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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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天井に描く

 ドームに絵を描く仕事は,臆病者には向かない。仕事場は,いちばん低い地点でも協会の床上35メートルの高さがある。ソーンヒルと助手たちは来る日も来る日も,1時間近くかけて描きたいと思う場所へたどり着く。それから,つらい仕事の始まりだ。
 ドーム内部は,天井から吊った足場に取り巻かれている。絵描きたちの落下を防止する手すりなどない。低いほうの段ではほぼ直立した姿勢で作業ができるが,上に行くに従って,丸天井の湾曲のためにうしろへ反った無理な姿勢をとることになる。背面にあるのは,はるか下の大理石の床まで目がくらむような落差だ。この仕事には,急性不安と慢性めまいをカクテルにしたような症状がつきまとう。死亡事故こそ起きなかったものの,危機一髪の話はある。ソーンヒルがあとずさっていて,危うく足場の縁ぎりぎりまで近づいた。さて,びくっとさせて地面にまっさかさまという結果にならないよう,助手はいかにして彼の注意を引いただろうか?その苦肉の策で,当然受けてしかるべき感謝は得られなかったかもしれない。助手はただたんに絵の具の缶を壁に投げつけただけだった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.200-201
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しらみ取り

 スチュアート朝の男性ファッションは,自分の髪の毛は短く刈り込んでおいて,メッシュ地に縫い込んだ人毛のかつら(ペリウィッグ)を後頭部にピンでとめるというものだった。かつらの人毛にシラミの卵がついていることが多く,孵化するとメッシュをくぐってかぶっている者の頭部へ這い出す。耳のうしろや耳の陰で血を腹いっぱい吸うためだ。
 アタマジラミは命を脅かしはしないが,ひどい不快感のもととなる。ひっかくことで皮膚炎や二次感染につながる。予防は困難だった。小麦粉を水で溶いてケーシングをメッシュ部分に固め,シラミが通り抜けるのを防ごうとした人たちもいた。ところが,練った小麦粉で乾燥したかちかちの帽子をかぶるのは,シラミがいるのと大差ない不快さではないか。
 そこで,定期的に1軒1軒回ってサービスを提供する,たいていは女性のシラミとりが,招じ入れられてかつらの掃除をすることになる。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.182

水が必要

 水の運搬は,なくてはならない仕事だった。都市が成長し,きれいな(比較的きれいな)水の供給が大きな問題になっていたのだ。水といってもそのほとんどは飲用水ではない。飲むには,まずい,濁ったり汚染されていたりする水よりも,ビールやワインのほうがはるかに好まれていた。しかしそれでも,料理や洗濯に,子どもに飲ませるために,水は必要だ。肩に担いだてんびん棒から水の入った樽をぶら下げた男たちも,スチュアート朝時代の生活の一部だった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.175-176

硝石集め

 火薬は3種類の化学物質を混ぜあわせたもので,単純ながら破壊力がある。比率は炭素10パーセント,硫黄15パーセント,それに硝酸カリウムつまり硝石が75パーセント。硝石中の硝酸塩が酸素を生成し,それが燃焼して膨張,炭素と反応して爆発力を生む。マスケット銃の弾丸を1発発射するには25グラム,大砲の球形砲弾を打ち上げるには400グラムの火薬を要する。その結果,戦時には膨大な量の硝石が必要になった。それをすべて調達したのが,硝石集め人(ソルトビターマン)たちだ。
 硝石集めとは,牛乳配達人と執行吏と農場労働者,糞清掃人(ゴング・スカワラー)を合わせたような,奇妙なとりあわせの仕事だった。だが,することは単純だ。スチュアート朝時代,硝酸塩の主な出どころは,われわれにとって古いつきあいの尿や便であった。それが土中に長く残るうちに,カルシウムと硝酸ナトリウムに分解する。硝石集め人はまず,尿のしみ込んだ汚い土壌を見つけなくてはならず,さらには,えりすぐった土くれを旧来の重労働によって掘り上げなくてはならない。目をつける場所といえば,掘り込み便所,豚舎,堆肥の山,ハト小屋——いかにも窒素肥料が土壌にしみ込んでいそうなところならどこでもいい。糞掃除人は,たんにいらない廃土を取り除くだけだが,硝石集め人はその土を有用品に変えるのだ。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.159-160

ピン止めの服

 コルセットはつけて楽しいものではない。腹にくいこみ,横隔膜を締めつける。だが,最大の苦痛は何百本も使われるピンによってもたらされた。下着は縫ってあったが,だいたいのドレスはピンで留めるだけだったのだ。これだと,今のように人によって衣装を変えなくていいし,同じ服地を使い続けられる。チューダー王朝といえば襞襟(ラフ)だが,この襟までが,糊の利いた1枚の細長い布に熱いアイロンをかけてつくり,最大200本にのぼるピンで襟もとに留めただけだった。トムキスという劇作家は,ピンを使って少年役者にドレスを着せるには5時間かかるとしたうえで,「貴婦人の身支度より,船の艤装のほうがよほど時間がかからない」と感想を記した。あなたには,少年がそんなに長いあいだ,たくさんのピンに刺されまいとじっとしているところが想像できるだろうか?巨大なハリネズミの皮を裏表にまとっているようなものだったろう(これは当時の女性全員が,日々の経験として知っていることだった。肖像画の中のエリザベス女王がどれもこわばっているわけだ!)。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.143

お便器番

 そう,御便器番は実際に王の肛門を拭いていた。チューダー期の人々は,国王は天来の存在,神が定め,指名した存在だと信じていた。王のためなら,何でもしなければならない。そして現代人ならトイレでひとりになりたいものだが,王は人目にさらされるバスルーム生活を送っていたのである。
 御便器番は,宮廷の中で特権的な地位だった。王の臀部に触れられるのは,最高位の貴族だけと考えられていた。御便器番には最も私的な瞬間に,王と2人きりになるという役得があった。王の私室の鍵を持っており,王が着替えるのを手伝った。給料も破格だったし,出世の足がかりにもなった。
 しかし王のそばに仕えるというのは,危険でもあった。アン・ブーリンを始末する方法を探していたとき,周囲を見回したヘンリー8世は,自分の御便器番に目をつけた。サー・ヘンリー・ノリスは,彼女とふりん行為を働いたと言われて,1536年に処刑されたのだ。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.128

ただ歩くだけ

 中世後期の建築現場の絵のほぼすべてに,起重機が描かれている。小型の起重機は外側から輪を回転させて動かした。荷物の上げ下ろしだけでなく,軸回転できるような大型の起重機を設置するときは,小型の起重機か巻き上げ機を使って部品を大聖堂の上に持ち上げておいて,組み立てた。
 起重機を動かしたのは,踏み車を漕ぐ2人の人間だった。彼らは文字どおり建築界の大改革のど真ん中にいたと言える。1日中,ただ歩いているだけだとしてもだ。
 この最悪の仕事に採用されたのは,地元に住んでいた目の不自由な人だったと言われている。起重機は建築中の建物の最上部に設置されたので,町やその周囲の田園地帯を一望できたはずだ。地元にはそれほど高いところにのぼったことがある者も,そこまで遠くまで見たことがある者もいなかっただろうから,ただ眺めるだけでスリル満点,不安になるに違いない。だが,木製ケージの中で働く踏み車漕ぎは,不安定な状態で宙に浮いていた。彼らが歩くのは細い木の板でしかなく,あいだには狭い隙間があったので,絶えず落ちこみそうな,何もない空間と向きあわされた。そこで理屈として出てきたのが,視力に問題のある人なら,よく目の見える人を苦しめるであろうめまいを避けられるのではないか,という考え方だった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.94-95

治療床屋の仕事

 しかし,治療床屋には占星術の知識も求められた。中世の医術は1500年の歴史を持つ偽科学の延長線上にあった解剖学よりも,自然界の要素に関する神秘主義的な理解を基礎としており,ギリシャ時代の医者ヒポクラテスの影響を色濃く受け継いでいた。彼は世界は土と空気と火と水という4つの要素で構成されていると唱え,同様に,こうした性質,つまり“体液(ヒューモア)”の量の違いによって,すべての人の気質を表わすことができるとした。健康な人とは,この4つの体液のバランスが保たれた人のことだった。
 ヒポクラテスの時代から1500年が経過していたにもかかわらず,診断方法に本質的な違いはなかった。患者の体つきや,顔の色つやを観察することによって,その人の気質の中で粘液,血液,黄胆汁,黒胆汁の4つの体液のどれが優勢かを判断した。そのあと患者の尿サンプルを分析し,それをカルテと見比べると,それで初めて,どの体液の調整によってバランスが取り戻せるかを考えることができるのだ。
 治療床屋の仕事が本格的に不快になるのはここからである。中世には,リトマス試験紙も試験所での検査もなかった。患者を診断するときは,その名もジョーダンと呼ばれる湾曲したフラスコに尿サンプルを取った。カルテの助けを借りて尿の見た目や臭い,それに実際味わってみることで診断を下した。
 患者の症状が特定できたら,治療に向かう。ある体液が少なすぎるまたは多すぎる場合は,食事や運動,下剤や利尿剤や吐剤,瀉血といった治療法が,単独であるいは複数組み合わされて指示される。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.75-76

サメの食い方

 そのあと,ヴァイキングたちが行儀よく手を洗ったとして,祝いの席にはどんな料理が並ぶのだろう?種類はたかがしれていた。新鮮な魚か,スモークした魚,岩のように硬い塩漬けのタラ,あるいはちょっとした珍味として,これを食べなければいけないのなら,どんな仕事も最悪になってしまうもの——発酵させたサメがあった。
 今日でもアイスランドとグリーンランドでは珍味として食されているが,ロンドンのレストランに登場したら衝撃を与えることは必須だろう。たぶんかつて,どこかの誰かが釣ったばかりのニシオンデンザメ(グリーンランドシャーク)の肉を生のまま,発酵させずに食べてみたに違いないが,その経験が書き残されていないのは,シアン化物が含まれていたからだ。無害化するには,内臓を抜いて軟骨と頭を切り落としたサメ肉を,夏期なら6週間,冬季なら3ヵ月,地面に埋めておく。その間にバクテリアがシアン化物を分解し,サメ肉から水分が抜ける。歴史学者の中には,遠い昔にはバクテリアの働きを促進するため,埋める前の肉に小便をかけたという説を唱える人もいる。ようやく掘り返されたとき,発酵の進んだサメはやわらかく,アンモニア臭を放っている。それを洗って,乾燥小屋に干すこと2ヵ月。全体をおおっている茶色の外皮を取り除いて,肉を小さく切り分けたら,ようやく口に放りこめる。そのときサメは,やわらかなチーズのような粘度を持った食物になっているのだ。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.54-55

神様,寒すぎます

 匿名の修道士たちがこの最悪の仕事に関する感想を残している。のちの中世の写本の余白には,彼らの落書きがあり,印刷時代到来前の時代に西洋文化を保持するのがどんなことだったのか,興味深い人間洞察の機会を与えてくれている。あるものは「写字の技法は難しい。目が疲れるし,背中は痛むし,腕と脚には痙攣が走る」とうめき,またあるものは「神さま,寒すぎます」と簡潔に述べている。そして3人目は,筆者室でのその日の作業の終了を,「仕事が終わった。さあ,ワインをくれ!」と祝った。
 寒さに震える筆写人たちがつくりあげた作品は,印象的であるとともにきわめて貴重であり,中には表紙に宝石や貴金属をちりばめたものもあった。だからこそ修道院は侵略者の標的となった。8世紀に入ると,ヴァイキングが本島のブリテン島にまで攻めてくるようになった。何百時間もかけて制作されたものが盗まれ,金を払って買い戻されたりした。793年,リンディスファーンを襲ったヴァイキングは,修道院に壊滅的な打撃を加え,有名な福音書を奪った。福音書はいったん海に落ちたものの,無事に回収されたのだった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.38-39

無茶な投資

 ジョン・ラミングによると,ナウルの国家歳入の半分に相当する年間4000万ドル近くが航空会社に投入されていたという。航空機の搭乗率が20パーセントを上回ることはなく,採算ラインを割っていた。しかし,最も重要なことは,エア・ナウルのおかげで,太平洋諸国の空の便が確立されたことであった。これは大統領の信念であったが,経済的にはまったく愚かなアイデアであった。
 エア・ナウルの累積赤字は,航空会社の営業損失だけで5億ドルから6億ドルという,すさまじい額に達していたと思われる。その後,財政基盤のもろいエア・ナウルは急降下した。既存の路線を維持できなくなり,所有機材のボーイングを次々と売り払った。最後は1機だけとなったが,この航空機も2005年にナウルの融資返済が滞ったことで,銀行が差し押さえてしまった。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.133

ナウルの大学

 ナウルの大学,海沿いにあるサウス・パシフィック大学(USP,南太平洋大学)は,まるで小学校のような雰囲気だ。1階には図書館とコンピュータ室があり,2階はがらんとした野外教室となっている。これがナウルの大学なのだ。フィジーのスバには,USPの本校がある。USPは,太平洋にある島々をイメージしている。つまり,太平洋の島々に住む人々が大学レベルの知識を身につけることができるように,オセアニア地域全体にたくさんの附属校があるのだ[USPは,1969年にフィジーやツバルなどの島嶼国12カ国が資金拠出して共同設立した高等教育機関である]。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.111-112

不正へ

 自国パスポートの無審査販売,銀行ライセンスの大盤振る舞い……。存亡の危機にあったナウルは,不正行為に手を染めた。雪だるま式に国の借金が膨れ上がったことで,絶望感にさいなまれたナウルは,無駄な抵抗を繰り返したが,その後,数年かけて信頼の回復に努めた。2005年可からは,ナウルのマネー・ロンダリング撲滅に対する取り組みが評価され,ナウルは「マネー・ロンダリングに関する金融活動作業部会(FATF)」のブラックリストからは外されたが,充分な監視が必要という評価は相変わらずであった。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.97

破綻へ

 1990年代は,あたかも島全土に警鐘が鳴り響いたかのようであった。リン鉱石の採掘現場の面積は,島の80パーセントに達した。ナウルの破壊を示す掘削跡が,数平方キロにわたって広がっていた。21世紀になって,島には草木は多少なりとも生えてきたが,荒廃した掘削跡を隠すまでには至っていない。自然が比較的残っているのは,島の外縁部だけである。20世紀初頭のナウルの写真を見ると,アスファルト舗装される以前の細い道の両脇には,ココヤシの木が密生して森になっていたことがわかる。だが,それから1世紀後には,島には数本のココヤシの木やユーカリの木を除き,木がほとんどない状態になってしまった。森を切り開いて建てられた道路沿いの住宅は,メンテナンス不足からあばら屋状態となっている。
 リン鉱石産業の衰退は危険水域に達した。年間産出量が50万トンを下回ったのである。採掘に必要な設備や道具は老朽化し,修理されることもなければ,買い替えることもなかった。オーストラリアの技術者や地質学者は,リン鉱石の埋蔵量が枯渇に向かうことで,操業に見合う安定した産出量が確保できなくなることから,リン鉱石産業は2000年代初頭には終了するであろうと予測した。1997年には,リン鉱石の産出量は過去最低を記録した。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.85-86

驚くような光景

 「島の人たちは,たった数年で価値観を失ってしまったのよ。我慢することがなくなったの。例えば車よ。ナウル人はみんな車が大好きなの。毎日,島のまわりをぐるぐるドライブするだけなのに,自分の兄弟や遠い親戚よりも大きな四輪駆動に乗りたがるのよ。1970年代には,車が6台も7台もあった家族もいたわ。同じ時代,西側諸国ではせいぜい車は一家に一台だったのによ」
 「びっくりするような光景に何度か出くわしたわ。道端で車が故障していたの。故障といっても大した故障じゃないのよ。タイヤがパンクしたとか,ガス欠とか,その程度の故障よ。ところが,いったいどうしたと思う?運転手は道端に車を放置してどこかへ行ってしまったの。ときには車の鍵を誰かそのへんの人にくれてやることもあったわ。『来週になれば注文した四輪駆動車が港に到着するから,別にいいんだよ』だって!」
 ヴィオレットは一息ついた後,堰を切ったようにこう言った。
 「あぁ,信じられない光景を見たことを思い出したわ。私はこの目ではっきりと見たの。お祭りの日に,オーストラリア・ドルをティッシュペーパーの代わりに使っている人がいたのよ。本当よ」

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.66-67

トイレまで

 成金となったナウル人の暮らしは様変わりした。国が何から何まで面倒をみてくれる。国の金庫はすでに現金で満ちあふれていたことから,税金を払う必要はまったくなかった。国のおカネで,当時としてはとてもモダンな病院が建設された。ナウルの病院で対応できないときは,国の費用でメルボルンにある有名私立病院へ転院させてくれた。ナウル国家はメルボルン東部に長期入院患者の家族が滞在できる住宅まで購入した。
 島では電気などの各種公共サービスはすべて無料であった。高校生は国のおカネで海外留学ができた。大学生になると,オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学やメルボルン大学はもちろん,ニュージーランド,イギリス,アメリカの大学に留学できた。
 島ではなんとトイレも国が掃除してくれた。個人の住宅の片づけや掃除のために,国が家政婦を雇ったのである。1970年代のナウルは,国民が仕事に出かけるために毎朝起きる必要がないパラダイス国家であった。彼らの代わりに,中国人やアイランダーたちが働いてくれた。船釣りや,家族行事,島を囲む唯一の道路をただ延々とドライブするなど,ナウル人はおもにレジャーを楽しむためだけに暮らした。つまり,不労所得で暮らす彼らは,文字どおりに暇をもてあました消費者として過ごしたのである。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.64

リッチな国へ

 1970年代初頭,大半の西側諸国は第1次石油ショックに見舞われた。これにつられてリン鉱石をはじめとする天然資源の相場価格も高騰した。1974年,リン鉱石事業により,ナウルの国家と国民には,およそ4億5000万オーストラリア・ドルの収益がもたらされた。小規模地主であっても,相場価格の上昇の恩恵を受け,年間数万ドルの収入があった。リン鉱石の販売のおかげで,太平洋に浮かぶ小さな島ナウルは,平均して年間9000万ドルから1億2000万ドルの可処分所得があった。ナウルは世界1リッチな国となったのである。1970年代にナウルのGDPは1人あたり2万ドル近くになり,アラビア半島の産油国と肩を並べるようにまでなった。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.62-63

働かなくても

 毎日,大量のリン鉱石が採掘された。おもにアイランダー(islanders)と呼ばれるツバルやキリバスといった近隣の島々からやってきた人々が操る数十台のパワーシャベルが掘削にあたった。第二次世界大戦中に日本軍が占領する以前に,アイランダーと呼ばれる人々の一部はすでにナウルに移住し,鉱山の奥底で中国系労働者とともに汗を流していた。戦後になって掘削作業が近代化されたとはいえ,リン鉱石の回収ならびに仕分け作業には,人手が必要であった。ナウル独立にあたって,アイランダーは鉱山で働くためにナウルに残った一方で,中国人たちは,島でレストラン,雑貨店,さらには食料品店などを開き,商売に精を出した。アイランダーたちは,昼間はナウル・フォスフェート・コーポレーションのために島の中央台地で働き,アイウォ地区の海沿いに建つ低家賃の集合住宅で眠った。ここでは,夜になるとさまざまな人種が集まり,夜遅くまで歌い,トランプに興じたりして過ごした。彼らはここから少し離れたところに住むナウル人と交流することはなかった。
 というのは,ナウル人はすでに働く必要がなかったからである。とりわけ,鉱山で働くナウル人は誰一人としていなかった。彼らが働くとすれば,公務員として,公益の追求というよりは,涼しさを求めてエアコンの効いた役所の建物のなかにおいてである。というのは,ナウルは小型の集産主義国家のような様相を呈していたからである。ナウル・フォスフェート・コーポレーション,エア・ナウル,ナウル銀行,海運会社のナウル・パシフィック・ライン,これらすべては国営企業である。ナウルの犯罪発生率は高くないにもかかわらず,警察も大量の雇用を抱える就職先の1つであった。しかし,ナウルのような小さな島の暮らしは,全員が知り合いであり,お互いがお互いを見張っているようなものである。また国民は生活に不自由しておらず,物を盗む必要などなかった。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.60-61

日本軍とナウル

 1941年12月7日,日本はハワイの真珠湾を攻撃し,第二次大戦に参戦した。ドイツの軍艦の攻撃により,ナウルに駐留していたオーストラリアの派遣小部隊は撤退した。太平洋における日本の存在感は,ますます大きくなった。1942年春,珊瑚海海戦がパプアニューギニア沖やソロモン諸島沖で繰り広げられた。ナウルの岸辺からは,日本の軍艦や戦闘機が毎日のように見えたという。1942年2月,孤立したオーストラリア兵は,ナウル沖を巡航していたフランスの駆逐艦トゥリオンファン号に救出された。
 ナウルの人々は置き去りにされてしまったのである。8月26日,日本軍は太平洋上の燃料補給地を確保するために,巡洋艦四隻をナウルに上陸させた。沿岸部にそって滑走路が敷かれた。数週間のうちに沿岸部には防御陣地がいくつも設置され,アメリカ空軍の攻撃に対抗するために,巨大な高射砲がナウル最高峰の地点コマンド・リッジに据えつけられた。
 1943年の間,島はアメリカのB-24型爆撃機による爆撃を何回か受けたが,アメリカ兵が上陸することはなかった。兵站を絶たれた日本兵,そしてナウルの人々は,食料の補給に支障をきたし始めた。ナウル人,軍事基地を設営するために日本軍に連れてこられた労働者,日本軍の派遣部隊などで,島はあっという間に人口過剰となり,食料不足に陥った。そこで日本軍は,ナウル人1200人をトラック島へ強制連行し,500人の男たちは日本軍の労働力として島に残した[また,ナウル人のハンセン病患者39人を別の島に移送すると偽って連れ出し,ボートを沈没させて水死に至らしめ,水死をまぬがれた者は射殺した事実も明らかになっている。なお,かつてトラック島と呼ばれた環礁の小さな島々は,現在のチューク諸島で,ミクロネシア連邦に属している]。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.46-48

リン鉱石発見

 1896年,ナウルに停泊した船の船長ヘンリー・デンソン(Henry Denson)が,化石化した木のような奇妙な石を手に入れた。パシフィック・アイランド・カンパニーに勤務する彼は,これをシドニーの本社に持ち込んだ。この石は彼の事務所の床に数年間,無造作に放置されていた。3年後の1899年,同じくパシフィック・アイランド・カンパニーに勤務するアルバート・エリス(Albert Ellis)の目にとまり,エリスはでん損にこの石を分析したいから貸してほしいと申し出た。すると,なんとほぼ純粋なリン鉱石で会ったことが判明した。ちょっと伝説めいたこの発見の物語の背後では,リン鉱石とナウルの人々の運命が決定されたといえよう。
 アルバート・エリスはオセアニアでリン鉱石を血眼になって探していた。パシフィック・アイランド・カンパニーはリン鉱石の鉱脈をいくつか開発していたが,土壌がやせているイギリスの自治領オーストラリアにとっては,充分な量ではなかった。オーストラリアの農業には肥料が必要であったことから,化学肥料の主要な原料となるリンが欲しかったのである。純度の高いリン鉱石のナウルでの発見は,状況を一変させた。これはオーストラリアにとっても,ナウルにとっても事情は同じであった。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.34

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