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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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擬似社会主義国家

 理解が進むにつれて,私には日本が活気に満ちた自由市場などではなく,じつのところは,厳格な統制下にある擬似社会主義国家のように見えてきた。政府の官僚たちは,生産システムの組織化については自分が一番よくわかっていると思いこみ,それに異論を唱える者たちを手ひどい目に遭わせるだけの権力を持っている。企業は原則的に保護されており,規制当局や主要取引銀行のいうことをきちんと守っていれば,倒産の心配はない。日本企業は,差別化に重点をおく戦略を考えたりせず,みんな1つにまとまって,同じようになろうとする。まるで盆栽のように。
 こうした画一的な状況は,流行に抵抗したい,あるいは,自分の創意を頼みとしたいと考える人々の意欲を削ぐものだ。彼らはいつも,ほんとうの主導権は自分にはないと感じている。マルクス主義の理想世界では,すべてのものが同じであり,それらを誰もが手に入れられることになっている。だから各自がその能力に応じて金を払えばいいのだ。だが日本では,一見,すべてのものが同じに見えるが,どれも法外な値段がついている。だから自分の情熱を追求するのに必要な自由を獲得することができるのは,ごく少数の人間だけだ。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.153-154
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変人

 「日本は現在でもたいへん抑圧の強い社会ですから,ふつうの人々でさえそうそう自由に発言はできません。世に警鐘を鳴らして人々の目を見開かせるには,厄介者というか,悪者というか,変人というか,そういう人間だと思われることを覚悟しておかなければならないのです。私は人から変人だといわれることもありますけど,褒め言葉だと思っています」渡辺はクスリと笑った。「だって,日本で変人と呼ばれれば,独創的なすばらしい仕事をしている人ということになるんですから」

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.140

イエ

 イエなどというのは,ずいぶん古めかしい概念のように思われるかもしれないが,じつは現在でも多くの社会的習慣に影響をあたえているのである。たとえば,今日でも長男の嫁は義母の介護をするのが当然だと考えられているし,結婚した男女は法律上,同一の姓を名乗らなければならないことになっている(現代の女性にとって,これら2つの制約は,結婚するうえで大きな難点となっている。母親が生きているうちは長男とはぜったい結婚しないという女性が多いのは,義母の介護をしたくないからである。またキャリアのある女性はみんな,それまで仕事で使っていた名前を,結婚と同時に捨ててしまうのはいやだと考えている)。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.111

依存と自立

 欧米人にとって「依存」は,生活保護や薬物依存を想起させるマイナスのイメージを持った言葉であり,いっぽう「独立」や「自立」,「自由」は美徳であり,倫理的に絶対必要なものである。ところが日本語では,たとえば「自由」は,きわめて曖昧な概念だ。日本にはそのものずばり,自由党という政党があった(2003年解散,民主党と合併)。しかし,「自由」という言葉は,集団の意思に反して自分の好きなように行動する権利を主張し,他者を無視して自己の欲求を優先する身勝手な人間をも想起させるのである。19世紀の半ばまで封建制度が敷かれ,1870年代になるまで民衆の大部分が名字を持たず,1945年まで天皇は神だと信じられていた日本の社会では,欧米人にとって当然のこととされていた,国家と神,国家と自然,社会と自己の明確な区別はまったく存在しなかった。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.102

いじめの防止には

 生徒間のいじめを防止することはきわめて困難だと,山崎博士はいう。なぜなら,幼い子供たちは,自分の親やその他の大人たちが,会社,工場,といった職場あるいはPTAの会合などで使っている戦術をそっくり模倣しているだけだからだ。「いまやいじめは,どこででも見られる現象である。組織的かつ継続的に行なわれ,そのやり口も卑劣で目立たないものになっている。いじめにおいては,3つから4つの集団が複雑に関係しあっており,いじめる集団,いじめられる集団,いじめの実行者を背後で操る集団……そして巻きこまれないように,いじめ行為をただ傍観している集団が存在する」不登校児に関する研究のなかで山崎はそう結論している。
 もちろん,アメリカなど,ほかの国の教室や校庭でも,いじめは発生しているが,その特徴や頻度の点で,日本のいじめははるかに残忍で,致命的な結果をもたらすのだ,と山崎はいう。日本人は人種的,民族的,文化的な絆で結ばれた単一民族であり,みんなが同じ思考や価値観を共有している,というのが国家的定説になっている。この単一民族国家というイデオロギーが,異質な者に対する攻撃を正当化しやすくしているのである。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.88-89

先例に従う

 どの国の官僚もそうであるように,日本の官僚も秩序を重視し,先例に従うことを好む。彼らにとって,新たな事実に対処するために従来のやり方を変える,というようなことは許されない。日本のように規制の多い国では,ほかの国と比べると,官僚が圧倒的に大きな力を握っており,通常,政治家よりもはるかに優秀な人材がそろっている。政治家の多くは政策立案能力がないうえに,次の選挙戦に備えていつも資金集めに奔走しているのである。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.79

アメリカだったら

 「ひきこもり」という社会病理には謎が多く,現代日本が直面している困難を解明しようとする者にとって,これほど興味をそそる現象はない。欧米でも,反社会的行動に走るティーンエイジャーは多いが,日本とはだいぶ異なる。親や学校に対する反発は「行動で示す」ことが多く,怒りを爆発させたり,奇抜な服装で「自己主張」したり,騒々しい音楽を演奏して大人の眉をひそめさせたりする。自傷に走る者もいる。銃やナイフ,ドラッグがかんたんに手に入るアメリカでは,若者の暴力は日常茶飯事だ。それはまるで,アメリカ社会が求める開放性,自主独立の生神,自己表現の代償を暗黙のうちに象徴しているようだ。とはいえ,アメリカでは幼少期から個人の自由が尊重され,「自分の足でしっかり立て」といわれ,自分の人生は自分の力で切り開け,と教えられ,独創性と冒険精神を持つことが強く奨励されている。そのため日本と比べれば,ある種の枠にはまらない行動に対してははるかに寛容なのだ。
 だから,アメリカのように多様な人々が暮らす広大な国だったら,ケンジのような若者はきっと,コンピューターゲーム制作者か家具職人になっていたかもしれない。あるいは,小さなソフトウェア会社を起こしていたかもしれない。あるいは,ミュージックビデオを編集していたかもしれないし,ブログを書いていたかもしれない。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.38-39

こんな日本だったら

 失敗が報いられる日本を想像してみよう。若者が老人に挑戦できる日本を想像してみよう。革新派が瀕死の守旧派にとってかわり,新しい事業を起こそうとする人々が,何度失敗しても再チャレンジできる日本を想像してみよう。女性たちが,家庭でも職場でも,自分は正当な権限があたえられていると感じられる日本を想像してみよう。そのような社会には,活発なフィードバック・ネットワークが存在し,政府構想あるいは社会政策が,どのような場合に有効に機能し,どのような場合に機能していないかを明確にするうえで,重要な役割を果たす。社会は,冒険をためらわない人や企業を支援する。そこでは,国民1人ひとりが,何事においても自分独自の選択ができ,自分独自の価値観を確立できると感じられる。さらに,自分の選択の結果について,自分が責任を負い,集団や組織からの暗黙の支援は必要としない。
 そのような社会は,活力があり,柔軟で,世界経済における国際競争力も高い。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.12

驚くべき事実

 一般大衆は,1990年代に気候科学者を最も驚かせた新事実にほとんど気づいていなかった。最初のショックは,グリーンランドの氷の大地の中央からだった。アメリカとヨーロッパの新たな共同研究プログラムを実施するという当初の希望は挫折して,それぞれのチームが別々の穴の掘削にとりかかった。だが,両方のコアに見られる現象は基盤岩の状態のせいによる偶然ではなく実際の気候の影響を示すはずと考えられるように2つの穴を適度に離して掘るという決定により,競争は協力に変わった。2本のコアは,その大部分にわたって驚くほど正確に一致していた。コアの比較から,気候はほとんどの科学者が想像していたよりも急速に変化しうるということが説得力をもって示された。
 1960年代には何万年もかかると信じられ,1970年代には何千年もかかると信じられ,1980年代には何百万年もかかると信じられていた温度の上昇下降が,わずか数十年で起こりうるということがいまや発見されたのだ。最終氷期の間に,グリーンランドではときどき,50年足らずの期間で7度も温度が上昇していた。新ドリアス期に入ったときには,北大西洋全体の気候の壮大なシフトがわずか5層の雪の中に見られた。つまり5年間だ!証拠は疑わしいとして片づけることはもはやできなかった。少なくとも1つの解釈が手元にあったからだ。計算機モデルは,北大西洋循環が2つの状態の間を急激に変化する可能性を証明したのだ。同時に,ほかの大陸からのさまざなな種類の地質学的証拠により,新ドリアス期は北大西洋周辺だけでなく地球全体に気候変化をもたらしたことが示された。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.228-230

公式発表

 約400名の科学者とさまざまな政府や非政府団体の代表者による分析,交渉,ロビー活動がふたたびへとへとになるほど繰り返されたのち,1995年にIPCCはその結論を世界に伝えた。報告書から広く引用された一文は次のとおりだった。「証拠の比較検討から,全地球の気候に対して識別しうる人間の影響が存在することが示唆される」。この巧みな言い回しには最初の草稿の表現を和らげた政治的妥協の努力があらわれているが,そのメッセージは間違いようがなかった。『サイエンス』誌が述べたように「これは公式発表だ」——「温室効果による温暖化の在所の兆し」が見えたのだ。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.215

実験できないから

 1980年代末期までに,情報通の人々は気候変化の問題が最も簡単な2つの手段のいずれによっても解決できないと理解していた。科学者は,心配すべきことなどなにもないと証明してくれそうにない。そして,気候が正確にはどのように変化するかを証明して何をすべきかを教えてくれることもなさそうだった。もっと研究費を費やすことは,もはや十分な対応ではなかった(いままで十分に増やされたことがあったわけではないが)。科学者たちは,優れた研究で克服できそうな単純な無知によって制限されているわけではなかったからだ。医学の研究者なら1000人の患者にある薬を与えて別の1000人にほかの薬を与えることで薬の効果を突き止められるが,気候科学者には2つの地球の温室効果気体の濃度を変えて比較することなど不可能だった。彼らにできる最善の方法は,精巧な計算機モデルを作成してガスの濃度を表す数値を変えることだ。それでは,あらゆる人々の生活をどのように改革すべきかを文明世界に納得させるための説得力ある手段とはとても思えなかった。


スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.201-202

政治問題化すること

 長期的視点から見ると,そもそもこのようなことが政治的な問題になるのは並外れて珍しいことだった。地球温暖化は目に見えず,ただの可能性にすぎず,現在の可能性ですらなく,何十年語,あるいはそれ以上あとになってようやく現れると予想されていることでしかなかった。その予想の根拠となっている複雑な推論やデータは,科学者でしか理解できない。このようなことが一般的な激しい議論のテーマになりうるというのは,人類にとって驚くべき進歩だった。会話はいろいろな点でより複雑になっていった。これはもしかしたら,知識の着実な蓄積と,豊かな国々の一般大衆がある程度の教育を受けるようになったことのせいかもしれない(このときの若者の大学進学率は,20世紀の初めごろの高校進学率よりも高くなっていた)。安定した時代と,平均寿命の何十歳もの意外な延びによって,以前よりも人々は遠い将来について計画を立てる気になったのだ。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.197

ランダムの中の法則

 大多数の科学者は,気候がカオス的システムの特徴をもっているという点には同意するものの,完全にランダムなものだとは思っていなかった。竜巻がある特定の日にテキサス州のある特定の町を襲うと予測することは,原則としておそらく不可能だろう(もちろん1匹の罪深い蝶のせいではなく,初期の無数のごく小さな影響の正味の結果だ)。それでも,竜巻の季節は予定通りにやってくる。このような種類の一貫性は,1980年代に構築された計算機シミュレーションで現れた。GCMを異なる初期条件から始めて多数実行してみると,それぞれの地域,それぞれの季節について計算される気象パターンにはランダムな変異が見られる。しかし,年平均の全地球平均の温度に関しては,どのモデル実行も同じような結果に集中する。そしてどのモデルも,次世紀については何らかの温暖化を示していた。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.151

気象衛星

 気象「偵察」衛星のための衛星の使用は早くも1950年の機密報告書ですでに提案されており,地球規模の気象をモニターする公共衛星の第1号は国防総省のプログラムのもとでつくられ,運用が続けられた。これらのテクノロジーは徐々に公開の民生用プログラムに移されていった。計算機モデルの作成者たちが,実際の大気に関するはるかに優れたデータなしでは進歩が望めない状態に至ったとき,1969年に打ち上げられたニンバス3号がその答えとなった。この衛星の赤外線検出器は,昼夜問わず,海,砂漠,ツンドラの上のさまざまなレベルの大気と温度を一緒に測定することができた。またもや科学は,軍と民間の実用的な目的のために使われた資金から利益を得ていたのだ。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.140

気象のモデル化

 特に影響力をもっていたのはカリフォルニア大学ロサンゼルス校のグループで,そこではイェール・ミンツがもう1人の東京大学卒業生,荒川昭夫を,数学的な仕事を担当する助手として採用していた。1965年,ミンツと荒川は,スマゴリンスキーと眞鍋のモデルのように,現実世界にいくらか似た特徴をもつモデルをつくり出した。もう1つの重要な取り組みが,1964年にコロラド州ボールダーの国立大気研究センター(NCAR)で開始された。そのリーダーを務めたのはウォーレン・ワシントンと,さらにもう1人の東大卒業生,笠原彰だった。国立科学財団から資金を供給され,複数の大学からなるコンソーシアム(共同体)によって運営されたNCARは,気候モデリングのための世界有数のセンターとなった。だが,先頭を走っていたのは眞鍋のモデルで,気象局のスマゴリンスキーの研究室(のちに地球流体力学研究所と改称されてプリンストン大学に移った)のものだった。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.138

分割できること

 科学のすばらしい点は,すべてを一度に理解する必要はないということだ。科学者は,たとえばビジネスや政治に関する決断を下さなければならない人とは違う。科学者はあるシステムを,理解できる見込みがあるような単純なものに分割することができる。とはいえそれは,その仕事に一生を捧げた場合の話だが。大勢の人々がそのような研究方法をとってきたわけで,眞鍋淑郎もその1人だ。「スーキ」という愛称で呼ばれる眞鍋は,第二次世界大戦直後の困難な時代に東京大学を卒業して気象学にキャリアを求めた青年たちの1人だった。野心があり独立心旺盛な彼らは,日本国内で世に出る機会がほとんどないまま,結局はアメリカに渡って業績をあげることになった。1958年,眞鍋はジョン・フォン・ノイマンが設立した計算機モデリンググループへの参加を要請された。このグループは1955年に現実的に見える局地的気象をモデルでつくり出すという画期的成果をあげ,その後フォン・ノイマンは野心的な目標をもつプロジェクトのために政府の資金を獲得していた。彼のチームは,流体力学とエネルギーに関する基本的な物理方程式から直接に気象を導く,前地球の3次元の大気の大循環モデルを組み立てようとしていた。この取り組みは,1948年にワシントンDCの米国気象局でジョゼフ・スマゴリンスキーの指揮のもとで開始されていた。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.136-167

努力が実を結ぶとき

 市民(この場合は科学者だが)のグループが,政府はある特定の問題に取り組むためにさらに多くのことをすべきだと判断したとき,そのグループは困難な課題に直面する。市民がさくことのできる努力の量は限られていて,官僚はお役所的なやり方で凝り固まっているからだ。何かを達成する——たとえば,政府の新たな計画をもたらす——ためには,人々は協調したはたらきかけを展開しなければならない。関心のある市民は数年間にわたって問題に取り組み,大衆に広く伝えるとともに,同じ意見をもつ官僚との協力関係を作りださなければならない。この官僚機構内部の協力者は,委員会をつくり,報告書の草稿を書き,政府と議会に妨げられることなく法律が制定されるよう取りはからわなければならない。変化に脅かされると感じる特別利益団体からの妨害があるだろうし,プロセス全体が疲弊して失敗に終わりやすい。一般的には,そのような努力が実を結ぶのは特別な機会を利用することができたときだけだ。たいていそれは,ニュースが一般大衆の不安を大いにかき立てて,それゆえに政治家の注意を引いた場合である。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.122-123

火星

 マリナーが火星に到着する前に,セーガンは大胆な予測をしていた。この赤い惑星の大気は,2種類の安定した気候状態のどちらにも定まりうるのではないかと提案したのだ。厳寒で乾燥したいまの時代のほかに,もう1つのより穏やかな状態があって,そこでは生命を維持することすらできるかもしれない。この予言は,塵がおさまったあとにマリナーが地球に送ってきた火星表面の鮮明な画像によって実証された。かつて一部の天文学者が想像した運河はどこにも見えなかったが,地質学者は,はるか昔に巨大な洪水が惑星の表面を引き裂いていたことを示すはっきりした印をたしかに目にした。セーガンと共同研究者による計算から,火星の気候システムのつりあいは,比較的ささいな変化によって1つの状態から別の状態,さらにまた別の状態へと切り替わるようなかたちのものだということが示唆された。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.113-114

実験できない

 惑星は,科学者がさまざまな圧力や放射を与えてその反応を比較できるような実験室の物体ではない。私たちには1つの地球しかなく,それが気象科学をむずかしくしている。たしかに,過去の天気が現在とくらべてどれだけ違うかを調べれば多くのことを学べる。だが,これは限定された範囲の比較なのだ——違う品種のネコだが,それでもやはりネコだ。ありがたいことに,わが太陽系は完全に違う種が含まれている。根本的に異なる大気をもつ惑星だ。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.111

シミュレーション

 1961年,ある偶然の出来事によってこの問題に新たな光が投げかけられた。科学における幸運は,適切な時と場所に居合わせた適切な知性の持ち主に訪れるものだが,それがエドワード(エド)・ローレンツだった。彼はマサチューセッツ工科大学に在籍して,気象学と数学を結びつけようとしている新しいタイプの研究者の1人だった。ローレンツは単純な計算機モデルを考案して,天気パターンの見事な模擬物をつくり出していた。ある日彼は,計算をさらに長く実行するために,ある特定のところからやり直すことにした。計算機は数値を少数第6位まで出したが,プリントアウトの量を節約するためローレンツは数値を切り捨てて,少数第3位までしか印刷しなかった。彼はこの数値を入力して計算機に戻したのだ。シミュレートされた時間で1か月ほどあとから,天気パターンがもとの結果からそれていった。少数第4位の違いが何千回もの算術演算の中で増幅して,計算全体に広がり,まったく新たな結果をもたらしたのだ。
 ローレンツは驚いた。彼のシステムは現実の気象を表すと思われていたからだ。少数第4位の切り捨てによる誤差は,温度または風速を1分ごとに変化させうる数多くのささいな要因のいずれとくらべても,ちっぽけなものだった。ローレンツは,このような違いは数週間後の天気に関するわずかに異なる解につながるだけだろうと推定していた。ところが,まるで偶然のように嵐が予報に現れたり消えたりしたのだ。
 ローレンツはこのことを頭の隅に追いやったりせず,独創的な深い分析に取りかかった。1963年,彼は毎日の天気を予報するために使われうる方程式のタイプに関する検討結果を発表した。「どの解も不安定だということが判明した」と彼は結論を下した。したがって,「正確な超長期的予測は存在しないものと思われる」という。数日,あるいは最大で数週間を超えると,初期条件の微細な差異が計算を支配してしまう。ある計算で1週間後の嵐が予測されても,次に計算すると快晴になるかもしれない。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.81-82

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