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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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マニュアル・スカベンジャー

 統計によって幅はあるが,インドには40万人から120万人のマニュアル・スカベンジャー(引用者注:手作業の糞便処理人)が存在する。彼らは,個人の家庭や自治体,軍の宿舎,鉄道当局などに雇われている。線路の上であれ,詰まった下水溝のなかであれ,仕事は,糞尿がある場所からそれを取り除くことだ。そしてたいていの場合,彼らが空にするのはインドの乾式掘り込み便所だ。
 掘り込み便所といえば,地面に埋めた容器に人の糞尿を溜めるものだと思われがちだが,乾式掘り込み便所は容器を埋める手間を省いたものが多い。よくあるのは,平らな地面の上に,しゃがんだときの足の幅に2つレンガを並べただけのものである。穴はない。近くに水路や溝がある場合もあるが,それはかなり贅沢なほうだ。そして,公衆便所の場合は,仕切りも扉も水もないのがふつうだ。インドでは,現在もまだ1千万個の乾式掘り込み便所があるが,それはひとえにチャンパベンをはじめとする人々が,それをきれいにする役割を担っているからだ。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.139
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アウトカースト

 国連人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は,「潰された人々」と題する報告書のなかで,カースト制度とは次のようなものだと総括している。「世界でもっとも長く続いている身分制度……与えられた職業の清浄さを基準に定められた,複雑な社会集団の序列である」。実際,この制度は非常に複雑で,地域によっても,また宗教的な解釈の仕方によっても,微妙なちがいがある。けれども,インドのすべての地域に共通することが1つだけある。それは,カーストの下に,さらにアウトカーストという身分があって,彼らは汚れた,触れてはいけない者たちとされていることだ。そして,触れてはいけない理由は,彼らが人間の糞便を手で触っているからである。
 昔は,彼らは「バンギー」と呼ばれていた。サンスクリット語で「潰された」,ヒンドゥー語で「ゴミ」を意味する。現代では,彼らの公式な呼び名は「指定カースト」であるが,差別撤廃の運動家たちは,「ダリット」という呼び名を好んで使う。やはり「服従させられた」とか「虐げられた」という意味だが,「バンギー」のような否定的な意味合いはない。
 いまのインド人の多くは,カーストが指定する職業にこだわることは,もはやない。異なるカースト同士の結婚が増えて,より流動的に,より自由になったが,アウトカーストは,たいていの場合,やはりアウトカーストだ。それというのも,彼らはいまだに動物の皮をなめし,死人を火葬し,人の糞便をすくいとっているからである。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.137-138

学校のトイレ

 便器のほとんどは壊れているため,子どもたちは床を使用する。床がどうしようもなく汚れたら,学校の近くで利用できるトイレを探す。たいていそれは,もぐりの酒場や非白人用居住指定地にあるバーのトイレで,子どもたちはそこでビールを飲む。さもなければ,我慢して苦しい思いをすることになるか,だ。その結果,子どもたちは学校嫌いになる。トレヴァーはそのことに憤りを感じていた。「学校に行ったら,おしっこをする場所がないと,彼らにはわかっているのです。運転中にトイレに行きたくなった場合を想像してみてください。まったく集中できなくなるでしょう。そんなときに,先生の話を聞けるでしょうか?」
 これは,トレヴァー流の誇張などではない。学校のトイレ施設と出席率の因果関係は,数多くの研究で取り上げられている。ユニセフの統計によると,サハラ砂漠以南のアフリカに住む少女の3人に1人が,生理中の期間に限って,あるいはそれ以外のときもずっと学校に行っておらず,それは劣悪なトイレ施設のせいなのである。タンザニア,インド,バングラデシュでは,学校にきれいなトイレを設置したところ,入学者が最高で15パーセントも増加した。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.127-128

世界に目を

 衛生の問題に対する世界的な視野の欠如は,国連と開発途上国に限ったことではない。世界には,きちんと組織化されたトイレ協会があるが——たとえばイギリスや日本に——どれも,自国にしか目を向けていない。日本トイレ協会は,11月10日をトイレデーと定め(11/10は,「いいトイレ」の語呂合わせ),中身の濃い会議をおこなっているが,通訳は用意されていない。イギリス・トイレ協会は,トイレ・オブ・ザ・イヤーと名づけたコンテストを開催して大成功したが(このコンテストで最優秀と認められると,トイレの年間売上高が2倍になるほどだ),この協会の会員は,バス・トイレメーカーの関係者ばかりで,世界の公衆衛生の問題を解決しようという熱意は持ち合わせていない。
 ジャック・シムは,世界の不健全な衛生環境を改善するために活動する,地球規模の組織が必要だと考え,1999年に世界トイレ機関を設立した。彼には,この組織について,ある構想があった。世界中に存在するすべてのトイレに関する組織を,1つに取りまとめるサポート組織である。回避を徴収するつもりはなかった。彼の言葉を借りると,この組織は「リーダーではなく,召使い」なのだ。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.104

(引用者注:World Toilet Organaization (WTO): http://www.worldtoilet.org/wto/ なお近年,日本の企業もWTO主催の世界トイレサミットに参加しているようだ)

誤った選択

 差し迫った問題は,それだけではない。19世紀に下水道の方式を決定した際に,まちがった決断をくだしてしまったのである。当時,下水道システムには2つの選択肢があった。1つ目は,下水汚物と雨水を別々に処理するもので,分流下水道と呼ばれる。2つ目は,合流式下水道といって,汚水も雨水も1つのパイプに集める。合流式のほうが,建設費が安くて,簡単に敷設できる。しかし,このシステムには大きな弱点があった。雨である。
 下水道や下水処理場には,雨水タンクが設置されており,過剰な雨に備えている。そうすることによって,雨量が予想外に多いときにも,雨水を安全に蓄えることができるため,下水があふれることがない。しかし,ごく短時間に一定量以上の雨が降ると,雨水タンクでも対処できなくなる。すると,下水設備ではあらかじめ決められたとおりの処理が行われる。未処理の下水汚物混じりの雨水を,最寄りの水源に放流するのである。放流された汚水は合流式下水道越流水と呼ばれ,こうした措置をとることは,わりとよくある。ニューヨークでは,通常1週間に1度行われ,1週間の平均的な汚水排出量はおよそ189万キロリットルにのぼる。これは,オリンピック用スイミングプール2175個分にあたる。また,アメリカ全体では55億2600万キロリットルにものぼり,これがプールいくつぶんにあたるかは見当もつかない。「見てください」と,陽気なアイルランド人のケヴィン・バックリーが言う。「放流するか,さもなければ住宅の地下を洪水にするかなんです」。彼は,わたしを近くのジャマイカ湾にある雨水吐き口(合流式下水道の越流水を,河川などに捨てる放流口)まで案内してくれていた。雨天時には,ここからジャマイカ湾に汚水が流し込まれるのだろう。すぐそばには,「晴れた日に汚水が放流されているのを目撃した場合には,ニューヨークの非緊急時用ホットライン,311番に通報してください」と書かれた看板がある。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.87-88

ロンドンの基盤

 ヴィクトリア朝時代には,多くのすばらしいものをもたらしたが,わたしがもっとも好きなのは,衛生改善家(サニタリアン)という,いまはもう廃れた職業だ。衛生改善家とは,「公衆衛生」という新たな学問を修めた人々をさす言葉である。なかでも有名なのは,エドウィン・チャドウィックだ。
 チャドウィックは,当時の労働者階級がおかれていた不衛生な生活環境を問題にした。そして,それを改善するためには,下水道網を張りめぐらし,そこに雨水ではなく,下水汚物——新たに作られた言葉だ——を流してテムズ川に廃棄する必要があると考えた。おそらく川は汚れるが,それで住民の健康が守れるのならしかたがない。こうして下水道がつくられ,その結果,テムズ川はさらに茶色く濁り,人々がその川の水を飲んだため,コレラは喜々として拡大を続けたのである。汚物を川に流すことに,新聞や議会で激しい非難の声が上がったが,なんの手だても講じられなかった。パストゥール以前の医療機関では,依然として,疾病は瘴気による感染で広がると考えられていたのだ。
 乾燥した長い一夏がすぎて,ようやくこうした状況に変化が訪れた。それは,水の汚さではなく,空気の汚さゆえだった。1858年,テムズ川に満ちた下水汚物と夏の暑さが組み合わさって,「耐えがたい大悪臭」を生み出し,そのあまりの強烈さに,英国議会のテムズ川に面した窓のカーテンは,消臭効果のある塩化イオンに浸された。この問題を何年も先送りにしてきた議員たちは,ハンカチで鼻を抑えながら,たった10日間の審議で首都管理法の成立を可決し,「首都ロンドンの幹線下水道」を整備する首都事業委員会の設置が決定された。
 この委員会のチーフ・エンジニアに就任したのがジョゼフ・バザルジェットだった。彼は壮大な計画を立てた。テムズ川の上流,中流,下流の3つの幹線下水道を建設するというものだ。より小規模な,網の目のように張り巡らされた下水道の水がその幹線下水道に流れ込み,ロンドンの東の端にある2つの放流場所,バーキングとクロスネスへと運ばれる。ロンドンの下水汚物はここからテムズ川に投棄されるが,人々の生活の場からは充分に離れている。希釈する——エンジニアがマントラのように唱える言葉だ——ことによって,水質の汚染も食い止められる,と考えられた。
 バザルジェットによって,20年近くの歳月をかけ,下水道網が建設された。スティーヴン・ハリデーが著書『ロンドンの大悪臭(The Great Stink of London)』で述べているように,バザルジェットはもっとも偉大な衛生改善家だったと考えられる。彼がつくった下水施設に命を救われた人の数は,ほかのどんな公共事業によって命を救われた人の数よりも多いだろう。それにもかかわらず,彼の努力を称える証は,河岸公園に飾られた小さな銘板など,わずかしかない。彼の彫刻や,彼の名前を冠した公道も存在しないが,バザルジェットが,ロンドンのいまの生活の基盤づくりにかなりの貢献をしたことはまちがいない。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.80-81

トイレ習慣の2分類

 トイレの習慣に関しては,世界はおおまかに言って2つに分類される。湿式(水で流す)と乾式(水を使わない)である。肛門をきれいにする方法でいえば,水を使うか紙を使うか。右側通行と左側通行の習慣同様,このような文化が突然変わることはめったにない。インドやパキスタンには水を使う文化があって,排泄後に局部を洗い流すための,ロタ(小さな水差し,あるいはコップ)入りの水がなければ,トイレを我慢することさえある。トイレ空間の世界的権威,アレクサンダー・キラによると,19世紀のインド人は,ヨーロッパの人々が紙で局部を拭くという話を信じようとせず,その話を「不道徳な中傷」だと考えたという。
 そして日本は,トイレ習慣に関しては紙の文化である。拭く文化であって,洗う文化ではない。けれども,毎日の入浴の習慣や,衛生や礼儀に対する厳格な考え方からすると,日本には洗う文化も存在する。清潔,清浄を保つことは神道の4つの教えの1つである。ヨーロッパの人々のように,身体を洗わずに湯船に入ることは,日本人には考えられないことだ。日本には古くから檜でできた共同浴場の伝統があり,そこでは,湯船につかる前に身体をきれいにするのが当然だからである。
 ところが,こうした衛生に関するルールは,トイレには持ち込まれなかった。日本人は,紙で拭く習慣をもつ世界中の人々同様,お尻が汚れたまま外を出歩くことになんの抵抗も感じていなかった。紙で肛門を拭くことは,衛生学的には,乾いたティッシュで身体を拭いて,汚れが取り除けたと考えるのと同じくらい意味がない。
 紙で拭く文化は,実際のところ,人間の身体のもっとも不潔な部分を,もっとも効果のない方法できれいにしようとしている文化だ。そして,このことを衝撃的な形で実証したのが,J.A.キャメロン博士のすぐれた調査である。博士は1964年に,イングランド中南部のオックスフォードシャーに住む940名の男性のパンツを調べ,そのほぼ全員のパンツが便で汚れていることを突き止めた。その程度は「ミツバチ色のシミ」から「かなりの大きさの,まぎれもなく便とわかるもの」まで多岐にわかっていた。キャメロン博士は,この結果に愕然として,「大部分の人は,レストランのテーブルクロスについたトマトソースのシミ程度で,すぐに大声を張り上げるが,一方では便で汚れたパンツのまま上質のソファに座り,贅沢な暮らしを楽しんでいる」と述べた。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.39-40

革命成功

 ほんの60年前まで,日本は掘り込み便所の国だった。人々は,しゃがんで用を足していた。水で肛門を洗うかわりに,紙を使っていた。ビデが何かも知らず,気にもしていなかった。ところが現在では,日本で製造される和式トイレは全体のほんの3パーセントである。日本人は腰を掛けて用を足し,水で洗い流し,便座は暖かくて当然だと思うようになった。つまり,日本のトイレ産業は,道の左側を馬車で走っていた国民を説得して右側を走らせ,ついでに馬車からフェラーリに乗り換えさせるのと同じくらいの改革を,1世紀もかけずに成し遂げたのだ。日本のトイレ革命について,わたしが興味をひかれたのは次の2つの点だ。革命が成し遂げられたことと,その革命が驚くほど世界に広がらなかったことである。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.35

ハイテクトイレ

 日本は,世界でもっとも進歩した,驚くようなトイレを製造している。血圧を測定し,音楽を流し,便器の中に装備されたノズルから出るお湯と暖かい空気によって,肛門と「フロント部分」を洗浄および乾燥し,臭いの元を吸収し,夜中によろめきながらトイレに入ろうとする人のために電気をつけ,使用者に代わって便座を上げ下げしてくれ(これは,「結婚生活を破綻から救う機能」として知られている),タンクなどという古めかしいものなどなくても,排泄物を流してくれる。これらは,高機能トイレに付随する機能だが,最低でも,内臓ビデと暖房便座,そしてしゃれたコントロールパネルは装備されている。
 その結果,ここ数年,はじめて日本を訪れた旅行者は,帰国後,みな同じようなみやげ話を披露することになった。使用済みの下着を売る自動販売機と,得体のしれない「スシ」なるものにとまどいを感じる合間に,次のような出来事に遭遇するためだ。トイレに入ると,便器のわきにハイテクのコントロールパネルがあるのに気づく。パネルにはたくさんのボタンがあって,それぞれに何かのシンボルが描かれている。そして,便器の奥には奇妙なノズルが見える。日本語はわからないし,ボタンの上のシンボルの意味も,たまに添えられている英語に翻訳された説明書きも理解できない。このボタンを押すと,水が流れるのかしら?それともタンポン引き抜き器が出てくるの?いったい全体この「フロント・クレンジング」ってなに?用を足した外国人は,ごくふつうの水洗レバーをむなしく探す。そしてまた——今度もむなしく——コントロールパネルのどのボタンを押せば水が流れるのだろうと考える。とりあえず,1つ押してみる。するとノズルから水が飛び出し,下半身がずぶ濡れに。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.33-34

そんなオキテは無視せよ

 いじめっ子は,自分たちのオキテが解体され,叱られるのをとても恐れるんだ。だから彼らは,「チクリは最低な行為」「告げ口するのは卑怯者」といったオキテを作って,互いを見張ったり,自分たちを正当化したりしようとする。
 そんなオキテは,無視して構わない。例えば,集団でしめしあわせた無視,侮辱,デマや中傷といった,軽度のいじめであれば,学校の先生に対応を要求してもいい。もちろん先生は,こうした要求があったら,その情報提供者が誰かを,絶対にいじめっ子に伝えてはいけない。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.81

「いじめられる側も悪い」?

 「いじめられる側も悪い」なんていう発言をよく聞いたりしないかい?「抵抗しないから悪いんだ」「周りをイライラさせているのがいけないんだ」「もっと明るくならなくちゃ駄目だ」「本人にだって責任があるんだ」。でも,この手の発言って,そもそも間違っているし,加害者のためになっていて,むしろ有害なんだ。

 「いじめられっ子にも責任がある」という発言の多くは,どうしてそうなったのかという「理由」と,誰の責任かという「責任」ともごちゃまぜにしてしまっている。

 例えば,君が図書館に行ったときに,たまたま自転車に鍵をかけないでいたら自転車を盗まれたとする。そのことを誰かに言ったら,「それは君が悪いよ」と冷たく突き放されてしまった。でも,これって,おかしくない?悪いのは,どう考えたって盗んだ犯人だ。君は悪くないはずだ。

 確かに,君が鍵をかけていれば,自転車を盗まれる確率は減ったかもしれないし,これからも自転車に乗り続けられたかもしれない。でも,それはあくまで,盗まれてしまった「理由」が,「鍵をかけなかったこと」にあったという話であって,君が「悪い」とか,君に「責任がある」とかっていう話とは別のはずだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.56

いじめの言い訳

 自分のやったイジメ行為への批判を「なんでもないこと」にするために,いじめっ子はしばしば,次のようなパターンのイイワケを好んで使う。

1.「いじめの事実を否定する」
 これはいじめじゃなくて,単なる遊びやふざけ。だからたいしたものじゃない。ちょっといきすぎたかもしれないけれど,騒ぐほどのものじゃない。

2.「いじめられっ子のせいにする」
 いじめられっ子こそ悪い。性格が悪く,ウソもつき,周囲を嫌な気持ちにさせているのだから,これは受けて当然の攻撃であり,制裁。いじめではないし,むしろ相手のため。

3.「逆ギレする」
 なんの筋合いがあって説教できるのか。あなたの言うとおりにする必要はない。善人ぶっているけれど,あなただって人間なんだし,悪いことをまったくしていないわけじゃない。完璧な人などいないのだから,叱る資格なんてない。

4.「自分の責任を否定する」
 自分は,そそのかされたり,強要されたりと,やむをえずいじめの状況に巻き込まれただけ。やりたくてやったわけではないし,自分には責任がない。

5.「自分たちだけのオキテを主張する」
 自分はあくまで,仲間内で決めたオキテにしたがっているだけ。リーダーやみんなの気持ちにしたがっているのだから,自分には責任がない。みんなで決めたことなんだから,当然の仕打ち。

 こうしたイイワケを使うと,あたかもいじめを「良いこと」であるかのように偽ることができるし,自分が傷つかなくてすむ。うしろめたさを感じることなく,いじめを楽しむことができてしまうんだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.53-55

2通りの意味

 いじめっ子はしばしば,2とおりの意味に受けとれるような裏攻撃を好んで選ぶ。
 例えばいじめっ子が,いじめられっ子の肩を抱いて,「今日も一緒に帰ろうぜ!」とか「修学旅行のとき,一緒の班になろうよ!」とか「ゲーム貸してくれるよね?約束したもんね?」なんて言葉をかける光景を思い浮かべてほしい。事情を知らない周囲の人間から見たら,いかにも仲の良い姿に映ることだろう。

 でも,いじめられっ子は,いじめっ子とふたりっきりで帰ると,裏で嫌な目にあうことを知っているし,荷物持ちや宿題なんかを全部やらされるのがわかってるし,まだクリアしていないゲームを「借りパク」(借りたまま盗むこと)されるのが目に見えている。一見すると普通の光景でも,本人はとても苦痛を受けているような,とてもズルい攻撃。それが裏攻撃なんだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.47-48

限定された集団内で

 いじめは,同じ場所で,長い間,顔を合わせなくてはならない集団の中で生じやすい現象だ。例えば北海道の人が沖縄の人をいじめる,ということはまず起こらない。ネットで悪口を書くことはできても,それだけではいじめとは呼ばれない。
 人間関係でトラブルがあっても,そこから簡単に逃れられないような状態でこそ,いじめは深刻化しやすい。学校だけでなく,職場は簡単に変えられないし,地域も簡単に変えられないし,親族を選ぶこともむずかしい。そういう人間関係を入れ替えにくい状況が,いじめを生きながらえさせてしまう。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.35

ノリの順位

 いじめは,「そこにいるみんなの言うことは絶対」という状態を,とても強引なやりくちで作り上げてしまう。
 ただでさえ学校は,「ノリがいいか/ノリが悪いか」で,その人の見えない順位が左右されてしまいがちな空間。みんながノリでいじめられっ子をいじり,いじめられっ子の反応が悪いと,さらにいじめる。周囲の人間も,そのノリに感染して,一緒になっていじっていく。
 もちろん,日本の法律には「態度罪」「表情罪」なんて存在しない。態度が悪いとか,顔が気に食わないとかを理由に行なわれる攻撃は,ただの「私刑(リンチ)」だ。だけど,間違ったルールが通用してしまう仲間内では,それがまかりとおってしまうんだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.22-23

排除ではなく飼育

 多くのいじめは,排除のためじゃなくて,飼育のために行われている。「嫌いなヤツ」を追い出すためではなく,相手を「弱いヤツ」のままでいさせて,オモチャのようにして攻撃し,反応を楽しみ続けることを目的としているんだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.17-19

gの核心

 私の考察では,gの核心には,多重要求システムと心的プログラムの組み立てに果たすその役割がある。どんな課題においても,その内容が何であれ,課題遂行の異なる段階に対応する認知上の囲い地の連鎖がある。どんな課題に対しても,この連鎖は良くも悪くも作ることができる。良いプログラムでは,重要な段階が明瞭に限定され,分かれていて,誤った手段が避けられる。プログラムが悪いと,連続する段階がぼやけ,混同あるいは混合するようになる。前頭葉の患者の乱れた行動を見れば,あらゆる課題に,そして私たちがするあらゆることに,このリスクが存在することが分かる。思考と行動を順調に進行させるために,脳は常に警戒する必要があることが分かる。行動をこのように組織化するシステムは,きっとあらゆる種類の課題に寄与し,その効率が人によって変わるなら,普遍的な正の相関を生み出すだろう。
 レイヴンの行列のようなテストにおける多重要求活動——多くの種類の課題に対する多重要求システムの活動——の重要性,認知上の囲い地の創出におけるこのシステムの役割,あらゆる課題における正確な心的プログラミングの重要性。こういったことはすべてこれまでのgについての説明を強く支持している。しかし,これが唯一の説明なのだろうか?ほかの要因も普遍的な正の相関に寄与しているのではないか?
 答は分からないが,疑う理由があることは確かだ。gが遺伝子と環境のどちらに主に由来しているのかを問う論争が長い間続いていて,そういった論争のほとんどのものと同じように,答はきっと,どちらからもいくらかずつというものだ。環境に関しては,たとえば,電話番号を後ろから思い出すような短期記憶課題の集中的訓練のあとでレイヴンの行列の成績が向上するというような興味深い結果がある。一方で,gに影響する遺伝子の探索も進められていて,この研究は始まったばかりだが,答が出始めている。最も可能性が高いのは,gに大きな影響を与える1個あるいは数個の遺伝子はないというものだ。その代わりに,多くの遺伝子があって,そのそれぞれが小さな影響を与えているというものだ。さらに言えば,遺伝子が多重要求システムのような特定の脳システムだけに影響することはありそうにない。その代わりに,遺伝子は神経系全体に,そしてその外部にさえ,かなり一般的な影響を与えるようだ。
 上記のことは,普遍的な正の相関のもう1つの理由を示唆している。今度は,あらゆる課題で,同じ認知機能あるいは同じ脳機能に活動が要求されると考えられていない。その代わりに,脳全体で,すべての機能が,神経の発達に同じような幅広い影響を与える同じ遺伝子によって影響されることになりやすいと考えている。
 この2つの説明はいくつかの形で結びつくかもしれない。1つの可能性は,正の相関が本質的に異なる2つの理由から生じるというものだ。つまり,一部は,すべての異なる課題において共通の多重要求システムが関与するという理由から生じ,一部は,遺伝的(あるいはその他の)影響が脳の多くの異なる部位に共通に影響するという理由から生じるということだ。あるいは,2つの説明を関連づけることもできる。たとえば,多くの脳機能の中で,遺伝的変異に最も影響されるのが多重要求システムの機能であり,そのためレイヴンの行列のような,そういった機能のテストが,gの最も良い尺度になるということがありうる。いくつもの要因が正の相関をもたらすが,実際には,そのうちのいくつかがほかのものよりずっと重要であるということもありうる。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.306-308

ゆるい結びつき

 前に述べたように,合理化の特徴は考え同士のゆるい結びつきだ。事実Aは事実Bをさほど含意していない。2つは相性がよいため,1つを信じれば,もう一方も信じようという気になる。このゆるい結びつきの原理を用いると,一方の側に偏った政治的論拠を構築するのに絶大な効果がある。ばかげたことに,妊娠中絶についての討論相手の見方が突然,経済統制の議論に持ち込まれる。この2つの一連の問題が完全に独立していることはその際問題ではない。私たちの心の中では,個人についての異なる見方が結びつく。つまり,私たちは,Xについてその人を疑っていれば,Yについてもその人を疑う傾向がある。私たちは,多くの別々の一連の考えを(政治的に)「右」か「左」という包括的な表題の下にくくられるようにみえる。実は,そのことをずっと不思議に思ってきた。妊娠中絶と医療,アラスカにおける石油の掘削,課税,神の存在はすべて,単独で,重大で,細かく,複雑な問題だ。これらのどれ1つを取ってもそれについて見解を形成するのは,複雑で詳細な作業のはずであり,異なる問題に対して,その複雑さと細部はまったく別々のものだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.281-282

何かしてくれたのか?

 心的競合の世界で,最大のプレーヤーの1人は間違いなく感情だ。無愛想なティーンエイジャーに激怒し,配偶者に腹を立て,「私のためにいつか何かしてくれるというのか?」と何度思ったことだろう。そういった瞬間,ときどき,少し間をおくと気づくのだが,まさにその瞬間,その問いに実際には答えられない。まさにその瞬間,私の人生を価値あるものにするために,毎日,彼あるいは彼女がしてくれるすべてのことを実際には思い出すことはできない。これは,実に分かりやすい心的焦点,すなわち状況に一致した一連の現在の考えによる支配だ。まさにこの瞬間,怒りだけが支配し,怒りと一致した考えだけが姿を見せることになる。モンティ・パイソンがこのことを『ライフ・オブ・ブライアン』の中で完璧に表現している。「我々のためにローマ人はいつか何かしてくれたのか?」

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.273-274

分類の妨害

 最初の実験において,被験者は3,4歳の子供だ。子供はカードを分類して左と右にある2つの箱に入れる。それぞれのカードには,赤色の星か青色のトラックが記されている。左の箱には赤色のトラックが,右の箱には青色の星が記されている。
 子供は色ゲームから始める。赤色のカードを左に,青色のカードを右に入れるように言われる。このゲームは簡単だ。子供はカードの山をすべて分類する。
 次に子供はゲームに移る。今度はトラックを左に,星を右に入れる。実験者は子供が規則を分かっていることを確認する。分類が始まる。
 もちろん,この課題をうまくこなす子供もいる。すべきとおりに,トラックを左に,星を右に入れる。しかし,3,4歳だと,多くの子供がそのようにはしない。その作業の映像を見ると意外な感じがする。子供は赤色の星を取る。「これは星だ」と言い,形ゲームの規則を尋ねられると,右を指さしてどこに星を入れるかを示すことができる。しかし,分類しだすと,赤色の星をまっすぐに,前に赤色のものを入れていた左の箱に入れる。色ゲームの古い習慣が形ゲームの新しい知識と競合する。子供が実験者の質問に答えている間,新しい知識が支配していた。しかし,課題に取りかかり,カードを入れるとき,新しい知識はこっそりと立ち去り,古い習慣が支配力を再び主張する。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.261-262

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