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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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男性の優秀さを

 19世紀には,いろいろな脳部位で,女性と男性に差異がないことが明らかになるのだが,科学者は,男性の知能の優秀さを示すと自分たちが信じているものが存在する場所を探して,さらに突き進んで研究を行った。たとえば,脊髄の長さを測定し,脊髄の長さに見られる性差がいかに知性に関連しているかについて,入り組んだ説明を組み立てたこともある。こうした活動の中で,科学者は身体の部位を測定するだけでなく,男女にさまざまなテストを実施した。女性が男性より成績がよいときには,こうした情報はたいてい男性の優越性の「証明」として解釈された。たとえば,ロマーニズは,女性が男性よりも早く正確に文章を読むことができるのを発見したが,この結果は女性が道徳的に劣っている証拠に変えられている。その時代の著名な科学者であるロンブローゾとフェレーロが,この性差を説明し,読みの能力は嘘をつく能力と一体であり,女性は男性よりも嘘がうまいと論じたのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.37-38
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真実は不完全

 警告をしておこう。学生の中には,科学者や教師が常に正しいと信じきっている人もいる。そうした学生にとっては,専門家とみなされている人たちが,意図的ではなかったにしても,重大な間違いをよくおかしているということを見せられると,腹立たしくなることもあるだろう。自分が読んだり教わったりしたことに疑問をもちはじめると,確かなものが足元から崩れるような感じがするだろう。失うものの代わりに,新しい絶対的な真実をあなたに与えることは,私にはできない。しかし,大切なのは,絶対的真実と思っていたものが,不完全なものであり,あるいは存在さえしていないということを知ることである。実際よりもたくさんのことを知っていると思うよりも,自分の知識の限界を知っているほうがよいだろう。
 また,批判的に考えるスキルを身につけると,何も残らなくなるというわけではない。そうではなく,批判的思考スキルによって,研究を積極的に把握するための貴重な能力をたくさん得るのである。そして,積極的な気持ちで研究にアプローチすると,どの研究が合理的に行われているのか,どの研究者が自分たちのバイアスを見極めて,それを正直に認めようとしているのかがわかる位置につけるだろう。
 実験場の過誤を見いだしても,驚いてはいけない。結局のところ,この世界にあるものすべてについて,絶対的な確実性をもって知ることはできないのだ。当然,誤りは最小にすべきであるが,できるのはその程度なのだ。研究者にとって重要なのは,可能な限り正確であることだが,実験者のバイアスが混じって,研究方法や結果が本当に意味している以上の結論を出さないように気をつけることである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.28-29

インターセックス

 あらゆる人間を2つの性別に分類したことでもたらされたものの1つに,女性であることを決めるとされるXX染色体と,男性であることを決めるとされるXY染色体のいずれももたなくても,そして,典型的な男性あるいは典型的な女性のものと同じ外性器や内性器をもたなくても,2つの伝統的な性別カテゴリーの一方にあてはまると間違えて仮定されてきた人々が1.7%いるということがあげられる。この2つの性別カテゴリーのどちらにもうまく入らない人たちはインターセックスと呼ばれる。こうした人たちは,最近まで,西洋文明においては見えない存在であり,そのために,多くの社会的心理的な問題を抱えることになった。インターセックスの存在は,心理学的性差の分野に革命をもたらす可能性を秘めている。というのは,心理学的「性差」についての研究は,そのほとんどすべてが,典型的な女性と典型的な男性のみを研究対象にしているという誤った仮定に基づいて行われてきたからだ。こうした研究を行っている研究者は,参加者の性別を決めるために,染色体分析や身体検査をすることはけっしてない。そして,性別を「どちらかに◯をしてください……男性,女性」で分類するようなとき,インターセックスの人たちの多くは,自分がインターセックスであることに気づきさえしていないので,生まれたときに「割りあてられた」性別を答えてきただろう。これはとりわけ重要だ。というのは,報告されている心理学的性差はたいてい大変小さい。もし過去に戻って,あらゆる性差研究からインターセックスの参加者を取り除けるとしたらどうなるだろう。インターセックスの人たちはかなり多様である。彼/彼女らの反応や回答は,ある領域における典型的な男女間に存在する本当の差異を覆い隠しているかもしれないし,別の領域では小さな差異を大きく誇張して見せているかもしれないし,ある領域では実際には存在しない差異を存在するかのような誤解を与えてしまっているかもしれない。しかし,インターセックスの人たちは,染色体上も,生理学的側面でも,ホルモンという面でも,非常に多様であるため,そして,つい最近までほとんどの人が男と女のどちらかに割りあてられて,それに応じて育てられたので,彼/彼女らを研究に含めたことで性差研究の分野がどのように変わったのかを知る方法はどこにもないのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.17-18

自然に学んで大きくなった

 しかしながら,科学者は単に心理を発見し記しているだけではない。性別とジェンダーを研究している科学者も,他の人々と同じように,女性や男性がどのようなものである「はず」だということを学びながら大きくなったのだ。科学者も,たとえば,男の子は(銃を持った人形でない限り)人形で遊びたがらない,女の子はホッケーができないというようなことを耳にしてきたはずだ。人はどのようなものだ,あるいはどのようなものであるはずだという信念は,科学者がいかに研究をするか,世界をいかに見たり記述したりするか,ということに影響を及ぼしている。女の子と男の子は,まったく同じことをしているのかもしれないが,1人が女の子で,もう1人が男の子であるために,その行為は違うものとして記されるかもしれないのだ。たとえば,火で遊ぶ女の子は料理や子育てをしたいという生まれながらの願望を示している,火で遊ぶ男の子は生まれついての消防士だとか生まれつき勇敢だとか言われるかもしれない。科学者は,こうしたバイアスをもたず,「客観的」で,自分たちの考えや感情に影響されることなく世界を見ることができると誤解されていることが多い。さらに,多くの心理学者は,他人の発言をさえぎるような男性の行動を,好意的な意味で,主張性と名づけたりする。他の人からは無作法と呼ばれるかもしれないのに。このような場合に,どちらのラベルを選ぶかは,その人の経験や視点が反映される。だれもバイアスから逃れることはできない。それが真実だ。しかし,科学者は時に,自分の研究の解釈が,絶対に客観的な真実であるかのように発表する。人々は研究者が行った性差についての主張を聞き,それが真実であると思い込み,それに従って子どもたちを育てる。その子どもたちの中から性差を研究する科学者が生まれる。こうしてバイアスの循環が続くのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.2-3

訴訟は必須

 プロのライターにしろ,ウェブサイトで文章を書くブロガーにしろ,あるいは大学生に注意を呼びかけるチラシを作る大学の担当者にしろ,カルト団体からの面倒くさい抗議など,できれば避けたいと考えるだろう。ましてや,抗議への対応がこじれて訴訟沙汰になるのは最悪だと考えるかもしれない。
 しかし,「絶対に訴えられない文章」を書くことは不可能だ。100%真実と言えるだけの根拠と物証を揃えて,一言一言誤りのない文章を書いたとしても,カルト団体が民事裁判を起こすとこはできる。海外の事情はよく知らないが,少なくとも日本の訴訟制度では,根拠のない言いがかりのような理由でも訴訟を起こすこと自体はできてしまう。
 私は,カルトからの抗議に対応するため弁護士に相談することがしばしばある。そんなときに相談する相手の1人が,第3章で登場したY弁護士だが,彼は事あるごとに「訴えられない一番の方法は,書かないことだ」と言う。
 もし,あなたが何が何でも訴訟を避けたいというのであれば,もはやカルトについて何も書かないか,あるいは抗議が来た瞬間に記事を撤回するしかない。
 しかし,それでは何のために記事を書いたのかわからない。そればかりか,問題のない記事について謝罪したり撤回したりしてしまえば,カルト側はそれを「実績」として,さらにほかの批判者を屈服させるための材料にすることもある。
 うかつに記事を撤回したり謝罪したりすることは,ただ単にあなたのプライドが傷つくだけではなく,同じような表現活動をほかの人々に悪影響をもたらしかねない。
 だから,カルトについて文章を書こうとするなら,訴えられないようにすることにこだわるのは,あまり得策ではない。むしろ,訴えられる可能性を受け入れ,「訴えられても勝つ」ことを目指すのが,最も理にかなっている。

藤倉善郎 (2012). 「カルト宗教」取材したらこうだった 宝島社 pp.254-255

カルトへの想像力の欠如

 日頃はカルト問題にほとんど触れていないであろう大手マスコミの記者たちには,被害者自身がカルト団体の中でほかの信者への加害行為に関わっていることがあるという,カルト問題の複雑な構造や,「いま思えば馬鹿馬鹿しいものだとわかるが,なぜこんなものに入信してしまったのか」という被害者の後悔や羞恥心は,想像しにくいのかもしれない。

藤倉善郎 (2012). 「カルト宗教」取材したらこうだった 宝島社 pp.221-222

「ライフ・ボート」セッション

 有名な実習で「ライフ・ボート」というものがある。「沈没する船で,脱出用のボートに5人しか乗れません」という設定で,5人より多い受講生たちで「脱出する5人を,皆さんが投票で決める」というものだ。投票する前に,各人が「自分は生きたい」「生きる価値がある」とアピールする時間が与えられる。そこで,受講生たちが互いに「生きようとする意志が感じられない!」と責め合ったり,「自分はいいからほかの誰かを助けて」と発言した受講生が「偽善者!」と罵られたりする。投票の結果,脱出できないことになった受講生たちは親などに遺言を書き,「最期の1分」で自分の人生を振り返って「死んだ」ことにされてしまう。
 この最後のオチは,セミナー会社によっては「幸運にもほかの船が近くを通りかかり,全員助かった」となるバージョンもある。
 こんな様々な実習を絶叫したり泣きわめいたりしながら延々つづけていき,終盤では受講生同士が「すごく頑張った」「生き生きしている」などと互いに褒めちぎる実習がある。最期は「卒業式」。目を閉じて,セミナーの4日間を振り返る。
 「このすばらしい4日間を体験できたのは誰のおかげでしょうか。いま,いちばん感謝の言葉を伝えたい相手を思い浮かべてください。そして,目を閉じてください」(講師)
 目を開けると,その受講生をセミナーに勧誘した「紹介者」が花束を持って立っている。
 「おめでとう!」
 感涙とともに抱き合う。
 話に聞くだけだと,「いい歳こいたオトナがなにやってんだ?」と笑いたくなるかもしれない。しかし,朝から晩まで何日もこもりっきりで泣き叫んだりしているうちに,ほとんどの受講生がすっかり本気になっている。

藤倉善郎 (2012). 「カルト宗教」取材したらこうだった 宝島社 pp.69-70

面白い宗教は危険

 実は,面白い宗教というのは危険だと私は思っている。
 カルトは,私たちを笑わせようとして活動しているのではない。突飛な行動や言動を正しいことだと信じている。仮に教祖や幹部信者は本気で信じていなかったとしても,少なくとも信者たちにそれを信じこませることで,カネや労働力を収奪する。また,信者を動員して世間に存在をアピールしたり,無関係の人々を勧誘したりし,批判的な相手と言い争いになると,さらに突飛な行動や言動で攻撃する。

藤倉善郎 (2012). 「カルト宗教」取材したらこうだった 宝島社 pp.39

自己啓発セミナー

 もともと自己啓発セミナーは,1960〜70年代のアメリカで,マルチ商法のセールスマン研修と在野の心理学テクニックを組み合わせて作られたものだ。この出自のせいか,どのセミナーでも共通した問題がある。勧誘活動だ。
 セミナーの中では,実習と称して受講生たちに無償で勧誘活動をさせる。「自主目標」という名の勧誘ノルマを設定させられ,勧誘ターゲットとなる友人や家族の氏名などをスタッフに提出する。もちろん,目標を達成できなければ,ほかの受講生やスタッフから罵られ,達成できれば拍手の嵐。
 自己啓発セミナーにハマった人々が友人を勧誘したり路上で声をかけるのは,こういうカラクリがあるからだ。受講生たちは「自分が受講して感動したものを友人にも伝えたい」という気持ちで勧誘するが,実際にはそう行動するようにセミナー魏者に誘導され,勧誘活動と成果を管理されている。

藤倉善郎 (2012). 「カルト宗教」取材したらこうだった 宝島社 pp.36

ワープロ普及期の話

 よく,「日本語ワープロだと原稿が遅くなったか」というような質問を受けたものだが,速度をどうのこうの言うのは愚の骨頂である。速く打たねばならないのは,手書きの原稿をワープロで清書する場合の話であって,書斎は「総務課」でも「庶務課」でもない。書斎での文章作成は,創造なのだ。じっくりと,いいものを創りあげることをよし,とするのが当然なのだ。
 創造には推敲はつきものである。原稿用紙で推敲すると,原稿用紙をまるめて捨てることが多くなる。原稿用紙を使っていた時代には,書き損じの原稿用紙を処分するのに胸が痛んだ。貴重な地球資源を能力のなさのために捨てているのだと,胸が痛まない人間は人間の資格がない。
 だがワープロはそれがないから,脳力がなくとも自由に推敲ができる。紙資源の節約に大いに貢献している。

山根一眞 (1989). スーパー書斎の仕事術 文藝春秋 pp.106

「情報の洪水」

 「情報の洪水」という言葉がある。
 これは,嘘だ。
 情報があふれるほどあって,それに対処できない,という弱音の表現が「情報の洪水」という言葉を生み出した。「情報化社会」は「情報禍社会」なのだとか,「情報過多」によって短絡型思考,自閉症型反応,分裂症的反応をまきおこすという「情報ストレス理論」,環境汚染のひとつとして「情報汚染」を考えなくてはいけないという話まである。
 こういう情報の受けとめかたは,新聞,雑誌,テレビなどから流れてくる,見かけ上,莫大な量に見える情報を消化しないといけない時代に遅れるという焦りの産物にすぎない。
 しかし気をつけて見ればわかることだが,洪水のような情報の中味は,実は同じようなモノがあふれているだけの話で,どうということはないのである。
 ひとつの事件,ひとつのテーマが話題になると新聞も雑誌もこぞって同じことを報道する。違いは味つけだけだ。最も確実な報道をした媒体の情報を引用し再編成している例の多いことも,週刊誌やテレビを見ているとよくわかる。

山根一眞 (1989). スーパー書斎の仕事術 文藝春秋 pp.41-42

古事記への信仰・思想の影響

 ただし,注意しなければならないのは,日本神話を読む際にテキストとする『古事記』『日本書紀』「風土記」といった書物は,いずれも7世紀に成立したものであって,仏教をはじめ道教や神仙思想などの外来の信仰・思想が,すでに普及・浸透してのちの成立だということだ。
 すなわち,『古事記』などに語られる日本神話には,そうした信仰・思想の影響が現れているし,神話そのものが“輸入品”ということもある。
 また,これらの書物は朝廷が編纂を命じたものなので,朝廷に不都合なことは削除や変更を受けているし,朝廷に関わりのない話に関しては最初から排除されている可能性が高い。
 したがって,神話を読む際には,そうした「失われた部分」に対する想像力も必要となってくるのである。

鎌田東二 (2012). こんなに面白い日本の神話 三笠書房 pp.103

神道の特異な点

 神道が仏教やキリスト教と大きく異なる点は,お教や聖書に当たる“経典”がないというところにある。
 経典は釈迦やイエスといった創唱者(宗教を始めた者)の教えを記録したもの,または,そう称されるものだが,神道にはいわゆる「開祖」のような者は存在しないので,そうした経典もつくられることはなかった。
 神道はそうしたものの代わりに,神話と祭を通して,その価値観や世界観,儀礼などを後世に伝えてきた。そこには,古代の日本人が自然に対して抱いた畏怖心を核として,生きていくための智慧や生と死の哲学,歴史の記憶といったものが込められている。

鎌田東二 (2012). こんなに面白い日本の神話 三笠書房 pp.102

科学と宗教

 科学と宗教を結びつけ,世界観の変革を促すグルーバルな視点を軸とした多様な動きは,1980年代を通して雑誌メディアにさまざまな話題を提供していった。早くも78年には「精神世界の本」ブックフェアが開催され,その後の展開を予告していたが,79年にはオカルト専門誌「ムー」(学習研究社)が創刊,80年には,のちにテレビメディアを席巻する霊能力者,宜保愛子が朝日放送のワイドショー『プラスα』に出演してテレビデビューを飾っている。
 また,1980年代を通してメディアをにぎわせた宗教関連の事件,例えば「イエスの方舟」事件(1980年),「エホバの証人」輸血拒否事件(1985年),「真理の友教会」集団焼身自殺事件(1986年),世界基督教統一神霊協会による信者勧誘問題などは,日本の新宗教に対する特殊なイメージを確実に刻んでいった。こうしたなか,80年代後半になって,各種メディアはオカルトブームの復活を告げるのである。

一柳廣孝 (2009). カリフォルニアから吹く風—オカルトから「精神世界」へ— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.229-253

ニューエイジ

 ニューエイジは,アメリカ西海岸と深く結びついている。西海岸の中心地であるカリフォルニアは,20世紀初頭にはオカルトの地・神秘の国として認知され,世界じゅうのオカルティストがカリフォルニアへ集結することで,カルトの本場,「魔術師の帝国」と呼ばれるに至った。その後,1960年代のヒッピー文化を経て,70年代に始まるニューエイジ・ムーブメントによって,カリフォルニアは新たな精神文化を世界に発信する象徴的な場となる。その起源には,かつてこの地に本部を置いた,神秘性を基盤とする神智学,実利性を重視するニューソートがある。この2つを母体として,カリフォルニアでは多種多様な精神文化が生み出されていった。日本では,ニューエイジの多様な展開が「精神世界」というカテゴリーの下で集約され,さらに広範なスピリチュアリティ運動となって現在に至っている。

一柳廣孝 (2009). カリフォルニアから吹く風—オカルトから「精神世界」へ— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.229-253

猟奇性の付与

 むしろ1980年代後半の日本で注目すべきことは,ここまで見てきたような海外の虐待事件を報じる女性週刊誌上で,それまでの「子殺し」や「子捨て」報道とは質的に異なる「猟奇的な児童虐待」という問題の捉え方が定着し,それが広く共有されるようになった点にある。そしてこのようなオカルト的な児童虐待の語り口が,従来から日本にも存在した古典的な「子捨て」「子殺し」事件を報じる誌面にも適用されていくことになった。

佐藤雅浩 (2009). 児童虐待とオカルト—1980年代女性週刊誌における猟奇的虐待報道について— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.183-207

偽記憶症候群

 こうした記事を断片的に眺めていると,単に風変わりな海外の事件を日本の編集者が配信しただけのように思われるが,実は当時の北アメリカを中心とする欧米諸国では,前記のような「悪魔」に関する虐待事件が,集団ヒステリーとも呼ぶべき現象を巻き起こしていたのである。それは1980年代の欧米で広まった悪魔儀礼虐待(satanic ritual abuse)に対するパニックであり,アメリカを中心として悪魔カルト(satanic cult)が幼児や子供を性的に虐待しているという告発がなされ,法曹界や研究者,メディアを巻き込んだ一大センセーションを巻き起こした一連の事件であった。のちに「現代の魔女狩り」とも評されたこの現象では,告発の多くは法的に事実無根なものであるとされたものの,結果として荒唐無稽な虐待行為を「思い出す」加害者・被害者が続発し,有罪判決を受ける人々も多数にのぼった。

佐藤雅浩 (2009). 児童虐待とオカルト—1980年代女性週刊誌における猟奇的虐待報道について— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.183-207

88年から89年

 ここで注意したいのは,前の「女性自身」の記事の見出しに「幼児虐待」という文字が使用され,「チャイルド・アビュウズ」とルビが振られている点である。現在の感覚では何ということはない見出しだが,実は「幼児虐待」「児童虐待」という単語がこの種の大衆誌に使用され始めるのがこの1988年から89年であり,それまでは「子殺し」「子捨て」「子いじめ」「せっかん」などさまざまな言葉で呼ばれていた現象が,ある1つの用語=問題系へと集約されていくのである。事実,前記の記事以外にも,この時期には「幼児虐待!ひどい!ストロー1本で土の中に埋められた坊や」(「女性セブン」1988年11月24日号),「告発幼児虐待!!園児が泣いている!」(「週刊女性」1989年6月6日号),「児童虐待・恐るべき実態!パパ,ママ,殺さないで!!」 (「週刊女性」1989年8月1日号)など,「幼児/児童」と「虐待」という言葉を並置した見出しが量産されている。

佐藤雅浩 (2009). 児童虐待とオカルト—1980年代女性週刊誌における猟奇的虐待報道について— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.183-207

児童虐待の一般化

 しかし,このような感覚——「児童虐待」は重大な社会問題であり,私たちが解決に向けて真摯に取り組むべき課題である,というような認識——が広く人々に共有されるようになったのは,日本では1990年代に入ってからのことである。そもそもそれ以前の日本では「児童虐待」という言葉が一般的なものではなく,今日報道されるような子供に対する継続的な暴力や養育放棄といった事例を,ひとつの「社会問題」として捉える視点に欠けていたのである。そのような意味で,児童虐待は90年代の日本で「発見」されたものであり,それ以前の社会では一部の専門家が関心を寄せる対象にすぎなかった。
 ところが前述のような「児童虐待問題」に対する現代的コンセンサスが形成される直前,すなわち1980年代の日本の大衆メディアででは,現在の視点からみれば不謹慎とも思える性質の児童虐待報道が繰り返されていた。それは,陰惨な児童虐待事件をまるでオカルト的な恐怖物語を読むような感覚で読者に消費させていく雑誌記事であり,それらの記事は子供が犠牲になる事件を表面的には非難しながらも,アルシュ「別世界の物語」として無邪気に供覧するような性質を備えていた。

佐藤雅浩 (2009). 児童虐待とオカルト—1980年代女性週刊誌における猟奇的虐待報道について— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.183-207

宇宙人の性的暴力の特徴

 以上のように<強姦者>として告発された宇宙人たちは,異種生物間の性行為の可能性を日本人に教え,最も80年代的な宇宙人観を産出するに至るのだが,これについて述べる前に,宇宙人からの性的暴力を報じた事例の特徴をまとめておきたい。
 第1に,被害者の大部分が女性であり,男性被害者がほとんどいないということ。
 第2に,女性被害者からの訴えと比較して,男性被害者の体験談では,宇宙人からのレイプは非常な快楽をもたらすケースが多いこと。
 第3に,事件の発生件数は海外(主としてアメリカ)に集中し,日本での報告がほとんどないということ。これらの特徴が物語るものは何か。

谷口 基 (2009). バブルとUFO 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.155-179

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