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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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スピードが最大の敵

 自己コントロールにとってはスピードが最大の敵なのに,技術の進歩であらゆることのスピードが上がり,抑制がとても難しくなった。怒りを鎮めるために10数える,というのは昔ながらのやり方だし,熟慮が必要な重大な事柄の場合には,規則で待機期間を設ける(銃の購入や妊娠中絶のように)こともある。
 ところが技術進歩のおかげで暮らしは一方的に加速した。大西洋を数時間を飛び越えたり,微生物学の最新の成果を数秒で知ることができるのはすばらしい。だが加速化は自制という前線では良いニュースではない。衝動から行動まで,誘いから決断までの時間がほとんどなくなって,どうしても熟慮よりも衝動,将来よりも現在が優位に立つようになった。スピードは熟慮を妨げ,楽しみを後回しにする習慣が薄れて,考え直すチャンスがなくなる。何でも手軽になれば,すぐに欲求を満たしたくなる。食べたいと思えばいつでもフライドチキンや熱々のポプコーンが手に入るから,いくらカロリーが高くても我慢できない。鶏の羽根をむしり,衣をつけて揚げて,台所まわりの油汚れを掃除するという手間があれば,そして考え直す余裕があれば,胴回りやコレステロールへの影響を思って我慢できただろうに。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.74-75
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ローベルの童話

 アーノルド・ローベルの童話に出てくる大真面目で愛らしい「がまくんとかえるくん」も,自制心がどれほどあてにならないかを身にしみて悟った。『クッキー』というお話のなかで,がまくんとかえるくんは焼きたてのクッキーを食べ始めてとまらなくなってしまう。そこでかえるくんがクッキーを箱に入れて紐で縛り,ハシゴを使って高いところにあげようとする。ところがそのたびに,そんなことをしたって無駄だとがまくんが言う。マリリン・モンローに頼まれたトム・イーウェルのように,簡単に箱を下ろすことができるからだ。とうとう,かえるくんはクッキーを持ちだして小鳥たちにやってしまう。小鳥たちは喜んでクッキーを食べつくす。
 この物語は,プリコミットメントには拘束力がなくてはならないことを教えている。プリコミットメントがほんとうに効果的であるためには,ほんものの強制力が必要だ。だが,その強制力は自分で自分に科すものだ。ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインはこのことをよく理解していた。彼は第1次世界対戦にオーストリア軍兵士として従軍し,恐ろしい戦争体験をしたあと,2度と以前のような安楽で快適な暮らしに戻るまいと決意する。哲学者ウィトゲンシュタインの父親は事業家で,戦争前に有り金をすべてアメリカ国債に注ぎ込んでいた。これは驚くべき慧眼で,おかげで息子はヨーロッパ一の金持ちの1人になり,フロイトなどほかの裕福だったウィーン人のように貧乏を経験せずにすんだ。だがウィトゲンシュタインはその金を全部捨てると決意し,反対を押し切って兄弟姉妹たちにすべてを譲る法的手続きを取ると主張した。姉のヘルミーネは書いている。「彼はもはやどんなかたちの財産も自分にはないということを,何百回も確認したがりました」。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.60-61

自己コントロールと自殺

 自殺が衝動的(自己コントロールの問題)であることをいちばんよく示しているのは,英国で天然ガスが導入されたときの出来事だろう。英国では長年,安くて豊かな石炭ガスが使われていたが,石炭ガスは一酸化炭素が多いので,ドアや窓が閉めきられていると不幸な結果を招いた。1950年代末には自殺者の半数近くがガス自殺だった。1963年には詩人のシルヴィア・プラスがロンドンの自宅で,ガスを出したオーヴンに頭を突っ込んで自殺している。ところが1970年代初めに天然ガスへの転換がゆきわたると,英国の自殺率は3分の1近くも低下し,その後も低いまま留まっている。人々はほかの手段を探して自殺しようとはしなかったわけだ。石炭ガスはあまりにも手軽だったので,ふと何もかもおしまいにしたくなった人たちは,どこかへ出かけたり何かを購入しなくても簡単に自殺を決行できた。これから繰り返し見ていくように,自己コントロールの問題ではスピードが決め手になる。だから,わずかな手間や面倒が生命を救う可能性があるのだ。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.50

自己コントロールと体重

 自己コントロールという難題をなによりもよく表しているのは,世界中の人たちが体重で苦労していることかもしれない。ほんの1世代前には世界最大の食糧問題といえば飢餓だったし,いまでも多くの場所で人々は飢えている。だがやっと豊かになった何億人もの人たち,そして前よりももっと豊かになった何億人もの人たちにとって,ますます大きくのしかかるようになった健康問題といえば肥満しかない。
 とくにアメリカではその傾向が強い。アメリカ人の太い胴回りは過剰な暮らしのシンボルとなり,病的肥満は公衆衛生上の「第2のタバコ」問題と言われている。アメリカ人の肥満が深刻になったのはここ30年くらいで,おおざっぱに言うと現在,成人の3分の1は病的肥満,あとの3分の1は病的とはいかないまでも太りすぎだという。この驚くべき変化の原因は,自己コントロールの問題で毎度登場する技術の進歩,社会的な変化,豊かさである。このすべてを表す驚くべき事実がある。わたしたちはどんどん太りつつあるわけだが,インフレ率調整後のカロリー当たりの価格はたぶんエデンの園の時代以来,最低水準に落ち込んでいるのだ。たとえば1919年,アメリカ人は1.3キロほどのチキンを買うために平均して158分,働かなくてはならなかった。それがいまでは15分程度の労働で内蔵を処理したチキンが買える。ソーダ水や冷凍食品,ファストフードその他の調理済み食品の値段も急落した。ジャガイモはどうか。第二次世界大戦以前,アメリカ人はジャガイモをたくさん食べていたが,フライドポテトはめったになかった。手間暇がかかりすぎるからだ。ところが食品科学の進歩によって,マクドナルドでは冷凍のフライドポテトがいつでも安く手に入るし,家庭で電子レンジで調理するのも簡単になった。当然ながらジャガイモの消費量は激増し,そのほとんどはフライドポテトである。状況はこれほど変化したのに,人間はこの豊かな環境に適応できるほど進化していない。それがアメリカ人の大多数が太りすぎという結果になって現れている。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.42-43

自己コントロールと政治

 自己コントロールの道徳的側面を考えると,どうしても政治色を帯びてくる。自分の人生の決め手は自分の努力と意志だと信じている人と,人生は遺伝と環境のせいだと(自分ではどうしようもない要因のせいだと)信じている人とでは,税制や規制,所得再配分についての感じ方が大きく違う。一般的に保守派はリベラル派よりも,人には自分をコントロールする能力があると強く信じているようだ。ただし女性やマイノリティ,そして地球に有害な行動は例外で,これらの問題については両者の立場は入れ替わる。どちらにしても,意志の強さについて問題を抱えている者が多いという事実から,国民を当人自身から救うために政府がどこまで介入すべきかという大きな課題が生まれる。そして保守派もリベラル派も自由を主張しつつ,同時に離婚や中絶を規制するとか(保守派),税や規制を増やす(リベラル派)などによって,人々の自由行使に政府が介入することを支持している。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.26

無節制と抑制の行き来

 そのうえ社会もやりたい放題の無節制と抑制のあいだを行ったり来たりする傾向がある。たとえば19世紀初め,アメリカ人は大酒を飲んでいたから,国家の象徴は白頭ワシではなく酔っ払いが見る幻覚のピンクの象でもよかったくらいだ。しかしその後国家的な反動が起こって,アメリカ人の酒量は激減する。犯罪や10代の妊娠その他の無秩序の兆候も増えたり減ったりするし,エリオット・スピッツァーやジョン・エドワーズ,タイガー・ウッズと同じような性的スキャンダルは歴史上いくらでも見られる。社会学者のゲイリー・アラン・ファインは,「理想的な時代があるという考え方は誤解につながる。昔は女優が下着をつけていないことを誇らしげに口にしたりはしなかっただろうが,人種差別的発言をしたコメディアンのマイケル・リチャーズや口の悪いラジオ番組のホスト,ドン・イームズが浴びた激しい避難は,いくらコール・ポーターが『エニシング・ゴーズ,何でもありさ』と歌っても,わたしたちは何でもありだとは思っていないことを示している」と述べている。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.16-17

冷笑主義に陥るな!

 このような「フィールドガイド」を読んだ人は,統計数字なんてみんないい加減だという結論を下してしまうかもしれない。どの統計にも冷笑的な態度をとり,数字は役立たずだと決めてかかるべきだと。だが,それではすまない。この様の中は込み入っている。そのさまざまな性質をはかろうとしなくては,この様の中を理解することは望めない。私たちには統計が必要なのだ。だがもちろん,必要なのは,いい統計,できるかぎり正確な統計である。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2011). あやしい統計フィールドガイド 白楊社 pp.179

ここにも定義の拡大

 自閉症の発症率が劇的に上昇しているという話がメディアやインターネットで広がっている。自閉症の原因は何か。また,自閉症と診断される人の数が劇的に増えている原因は何か。医学の権威は,自閉症の原因は遺伝的なものだとする傾向があるのに対し,自閉症のアドボケートには,汚染されたワクチン,食事,テレビなどの環境が影響だと指摘する人が多い。
 こうした説明の多くが無視しているが,考慮すべきであるのがもっと明らかなことがある。それは,自閉症の定義が広がったことだ。1980年に米国精神医学会が定めた診断基準では,自閉症と診断されるには6つの症状を示していなければならなかった。1994年には新たな基準が定められ,16個の症状のうち8つに該当すれば自閉症と診断されることになった。しかも,新たに列挙された症状は幅広く,前ほど具体的ではなかったので,基準を満たすのがずっと容易になった。さらに1980年には自閉症は2種類しか認められていなかったが,それが1994年には5種類に増えた。そこには「軽度なタイプ」が2つ含まれており,全診断例の4分の3を占めていた。(ここでもまた,とりわけ深刻な事例はとりわけめずらしい事例だという原理が確認される。)言い換えれば,自閉症と見なされる振る舞いの範囲が今ではかつてよりずっと広いのだ。この病気の定義はこのように変わった。さらに自閉症についての人々の認識が高まっていて,そのことによっても事例が見逃されにくくなっていることを勘定に入れれば,自閉症の症例が本当に急増しているということはなさそうに思われる。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2011). あやしい統計フィールドガイド 白楊社 pp.140-141

立ち止まるべし!

 数字を耳にしたときには,いつも,いっとき立ち止まって自問するのがいい。どうしてその数字がわかったのだろう。どうやって計測できたのだろう。その統計が,人々が秘密にしておきたいと思うかもしれない活動に関するものであるとき,このような問いを立てることが,とくに大切になる。たとえば不法移民の数や,違法な薬物に費やされる金額を数えることがどうすればできるのだろう。信頼できるように思える統計も,ちょっと考えるだけで,かなりいい加減な計測上の決定に基づいているにちがいないことが明らかになることもよくある。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2011). あやしい統計フィールドガイド 白楊社 pp.91

定義の変化で

 1998年に連邦政府が,「太りすぎ」というカテゴリーを定義しなおした。それまでは,男性なら,肥満度を示す体格指数(BMI)が28,女性ならBMIが27より低ければ,正常と判断されていた。ところがこのとき男女とも,BMIの正常な値の上限が25に引き下げられた。肥満度が正常だとされていた米国人のうち2900万人が,この再定義によって突然,太り過ぎに分類しなおされた。つまり今や公式の判断基準によって健康上の問題があることになったのだ。
 この変化——だれ1人として1ポンドも太らないなかで起こった変化は,重大な社会的影響をもたらした。太りすぎの定義を広げたということは,体重の問題を抱える米国人が増え,体重についての医学的研究がもっと重要になるということだった。(なぜなら,より多くの人たちに影響を及ぼすわけだから。)これで,体重の問題に対処しようとする政府機関(たとえば疾病予防管理センター)は,自分たちの仕事にもっと高い優先順位が与えられるべきだと主張することができたし,やせ薬に取り組んでいる製薬会社は,将来の利潤が増えると期待できた。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2011). あやしい統計フィールドガイド 白楊社 pp.79

定義の拡大

 問題を広く定義することには利点があるので,社会問題は時がたつにつれて徐々に定義が広がり,前より広い範囲の現象に当てはまるようになりがちだ。このプロセスを「ドメイン・エクスパンション」(領域拡大)という。もともと児童虐待は,身体的な虐待と理解されていたが,時がたつにつれて定義が広がり,性的虐待,心理的虐待なども含まれるようになっている。同様にヘイトクライムについての議論では,初めのころは人種的,宗教的偏見に基づく攻撃が論じられていた。ところが,まもなく範囲は広がって,性的嗜好に基づく犯罪も含むようになり,この問題のアドボケートはさらに,ジェンダーや障害に対する偏見によって起こる犯罪などを加えるよう求めた。
 ある問題の定義を広げれば,当然,その問題の規模についての統計的見積りも大きくなる。定義が広いほど,大きな数字を出すことができ,数字が大きいほど,大きな問題があることになり,人々が関心を寄せることがそれだけ求められることになる。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2011). あやしい統計フィールドガイド 白楊社 pp.77-78

たのむ

この2つの事例に共通するキイ・ワードは,ずばり「憑む(頼む)」である。室町時代に成立した芸能である狂言のなかでは,よく下人である太郎冠者や次郎冠者が,自分の主人のことを「たのふだ人」とか「たのふだ御方」とよんでいる。これはまさに「憑んだ人」「頼んだ御方」の意であり,ここでは「憑んだ人」とは「主人」と同義で使われていることがわかる。中世社会においては「憑む(頼む)」という言葉は,たんに現代語のように「あてにする」「依頼する」という程度の意味ではなく,むしろ「主人と仰ぐ」「相手の支配下に属する」というようなつよい意味をともなっていたのである。つまり,屋形に駆け込んだ者たちは,自己の人格のすべてをその家の主人に捧げ,「相手の支配下に属する」ことを宣言したのであり,これにより主人の側はたとえ相手が初対面のものであったとしても,彼の主人として彼を「扶持」(保護)する義務が生じた,と,当時の人々は考えていたようなのである。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.58

概念定義が必要

 名前をつけずに社会問題を論じるのは——まして統計的に分析するのは——ほとんど不可能だ。そして名前は重要である。注意深く選ばれた名前は,問題について特定の印象を与えることがあるからだ。
 例として「ビンジ・ドリンキング」を考えてみればいい。1990年代半ばまでは,米国で人々が「ビンジ・ドリンキング」と言うときは普通,長期間にわたる抑えの利かない飲酒のことを指していた。「失われた週末」や「リービング・ラスベガス」のような映画で描かれたような自滅的な状態だ。ビンジ・ドリンキングの暗いイメージが無数の大酒飲みにこう言い張らせたのである。「私はアルコール依存症ではない」。ところがその後,大学のキャンパスでの飲酒に懸念を抱くアルコール研究者たちが,違う種類の振る舞いに注目を集めるためにこの用語を乗っ取ってしまった。この研究者たちが用いるときビンジ・ドリンキングという用語は,学生が1階に数杯(男性なら5杯,女性なら4杯)飲むことを指していた。これは,だれかが友人とバーで5時間過ごし,1時間あたり1杯消費すれば(このペースでは血中アルコール濃度は,車の運転が許容される法律上の限界を上回らないかもしれないが),「ビンジ・ドリンキング」をしていると表現できるということだ。つまり,かなり広くおこなわれていて,何の問題も引き起こさないかもしれない合法的な振る舞いの呼び名として,もっとも厄介で破滅的な種類のアルコール依存症と長らく関連づけられてきた言葉が用いられたのである。
 呼び名をうまく選べば,強い感情的反応を呼び起こし,統計を,とくに気がかりなように見せることができる。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2011). あやしい統計フィールドガイド 白楊社 pp.67-68

x分に1件

 みなさんは,ほかのいろいろな社会問題について,「X分に1件」起こっているという言い方がされるのを目にしたことがあるだろう。これは,物事を考えるのに格別役に立つやり方ではない。第1に,たいていの人にとって,こういう数字を役に立つ総数に変換するのはたいへんだ。私たちは,1年が何分かをよくつかんでいないからである。1年が52万5600分,おおよそ50万分であることを覚えておけば役に立つかもしれない。私たちのベンチマークのリストに加えておくのにいい数字だ。そうすると,こう考えることができる。「えーと,13分に1件ということは,おおよそ50万を13で割って,4万くらいということか。これは,若者の自殺の件数としてとんでもなく多いように思えるな」。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2011). あやしい統計フィールドガイド 白楊社 pp.37-38

深刻な事象は少ない

 おおかたの社会問題は,こういうパターンを示す。つまり,それほど深刻でない事例はたくさんあり,大変深刻なものは比較的少ないのだ。この点が大事なのは,社会問題についてのメディアの報道やそのほかの主張で,不安をかきたてる象徴的な例が大きく扱われることが多いからだ。つまり,その問題を説明するために劇的な事例が使われるのである。そうした例はたいてい悲惨な話で,まさに人々をぞっとさせ,動揺させるから選ばれるのだ。だが裏を返せば,そうした例はたいてい典型的なものではないのである。その問題の事例のおおかたは,その例ほど心配なものではないのだ。それでも,その問題の広がりをめぐる統計に恐ろしい例を結びつけてしまいやすい。たとえば,未成年の大学生が急性アルコール中毒で死んだという話(恐ろしいがめったに起こらない出来事)が報道されると,それが,酒を飲む未成年の大学生の(大きな数であるのは疑いない)推定人数と結びつけられかねない。そこでほのめかされるのは,キャンパスでの飲酒は,死を招く問題だということだ。もちろん,酒を飲む学生の圧倒的多数は,死ぬことなく大学生活をおえるのだが。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2011). あやしい統計フィールドガイド 白楊社 pp.26

おおよその値の把握

 社会統計を解釈するときには,物事の規模を大雑把にでもつかんでおくのが役に立つ。ベンチマークとなる数字をほんのいくつか知っておくだけで,何らかの数字に出会ったときに,それについて評価を下すための予備知識をもつことができる。たとえば米国社会について考えるとき,次のことを知っておくと役に立つ。

・米国の人口は3億をいくらか超えている。(2006年10月にこの大台に乗ったときの大騒ぎをご記憶かもしれない。)
・米国では毎年およそ400万人の赤ちゃんが生まれる。(2004年には,411万2052人)。これは,とくに子どもや若者について考えるとき,意外に役に立つ情報だ。1年生は何人いるか。約400万人。18歳未満の米国人は何人いるか。およそ400万×18,つまり7200万人。子どもは男女がおおよそ同数なので,10歳の女の子は200万人くらいだと計算できる。
・毎年およそ240万人の米国人が死ぬ。(2004年には239万7615件の死亡が記録されている)。4人に1人ちょっとが心臓病で死ぬ。(2004年には27.2%)。がんで死ぬ人もほぼ同じくらいだ。だから,心臓病で死ぬ人と,がんで死ぬ人を合わせると半分ちょっとである。(2004年には120万6374人,つまり50.3%)。これとくらべて,盛んに報道される死因のなかには,ずっとまれなものがある。たとえば交通事故で死んだ人は2004年にはおよそ4万3000人,乳がんは4万人,自殺は3万2000人,殺人は1万7000人,HIVは1万6000人だ。つまり,今あげた死因のそれぞれが占める割合は,死因全体の1%か2%である。
・人種と民族をめぐる統計は厄介だ。こうしたカテゴリーの意味が明確でないからである。しかし一般に,自分を黒人とかアフリカ系米国人と認識する人々は人口の13%弱——およそ8人に1人を占めている。(全人口が3億人を超えていることを思い起こせば,米国の黒人はおよそ4000万人いると計算できる。3億÷8=3750万だ)。自分をヒスパニックあるいはラティーノと認識する人はもう少し多い——14%を超えている。つまりおよそ7人に1人だ。だが人々を人種的あるいは民族的カテゴリーにきれいに分けることはできない。おおかたの政府統計はヒスパニックを人種的カテゴリーというより民族的カテゴリーとして扱っている。というのも,ヒスパニックは,自分の属する人種について,人によって考えが異なるかもしれないからだ。たとえば2007年に国勢調査局は,ある報道発表資料で,今や「マイノリティー(少数集団)」が米国の人口の3分の1を占めていると発表したが,そこで,「非ヒスパニックで単一人種の白人は総人口の66%」という言い方をした。ごたごたした言い回しに注意していただきたい。「非ヒスパニック」という言い方が用いられているのは,自分の民族性をヒスパニックに分類する人のなかに,自分の人種を白人とする人がいるからだし,「単一人種」は,祖先にいろいろな人種がいる(たとえば祖先にアメリカインディアンがいるなど)と申告する人がいるからだ。要するに,自らを白人と考えているのに,国勢調査局によってマイノリティーしゅうだんに分類されている人がいるのである。人々を人種と民族に分類するための唯一の権威ある方法などないのだ。それでも,米国の人口の民族的,人種的構成を大雑把にでもつかんでおけば役に立つことがある。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2011). あやしい統計フィールドガイド 白楊社 pp.19-22

ホーダー家族

 私達は最近,ホーダーの家庭に育ったことで辛い結果を見ることになったホーダーの家族について調査した。すると,ホーダー家庭の影響は,ホーダーが始まった時点で子供が何歳だったかによって異なることがわかった。10歳以前からホーダー家庭で暮らした子供では,10歳以降に家族のホーディング行動が始まった家庭の子供よりも,困惑や不幸感が強く,家に呼ぶ友達の数はより少なく,成長過程での両親との関係がより険悪だった。大人になって,彼らは社会的不安やストレスをより強く感じ,両親との間も険悪なままであることが多い。幼い頃にガラクタに囲まれて暮らした子供たちが親に抱く嫌悪感や拒否感は,その頃にはまだホーディング行動が始まっていなかった子供たちに比べて強い。とはいえ後者も,他の深刻な精神病患者のいる家庭で育った子供と比べると,親に対して抱く敵意ははるかに強いのである。ホーディングによる悪影響は,子どもたちに生涯ついて回ることも多い。

ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.290
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)

シロゴマニア

 老年学は高齢化とそれに伴う問題を研究する分野だ。そこでは,ガラクタを集めることが「シロゴマニア(Syllogomania)」と呼ばれている。(syllogeはギリシア語で「集めること」の意)シロゴマニアは,高齢者のセルフネグレクト(自己放任)や,自分の世話をしなかったり,極端に不衛生な環境で暮らしていたりする場合の指標として広く使われている。1960年代初めには,2人の英国人老年学者が,「老人破綻症候群」と呼ぶ72件の事例を挙げて検証している。この症候群の最大の特徴は高齢者のみに見られることであり,個人の衛生状態や生活環境の極端な悪化が見られ,敵意,孤立,外の世界の拒絶を伴うことも多い。これらの症候群の一般的な特徴がシロゴマニアである。

ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.226-227
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)

動物ホーディング

 ホーダーの大半が無機物を集め溜めこむのに対し,動物に安心や愛着,そしてアイデンティティを感じる人も,少数ではあるが存在する。動物ホーディングの症例には劇的なものが多く,好意的に宣伝されることもある。動物ホーダーは自分が集める動物と強い愛着で結ばれる。多数の動物,とくに犬や猫を集める人は,自分の行動が動物を救う使命の一部であると考えることが多く,自分にはそれをする特別な力や能力があると考える。その一方で,動物たちの健康や劣悪な環境には気づかないことが多い。衛生局で担当者から聞いたところ,もっとも扱いに困るのは多数の動物が絡むホーディングの事例だとのことだった。問題解決に協力的なのは動物ホーダーの10パーセント以下で,動物もホーダーもひどい環境で暮らしていることがほとんどである。
 どの住宅地にも「猫おばさん」が1人はいるが,この種のホーディングに対する理解はほとんどない。モノを集めるホーダーについての研究はこれまで10例以上行われたが,動物ホーダーについての研究はほとんどないのだ。存在するいくつかの研究でも,情報源は動物管理局や動物愛護協会の担当者,裁判所の記録,報道などであり,動物ホーダー自身による情報はきわめて稀である。その理由は簡単だ。ある動物ホーディングの事例が注目される頃には,ホーダーは近所の人々と大きなトラブルを抱えてしまっているからだ。画像や個人情報がニュースの合間に流され,ホーダーはその件について進んで話そうという気をなくしてしまう。

ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.154-155
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)

失敗への恐怖

 ホーダーの家の状態からは,彼らが完璧主義者だとは想像しにくいが,失敗することへの強い恐怖は,ホーダーの間で広く見られる特徴だ。たとえば,私たちの患者の1人は,古新聞の束を美しく束ねてきちんと重さを計測してからでなければリサイクルに出せなかったが,それは回収業者から文句を言われたくないからだった。別のホーダーは,鍵を見つけてからでなくては古いスーツケースを捨てられなかった。「全部がそろっていないと,正しくないの」彼女たちのように,ホーダーの多くは,些細な間違いを大失敗ととらえてしまう。私たちはちょっとした失敗をしても,人間なのだから仕方ないと考え,自分を責めたりはしないが,ホーダーの多くは違うのだ。

ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.141
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)

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