,脳機能は特定の場所だけから生じるのではなく,同時に活動する多くの神経連鎖の複雑度や強度も関与しているのである。(たとえば市の機能は,1人の仕事だけではなく,いろいろな人々が関わっている多くの仕事から成り立っていることを考えてほしい——交通管理センター,警察署,消防署,救急車が協力している姿は,それぞれの部署がどのくらい効率的かということよりも,市がどのくらいうまく機能しているかについて多くのことを語ってくれる)。反応は非線形であることが多く,それゆえ追跡するには手腕が問われることになり,そして,反応の性質は予測しがたい。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.134-135

なぜ「しゃべりすぎる」と思うのか

 データでは裏づけられていないにもかかわらず,なぜそんなにも多くの人々が,女性が言語的に優れると信じているのかは,推測するしかない。とはいえ,2つの可能性が思い浮かぶ。1つは,女性は「しゃべりすぎる」とよく批判さればかにされてきたので,重要な言語御能力での優位性を示すデータを曲解して,女性がけっしておしゃべりをやめない,ぐちぐち言い続ける,あるいは男性や子どもを思い通りに動かすような言葉を使い続けることの証拠だと簡単に思ってしまうのだ。しかしながら,実際のところ,デイル・スペンダーとグロリア・ステイムが指摘しているように,女性がたくさん話すように見えるのは,1つには,女性が伝統的に沈黙を守るよう期待されてきたからだ。はっきり主張する女性や本心を語る女性は,今でも,それが男性の場合よりも,強引でふさわしくないふるまいだとみなされる恐れがある。しかしながら,最近の研究では,男女のおしゃべりの量に有意な性差が見いだされていないことから,存在するとされる発話の差異は,現実というよりもむしろ,社会や大衆文化のバイアスを反映した主観的な印象なのかもしれない。また,男性のほうが言語障害が多いという(証明されていない)信念によって,女性は言語的に優れているという信念が増長しているという可能性もある。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.128-129

形態的幼児性

 また,社会ダーウィン主義に関連するものに,形態的幼児性と呼ばれる考え方がある。ダーウィンによって提唱されたもので,女性は男性よりも小さく,男性よりも形態的(身体的)に乳児や子どもに近いという考えである。ビクトリア時代の理論家の中には,この考えをもとに,女性は男性よりも知的に劣っているが,子どもよりは知的だと考えた者もいる。これは,女性よりも男性のほうが毛深いのだから,ゴリラに似ているはずだと言うようなものだ。もしかしたら妥当なのかもしれないが,信じるべき理由があるだろうか。女性のいわゆる知的劣等性を「説明する」形態的幼児性という考え方が,ここでも,女性から法的,経済的,政治的な力を奪い取るのを正当化するために利用されたのだ。形態的幼児性を女性にあてはめた社会進化論は,黒人に対する白人の権力を維持するために同じ考えを利用した。彼らが言うには,白人に比べ,黒人は身体的に類人猿に似ているので,それゆえ白人よりも知的に劣っているのだと。黒人女性は,この性差別的で人種差別的な理論によって,さらにおとしめられたのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.42

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