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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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推論の連鎖

 推論の連鎖において,各段階が正しい確率が0.9だとしよう。これはかなり安心できると思われるかもしれないが,いま推論の連鎖がこの種の推論を10段階含むとしよう。2つの段階がそれぞれ正しい確率が0.9なら,両方とも正しい(最初が正しく,続いて2番目も正しい)確率は0.9の2乗,すなわち0.81だ。連続10段階だと,最後の結論が正しい確率は0.9の10乗,すなわち0.35に落ち込む。確率の法則は,個々の推論が完璧でなければ,推論の長い連鎖がよく針路をそれることを示している。連鎖のどこかで間違った結論が引き出されると,全体の過程が誤った方向に導かれる。
 この考えは,どうして現実には驚くべき結論を示す名探偵がほとんどいないのかの説明になるかもしれない。もっともなことだが,私達は最も明白で,簡単に引き出せる結論だけに頼る傾向がある。現実生活では,犬が吠えないという事実から1.0の確率で起きることはほとんどないからだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.205-206
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10%神話

 「人間は通常脳の10パーセントだけを使っている」という,よく知られた神話がある。どのようにしてこの神話が生まれたのかは分からないが,現代の脳機能イメージングは,むしろ反対のことを教えている。本当に驚くべきことに,目標の刺激が現れたときボタンを押すというような最も単純な課題でさえ,脳の多くを使っているのだ。しかし,それが当てはまるのは,認知上の囲い地の中核部分だけだ。どの瞬間も,私たちは脳内の利用できる全知識のほんのわずかな部分しか使っていない。18時間のあいだ,工学部の学生は,どのドミノも隣り合った2つの正方形を覆うはずであることがわかっていた。それらの正方形が交互に黒と白になっていれば,個々のドミノが黒と白を覆うことをきっと説明できただろう。この知識は原則的にはいつでも利用できた……すべての利用可能な知識やすべての可能な解決への経路を調べられるシステムであれば,即座にその知識を見つけていただろう。しかし,私たちのシステムはそのように作られていない。その代わり,私たちが持っている知識のほぼすべては,現在の経路,つまり現在の一連の認知上の囲い地に入るまで,休眠状態にある。問題解決の秘訣は,適切な知識を見つけること,つまり,問題をまさに適切な副問題に分割し,解決への適切な経路を進むことだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.201

前頭葉損傷

 さらに,前頭葉損傷の患者に関する膨大な量の研究文献から,あらゆる種類の認知テストにおける欠損が明らかになっている。それらのテストには,知覚や,迷路学習,単語の一覧表の記憶,単純な光や形にできるだけ速く反応すること,ジェスチャーをまねること,休暇の計画の立て方とかレストランでの食事の注文の仕方などの現実世界の知識,Fで始まる単語をできるだけ多く挙げることに関するものなどがあり,ほかにもたくさんある。神経心理学では,前頭葉の機能を「評価」する目的で有名になったテストがあるが,それらがどんなテストであるかはほとんど偶然に過ぎないと思う。前に述べたように,ほとんどの前頭葉損傷の患者は,ルリアが述べているような行動の極端な崩壊を示さない。とはいえ,前頭葉損傷の患者のそれなりに大きな集団を,損傷を受けていない対照被験者の同様の集団と比較すると,ほとんどの課題で患者の方に欠損が明らかになるだろう。ルリアの考えが示唆しているように,前頭葉損傷の患者は有効な行動において全般的に欠損を示す。gが低下していれば,そうなるはずだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.135-136

分布の違い

 人種集団間のIQ分布の違いは,純然たる事実として,私にとってせいぜい科学的に物珍しいことでしかない。この事実は,個人ではなく集団全体として考えれば,驚くべきことではない。たとえば,米国の黒人と白人は,遺伝子や収入,学校教育,生活が異なっている。これらをすべて考慮すれば,IQの分布(あるいは他のどんな分布でもよい)がまったく同じだったときこそ驚くべきだろう。また,この事実は特に興味深くもない。差し迫った科学的問題や解決されれば有用な情報が得られそうな問題を提起していないからだ。様々な集団のIQ分布に潜在的に影響する,こうした多くの制御できない要因を考えれば,はっきりした説明がいつか簡単に手に入るとは想像しがたい。
 ところで,この事実に気を取られていると,真の政治的課題を忘れてしまう。たとえば,遺伝因子は人種差の1因かという問題をめぐり,長期にわたる論争が行われている。政治的にも科学的にも,この論争はまったく的はずれだと思われる。つまり,これは,私に言わせればせいぜい物珍しいことに過ぎない。個人ではなく全体の分布に関係する簡単には解けない問題なのだ。一方,論争の範囲を完全に超えているのが環境の影響だ。人生や業績が,教育や資源,両親や同輩の影響に関する機会によって形成されることを知るのにほとんど科学は必要ない。さらに,社会政治的に言えば,こういった機械の不平等こそが真に重要なことだ。それは,社会における不公平さと関わり,それによって無数の市民の人生を形成している。遺伝子とは違って,意志力を充分に発揮すれば,その問題には実際に取り組めるのだ。こうしたことに人種差別が実際に関係しており,それはまた抽象的な集団の差異ではなく,それぞれの人に機会や権利,価値を与え,敬意を払うかどうかに関係しているのだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.77-78

たった1つの数値

 よくある反応は以下のようなものだ。人の性質が,たった1つの数,つまり1回のIQテストで得られた点数に還元されるはずがないではないか?人の価値が1つの数字でとらえられるはずがないではないか?それぞれの人は,多くのもの(無数の特殊な才能や,蓄積した個人的知識,個人の生涯をかけて築いた経験)の独自の集合体であり,無限の様相と色合いを持った個性的存在だ。そんな豊かさを立った1つの数字に還元することによって,gは,人間性の真の多様性と魅力をとらえそこなっているのではないか?
 人をたった1つの数字に還元する思想を攻撃する声を,これまでに私はたくさん聞いてきた。しかし,誰かがこの考えを擁護するのを聞いたことはないと思う。明らかに,スピアマンのg因子とs因子の理論は,このようなことをまったく意図していない。この理論は,gの概念において,人間性に関するあることを提示している。多くの一連の研究は,それが重要であることを示している。しかし,この理論は,同様に重要なその他無数のことも様々な形で認めている。確かに,どんな科学の理論であれ,同時にすべてのことを扱うのを期待するのは無理だ。
 価値に関しては,スピアマンの理論の範囲外だ。私たちは会う人を無数の尺度,つまり,誠実さ,笑い方,礼儀正しさ,威厳,魅力,冷静さ,忠誠心などで評価する。私たちは,スキーのジャンプ競技の選手,芸術家,圧制と戦う人,他人を守る人,屈服しない人,自分自身の関心より他人の関心を優先できる人を賞賛する。私たちは数えきれないさまざまな尺度で,人を評価し,愛する……しかし,これはスピアマンの理論が関与することではない。この理論が関与するのは,人間の行動に関する並外れて優れた観察と,どのようにその観察を説明するかに関してだ。
 同様の考え方が,よく行われる新しい種類の「知能」の定義,すなわち実際的知能,社会的知能,感情的知能に反映されている。スピアマンの時代以降理解されてきたように,人は無数に多様であり(実は,このことを示すのに科学はほとんど必要ない),多くの種類の「知能」を定義することによってこのことをとらえるのも,なんとなく正しいように思われる。それどころか,前に説明したように,「知能」という言葉自体,明確な意味をほとんど持っていない。お望みなら,数個のことだけを「知能」と呼ぼうが,多くの異なることを「知能」と呼ぼうが自由だ。人間の性質と能力には無数の変種があり,それらの重要性は,それらをどう呼ぶかによって影響されない。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.74-76

流動性と結晶性

 1960年代に,心理学者のレイモンド・キャッテルは,「流動性」知能と「結晶性」知能の区別を導入した。流動性知能は,新規の問題を解く現在の能力に関係する。この能力は,レイヴンの行列のような課題を用いて測られることが多い。したがって,流動性知能はスピアマンのgとほぼ同じだ。どこまで成功しているかは議論の余地があるが,レイヴンの行列のようなテストは,種々の文化において使えるように特別に作られており,特定の教育への依存を最小にしようとしている。対照的に,多くの一般的なIQテストは,特定の文化における教育の産物であることが明白で,もっぱらそれだけからなる材料も用いている。語彙や算数のテストがその例だ。キャッテルはそういったものを「結晶性知能」,あるいは習得された知識のテストと呼んだ。
 よく似た文化的背景を持つ若者の標準的な例では,流動性知能のテストと結晶性知能のテストは強い相関を示すことがある。キャッテルの考えは,高い流動性知能を持った人は教育からより多くを学ぶ傾向があるだろうというものだ。もっとも,結晶性知能を測るとき,実際にはその人の今の状態を測っていない。ある人が知識を学んだとき,どのようであったかを測っている。いったん学んでしまえば,その知識は結晶化される。結晶化とは,いったん学んだ単語は残りの人生のあいだかなり安定で,いつでも使うことができるという意味だ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.72

g飽和度

 スピアマンの理論の数学を用いてできることがもう1つある。再び,たとえば10個の課題のバッテリーを多くの人々にやってもらったと想像してほしい。結果として得られるのは,個々の課題とそれ以外の課題の相関のリストだ。10個の課題を用いるなら,45個の相関が得られるだろう。これまで見てきたように,実際のデータにおいて,それらはすべて正になる。ただし,あるものは他のものよりずっと大きくなるだろう。大雑把な経験則として,実際に目にする最高値は0.6程度で,最低値は0.1程度だろう(ここでは,課題をできるだけ異なるものになるようにしたと仮定している。非常によく似た課題では高い相関を示すだろう。スピアマンの理論で説明されるように,gだけでなくsも共有しているからだ。たとえば,2つの課題が両方ともラテン語の語彙力を測定していれば,それらの相関は他のものよりずっと強いものとなるだろう)。これらの相関のパターンから,個々の課題のg飽和度(g saturation)と呼ばれるものを計算できる。これは,その課題の成績がどれくらい強くg自体と相関しているかを示すものである。言い換えると,その課題がどれくらいよく,sではなくgを測っているかを示す。
 ここでも,正確な方法を知ることは重要ではない。その直観的理解は大切だ。大部分sで,gがほとんどない課題がある。こういった課題にとって最も重要なものは特殊能力であり,加えてgからの寄与がほんの少しだけある。成績は主にsで決まるので(このsは,その他の活動のすべてのs因子と異なっている),こういった課題は一般的に他のものとは低い相関を示す。逆に,大部分がgで,sからの寄与がほとんどない課題もある。こういった課題の成績は大部分がgで決まるので,他との相関は高くなる傾向がある。おおまかに言えば,バッテリー内の個々の課題のg飽和度は,他との相関の平均から導き出される。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.63-64

現実とg

 この問いを異なる方法で調べてみよう。2つのことを例に取ろう。過去100年間にわたって,文字通り何千という実験によって,人が仕事でどれくらい好成績を残すかを予測する方法が調べられてきた。合計何百万もの人が,最も単純で最も熟練を要さないものから最も複雑なものまで,考えうるあらゆる仕事でテストを受けてきた。基本的な狙いは,有能な従業員を雇える可能性を最大にするテスト,または方法を考案することだ。考えうるあらゆる種類の方法が調べられてきた。面接,推薦状,仕事の成績によるテスト,人格測定,基本能力テスト,筆跡学(手書きの字から個人の性格を読み解こうとするもの)などだ。大量かつ幅広い内容のデータは,それらの結果を結びつけ,評価するための統計学の新しい分野の発展を促してきた。現代社会において,これほど徹底的に調べられたものはない。その結果は,明白かつ,実に驚くべき内容となっている。
 なかには,それなりにうまくいく方法もあった。最良の方法は,仕事の能力を直接測ることだった。たとえば,優秀な煉瓦工を選ぶために最もよいのは,煉瓦をどれくらい上手に積めるかを評価することだ。そういった評価は後の生産性と0.5以上の相関があるだろう。役に立たない方法もあった。たとえば筆跡学だ。もっとも,イスラエルなどの国では,筆跡学は誰を雇うかを決めるためによく用いられる根拠となっている。
 実際に仕事の成績を測る方法の次にくるのが,一般認知能力のテストで,これは本質的にはgのテストと言える。このテストは,まったく熟練を要さない仕事に対して,後の生産性と0.2か0.3程度の相関しかない。平均的な複雑さの仕事に対しては相関が0.5で,最も複雑な仕事に対しては0.6に近づく。心理学者はgの力に慣れてしまっているので,このことに驚かないかもしれない。しかし,よく考えてみると,どのようにしてこんなことが可能なのか?煉瓦工を選ぶために,煉瓦を積めるかどうか尋ねてもいいし,あるいは,一見でたらめに集めたような人工のテストを1時間かけてやってもらい,その結果を平均するだけでもいいのか?そして,この2つの方法は同じぐらいうまくいくのか?確かに,これらのことは,人間の心に関して実に驚くべきことを語っている。
 示唆に富む観察がもう1つある。考えうる多くの仕事を集めてリストを作り,それらの仕事がどのくらい望ましいか順位を付けるように一般の協力者に頼む。そして,その人たちがどれくらいその仕事に就きたいかに関して,1位から最下位まで仕事の順位表を作成する。次に,実際にそれぞれの仕事に就いている人たちの平均IQの順位で,もう1つの順位表を作成する。何が分かるかというと,この2つの順位はほぼ完全に一致するということだ。さらに言えば,2つの相関は0.9を超える。ある特定の仕事が,一般の協力者が就きたいものであればあるほど,その仕事は実際にgの点数が高い人が就いている。これが何であろうと,人々の生活に甚大な影響を及ぼすのは間違いない。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.61-63

知能とg

 この章の初めで,「知能」の日常概念が明確な意味をもっていないことを述べた。それは,どうにでも取ることができ,比喩的であることもある。どんなものであれ,特定の1つのものを指しているとは考えにくい。
 これとは対照的に,スピアマンのgの概念は明確なものだ。それは,特定の事実(正の集合の存在)を説明するために提案された理論的構築物だ。その理論では,gを測定する正確な方法が詳述されていて,その手続きに従えば,結果は,性質の分かった安定した測定値になる。では,それが「知能」なのか?これは間違った問いでしかない。ある意味で,gは知能以上だ。つまり,より明確で,より客観的で,よりしっかりと定義されている。一方,ある意味では,知能以下でもある。gのような概念で「知能が高い(インテリジェント)」と呼ばれる多くの異なるものをすべて説明するのがほとんど不可能だからだ。私たちは科学に期待して,新しい考えを生み出した。それは以前に持っていた考えと関係がないばかりか,同じものですらない。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.60

指標の非重要性

 あらゆる種類のテストに共通する影響力(すなわちその人のgのレベル)があるという考えは,もう1つの印象的な予測をもたらす。それは,またもやスピアマンの最初の実験で予想されていたものだ。2つのまったく無関係なバッテリーを作るとしよう。最初のものは私がついさきほど述べた,記憶と反応時間,語彙,移動,注意のテストからなるバッテリーとしよう。2つ目のバッテリーには,重さの弁別とジグソーパズルを解くこと,通常とは異なる角度から写真を撮られた物体の認識,ブロックを使って何かを作ること,算数を入れよう。表面的には,この2つのバッテリーはまったく異なるものを測っている。したがって,1つのバッテリーをうまくこなす人がもう1つもうまくこなすと考える確たる理由はないだろう。しかし,スピアマンの理論によれば,どんなテストがバッテリーに入っているかは重要ではない。より多くのテストを含むようになれば,すべてのバッテリーでより正確に同じgを測れるようになる。スピアマンは,多くの異なる方法によって同じくらい正確にgを測定できるこの理論的可能性を,「指標の非重要性」と呼んだ。この予測は大胆だったが,現在,これはほぼ間違いないことが分かっている。2つのバッテリーが適度に大きく,多様である限り,1つのバッテリーの平均成績はもう1つのものの平均成績と強い相関を示す。したがって,スピアマンが学力と感覚弁別を比較したときに見出したように,1つのバッテリーから導き出されるgはもう1つのものから導き出されるgとほぼ同じだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.58-59

正の集合

 スピアマンが予想したように,結果は常に同じだ。いくら多くの課題が考案されても,内容や心的操作,成績測定の方法の面でどれほど注意深く分離してそれらを行なっても,同じ結果が繰り返された。テストを受ける人数が多い限り(観察結果が多くなればそれだけ相関は安定した),そして,その人々が正規分布する母集団から適切に,幅広く選ばれている限り,測定された何十あるいは何百の相関はすべて正になるだろう。相関が弱いものもあるだろう(すでに述べたように,たとえば,音楽はほぼすべてsであり,ほかのあらゆるものと非常に弱い相関しかないことを意味している)。ほかのものよりずっと相関の強いものもあるだろう(こういったものはすぐに重要になるだろう)。しかし,異なる結果を見つけようと強く望んでいる心理学者の手中にさえ,基本的な結果は残る。この結果は,専門用語で「正の集合(positive manifold)」と呼ばれている。これは,すべて正を示す異なるテスト間の相関の大きな集合であり,同じ人が異なることをうまくやる包括的な傾向を反映している。
 これは実はかなり驚くべき結果だ。物理が得意な子がフランス語もかなりできる,あるいはできる傾向があることは最初から分かっていたかもしれない。しかし,同じことが,電話番号を思い出すこととか,ライトが点灯したときできるだけ速くキーを押すことにも当てはまることを本当に知っていただろうか?きっと,こういった種々の関係のすべてが,正確にどの程度成り立つかを推測できるとは期待できなかっただろう。世間の人々は,実験心理学が本当に科学かどうか不審に思うことがある。しかし,ここで,行動に関する簡単な測定値によって分かるのは,新しい,注目すべき,確定される事実であり,説明が求められるものだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.56-57

gとs

 次の段階として,スピアマンは想像力と方法を並外れて飛躍させた。彼は,複数の教科の成績が,一般的な学力の高さを測る複数の結果と見なせるかもしれないと考えた。同様に,複数の種類の感覚における弁別の正確さは,一般的な弁別能力を測る複数の結果と見なせるかもしれない。問題をこのように考えることによって,スピアマンは測定の非信頼性に対して相関を補正する自らの新しい方法を生かすことができた。個々の点数を信頼できない結果とみなせば,それらを用いて,根底にある真の,一般的な学力あるいは一般的な感覚能力を把握できるだろう。このようにして,スピアマンは測定された相関を補正し,根底にある一般的な能力間の相関を推定した。その後の100年間に,このような種類の統計的手法ははるかに洗練されたものになった。たとえば,「因子分析」は,現在,科学と工学全般で相関データのパターンを解析するために用いられているが,スピアマンの研究の直接の子孫と言えるものだ。しかし,方法は単純だったにもかかわらず,スピアマンの解析は,驚くべき結果をもたらした。彼の方法で推定すると,学力と感覚能力は約1の相関を示した。言い換えると,ある種の数学を用いて個々のテスト間の見かけの相関に潜んでいるものを調べ,2つのまったく異なる分野(学校と感覚実験)の一般的な能力を推定すると,2つの能力が同一のものであるように見えた。学校で全般的に成績がよかった人は,感覚弁別でも全般的に成績がよかったのだ。
 こういった発見を説明するためにスピアマンが提案した理論は,もう1つの想像力に富んだ飛躍だった。学力あるいは感覚弁別だけでなく,いかなる心的能力あるいは心的成績(決定の速さや記憶する能力,音楽的あるいは芸術的能力)も測定するとしよう。こういった能力の1つ1つに対して,スピアマンは2種類の寄与があると主張した。1つ目は,それぞれの人の性質の中の一般因子(general factor)(取り組むどんなことにでもその人が用いるもの)からの寄与だ。最初,スピアマンはこれを「一般知能」と呼び,この用語は生き残っているが,彼自身は,私がこの章の初めに示した理由でのちにそれを放棄した。その代わりに,彼は単純に一般因子,あるいはg(= general)と呼ぶ方を好んだ。2番目として,1つ以上の特殊因子(specific factor)からの寄与が挙げられた。こちらは,個人の技能や才能,その他の因子であり,記憶や芸術のような,測定される特定の能力に特有のもので,他の活動にほとんど,あるいはまったく影響しない。gのレベル(一般因子がどれくらい効果的に働くか)は人によってまちまちだろう。ありうるすべての特殊因子もまちまちだろう。スピアマンはそれらをs(= specific)と呼んだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.52-54

正の相関をとる

 このような実験で何が見つかると予想するだろうか?一方で,他人より「聡明で」「鋭敏で」「知能が高い」人がいるという一般的な見方があるだろう。きっと,同じ子供が複数の教科で優れている傾向があるという予想ぐらいはするはずだ。他方で,私たちは,それぞれの人が独自の能力や適性を持っていることもよく知っている。語学の得意な人とクリケットの技術者が同じだとは思わない。このように考えると,かなり低い相関を予想するだろう。少なくとも,学業成績と感覚能力の比較においてはそうだろう。
 スピアマンの最初の大きな成果は,すべての相関が正である傾向を示したことだ。いくつかの相関は他のものに比べて高かった。確かに,日常の直観が正しく,異なる教科間の相関は,学業成績と感覚弁別閾の相関よりたいてい高くなることは分かる。それでも,すべてのデータをプロットすると図1cのようになる。少なくともある程度,1つのことをうまくやる人は,ほかのこともうまくやることが多い。スピアマンの結果によって初めて,こういった結果が客観的な基礎の上に置かれ,それが正確にどのくらい正しいのかを測定する方法が得られた。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.51-52

インテリジェント!

 実を言うと,私たちは,うまくいったり,役に立ったり,効果的だったりしたことはほとんど何でも「賢い(インテリジェント)」といいがちだ。何かを「愚かな(スチューピッド)」と呼ぶとき,嫌いを少し超えていることを意味していることもある(「いこのいまいましい(スチューピッド)雨がうっとうしい」)。車の製造業者は自分たちの製品は車輪の上の知性(インテリジェンス)だと言う。小さな女の子が習いたての童謡を暗誦するとき,彼女を賢い(インテリジェント)と言う。確かに,脳がすることは,虫の知能(インテリジェンス)からパーティのホストあるいは数学者の知能(インテリジェンス)まですべて知能(インテリジェンス)のいち携帯と言えるかもしれない。
 私見では,日常概念の「本質をつかもうとする」ことは科学にとって後退だ。私たちは日常概念は,あいまいで,定義が不明確で,どうにでも取れると思い,実際に使えるものと確実なものを生み出す系統的な観察を期待する。しかし,心理学が注意や記憶,知能などの概念の本質を見つけようと試みるのは,土,水,火,空気という科学以前の元素を思い起こさせる。それは,化学者が,周期表を確立してから,目を凝らしながらそれを見て,「ところで,土,水,火,空気はどこにあるのだろう?」と尋ねるようなものだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.46-47

合理的行為者という幻想

 自分が最高の合理的行為者だという考えは,一度よく検討すれば,ばかげていると感じるはずだ。それにもかかわらず,その魅力は根深い。もう1人の現代心理学の父ハーバート・サイモンはこのばかばかしさを指摘したことに対してノーベル経済学賞を受賞した。20世紀前半の経済学では,想像上の経済人が可能な選択肢を評価し,富を最大にする最適の選択をするとされた。それに対して1950年代という,現代的なコンピュータの使用および決定の基礎として情報がどのように用いられているかについての現代的考察の夜明けの時代に,サイモンは実際の経済的決定は,そんなやり方で行われていないことを指摘した。現実の問題では,一般的に言って,どの選択肢が最適かを決めるために情報は利用できないし,利用できるとしても,それを評価するための計算資源あるいは心的資源を欠くだろう。最良の選択肢を選ぶ代わりに,私たちが現実の意思決定においてするのは充分良い選択肢を選ぶことだ。サイモンの用語では,最適化するのでなく満足化するのであり,包括的合理性の概念は,限定合理性に置き換わる。すなわち,利用できる情報と,それを利用できる能力の制約の範囲内での合理的選択である。その気になれば,ほとんどどんなことでも利用できたが,サイモンは要点を示すためにチェスを用いた。コンピュータ・プログラムでは,起こりうる結果をある程度詳しく調べて,選択可能なすべての手を評価し,最も有望な手を選ぶことによって,実際にチェスができる。明らかに,人間は,このようなことはまったくしない。その代わりに,満足化する。つまり,充分良い(受け入れ可能な程度の,有利さあるいは勝利の確率が得られる)手が見つかるまで選択肢を考えて,その手を使う。サイモンのノーベル賞受賞に示されているように,人間の現実の合理性に基づく経済学は,抽象的で,包括的で,理想的な選択肢の評価に基づく経済学とは大いに異なる。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.35-36

最悪の仕事

 皮なめしという仕事は“最悪の仕事”のコンセプトからすると,典型的なものである。驚くほどハードなものであるとともに,デリケートな現代人からすれば胸の悪くなるような仕事でもあろう。しかも,皮なめし人たちは自らのコミュニティからのけ者にされていた。それでも,技術の必要な仕事であったことは確かだ。ヴィクトリア時代,この仕事には何千という人たちが就いていた。もっと重要なことに,この仕事がなかったら——そして彼らの作った革がなかったら——馬に引かせる犁もなければ,騎馬隊も騎士もいず,彩色された写本も財務府の記録も存在しなかったことだろう。この社会と歴史の動きがストップしていたはずなのだ。
 だがそのことは,本書で紹介した仕事のほとんどについても言えるだろう。武具甲冑従者や火薬小僧(パウダー・モンキー)がいなければアジャンクールの戦いもトラファルガーの海戦もなかったろうし,糞清掃人がいなければハンプトン・コート宮殿もなかったろう,と。私たちの歴史が作られてきたのは,それぞれの時代の“最悪の仕事”に従事した,無名の人たちのおかげなのである。彼らこそ,この世界を作ってきた人なのだから。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.320-321

水兵の食事

 とりあえず,水兵たちには“十分な食事”が1日に3回与えられていた。彼らの四角い食事用ブリキ容器には,見た目のまずそうな食事が,量だけはたっぷりと盛られていたが,メニューは1週間ほとんど変わりばえがしなかった。その食事の中心は塩漬けにして樽に保存された肉だったが,この肉は食べる前にまず真水につけておく必要があった。いっぽう炭水化物は,乾パンのかたちで摂取された。これは小麦粉と水で作られた長期保存のきくパンだが,いかんせんゾウムシがつくことが多いのだ。ムシがつけばたんぱく質は増えるが,決して食欲をそそる代物ではない。そして野菜は,水で戻した干し豆だけだった。
 たしかに,18世紀の労働者にすれば,この食事もわれわれが思うほど悪いものではなかっただろう。それでも,食糧に関する苦情について触れた海軍条例があるところをみると,船の厨房が必ずしも問題のない場所ではなかったようである。
 だが,唯一の喜びである酒だけはたっぷりと支給されていた。乗組員たちは1日につき,450グラムの乾パンと450グラムの干し肉,そして4.5リットル,つまりパイントグラスに8杯ものビールが与えられていたのである。だがこれは,たいしてアルコールの入っていない弱いビールで,本当に問題だったのは“グロッグ”のほうだ。
 乗組員は全員,1日に半パイントのラム酒の配給を受けていた。これに水を混ぜたものがグロッグだ。言ってみれば彼らは,アルコール度の低い8パイントのラガービールと,ラム酒のコーク割り12杯に匹敵する量の酒を胃に流しこんで仕事をしていたというわけだ。檣楼員たちは年がら年中酔っ払った状態で,策具を飛びまわっていたのである。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.250-253

カストラート

 当時,去勢手術を受けるために選ばれた幼い少年たちに,選択の余地はほとんどなかった。たいていの場合,彼らはこれで貧乏から抜けだそうと狙う貧しい家庭の子どもだったのだ。実はバチカンは,野蛮だという理由で精巣の除去(カストレーション)を禁止しており,教会法でも民法でも禁じられていたのだが,それでも何世紀ものあいだ見て見ぬふりをされてきたのだった。現代風に言えば,被害者の家族は,息子は病気のために精巣を除去した,あるいは乗馬中事故にあった,またはイノシシの角で突かれたと申し立て,去勢手術を“拒否した”,といったところだ。
 思春期になると男性の声帯は成長して厚くなり,声は低くなる。しかし去勢を行うと,必要なホルモンの分泌が妨げられるため声帯の成長が止まり,声変わりをしなくてすむ。その結果カストラートは,成人男性の肺活量を持ちながらボーイソプラノの高い声を保てるのである。
 手術を施されるのは,8歳から10歳の少年だ。もし読者が男性なら,次の段落は読み飛ばしたいと思うかもしれない。
 まず,手術を受ける少年は気を失うまで熱い風呂に入れられ,中にはアヘンで麻酔をかけられる場合もある。その猛烈な暑さの中,睾丸はその機構が破壊されるまで手でもまれて潰され,その後,精巣から伸びている精管が切断される。実は,この手術は必ずしも常に成功するというわけではなく,中には命を落とす子どももいたのである。
 カストラート全盛期には,推定4000人のイタリア人少年にこの手術が施された。いたましいことに,手術をすれば美しい歌声が生まれるという誤解から手術を受けた子どももいたが,もちろん,去勢手術の効果があるのは,元来美しい歌声を持つ少年だけである。
 また,たとえ手術が成功したとしても,その先にはもっと多くの苦難が待ち受けていた。家族は名声と富を求めて息子にこの残酷な手術を受けさせる。しかし実際のところ,18世紀の舞台人生は今日のそれとほとんど変わらないのだ。去勢手術を受けた者のうち,その仕事でトップを極めるのはほんのひと握り。4000人のうち,成功を期待できるのはわずか1パーセントほどで,大半の者は通常の家庭生活とは無縁のまま,たまに仕事にありつくのがせいぜいだった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.239-240

プロの隠遁者

 当時は,若者たちが教育の締めくくりとして欧州文化に触れる旅行に出た,大旅行時代だった。彼らは古典的な概念にかぶれて帰ってくると,自分の屋敷や庭園をプーサンの絵のようにしたがった。そしてローマの神殿を彷彿させる新古典主義の屋敷を建て,“可能性のブラウン”などの造園家を雇っては,ただの田園風景を技巧的かつ古典的な田園風景に変えていった。
 そんな造園ブームの頂点にいたのが,“可能性のブラウン”だとすれば,その山の下草に潜んでいたのが,プロの隠遁者として雇われた者たちだった。というのも,自分なりのアルカディアを作るには,人生のはかなさや富のむなしさを瞑想する風雅で賢い苦行者が庭園の隅にうろついていなければ,その景色は完成しないからだ。
 しかし18世紀のその時代,本物の隠遁者など,そうそういるものではなかったし,本物の苦行者は決して安くは手に入らなかった。だが,この究極の新古典主義的装飾品がどうしても欲しかった地主たちは,奇人や知的障害者,詩人,あるいは経済的に追いつめられた者たちを雇い,この役を演じさせたのである。結局,この流行は1740年ごろからおよそ100年ものあいだ続いた。シュールズベリにほど近いホークストーン・パークにも,そのような苦行者がひとりいたが,1830年,世間の圧力に屈したサー・リチャード・ヒルは,彼との契約を解除し,代わりに苦行者の人形を置いたのだった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.233-234

弦という革命

 17世紀には,弦づくりの技術革命があった。それ以前のヴァイオリンの弦は3本だけだった。弾力のある輪ゴムをはじいてみたことがあればわかることだが,短くて太い,ピンと張った弦は高音を出し,太くて長い弦なら低音になる。ヴァイオリンのつくり手たちは,ヴァイオリンに合うように短くてなおピンと張った,いちばん低い音を奏でる太い弦をつくりだすのは無理だとあきらめていた。
 その問題がついに,羊の腸の繊維を撚り合わせるという新手法によって解決した。現代の4弦ヴァイオリンを誕生させたのは,この技術だった。そのおかげで,クレモナのストラディヴァリウスとその仲間の熟練工たちがかの有名な弓奏弦楽器(フィドル)をつくりだせたのだし,作曲家たちはバロック音楽をつくることができたのだ。
 そういうわけで,弦づくりというのは革命的な職人たちだった。腸繊維を撚ること自体はさほど難しい仕事ではなかったが,なによりもまず原料を手に入れなくてはならない。今でこそ弦づくりはすっかり整えられた腸を買い入れるが,スチュアート朝時代は,職人たち自らが羊の腹の腸を取り出さなくてはならなかった。
 そう,羊(シープ)である——猫(キャット)ではなく。ヴァイオリンの弦が“猫の腸(キャット・ガット)”と呼ばれることもあるが,弦づくりたちが猫殺しの階級出身などということはない。『ブリタニカ大百科事典』には,イタリア語でヴァイオリンは“キット”であり,その弦は“キット・ガット”,そこから“キャット・ガット”に変化したという説が示されている。初心者が弦楽器に弓を走らせたときにたてるキーキーいう音を考えてみると,その言葉があてはまったのも無理はないと思う。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.204-205

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