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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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当たるか

 1980年代のはじめに,ユトレヒト大学の心理学者ヘンドリック・ベーレンカンとシーボ・スカウテンは,オランダの有名な占い師12名の超能力を5年がかりで調べた。
 2人は占い師1人1人を,年に数回ずつ自宅に訪ねた(はたして彼らの訪問を,占い師は予知しただろうか)。そして占い師が知らない人物の写真を見せ,その人物について何が見えるか訊ねた。そのかたわら対照グループとして,自分に超能力があると思っていない被験者を無作為に選び,まったく同じことをしてもらった。そのようにして集めた1万種の占いの結果を記録し分析してみると,占い師が正解した割合は,占い師ではない対照グループがまぐれで当てた割合以上にならず,どちらのグループも正解率が低かった。
 こうした結果は例外的なものではなく,ごく一般的である。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2012). 超常現象の科学:なぜ人は幽霊が見えるのか 文藝春秋 pp.26-27
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自我の消耗

 「自我の消耗」と呼ばれるテーマの研究は非常にわかりやすい。研究者たちは被験者の自己コントロール能力に(チョコレートチップクッキーの皿を前において我慢するというように)負荷をかけ,そのあともっと自己コントロール力を必要とする作業をさせる。負荷をかけなかった対照群の人たちに比べて,負荷をかけられて消耗した人たちはほぼ決まって2番目の作業の成績が良くない。シロクマのことを考えないようにしてください,と言われた人たちは,その後,滑稽なビデオを見せられると笑いを抑えられなくなる。最初にチョコレートを我慢させられた人たちは,その後で難しい問題を解かせるとすぐに諦めてしまう。自己コントロール力が消耗した人たちはくだらない娯楽や食べ物を選ぶ。ダイエット中なら,食べ過ぎる。
 興味深い研究がある。被験者に「退屈な歴史上の人物の伝記を音読してください」と頼むのだが,その際に身振りや表情でできるだけ感情を強調してくださいと指示する。別のグループにも同じ文章を音読してもらうが,こちらは読み方を指示しない。そのあと,全員がありふれた商品を割安で購入するチャンスを与えられる。感情的に消耗した人たちのほうがよけいにお金を使った,と聞いて意外に思われるだろうか?さらに,消耗していた人たちは値段が高くても買う傾向があった。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.345-346

プリコミットメント

 プリコミットメントは効果がある。だからカーランは世界の誰もが利用できるstickK.comというウェブサイトを創設した。このサイトはインターネット上のプリコミットメントのスーパーストアと言っていい。カーランがエアーズと一緒に始めたベンチャー企業で,ここで参加者はそれぞれの行動をコントロールする契約を結び,もし違反したら自分で選んだ罰金を支払う。原理的には,作家のトロロープが言うような破ることのできない規則を自分に科すサイトである。もとは勉強家の大学院生の思いつきだが,このサイトには「あなたの契約,請け負います!」というしゃれたキャッチフレーズがつけられている。
 考え方はきわめてシンプルだ。stickK.com(2つ目のKは契約を意味する法律用語の略語だが,野球好きはこの文字が三振を意味することを思い出すかもしれない)には,減量,禁煙,毎日運動することなどのできあいの合意事項がいくつかある。自分で別の契約内容を作成してもいい。そういう登録者も4万5000人いる。条件は自分で決め(20週にわたって毎週1ポンド[450グラム]ずつ減量するというように),違反した場合の罰金を送金し,もし望むなら審査員の名前も登録する。違反するとstickK.comがお金の一部を指定した慈善事業に寄付する。登録者が失敗してもしなくても,stickK.comは一切お金を取らない。
 もっと強いインセンティブを望むなら,stickK.comが「アンチ・チャリティ」と呼ぶ方法を選んでもいい。たとえば,自分が決めた約束を守れなかったら,がんばって働いて貯めたお金をジョージ・W・ブッシュ大統領図書館に寄付しなければならないとすれば,これは約束を守る強烈な動機になるのではないか。stickK.comによると,成功率は85パーセントだという。「stickK.comがやっているのは,良くない行動のコストを高くすることです。あるいは良い行動のコストを低くすること,と言ってもいい」。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.331-332

民主主義と自己コントロール

 民主主義は自己コントロールにつきものの基本的な矛盾に苦しめられている。民主主義は自己コントロールに依存し,自己コントロールを強化しつつ,同時に自己コントロールを蝕んでいる。その意味では資本主義によく似ている。どちらもそれぞれが寄って立つ抑制と計算を推進しつつ,蝕んでもいるのだ。だが民主主義の考え方そのものが,市民の側にあるかたちの自律が存在することを前提としている。そして理論的には,民主的に選出された政府は,あくまで人々が自己の最善の利益のために努力することを助ける手段であるべきなのだ。まちがってはいけない。個人の意志力が届かない真空領域ができれば,国家とその代理がその領域を支配するだろう。自由に自制がともなわない場合には,確立された民主主義国家の市民といえども市民的自由の侵害を受け入れることになる。
 だから,かつては自由と同じく自制心で知られた英国で,まるでオーウェルの世界のように400万台以上の(犯罪増加に寄って育てられた悪の花である)監視カメラが設置されて,毎日何度も市民の姿を撮影する事態になる。英国ではジェレミー・ベンサムの言うパノプティコンの巨大版と化したのかもしれない。パノプティコンとは,囚人からは見えない看守がいつでもどの囚人でも監視することができる円形の監獄のことで,見られているかどうかとは関係なく,いつでも監視下に置かれていると思うしかない。一方,アメリカでは使用者が求職者に履歴書だけでなく尿のドラッグ検査まで要求する。どちらにしても間違った政策が実施されているとしか思えないが,しかしこれらの政策は真空状態で生まれたのではないし,犯罪とドラッグ使用の結果として(言い換えれば,自己規制の欠如のせいで)市民的な自由の少なくとも一部が制約されたと言うべきだろう。エドマンド・バークは1791年に「人々が享受する市民的自由は,人々が自らの欲望にかける倫理的な鎖と正比例する」と言った。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.318-319

屈辱感と罪悪感

 屈辱感と罪悪感には共通点がある。どちらも嫌な感情を避けたいがための先延ばし,サボり行為を誘うことがある。またどちらも先延ばしのサボりから生じる場合がある。先延ばししてサボっていると嫌な気持ちになる。だから先延ばしのサボり行為は原因であり結果で,逃げ道であり悪化要因だということになる。ふつうはぐずぐずと先延ばしするのはやめようと決意すれば止められるが,どうも先延ばしする性質そのものに遺伝的な面があるらしい。双子の遺伝子とパーソナリティを調べた別の調査によれば,先延ばししたがる傾向のほぼ22パーセントは遺伝的に決まっているらしいという。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.285-286

先延ばし=ドラッグ

 先延ばしを薬,ドラッグの一種だと考えてみよう。気分を変えてくれる薬,若干依存性があって,大量に摂取すると有害で,一種の変性意識の状態,つまりうろうろふらふらする特殊な気分に導いてくれる薬だ。こういう見方をすると,先延ばしは自己コントロール問題の主流にどっかりと座ることになる。自己コントロールの問題の多くには,自己治療という大きな要素があるからだ。よくわかる例がドラッグ依存やアルコール依存だが,強迫性障害も不健康な行動パターンによって,たとえ一時的であれ不安を解消しようとしている。ドアの鍵や蛇口をもう一度確認したいという思いはかゆみのようなもので,かけばそのときはすっきりする。
 仕事をしなければならないと思うと不安になったり落ち込んだりするときには,自己治療したくなるのも無理はない。だから先延ばしは気分転換の技術なのだが,ただし(食べたりドラッグを使用したりするのと同じで)近視眼的ではある。だが,それで気分が良くなると思えば,どうしたって先延ばししたくなるだろう。自己コントロールに関してはアメリカで有数の研究者である心理学者ロイ・バウマイスターと2人の共同研究者が88人の大学生を対象に調査を行なっている。大学生たちはアロマテラピーと色彩が気分に与える影響を調べる実験だと告げられた。また数学を含む知能テストもすると知らされ,10分から15分練習すると点数が上がると言われた。しかし準備の時間は好きなように使っていい。部屋にはさまざまな「暇つぶしの道具」が備えられていた。
 学生たちの一部はつまらない「暇つぶし」(幼稚園生対象のパズルや古い技術雑誌など)しか与えられなかったが,別の学生たちにはおもしろい「暇つぶし」(ビデオゲーム,やりがいのあるプラスチック製パズル,人気のある雑誌の最新号など)が与えられた。それから学生たちは気分が良くなる,あるいは悪くなる文章を読むように指示された。また一部の学生は確実に気分を鎮める効果があるキャンドルの香りを嗅いでくれと言われた。もともとアロマテラピーに関する調査ということになっていたからだ。
 この実験から何がわかったか?いちばん先延ばしがひどかったのは,気分が悪くなっていて,しかも嫌な気分を変えることができると考え,さらにおもしろい「暇つぶし」の道具を与えられた学生だった。このグループの学生たちは15分の準備時間のうち14分をサボって過ごした!自分の嫌な気分は変わらないと思った(気分を良くするキャンドルを与えられなかった)学生がサボった時間は6分未満だった(気分が良くなった学生でも,気分を変えられると思った者はもう少しサボった時間が長かった)。
 この実験からわかるのは,私たちが先延ばししてサボることで気分が良くなると思っていることだ。だがこの治療法は病気よりも始末が悪い。仕事を先延ばしにすると,ふつうはますます不安になり,落ち込む。仕事にとりかかったと考えてみよう。eメールをチェックするのも,ほかの一時的な気晴らしを選ぶのも自由だ。だがデスクからは離れない。キーボードを前にしている!それでも目の前にある抜け道を通り,『フィナンシャル・タイムズ』の記事を読んだり,eBayで格安商品を探したりして気晴らしをしたくなる。劣等感について解明してくれた偉大な心理学者アルフレート・アドラーは,神経症とは「無意識の抑圧ではなく,手に負えない作業を回避しようとする意図的な策略である」と考えていた。この基準からすれば,先延ばしはまさに神経症だろう。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.277-279

先延ばし

 安心していい。先延ばしはどこにでもある。デポール大学の心理学者ジョゼフ・フェラーリは先延ばしの研究で業績をあげた人だが,アメリカ,オーストラリア,ペルー,スペイン,トルコ,それに英国で調査を行い,先延ばしに関してはとくに国民差はないことを発見した。動物にさえ,先延ばしをするものがいる。そして自己コントロールに関連する事柄の多くがそうであるように,ここでもドーパミンが一役演じているらしい。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.274

依存症とは

 ところで依存症とは何か?心身に良くないとわかっているのに有害な行為を繰り返し行なってしまうことを指す。たいていは多くの,自分がそのつもりだった以上の時間を費やし,やめようと思ってもやめられず,社会的な活動や仕事を犠牲にして薬物を濫用し,やめると離脱症状に苦しむ。礼儀正しい社会ではこんな症状が病気であることに誰も疑義を呈さないが,わたしは正直なところ,依存症が病気かどうかわからないと思っている。依存症者の行動は明らかにインセンティブに影響されるが,嚢胞性線維症の症状にはインセンティブは影響しない。それに依存症と呼ばれるものは,X線検査や血液検査で判明する疾患というよりも,不健康な行動パターンに過ぎないのではないか。だとすれば,どうして依存症は病気なのだろう?
 一方で,多くの病気が社会的に作られていることも事実だ。病気であることを誰も疑わない問題でも,その多くはある種の行動パターンから生じている。肺がんの大きな原因は喫煙だし,喫煙者はそれをよく知っている。心臓病や糖尿病,肝硬変,高血圧,HIV,その他多くの病気の殆どは生活を改めれば予防できる場合がある。その点はドラッグやアルコール濫用と同じだが,これらは病気ではないとは誰も言わない。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.264-265

サイコパスの場合

 だが風向きは変化しているようだ。1つには,エイドリアン・レインという元非行少年の研究者のおかげかもしれない。英国でいろいろと問題を起こしたあと,レインはオックスフォードに進学して心理学で博士号を取得し,世界でも有数の神経犯罪学者の1人となって,いまはペンシルヴェニア大学で研究を続けながら教壇にも立っている。レインが発見したのは,犯罪者とその他の人々のあいだにはさまざまな身体的違いがあることだった。
 反社会的人格障害の人たち(法を犯しがちな人たち)は,実際にほかの人々に比べて冷血,つまり血液の温度が低いことがわかった。安静時の心拍数も少ない。汗もかきにくい。長期的な研究では,心拍数が低かった3歳児が11歳になると攻撃性が強く,23歳時には犯罪を犯している傾向がみられたという。レインはロサンゼルスで21人のサイコパスの脳を調べ,前頭前皮質(レインが「守護天使」と呼ぶ部分で,辺縁系から湧き起こる攻撃的な衝動の見張り役)がノーマルな脳よりも平均して11パーセント小さいことを発見した。レインと同僚は別の研究で,殺人者の脳では前頭前皮質の活動が通常の人に比べてかなり低いことを明らかにしている。たぶん理性が働く脳の領域の処理能力が低いので,かっとなったときに暴力を爆発させる可能性が高いのだろう。
 このような研究結果から,この人々には自分の行動に責任を取るだけの自己コントロール能力があるのか,またどの程度の罰を与えるべきか,それとも罰するべきではないのか,という疑問が生じる。しかし懲罰に代わる処分(予防措置として生涯,監禁する?)もあまり現実性があるようには思えない。それにサイコパスにはインセンティブが効かないかどうかもはっきりしない。なかには責任を取らされることを知っていて自制する者もあるらしい。怒りに関する研究では,実際に暴力的な衝動のある人でも懲罰や報酬には反応することがわかっている。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.251-252

双曲割引

 スチュワート・ヴァイスは双曲線割引を説明するとき,学生に2つの封筒を示す。1つには10ドル,もう1つには12ドル入っている。当然,学生たちは12ドルの封筒を取る。つぎにヴァイスはいまの10ドルと1週間後の12ドルのどちらを選ぶか,と尋ねる。このときには学生たちはまだ12ドルのほうを選ぶ。だが,12ドルを受け取るのは2週間,あるいは3週間先となると,状況は変わる。ほとんどの学生はいまの10ドルのほうがいいと言う。それだけではない。どの時点で額は小さくてもすぐに受け取れるほうを選択するかを確認したあと,ヴァイスは金額の差はそのままに,どちらも受け取りをずっと先に延期して設定した。たとえば28週後の10ドルと30週後の12ドルでは,どちらを選ぶ?受け取りが遠い将来に設定されたところで,学生の選択は元に戻り,ほとんどが大きい金額を選択した。これは「時間の不整合」の典型的な例だ。合理的に考えれば,どの時点でも将来の大きい金額を選ぶはずだろう。待つ時間の差は変わらないのだから。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.238

プライミング刺激

 プライミングは驚くほど簡単だ。たとえば無礼で行儀が悪いことを連想させる言葉をたくさん聞かされた被験者は,礼儀正しさと関連する言葉を聞かされた被験者に比べて,その後の会話で相手をさえぎる回数が非常に多かった。もっとはっきりした事例は,言語テストをよそおって老いに関する典型的な言葉をたくさん聞かされた人たちだろう。この人たちは実験が終わりましたと言われて出ていくとき,(プライミングが行われなかったグループに比べて)廊下をとぼとぼ歩き,実験が行われた部屋のようすもよく覚えていなかった。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.203

超正常刺激の世界

 現代生活にはさまざまな誘惑や要求があって,人類が進化してきた環境よりもはるかに複雑(かつ敵対的)な場所になっている。これは良いことだ。人類が進化してきた環境におかれたら,現代人はとっくに生命を落としていただろう。だが現代生活の短所として,自己コントロールに対する圧力がはるかに大きくなった。理由はノーベル賞受賞者の動物行動学者ニコラス・ティンバーゲンが「超正常刺激」と呼んだものにある。たとえばティンバーゲンは動物にとってつがいの相手の魅力は何なのかを調べ,その特徴を過剰に協調した「おとり」を作った。するとこの「おとり」のほうが本物よりも魅力的であることがわかった。巣から持ち出された卵を取り戻す本能があるガンは,それらしく作ってあればバレーボールを巣に運び込もうとした。また雛に餌を運ぶ小鳥は,本物よりも色彩が強烈で大きくくちばしを広げる「おとり」に先に餌を与えようとした。
 わたしたちはいま,そういう「超正常刺激」の世界に住んでいる。豊かな国では「超正常」な魅力をもつ報酬(すごく甘いラッテや不自然に大きな胸,やり始めたら止まらないコンピュータゲームなど)が本能を刺激するが,その誘惑の力はこれまでの進化では本能が太刀打ちできないほど強力だ。砂糖やコカインからガソリンまで,相対的に安価な精製製品は,わたしたちと本能のあいだを隔てているのが意志力という薄い皮膜でしかない,いやもっと薄い「気づき」という皮膜でしかないことを意味している。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.189-190

原因を探ると…

 ヴァージニア大学の神経学者の目に留まった40歳の教員のケースほど,英国の詩人フィリップ・ラーキンのこの言葉をよく理解させてくれるものはなさそうだ。その教員は妻と義理の娘と穏やかに暮らしていたのだが,あるとき何かが変化した。彼は禁じられたセックスへの思いに取り憑かれ,その思いがどんどんエスカレートしていった。
 このあとに見るように,厄介な思考はなかなかコントロールできない。だがこの教員の場合は,ふつうの男性が頭のなかで楽しむ他愛ない憧れやちょっと突飛な幻想ではすまなかった。彼の思考はもっと危険で執拗だったので,まもなく教員は,ときに自分自身の意思に反してでも行動するようになった。まずポルノを蒐集し,さらに売春婦とつきあい,マッサージパーラーを訪れるようになり,ついに彼の強迫観念は子どもに向かった。この男性は教員だったことを思い出してほしい。彼の関心が思春期前期の義理の娘に向かったとき,妻は警察に通報した。彼は自宅から引き離され,児童虐待で有罪になった。刑務所行きを免れるための最後の努力として,すっかり人が変わった教師はグループ・セラピーへの参加に同意したが,まもなくセラピーの場で女性に言い寄ったために放り出された。あとは刑務所に入るしかない。自由な身の最後の晩,彼はいくら我慢しようとしても家主の女性をレイプしてしまうのではないかと自滅的な恐怖にかられて過ごした。さらに激しい頭痛に苛まれ,ついに病院に駆け込んだ。
 診断の結果,激しい頭痛の原因は切羽詰まった状況のせいではないことがわかった。たしかに偏頭痛が起こってもおかしくない状況ではあったが,男性の右眼窩前頭皮質に卵大の腫瘍が発見されたのだ。ここは判断や衝動のコントロール,社会的行動に関連する脳の領域と言われている。外科医が腫瘍を取り除くと,小児性愛の傾向もポルノや売春婦,レイプへの興味もすっかり消えた(それらが戻ってくるとまた問題が生じ,再び手術を受けることになった)。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.181-182

ホット状態とコールド状態

 コールドな状態のわたしたちは,ホットな状態がどれほどのパワーを持ち,どんな行動をとらせるかがわからず,大幅に過小評価してしまう。それどころか,コールドなときには,誰かの行動を見てもホットな状態がどれほどのパワーを持っているか想像がつかない。事実,コールドな人は過去の自分の「熱に浮かされた」行動ですら理解できない。同じことはホットな状態にも言える。ホットになるとコールドな自分にまったく聞く耳をもたなくなる。このことは,食べ物やセックス,ドラッグに関する実験で再三,裏づけられている。
 オデュッセウスにもわかっていたのだろう。彼は夜のうちは自らの情熱の炎に照らされてカリプソにうつつを抜かし,昼になると海辺で故郷を懐かしんで泣く。その故郷では妻のペネロペが言い寄る求婚者たちをしりぞけていた。美しい女神のそばで「ホット」になっているオデュッセウスは,昼の冷静な彼とは事実上,別人だった。
 セックスに関する限り,ほとんどの男性にこのことがあてはまるのはたしかだ。ローウェンスタインとアリエリーは35人の男子大学生にお金を払って,性的興奮状態のときとそうでないときに質問に答えてもらい,両者に大きな違いがあることをつきとめた。(オーガズムに至らない自慰行為によって)性的興奮状態にある男子大学生は,男性とでも,太った女性とでも,大嫌いな人とでもセックスしたいと答える割合が高かった。さらに緊縛や打擲,アナル・セックスにも同意し,喫煙はとても魅力的だと答える者が多かった。さらにセックスするためなら悪事も厭わないという傾向が強かった。たとえば愛していると嘘をつくのも,女性に酒を飲ませるのも平気だ,と大多数が答えた。さらに女性にはっきりと「ノー」と言われてもつきまとう率は2倍,こっそりドラッグを飲ませる率は5倍にも昇った。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.166-167

自己コントロールと学業成績

 2005年,ダックワース(元教師)とセリグマンはさまざまなカリキュラムをもつマグネット・スクールに通う多様な人種の140人の8年生(中学2年生)を対象に調査を行なった。まず親や教師から聞き取りをし,本人にも,悪い習慣をやめるのは大変ですかというような質問をして,生徒たちを自己コントロール能力別に分けた。これが学年が始まったばかりの秋のことで,翌年の春に研究者たちはふたたび学校に出かけ,自己コントロール能力を学習態度,成績,標準テストの成績,それに競争の激しい高校への入学状況などとの相関関係を調べた。
 ダックワースとセリグマンはほかの164人の8年生を対象に同じ調査を繰り返し,今度は楽しみを先延ばしにする実験と知能テスト(IQ)との関係を調べた。するとIQよりも自己コントロール能力のほうが,将来の成績を予測する指標としてはるかに優れていることが明らかになった。学校では持続的な努力が求められ,楽しみを我慢して宿題をしたり,学期末にもらう成績を良くするために着実に勉強しなくてはならないから,この結果は意外ではない。自己コントロール能力は,学習態度や宿題に費やす時間,さらには毎晩何時に宿題を始めるかなどにも正確に反映されていた。またテレビを見る時間ともはっきりした相関関係があった。自己コントロール能力のスコアが高い子ほど,テレビを見る時間は短かった。セリグマンたちは歯に衣を着せずに言う。
 「アメリカの子どもたちの成績が悪いのは,教師の能力が低い,教科書が退屈,1学級の人数が多すぎるなどのせいにされることが多い」とセリグマンらは語った。「だが,わたしたちは,知的能力があっても成績が悪いのには別の理由があると考える。自己コントロール能力が低いことだ……アメリカの子どもたちの多くは,目先の楽しみを我慢して長期的な利益のために努力することが下手なのではないかと思う。自己コントロール能力を鍛えるプログラムこそが,学業成績を上げる王道ではないか」。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.156-157

我慢できる子とそうでない子の違い

 ミシェルは我慢できた子とできなかった子で大学適性試験にどれほどの違いが出たかは発表していないが,ある人々には210ポイントの違いがあったと語っている。これはそうとう大きな違いだ。それだけではない。ミシェルによると,我慢できる時間が最も短かった子どもたちは平均して成績が低くて停学処分も多く,「たいていはいじめっ子に育った」という。「楽しみを我慢する能力は体重とも関係があった。我慢できる時間が長かった子どものほうが細かったのだ(この発見は最近行われた1800人以上の子どもたちを対象とした2つの調査の結果とも一致する。研究者たちはミシェルと同じように,4歳児と5歳児に,我慢できたらもっといいおやつをあげるよ,と言った。楽しみを先延ばしにできなかった子どもたちは,11歳になったときに太っている場合が多かった)」。
 ミシェルは現在,研究成果に手ごたえを感じており,おとなになったビング・ナーサリースクールの子どもたちのフォローアップを続けている。もう1つの研究ではかつての子どもたちは平均して27歳になっているが,ミシェルら研究者たちは,社会的不安の尺度である拒絶に対する感受性に着目し,4歳児のころの成績とどう関係するかを調べた。こちらはビングの卒業生152人が対象で,拒絶に敏感だと問題を抱えがちだが,ナーサリースクール時代に我慢する力が大きかった子の場合はそれほど大きな問題になっていないことがわかった。拒絶に敏感で子どものころ我慢する力が低かった人たち(どうしても待てなかった子どもたち)は,その後の教育水準が低く,コカインやクラックを使用している割合が高かったという。
 では4歳児はマシュマロやプレッツェルを前にしてどれくらい我慢できたのか。ミシェルらは185人の子どもたちを対象とした研究の報告で,我慢できた時間は平均して512.8秒,つまり9分未満だったと述べている。目の前のおやつやその他の状況にもよるが,全体としては4歳児たちが我慢できる時間は7分から8分だった。だが,なかにはずっと長く,20分も我慢できる子どもたちもいた。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.154-155

我慢比べ

 いまは『スターウォーズ』に出てくるヨーダを思わせる風貌になったミシェルは,もぞもぞしたり即興であれこれ工夫したりする子どもたちを何時間もマジックミラー越しに観察した。そしてベルを鳴らすまでに我慢できる時間(ベルを鳴らす場合には)は,子どもがどうやって誘惑をやり過ごすかに左右されることに気づいた。「重要なのは子どもたちの頭の中で起こっていることで,じつはそっちのほうが目の前のものよりも強い力をもっている。我慢できる時間は頭のなかの『ホットな』あるいは『クールな』イメージと,我慢しているあいだ関心をどこに向けるかによって違う」。
 脳が「ホットな」領域と「クールな」領域に分けられるという考え方は,いまでは研究者たちにかなり受け入れられている。クールな領域は海馬と前頭葉だと見られており,哲学者がいう理性に該当する。計画をたて,自分に有利に行動する合理的な部分だ。ホットな領域はもっと原始的で,幼いころに発達する。こちらは生存に直接かかわる機能で反射的に働く。食欲や危険に際しての逃げるか戦うかという反応その他,刺激に即反応する部分だ。ミシェルら研究者たちは,脳のホットなシステムからクールなシステムに移行できた子どもはうまく我慢できるのではないか,と考えている。最近のインタビューでミシェルは「マシュマロは甘くておいしいだろうなと考えたら1分も待てなかった子どもが,マシュマロは綿の塊みたいにふんわりしているとか,空に浮かぶ雲のようだと考えると20分も我慢できる」と語った。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.152-153

ミシェルの研究

 現在,静かな活況を呈している自己コントロールという研究分野では,ウォルター・ミシェルはどうしても触れざるを得ない重要人物だ。彼がトリニダードで調査したやり方は「楽しみを延期するパラダイム」と呼ばれている。いますぐ小さい楽しみをとるか,いまは我慢して将来もっと大きな楽しみをとるか(楽しみはずっと大きいが,我慢する期間はそう長くはないので,比較すると楽しみははるかに大きいことが多い)という方法は,楽しみを延期する力や自己コントロール能力を調べるうえで標準的な手法になった。カリブ海滞在の成果としてミシェルは,楽しみを我慢する力と注意力,知力,年齢,家族構成,所得などとの関連を調べた一連の研究結果を報告している。彼の研究はこの分野で最も重要な疑問に取り組んだものだった。さらに重要なのは,トリニダード滞在が自己コントロールについて実験的に理解するというミシェルの生涯の研究テーマの出発点となったことだ。その後の研究で驚くような成果がいくつも現れるが,ほとんどはカリブ海での発見が元になっている。現在,自己コントロールについてわかっていること(あるいは推測されていること)の多くは,ミシェルの初期の研究にまで遡ることができる。だからこそ,いまでも彼の研究には注目すべき価値がある。
 もう1つ,ミシェルの研究から生まれた「マシュマロ・テスト」は,研究者にとっても評論家にとっても不可欠の概念,道具になった。マシュマロ・テストでは,いまならマシュマロを1つ,しばらく我慢すれば2つあげるよ,と子どもたちに言って,どちらかを選ばせる。ミシェルのマシュマロ・テストがもとになってさまざまな自己啓発書が書かれ,フィラデルフィアのチャーター・スクールでは「マシュマロを食べちゃだめ」と書いたTシャツまで生まれた。さらにこのテストは,科学的な色合いを帯びたイソップのアリとキリギリスの物語として,政治的な意味をもたされることもある。マシュマロ・テストについてはこのあと詳しく述べる。ここでは,ミシェルの調査は人々の暮らしに自己コントロールがいかに重要かを明らかにしたことを指摘しておきたい。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.146-147

意志力を鍛える

 心理学者は最近よく意志力を筋肉にたとえ,どのように鍛えるか,いくら強力な意思でも疲弊してしまうのはどんな状況かということまで推測しているが,しかしこの2つには重要な違いがある。不愉快な隣人を殺したい思いにはいつまででも抵抗できるだろうが,トイレが見つからなければ,いくら固い意志でがんばってもいつかは漏らしてしまうだろう。道義心と筋肉組織の共通点は限られている。ジョン・デューイが言ったように,「肉体的な問題と倫理的な問題は分けて考える必要がある」。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.131

古代ギリシャと自己コントロール

 とりわけギリシアのようなコンパクトな都市国家は,自己コントロールが政治的に重要であることは自明だっただろう。人々は徒歩で動き,いたるところに召使や家族の目があった。いちばん栄えていたころのアテネが良い例だ。数千人の市民(とさらに数千人の女性,子どもたち,奴隷)からなる都市国家である。都市国家アテネの人々の暮らしには最低限の監視しかなかった。警官も検閲官もいないし,戒厳令もない。だが同じ都市の住民にいつも取り囲まれ,その目にさらされている。「1人1人の住民が警官のようなものだった」とジェームズ・デヴィッドソンは言い,裁判の決め手は証人で,その証人のなかには家庭内の召使も含まれており,争いごとになりそうなほとんどすべてについて証言台に立った(そして,ほとんどが争いごとになった)と付け加えている。
 司法の領域のほかにも,世間の評判というものがあった。身分や階層が同じ人たちはお互いに知り合いだったし,言葉を交わしていた。世間の評判は重大事だった。「都市国家ポリスの成長のなかで,とくにソープロシュネーを重視する条件ができあがった」とノースは言う。「都市国家ポリスはその本質からして,大きな自制を求めていた」。
 人々の関係が密だった(窮屈ではあったにしても)都市国家と比べれば,現代の都市は,いやそれ以上に交通が激しくて,玩具菓子ペッツのように次々に商品がケースから出てくる大型店舗がどこにでもあるような郊外住宅地は匿名性が強くて,だだっ広く,とくに規制が働きにくい。住民の顔が見える都市国家ポリスではソープロシュネーが強制されたとすれば,現代の都市は「アクラシア」と呼ばれる苦しみの土壌となる可能性が大きい。そしてこのアクラシアは名づけられた昔から,哲学者の熱い議論の的になってきたのである。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.128-129

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