忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ジョン・ロックの教育論

 古典主義時代のあと初めて水に浸かるという恐ろしい行為を薦めたもののひとつが,ジョン・ロックがある少年を育てるために1693年に書いた『教育に関する考察』という論文だ。そのなかでロックは,その子の足を毎日冷たい水で洗い,水を通すほど薄い靴を履かせて,水が靴に入ってくるようにさせない,と薦めている。「そうすることは清潔にするために好ましいことです」(服部知文訳,以下同)と書いているが,「わたくしの意図していますことは健康です」。ロックは,少年の脚全体を水に浸け,その水をだんだん冷たくしていくと,強固で頑健な体になる,とも述べている。ロックという哲学者は医者でもあったのだが,その論は生理学的というよりは,多分に希望的観測に負っている。それに,古典の教養を身につけてきたものだから,あの大昔の“女々しい温水浴”対“雄々しい冷水浴”の論争もよく知っていて,冷水浴を習慣にしていたホラティウスやセネカといったたくましい男たちの肩を断固としてもったのだ。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.124-125
PR

貴族も入浴禁止!

 貧しい人たちには全身をよく洗う手立てがなかったのだが,宮廷の侍従医たちは貴族がそうするのを禁じていた。フランス一報酬の高い医者たちの意見によれば,体の分泌物は体表に保護膜を作るとされ,王や王妃はいちばん貧しい小作農と同じくらいめったに風呂に入らなかった。1601年にルイ王太子(のちのルイ13世)が生まれたとき,侍従医はこの子が体を洗った記録をいちいちつけているのだが,これが長くない。生後6週で,王太子は頭のマッサージを受ける。7週で,皮膚炎だらけになった頭にバターとアーモンド油を擦りこまれる。王太子の髪の毛には,生後9ヶ月にならないと櫛が入らない。5歳になって初めて,ぬるい湯で足を洗う。産湯を使ったのは,すっかり大きくなって7歳にもなろうとしているときだ。「初めてのご入浴。妃殿下[ルイ王太子の妹]とご一緒にお浸かりになる」。
 大人の王族も似たり寄ったりだ。ルイ14世の場合,起きると外科医長と侍従医長と看護人がいっしょに居室に入る。サン=シモン公によれば,看護人が王に接吻をし,医者たちが「陛下の下着をこすり,替えることもよくあった。陛下が決まって大いに汗をかかれたからである」。近侍のひとりが王の両手にワインを少し振りかけると,王はそれで口をゆすぎ,それから顔を拭く。これで身支度は終わりだ。べつに体を動かすことを軽蔑している君主の話ではない。朝の祈りを終えると,ルイ14世はじつに熱心に飛び跳ねたり,フェンシングをしたり,踊ったり,軍事教練に勤しんだりし,たっぷり汗をかいて居室に戻ってきていたのだ。それでもこの汗まみれの君主は体を洗わなかった。その代わりに服を着替えた。仕立て上がりの衣装を身に着け,洗い立ての下着も着けたが,それが王自身にとっても他の人々にとっても「清潔」を意味していたのだ。ルイ14世の弟のフィリップ公はとりわけ清潔だと思われていた。1日に3度下着を替えたからだ。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.101-102

トルコ人の清潔さ

 1636年に『レヴァントへの航海』を刊行したイングランド人のヘンリー・ブラントも,トルコ人の衛生水準の高さに同じような反応を示している。ブラントによれば,オスマン・トルコが町を占拠して最初にするのは共同浴場を建てることで,浴場は助成金で運営されるので,どんな男女も2ペンス以下で体を洗える。ブラントは,ふつうではないこととして,「週に二度三度湯引く者は汚しとぞ思はるるなり」と書いている。排尿その他の「わざとならぬ穢れごと」のあとは,このとんでもなく変わった人たちは性器を洗う。犬が手に触れれば手を洗い,祈りの前には顔と両手を洗うほか,頭と性器を洗うこともある。ラウヴルフと同じように,ブラントもトルコ人の清潔さを理屈で説明しようとし,「暑き地にて粗悪なるものを食らふ衆集」には病気予防の必用があるのだとしている。もっと穏やかな気候の国の人たちは,ブラントの示唆によれば,さほど洗う必要がない。ブラントが,牛肉たっぷりのイングランドの食習慣が,ラム肉と米とヨーグルトのトルコの食事ほど「粗悪なるもの」ではないと考えていたかどうかは定かではない。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.99-101

水に対する恐怖

 ペストの脅威が迫っているわけではなくても,中世後期に端を発した水にたいする恐怖はどんどん広まっていった。医者たちは,入浴が得体の知れないさまざまなかたちで体に害を及ぼすと信じこんでいた。「入浴は,治療上どうしてもせざるをえない場合を除けば,必要がないばかりか,体に毒なことはなはだしい」と,フランスの医師テオフラスト・ルノドーは1655年に警告を発している。「風呂に入れば湯気が頭のなかを満たす。これは神経と靭帯を緩めることになり,体に大きく差し障る。たとえば痛風持ちの人たちの多くが痛みに悩まされるのは,入浴後のみである」。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.96

入浴を避けろ!

 1348年には,フランス国王フィリップ6世が,パリ大学医学部にペストの発生源を調査するよう依頼している。医学部の詳細にわたる<意見書>は,土星と木星と火星が災いをもたらす配置になっている,ということから始まる。その配置のせいで,土や水から病の“気”が立ちのぼり,空気を汚染する。この有毒な空気を感染しやすい人が吸い込むと,病気になって死ぬ。どういう人たちが感染しやすかったのだろう?病気の招きやすさは,ギリシャ・ローマ時代にもいくらかは認められており,その時代には,肥満,不摂生,過度に激しい気性が挙がっていた。パリ大学医学部の教授たちは,こういったことに付け加えて,中世の人々を恐怖に陥れる新しい要因を挙げた。湯浴みだ。湯浴みの体を湿らせて柔らかくする効果が危険だというのだ。熱と水がいったん皮膚にある毛穴その他を開いてしまうと,ペストは簡単に全身に侵入してしまうというのだ。
 その後200年ほどのあいだ,ペストに脅かされるたびに声高に叫ばれたのは,こうだ。「浴場も入浴も,頼むから避けろ。さもないと死ぬぞ」。とはいえ,この考えに異を唱える者もいた。ペストが発生していた1450年,シャルル7世の侍従医だったジャック・デ・パールはパリの浴場の閉鎖を呼びかけたが,共同浴場の経営者たちの激しい怒りを買ってしまい,トゥルネーに逃げ出すはめになった。しかし16世紀前半までは,フランスの浴場は,ペストが流行っているあいだは閉鎖になってもしかたがないと思われていた。1568年には,今度は世論を代弁するかたちで,「蒸し風呂と共同浴場は禁止すべきである」と王室付き外科医のアンブロワーズ・パレが書いている。「なぜなら風呂から上がると,肌と肉,そして体の器官全体が柔らかくなり,細孔が開くからである。その結果,悪疫の“気”はたちまち体に入って,頻繁に観察されてきたとおり,突然の死を引き起こすのである」。悲しいかな,当時としては最先端の医学にもとづいたアドヴァイスも,おそらく多くの人々が感染するのを止めることはできなかっただろう。入浴を避けて不潔になっていけばいくほど,ノミにたかられやすくなってしまったからだ。現代では,ノミがネズミから人間にペスト菌を運んでいたと考えられている。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.89-90

共同浴場は十字軍の副産物

 中世の人々の衛生に関わることで,いちばん画期的な変化は,共同浴場が戻ってきたことだ。5世紀以来,西ヨーロッパのほとんどの地域で,この施設は消滅したか,ひどく数が減っていた。復活したのは十字軍のおかげで,十字軍は東方遠征に失敗しては戻ってきたが,じつにありがたい習慣,トルコの風呂《ハマーム》の知らせをもたらした。皮肉なのは,少なくともいくらかはローマの浴場の消滅に対して責任があるキリスト教が,今度は,十字軍の副産物とはいえ,東方で変化を遂げた浴場を復活させたことについても責任があるということだ。おそらく早くも11世紀には,ヨーロッパ人は浴場を贅沢のリストに加えた。この贅沢リストには,ダマスク織,鏡,絹,綿などもあったが,どれもアラブ世界で見つけてきたものだ。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.76

イスラム教の清潔さ

 しかし,ユダヤ人地区やこのうえなく設備の整った修道院をはるかにしのぐ,中世初期でいちばん清潔な地域はといえば,アラブ人(ムーア人)のいたイベリア半島だ。キリストの教えとは違い,清潔でいることはイスラム教徒にとって宗教上の重要な要求で,9世紀のある著述家は,アンダルシア(イベリア半島南部)のアラブ人を「この世でいちばん清潔な人々」と記している。イベリア半島北部のキリスト教徒が「体も衣服も洗わず,衣服にいたってはぼろぼろになって破れ落ちるまで脱がない」でいたのにたいし,南部のアラブ人地域のある貧しい男は,最後の1枚になった硬貨を,食べ物ではなく石鹸を買うのに使ったという。アラブのイベリア半島は,プールの,噴水の,《ハマーム》の水で輝いていた。どんな界隈にも共同浴場があった。1236年にキリスト教徒がコルドバを再奪回したとき,そこには300の《ハマーム》があったほか,個人宅には温水浴や冷水浴用の浴室があった。
 ムーア人のイベリア半島では,男性と女性はかならず別々に入浴した。たとえばアラゴンのテルエルにある町の浴場が典型的なパターンで,週に3日は男性の日とされ,女性は2日で,金曜日にはユダヤ教徒とイスラム教徒の男女に,それぞれ別の時間帯があてがわれていた。入浴料は安く,子どもと奴隷は無料で風呂に入れた。
 こういった入浴習慣は健康的だし進歩的に思えるが,当時のキリスト教徒にとっては頽廃のしるしで,いまいましいものだった。ローマの時代,イベリア半島の白人たちが自分たちの公共の熱い風呂を享受していた時代からは,ずいぶん時間が経っていた。浴場を語らせれば桂冠を受けるにふさわしい詩人のマルティアリスは,ヒスパニア(ローマ統治下のイベリア半島)に生まれ,晩年は故郷に戻って,アラゴンの小さな農場で過ごした。マルティアリスが浴場なしに暮らすなど想像できない。しかし5世紀に西ゴート族がヒスパニアを征服すると,この民族は,湯に浸かってのんびりするのは屈強な男たちを軟弱にする,というおなじみの疑いを抱き,浴場を破壊して回った。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.68-69

風呂は許されない

 キリストの先例に倣い,修道僧たちは来客があると,客人の手足を洗って歓迎の意を表した。自分たちはどうしていたかというと,洗浄式(聖餐式の前後に手と聖器を洗う儀式)は行う——毎土曜日に厳しい洗浄を課している修道院もあった——が,よくよくの機会がなければ全身で風呂を浴びることはなかった。肉欲に苛まれる修道僧は冷水浴を命じられ,温かい風呂は病気のときに入るものだった。スイスのザンクト・ガレンにある9世紀の修道院は,施設内の施療所に風呂があったほか,歩廊にも浴場を設けていた。とはいえ,風呂と修道院の厳しい禁欲的な規約は,相容れない部分も多かった。528年頃に書かれた<聖ベネディクトゥスの戒律>は,手仕事と黙想から成る修道生活のためのもので,老人と病人の慎みについても触れている。「都合のつくかぎり何度でも病人に風呂を許可せよ。ただし健康な者,とりわけ若い者は,めったに許されない」。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.65

汚れを敬う

 初期のキリスト教の聖人たちの多くは,汚さを熱心かつ巧みに受け入れた。聖アグネス(3〜4世紀のローマの使徒)は,30年ほどのじつに短い生涯のあいだ,自分の体のいかなる部分もけっして洗わなかった。イングランドの聖ゴドリック(11〜12世紀の隠者)は,体を洗うことも着替えることもせずに,イングランドからイェルサレムまで歩いて行った。(このかぐわしい巡礼のあいだ,ゴドリックは最低限の水と大麦のパンしか摂らず,パンは固くなってから口にした。)イングランドでは,ダラムに程近い森のなかの庵で,毛の肌着を着て過ごしたが,夏のあいだかいた汗とあいまって,大量のしらみがついていた。アッシジの聖フランチェスコ(13世紀に聖フランシスコ会を創始したイタリアの修道士)は汚れを敬い,死後に蛆のわいた僧房に現れて,そこで暮らす修道士たちを褒めたといわれている。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.59

キリスト教徒の汚さ

 『千夜一夜物語』に登場するあるアラブ人の庭師は,キリスト教徒の汚さをかなりばっさりと切って捨てている。「連中はけっして体を洗わない。というのも,生まれたときに,黒い上衣を着た醜い男が頭から水をかけ,この奇妙な仕草をともなった浄めの水が,体を洗う義務から連中を一生涯開放するからだ」。もちろん,洗礼があるからキリスト教徒は体を洗わなくなる,というこのアラブ人の主張は半ば冗談なのだが,このことは中世のイスラム教徒たちにキリスト教徒がどう見られていたかを示唆している。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.49

ローマの驚異

 <カラカラ帝浴場>(216〜17年)と<ディオクレティアヌス帝浴場>(298〜306年)の2大浴場は,ローマの驚異として知られ,どちらの最後の名残も,全盛期の偉容をいまに伝えている。16世紀に教皇パウルス3世が,自分のファルネーゼ宮殿を飾ろうと<カラカラ帝浴場>を探したとき,大理石やメダル,ブロンズ彫刻,レリーフといった収穫品で博物館ができるほどだった(ファルネーゼ・コレクションは,現在はほとんどがナポリ国立考古学博物館に収蔵されている)。20世紀になって,遺跡のうち温浴室だけを利用して,ヴェルディのオペラ『アイーダ』が上演されたが,歌手やオーケストラと観客はもとより,戦車,馬,ラクダなどを収容できるだけの規模があった。さらに圧巻なのはディオクレティアヌスの《テルマエ》で,3000人の客が湯浴みできたと見積もられている。1561年にはミケランジェロが水浴室を改築し,サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の身廊部にした。ディオクレティアヌスの《テルマエ》の残りの部分は,現在はローマ国立博物館とサン・ベルナルド礼拝堂になっている。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.36-37

ポンペイの卑猥な壁画

 スタビナエ浴場の近くに,ポンペイ一大きな娼館があった。湯と裸とくつろぎという組み合わせは,浴場と娼家がすぐ近くにあるという傾向を生み出し,ときには浴場の2階で娼婦がサービスを行うこともあった。やはりポンペイにあるスブルバナエ浴場では,浴場とセックスのつながりが,そのまま壁画に描かれている。この紀元1世紀の浴場の,黄褐色で彩られた居心地のいい更衣室には,もとは仕切りがあって,そのなかで客が服を脱いでいたのが,その仕切り板が失われてずいぶん経つ。しかし,板が立っていたところの上の壁には,露骨に卑猥なフレスコ画が8つ残っている。魚を振りかざしながら男性に挿入されようとしている女性に,オーラル・セックスをしたりされたりしている女性,ぴったりと合体している3人(男性2人と女性1人)ほか,同じようにお盛んな情景だ。近隣で楽しめるサーヴィスを宣伝している絵かもしれないし,単に浮かれていて感覚に訴える浴場の雰囲気を盛り上げるためのものなのかもしれない。独特の魅力とタッチで筆を走らせているそのフレスコ画は,無邪気なまでにあからさまで,私たちが思いつくような,男性も女性も,おそらくは子供たちも利用する商業施設にふさわしい装飾とは,およそかけ離れている。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.32

ヒポクラテス入浴法

 古代ギリシャ人は,現代の私たちと同じ理由で清潔に努めた。もっと快適でもっと魅力的になるために身ぎれいにしたのだ。いっぽうでギリシャ人がよく風呂に入ったのは,健康のためでもあった。湯浴みは,治療法が限られていた当時の医者たちが,よく用いる施術だった。紀元前5世紀の偉大な医学者ヒポクラテスは,入浴法の達人で,冷水と熱湯に浸かるのをうまく組み合わせれば,あらゆる重要な体液や組織液を健康なバランスにもっていけると信じた。温かい風呂はまた,体を柔らかくするので,栄養を吸収しやすくなり,頭痛から閉尿までさまざまな不調に効くとされた。関節痛に悩む人は冷たいシャワーの処方を受け,女性の病気には香油を用いた蒸し風呂の施術が行われた。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.20

におったんじゃない?

 たいていの現代人は,20世紀になるまで人はあまり体を洗わなかったと知っていて,この本を書いている間にいちばんよく訊かれた質問はこうだ。「でも,その人たち,におったんじゃない?」みんなほとんど不快な顔を見せるまでもなく訊いてきた。聖ベルナルドゥス(12世紀フランスの神学者)が述べているように,全員がくさいところでは,誰もにおわない。おたがいの体臭の大海のなかを,私たちの先祖は泳いでいて,日々の汗の乾いたにおいに慣れていた。体臭は,料理やバラの花,ゴミや松林,堆肥のにおいと同じように,その人たちの世界を成すものだった。20年前は,飛行機やレストラン,ホテルの部屋やたいていの屋内の公の場に,タバコの煙が厚く立ちこめていたけれども,私たちはほとんど気づきもしなかった。いまそういった場所からはまず煙はなくなり,私たちは,誰かが喫煙していた部屋に入ると,抵抗して身をすくませる。嗅覚は適応するものでもあり,教唆するものでもある。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.6

年金積立金の浪費

 第3章で少し触れましたが,実は,厚生年金にせよ,国民年金にせよ,設立当初は積立方式で運営されていました。今でも,厚生年金で140兆円,国民年金で10兆円ほどの積立金があるのは,かつて年金制度が積立方式で運営されていたことの名残なのです。何十年もの間,運営されているうちに,いつの間にやら積立方式から賦課方式に切り替えられてしまったのです。ではなぜ,現在の年金制度は,賦課方式になってしまったのでしょうか。
 その理由を端的に言うと,政治家や官僚が年金積立金を無計画に使ってしまったからに他なりません。その使い道の1つは,歴代の自民党政権が人気取りのために,当時の高齢者たちに行った年金の大盤振る舞いです。特に,田中角栄が首相であった1970年台前半に始まった大盤振る舞いは大規模で,当時の高齢者たちの年金額を,彼らが支払ってきた保険料をはるかにしのぐ水準に設定しました。また,当時の勤労者の保険料も,彼らが老後に受け取る年金額から考えると,はるかに低い水準に据え置かれ続けました。このため,既に蓄えられた積立金は取り崩され,本来はその後もっと蓄えられるべきであった積立金が,プールされないまま放置されたのです。
 また,その他の積立金の無駄遣いとしては,厚生労働省や旧社会保険庁の官僚達が,天下り先の特殊法人や公益法人を通じて浪費した人件費やプロジェクト,旧社会保険庁自体が行った福利厚生費への流用,グリーンピアやサンピアといった巨大保養施設の建設費等が挙げられます。
 こうした大盤振る舞いと無駄遣いの結果,巨額の積立金が失われました。厚生労働省自身の最新の計算によれば,本来,厚生年金で830兆円,国民年金で120兆円存在しなければならない積立金は,2009年時点で厚生年金が140兆円,国民年金が10兆円程度存在するにすぎません。つまり,差し引きで,800兆円(厚生年金690兆円,国民年金110兆円)もの積立金がこれまで浪費されてきたことになります。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 138-139

再配分で所得格差拡大へ

 第2に,安易な公費投入の恩恵にあずかっている人々は,実は,低所得者だけではなく,中所得以上の普通の一般国民にまで及んでしまっています。本来,最底辺まで落ちてしまった人々を救う仕組みがセーフティ・ネットであるはずですが,日本では高度成長を続ける中で貧困層や弱者が減少したため,生活保護制度や税制の再分配機能が弱体化し,社会保険で中間層に富の再配分が行なわれるようになってしまっています。このため,日本の社会保障制度は,中間所得層に対する所得再分配の方が,低所得者に対する再分配よりも大きく,驚くべきことに,所得格差をむしろ拡大させる制度となってしまっているのです。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 126

当時の責任

 人口構成が若く,経済成長が著しい高度成長時代には,将来の世代ほど経済状況が良くなりますから,負担を将来の世代に安易に先送りして,その時代の高齢者に大盤振る舞いをしようという政治判断がされやすいのです。
 また,賦課方式は,年金だけではなく,医療保険や介護保険にも及んでいます。このうち,医療保険については,設立当時はまだ高度成長時代ですから,賦課方式を採用したのはある程度,やむを得ない面があるかもしれません。しかしながら,介護保険については,少子高齢化が急速に進んでいる2000年に設立されたのですから,賦課方式の採用はまったく理解不能であり,ほとんど正気の沙汰ではありません。安易な財政方式を選んだ当時の政府,厚生労働省の責任は非常に重いと言えるでしょう。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 120

医療は成長産業か

 それでも,産業関連表を使って「おかしな経済分析」をする人々,特に医療関係者の中には,「医療産業の波及効果は,その他の産業よりも高いので,医療産業は成長産業である」として,医療産業への公費拡大を「成長戦略」として,正当化しようとする人々がいます。
 しかし,まず第1に,これは事実に反しています。先の日本医師会総合政策研究機構の分析結果ですら,非効率と批判される公共事業のほうが,医療産業への公費投入よりも,波及効果が大きいことを報告しています。しかも,既に述べたように,医療産業のような規制産業の波及効果の推計は,明らかに過大で信用できません。
 第2に,公費への依存率が高い医療産業と,公費にそもそも依存していない「その他の産業」を比較しても,成長戦略としては,あまり意味がありません。既に述べたように,成長産業というのは,公費に頼らずとも自律的に成長する産業のことですから,現在の日本の医療産業が成長産業でないことは明らかです。
 第3に,公費に頼って医療産業を拡大させてゆくということは,その公費拡大を行う分だけ,国民から増税という形で所得を奪い,本来であれば,その他の産業に向かっていたであろう「お金」を縮小させています。公費による医療産業の拡大は,その副産物として,その他の産業の縮小を伴うのです。したがって,医療産業拡大が,国全体の成長率にどう影響するのかを議論するためには,医療産業の拡大と,それによって割を食うその他の産業の縮小を差し引いて,トータルの効果を考えなければ意味がありません。既に述べたように,それはプラスマイナスゼロか,将来的にはマイナスの効果を持っていると考えられます。
 第4に,より根本的な問題ですが,スナップショットの産業関連表の波及効果と,成長戦略にとって重要な「潜在成長率」はそもそもあまり関係がない概念で,産業関連表で成長戦略を議論すること自体に,実は,ほとんど意味がありません。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 92-93

いずれは

 まず第1の日本国債を日本国民が購入しているから安心だという点ですが,確かに,為替リスクのない日本国民が日本国債を購入している以上,海外投資家に比べて,相対的にリスクに敏感に反応していないということは言えます。この点は,ギリシャや他のEU諸国と大いに違う点であることは正しい主張です。
 しかしながら,問題は,むしろ今後の話です。既に述べたように,高齢化で国内の家計金融資産が減少し,財政赤字が続いて債務が上昇してゆく中では,いずれ日本国民が購入できる限界を超え,海外投資家に国債購入を依存する状況になると思われます。95.4パーセントの国内保有率ということは,裏を返せば,日本国債は,海外投資家にとっては,ほとんど魅力がない資産であるということです。魅力を感じない海外投資家に購入を頼る時代になれば,それだけ金利も高くする必要がありますし,ちょっとしたリスクに敏感に反応される可能性も高いものと思われます。
 また,いくら日本国債の国内保有率が高いとはいっても,その6割以上は,銀行や保険会社,証券会社などの機関投資家であり,(愛国心のある?)個人投資家ではありません。機関投資家は,銀行であれば少しでも高い預金金利,保険会社や証券会社であれば少しでも高い収益率を求められて競争しているのですから,リスクを感じたときの行動変化は非常に早く,激しいものと思われます。つまり,日本国債のリスクに何らかの変化があれば,個人とは異なり,あっという間に売り抜けようとするはずですから,とても安心できる存在とは言えません。2010年度の「経済財政白書」も,国債の国内保有率と国債金利の間に何の関係もないことを報告しています。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 52-53

ハードランディング

 ひとたび国債の大暴落が起きれば,国債を大量に保有している銀行や証券会社の倒産が相次ぎ,ペイオフで守られている1000万円以上の銀行預金は失われることになるでしょう。もちろん,小口銀行を直接保有している国民も大打撃を受けることになります。また,国内の全ての銀行が深刻な経営危機を迎える状況になれば,法律改正によって,もはや,ペイオフすらも守られるかどうか,定かではないと言えます。
 さらに,現在のユーロ安同様,金融危機によって円安が急速に進みますから,輸入品の価格が上昇してインフレーションが起きます。このインフレによって,国債の価値はいっそう下落することになります。また,円安予想によってさらに海外の投資家が国債を投げ売りします。当然,これらの事態によって,国内の景気は急落して,ますます円安,国債価格下落が続くでしょう。このように,国債の大暴落によって,家計金融資産の大半が失われ,最終的に政府債務の解消が行なわれるというのが,最悪のハードランディングのシナリオです。
 もちろん,政府がもっと早い時期に「借金を返さない」とデフォルト宣言を行っても,国債は紙くず同然の価値になりますから,同様にハードランディングのシナリオと言えます。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 48

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]