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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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妄想とネット

 さらに厄介なのは,近年になってインターネットの普及により,「思考盗聴」「集団ストーカー」という概念が広まってしまったことだ。統合失調症の人が自分の「思考盗聴」「集団ストーカー」体験をブログやホームページに書く。それを読んだ別の人が,「私と同じ体験をしている人がいる」「やっぱり妄想ではなかったのだ」と確信してしまう。彼らが結束して「被害者の会」を結成することもある。そうしたグループがすでに日本にも存在する。彼らは,「陰謀組織が自分たちを精神病と決めつけることで,社会的に抹殺しようと企んでいる」と信じている。だから病院に行くことを強く拒絶する。
 繰り返すが,精神病でも病院に通いながら通常の日常生活を送っている人は大勢いる。一時は入院していても,寛解して社会復帰する人も多い。「精神病だと判定されると社会的に抹殺される」という考え方こそ,まさに精神病に対する偏見であり,改めなくてはならないのだ。
 適切な治療さえ受ければ症状が良くなるかもしれない人が,「集団ストーカー」という妄想を信じたために,救われることを拒否して,自ら苦しい道を選んでいる。こうした悲劇を減らすためにも,統合失調症についての正しい知識が広まるのを強く望むものである。

ASIOS・奥菜秀次・水野俊平 (2011). 検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定 文芸社 pp.37-38
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標本サイズ

 検定力に関わる3つのパラメータ,すなわち効果量,標本サイズ,有意水準のなかで,研究者が能動的に関与できるものが1つだけあります。それは標本サイズです。効果量はそれ自体が検討の対象ですから,どのようになるかはわかりません。そもそもはじめから効果量がどいのくらいかわかっているなら,研究をする必要がありません。もちろん,先行研究から期待されるおおよその効果量のサイズはあるかもしれません。しかし,実際にデータをとらなければわからないからこそ研究をするのです。また,有意水準は,繰り返し述べているように,心理学では慣習的に5%で固定されています。効果量は測定してみなければわからない,有意水準は固定で動かせない,だからこそ,標本サイズだけが研究者が能動的に動かせる唯一のパラメータとなります。

大久保街亜・岡田謙介 (2012). 伝えるための心理統計:効果量・信頼区間・検定力 勁草書房 pp.153

過誤

 どんな判断にも,第1種の過誤と第2種の過誤をおかしてしまう可能性があります。ネットオークションで最安値だと判断し入札したら,実は相場と変わらなかった,こんな経験は誰にでもあると思います。逆に,相場と変わりなく安値感がないと思っていたのに,よく調べたらものすごくお買い得だった。そんなこともあるでしょう。前者の例は差があると判断したのに(最安値だと思ったのに)違ったので,第1種の過誤です。一方,後者の例は,差がないと判断したのに(相場の値段と変わらないと判断したのに)差があった(お買い得だった)ので,第2種の過誤になります。
 有意水準だけに注目する帰無仮説検定では,第2種の過誤についてほとんど情報が得られません。有意水準は第1種の過誤が生ずる確率であり,帰無仮説検定では,それだけをコントロールするからです。第2種の過誤の確率は直接コントロールできません。しかし,上の日常的な例からも分かるように,何かの判断をするなら,第1種の過誤と第2種の過誤のどちらもが生じうるのです。

大久保街亜・岡田謙介 (2012). 伝えるための心理統計:効果量・信頼区間・検定力 勁草書房 pp.150-151

効果量の意味

また,当然ながら効果量の大きさが持つ意味は,分野によっても変わってきます。たとえば生死に関わるような領域においては,小さな効果量でも大きな意味を持つことが想像できます。Vacha-Hasse & Thompson (2004)は,喫煙の有無が寿命に与える効果量は,η2 = .02前後であるという例を挙げています。この値は効果量としては小さな値ですが,変数である「寿命」が価値の高いものであり,またこの程度の効果量が多くの研究によって繰り返し報告されているため,たとえ効果は小さくとも重要な結果と考えられるでしょう。このように,効果量の値が持つ意味の解釈は,先行研究や関連する研究の知見を参照しながら,最終的には分析者自身が頭を使って行う必要があります。

大久保街亜・岡田謙介 (2012). 伝えるための心理統計:効果量・信頼区間・検定力 勁草書房 pp.96

有意傾向

 たとえばp < .1を指して,有意傾向と表現することがあります。このような表現は,帰無仮説検定に,本来は存在しません。ある有意水準を基準として,結果に意味があるか否かを,デジタルにズバッと分けてしまうのが帰無仮説検定なのです。帰無仮説検定に基づくなら,有意傾向などと言わずに「10%水準で有意」と言うべきです(もっとも,有意水準を10%に設定することを他の研究者が認めてくれるかは別問題です)。
 もちろん先ほど述べたように,p = .049とp = .051の間でなにか決定的な差があると考える人は,現実的にはほとんどいないので,有意傾向という表現が使われるのでしょう。しかし,帰無仮説検定の規則に従えば,そのような表現は存在しません。デジタルな2分法こそが,帰無仮説検定の本筋だからです。帰無仮説検定の極端な2分法を皮肉り,Rosnow & Rosenthal (1989)は,「神はp < .06をp < .05と等しく,そして同じくらい強く愛してくださる(p.1277)」と述べたくらいです。

大久保街亜・岡田謙介 (2012). 伝えるための心理統計:効果量・信頼区間・検定力 勁草書房 pp.35

魚は原始的か

 「魚はそれほど重要ではない」という考えを助長し続けてきたのは,皮肉にも現代の生物学者が使ってきた用語にも関係している。たとえば生物学者はときとして,進化の歴史のなかでより古い起源を持つ動物に言及する際には,「より低次の」,あるいは「原始的な」などの表現を用い,より最近の進化の歴史のなかで登場した動物に言及するときには,「より高次の」,あるいは「現代の」などという言い方をしてきた。
 実際のところ,かくいう私もちょっと前にそう表現した。そのような表現方法が,魚の知覚に関して誤った印象を与える結果につながるとわかっていても,正直なところそうせずにはいられないと感じている。進化の早い段階で登場した動物ほど単純で,環境にうまく適応していないという誤った印象を与える点で,そのような表現は人を欺く。進化における成功の度合いは,その生物の登場の時期や複雑さによって測られるべきではなく,適応性,多様性,存続期間によってとらえられるべきであろう。現存する魚の種の大多数は,実際に若い。つまり,進化の歴史のなかで最近になって登場したということだ。そのような魚を指して「古い」,「原始的な」,「低次の」などということは,そもそもまちがっている。もちろんそれらの魚も,はるか昔に出現した祖先の子孫だという点にまちがいはないが,その事情は私たち人間についてもまったく変わらない。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.189-190

金魚ミキサー

 2000年,デンマークのトラップホルト美術館は,チリのアーティスト,マルコ・エバリスティ[自分の体から摘出した脂肪を料理して友人に振るまうなど,奇矯な行動が多い]に出展を依頼した。そこで彼が出展した作品は,10組の電動ミキサーのなかでキンギョが泳いでいる,というものだった。
 来場者はミキサーのスイッチを入れるように勧められていた。このアーティストの説明によれば,来場者が良心と格闘するよう意図して作品を製作したとのことだった。その結果,何匹かのキンギョはジュースと化し,展示責任者は動物虐待の罪で訴えられた。だが最終的には無罪の判決が下った。
 その8年後,今度はロンドンの現代美術館テートモダンで,再び魚をめぐる論争が巻き起こった。ブラジルのアーティスト,シウド・メイレリスは,生きた魚を展示したが,13週間が経過すると,当初は55匹いた魚のほぼ4分の1が死んでいた。展示に生きた魚を用いたことに対して,さまざまな動物保護団体が,感覚力をもつ動物を美術作品の一部として展示するのは不適切だとして抗議した。
 これらの展示に対する世間の反応は興味深い。ことにエバリスティのスプラッターホラーばりのコンセプトに対する反応は特筆に値する。彼の作品は,魚をジュースにする機会を来場者に提供した。実際にそうすることを選択した来場者がいたのは明らかであり,それに対する抗議が相次いだ。だが来場者の多くは,そのような形態で魚を殺すのは無意味な残虐行為だと考えたのだ。
 私たちの多くは,自分が不適切と考えている行為に対して本能的な嫌悪を感じる。それと同種の本能的な感覚によって,鳥類と哺乳類には痛みの経験によって苦しむ能力があると感じ,それらの動物の福祉に気を配る。つまり私たちは,どうにかしてこれらの温血動物の立場に身を置けるのだ。
 ところが話が魚類になると,人によって意見は大きく分かれる。ミキサーのスイッチを入れられる人もいれば,そうでない人もいるのである。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.156-157

魚の脳の形

 魚の前脳の機能についてよりよく理解するために,スペインの研究者たちは金魚の脳の特定の領域に注意深くダメージを与え,その魚が何を行えなくなるかを観察した。魚の前脳には特殊な領域があることが次第にわかってきたが,それらの領域の機能を分析すると全体像はかえって混乱した。というのも,哺乳類にみられるものに類似する領域はみつかったのだが,哺乳類とはまったく異なる場所にあったからだ。
 そこで研究者たちは,胚発生から成魚になるまで,魚の脳がどのように発達するのかを注意深く観察した。つまりどの領域の細胞組織がどのように特化し,どの構造に発達するのかを魚の成長に沿って観察したのである。そして,それによってはじめて全体像が明らかになった。
 きわめて困難な作業のすえ,スペインの研究チームは「陸生の近縁種に比べると,魚の脳は,裏返しになっている」と発表した。つまりヒトの場合には脳の内部に埋もれている器官が,魚の場合には脳の前部に向かって外側に開いていたのだ。
 この顕著な相違は,胚発生のある重要な段階で生じる。哺乳類の場合には,脳の発達は神経管からはじまる。脳は平らな板の状態から発達を開始し,やがてこの平な板の外側のヘリに位置する構造が向かいあうような方向へと内転しはじめる。
 それに対し,ほとんどの魚の胚発生においては,それとは逆の現象が起きる。脳の細胞組織へと発達する予定の神経管のヘリの部分は,外転と呼ばれるプロセスによって互いに離れはじめ,その部分の構造が引き裂かれるようにして前方に押し出されていくのである。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.134-135

魚のメンタルマップ

 私たちの目的にとって,空間学習と記憶課題の真の利点は,それらが一般に,その動物の心的表象の形成と活用に依存するところにある。そうして魚がメンタルマップを形成するという点を示せば,ジグソーパズルの最初のピース,すなわちアクセス意識というピースが手に入るはずだ。
 では,魚がメンタルマップを形成する能力をもっているかどうかを検証するにはどうすればよいのか?ラットは迷路の腕の部分に沿って走る能力によって知られているが,魚についてはどうだろうか?魚も迷路の腕の部分に沿って,ドアをくぐったり通路を泳いだりするように訓練できるのか?その答えは「できる」と判明しており,しかも魚はどこで曲がるべきかを学習し,とるべき経路を覚えておくことに長けている。迷路は魚の空間認知能力を研究するためのすぐれた手段の1つであり,現在ではそれを用いて多くの魚の種がテストされている。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.118-119

意識のレベル

 意識の基盤を分類しようとする試みは数多くあるが,意識の様相を呈する行動要素をみいだそうとする本章の目的からすると,ニューヨーク大学で心理学と認知科学を教える哲学者ネッド・ブロックによって提起された3つのカテゴリーについて考えてみると有益だろう。
 彼は,記憶に結びついた心の状態について考えたり描写したりする能力を「アクセス意識」と呼び,これを第1のカテゴリーとする。私たちは内省を通じて何らかの情報について考え,またそれについて考えている自分の思考の動きに気づくことができる。これは,「一次意識」と呼ばれてきたものに類似し,さまざまな情報の断片を結びつけて心的イメージや心的表象へと統合し,そうして統合された知識を用いて自らの行動と決定を導く能力を指す。たとえば,読者は自分の住む町の詳細な地図を思い浮かべられるはずだが,このメンタルマッピング能力を用いて,これまでめったに訪れたことのない場所から自宅へ帰るためのルートを割り出せるのではないだろうか。
 ブロックの提起する2番目のカテゴリーは「現象意識」である。これは,自分の周りのできごとを感じ取るという経験,そして直面したできごとによって引き起こされる感情や情動を指し,「意識のハードプロブレム」と呼ばれてきた。そう呼ばれているのは,自らの存在を知らしめる感情,すなわち現象意識を生成する脳内のメカニズムを理解することは不可能だと考えられているからだ。この考えはまた,「感覚力」,すなわち環境を主観的に知覚し感じる能力とは,いったい何なのかについての本質をとらえている。
 3番目のカテゴリーは「モニタリングと自己意識」だ。これは自分自身の行動について考え,それを心のなかで実行することで1つの状況を思い浮かべ,その状況のなかで起こりうる,さまざまなシナリオを考慮する能力を指す。これは自己意識と,ヒト同士が言語を通して行う情報交換を可能にする,「より高次の」進んだ能力だと考えられてきた「延長意識」の概念に近い。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.113-114

痛みを感じるのか

 何度も尋ねられたのは,「そうだとすると釣りは残酷な行為なのか?ほんとうに魚は痛みを感じているのか?」という問いだった。
 だが私たちは,この質問にはまだ答えられなかった。研究の焦点は,マスが痛みに特化した受容体を備えているかどうかに,またそれらをハチの毒や酢で刺激するとどのような反応がみられるかにだけ置かれていたからだ。
 つまり私たちはまだ,魚が痛みを知覚したり,それに苦しんだりすることを示したわけではなかった。したがってせいぜい「その可能性は考えられる」と返答できるにすぎなかった。しかし案の定,その返答で私たちの研究について報道しようとしてやってきた多くの記者を満足させられず,そんなことをいったつもりはないのに,新聞記者やインタビューの導入解説では,研究によって,釣りが魚に苦痛を引き起こすことが示されたと報じられてしまった。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.95-96

侵害受容

 皮膚の特殊な受容体が刺激を受けると,それは何かが皮膚にダメージを与えているという情報を身体に伝える。最初にやけどが検出され,その情報を伝達する信号が脊髄背角へと伝わり,そこで反射反応が引き起こされる。
 ここまでは,すべて無意識に生じる現象だ。つまりそれについて考えることなく,ただそうするのだ。そしてこの時点では,苦しみと認められるような経験は何も起きていない。信号は,脊髄に到達して反射反応を引き起こしたあと,脳に至る。そのときはじめて,私たちは痛みを感じはじめる。
 いまや私たちは,やけどによって引き起こされた不快な情動的感覚に気づき,脳は,たったいま自分がとった行動が痛みをもたらしたのだと告げる。脳細胞組織のダメージの形態によっては,何らかの痛みが感じられるまでに2秒ほどかかる場合があるが,ほとんどのケースでは痛みはそれよりも早く感じられる。
 このプロセスのうち無意識下で生じている部分は,侵害受容(nociception)と呼ばれているが,「noci」は損傷あるいは何らかのダメージを,また「ception」は知覚あるいは検知を意味する。すなわち「侵害受容」とは,文字通り損傷やダメージの検出を意味している。
 哺乳類や鳥類では,皮膚表面の侵害受容体が刺激されると,細胞組織へのダメージに関する情報の伝達に特化した神経線維のなかで,電気信号が発生しはじめる。そして信号が脊髄に達すると,反射反応が起こる。感覚受容体がどのように活性化されるのか,またそれがさまざまな種類のダメージにどう反応するのかについては,痛みの調査を行っている研究者によってすでに解明されており,侵害受容は比較的単純なプロセスだといえる。
 それに比べていまだによくわかっていないのは,それに続く,脳への信号の伝達と,意識的な痛みの検出のプロセス,つまり何がどれくらい強さで痛むのかを認知する過程についてだ。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.56-57

言葉で表現

 私たちは「幸福」,「みじめ」などのきわめて単純な言葉によって,動物がどう感じているかを表現しようとする。動物の行動を解釈するのに,そのような言葉を用いるのは不適切かもしれない。だが一般的な表現のなかでは,あたかも遊んでいるかのように,あるいはじゃれあっているかのように振るまっている動物は,ポジティブな心の状態にいるように見えるという事実を示唆する,「幸福」のような言葉の使用が便利な場合もある。あるいは元気がなかったり,隅のほうでじっとしていたりすると,その動物は「みじめ」な心の状態に置かれているようにみえるはずだ。
 通常は人間の情動に関して用いられる言葉を,動物に転用する際には注意が必要なのはいうまでもないが,私たちは,そのときの動物の気分がポジティブかネガティブかをみわけることくらいはできる。心の状態や情動は,痛みの経験のあり方,感じ方に影響を及ぼす重要な要素なのである。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.52

その動物は健康か?

 最近の動物福祉の運動のなかでは,アプローチをもっと単純化して「その動物は健康か?」「その動物が必要としているものを与えているか?」と単に問うにとどめるべきだと提唱されるようになった。この考え方は,オックスフォード大学で動物福祉を研究するマリアン・ドーキンス教授によって導入されたもので,彼女の目的は動物福祉の評価基準を単純化するところにある。
 ドーキンスの2つの問いは,酪農用に飼われているウシの群れを対象に直接問えるようなレベルにまで問題を具体化するが,その射程には依然として限界が存在する。やっかいなことに,私たちはすべての動物を同じ見方で捉えているわけではないのである。
 たとえば2つの問いは,牛舎で飼われている肉牛,バタリーケージ[多段式のケージ]で飼われているニワトリ,海中の囲いのなかで飼育されている魚,養殖池で飼育されている小エビ,これらのいずれに対しても等しく問える。福祉の配慮をウシやニワトリにまで広げるのは確かになぶさかではなかろう。
 本書では,さらにそれを進めて,魚にも同様の保護を与えるべきかどうかを,そしてそうすべきなら,それは何を意味するのかを考える。
 だが,小エビに対して福祉の配慮が必要なのか?
 どこにどうやって線を引けばよいのか?
 それらの問いに答えるには,どのような基準が重要なのかを,また,ある動物が適切な福祉の配慮を必要としているかどうかを,どんな特徴によって判断できるのかを検討しなければならない。それにはいくつかの方法があるが,まず何よりも最初に問われるべきは,「その動物は痛みや損傷によって苦しむのか?」である。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.44-45

魚の脳局在

 大脳新皮質によって可能なことが,より単純な脳によっては行えないとする推測が,いかに誤解を招くものかを示す1つの例がある。脳機能の局在性は,人間の脳の左右それぞれの側で,異なった情報が処理されていることをいう。脳に部分的なダメージを受けた脳卒中患者の症例から,また脳の活動を測定する一連の研究から,言語やそれに関連する情報が主として脳の左側で処理されているのに対し,資格情報に基づく思考や顔の認知が通常は脳の右側で処理されていることが知られている。脳の両半球の機能はそれぞれ異なり,これらの活動のちがいは大脳新皮質の内部で生じている。
 大脳新皮質の欠如のために魚は痛みを感じる能力をもたないという論理を用いるなら,魚には脳機能の局在性もありえないと主張できるはずだ。ところがそれはまちがいだと判明している。魚の脳は,2つの側のそれぞれにおいて,異なった種類の情報を分けて処理しているのだ。
 イタリアのトリエステ大学のジョルジョ・バロティガーラと,パドヴァ大学のアンジェロ・ビザッツァは,多くの共同研究者とともに,いくつかの魚の種が視覚情報を分極化して処理する事実を突き止めた。
 ある種の魚は,群れの仲間をみるときには左目を,また捕食動物や新規な物体など,警戒を要するものをみる際には右目を用いようとする。そして情報処理は,脳の2つの領域に分担させると効率が向上する。なぜなら,脳のそれぞれの側が異なる種類の情報を同時に処理できるからだ。これは文字通り並行処理だといえる。腹をすかせた捕食動物が岩陰にひそんでいるような危険な環境のなかで暮らさなければならないのなら,少なくとも2つの情報を同時に処理する能力は不可欠になるはずだ。したがってそれは重要な能力だが,それに大脳新皮質が必要だというわけではない。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.31-33

こういう研究を受け入れよ

 この研究は,ヘビが前進する際のくねり方やとぐろの巻き方での左右差を調べたものである。このヘビはアメリカ南東部に多く生息する種類で,たいていの時間はトグロを巻いて過ごしているらしい。ルースは30匹のヘビを対象に餌を求めて前進する際のくねり方やトグロの巻き方を1日に2回観察している。その結果,個体別に統計的に優位な左右差を示したのは3匹でいずれも時計回りを示した。左右差どちらの傾向が強いかを基準に傾向を見ると,時計回りの傾向を示したヘビが19匹で時計回りとは反対の傾向を示した個体は11匹であったという。退化した手足があるという説に従えば,右手のほうが強く,時計回りのヘビが多い傾向を示したことになり,とくに時計回りを好むヘビは成長した雄のヘビに多く,若いヘビは反時計回りの傾向を示すというものであった。雄と雌で反対の傾向がうかがえるのは交尾と関係があるのかもしれない。
 この研究はヘビのレベルで個体によって運動行為に左右差が明確に存在することを指摘している点で興味深いのだが,私の関心は別なところにある。ルースの研究では1813試行が観察されている。ヘビを被験体に行動実験をするには空腹動因を誘発せねばならない。つまり,腹を空かせておいて実験をしやすくせねばならない。ヘビの行動は温度や日照時間に影響されるのでそれらを一定に保ちつつ,空腹にするために1週間の断食をさせ,給餌の際の行動,すなわち餌であるネズミに向かって進む歩み方(表現は微妙だが)を観察しているのだ。実験に用いたヘビの数と試行数から概算して約60試行を行うことになる(実際には37試行から88試行とばらついている)。したがって半年以上が実験期間となる。つまり,半年もの時間をかけてヘビのくねり方を観察したことになる。せっかちな私に,とてもできる実験ではないし,たいがいの人にとってもこの種の根気はあるまい。
 私はこのような研究者も偉いと思うが,このような研究者を内包できる大学は立派だと思う。そして,そのような大学を育む国はたいした文明国だといいたくなる。これこそ文化的な社会,または文明社会であるはずの現代社会に存在する真の大学の姿であろうという思いを,強くもつからである。この件研究の結果は,関心のない人からは,「それがどうかしましたか」とか「暇な人もいるものだ」という答えが返ってきそうである。この研究成果が必ずしもすぐになにか金銭的な効果をもたらすものではない。しかし,現代人の好奇心を満たす効果はあり,本書の読者のようにお金を払って好奇心を満たそうという経済行動につながるので,長期的には金銭的な関わりも生まれないわけではない。
 昨今の日本の大学に見られる,特許などの経済効果に直接的に繋がらない研究の軽視を体感する者としては,文化的でこころ豊かな知識の学府を構成する研究者も内包できる環境を保ち続けることの重要性を,ルースが行ったヘビのこの研究を読んで痛感した次第である。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.226-227

きき手を変えること

 もっとも組織的にきき手の変更に取り組んだのは19世紀末,ヴィクトリア時代のイギリスでの「両手きき運動」であろう。この運動は,左ききの排斥というよりも右ききも左ききも両手ききにしようとするもので,「これからの人間は両手ききでなければならない」という主張のもとで起きた。現在の南アフリカで1899年に始まった第二次ボーア戦争で,いったんは勝利しかけたイギリス軍がオランダ農民に負け始めたころ,簡単に兵隊を補充できないイギリス軍が片手を負傷した場合でも別の手で銃を撃てればよいと考えたことに端を発するらしい。そのほかには「左ききが右手を訓練し,右ききが左手を訓練すれば左右の脳が調和的に機能し,性格も調和のとれたものになる」「左手でピアノを弾き,右手でスケッチをすれば人生は2倍楽しめる」などという理由も唱えられた形跡がある。
 しかし,この運動はすぐに廃れてしまうこととなった。「両手ききが左ききや右ききよりも能力的に優れることはない」という解剖学者の報告や,「左右の手を同じ頻度で使っても両手ききになるわけではない」「左右手を交互に使って動作するという愚劣な訓練よりも自然に任せたほうが,気分的にずっと楽である」などの主張に負けたのである。
 つまり,少しくらい片方の手を使ったところできき手が変わるものではないことが明らかとなり,1920年代には「両手きき運動」は消滅したのである。20世紀の初頭では,むしろきき手の変更は悪いことであるという主張が強まり,アーリットが指摘するように「強制的なきき手の変更は発語だけでなく,読書能力などにも悪影響を及ぼす」といわれるまでになった。
 このような歴史があるにもかかわらず,現在でもなお,大人になってからきき手を変えることを推奨するような報道がなされたり,幼児での左ききの矯正の可否が取り上げられたりする。科学が発展するために必要な条件の1つが知識の蓄積だとすると,こうした現状は少なからず問題であり,学術論文の作成に目を奪われて,知見を社会に伝えることを怠ってきた研究者の怠慢といわれても仕方がない。
 少しくらい左手を使う訓練をしたところできき手が変更できない事実は,左手を使うようにすれば右脳が活性化し,初期のラテラリティ研究が指摘した右脳タイプの情報処理様式の増進や,創造性の発揮につながることなどあり得ないことを証明している。左手が腱鞘炎になる前にそのような試みは考え直したほうが賢明であろう。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.183-184

社会の豊かさ

 このように,実験心理学的な検討はそれまでの実験のやり方の不備を修正することを次つぎとくり返して,最終的な結論を導き出そうとする。ああでもない,こうでもないという議論を追っていく研究者は,ときに俯瞰的に事態を捉えることを忘れがちになるので幡多から見れば滑稽かもしれないが,没頭している本人には高揚感が抱ける幸福な時間なのである。余談であるが,一見するとすぐに役立ちそうにもないことに携われる研究者をどれだけ抱えられるかが,真に豊かな社会かどうかのバロメータであると,私は信じている。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.147-148

きき手と左右脳機能差

 瞬間提示法を用いた視覚機能の研究は,基本的に左ききと右ききでは異なる脳機能をもつことを示しているといえそうである。つまり,右ききが左右脳の機能差を明確に示すのに対して,左ききは明確な左右脳機能差を示さないというわけである。
 このような,きき手による脳機能の違いについて,イギリスのバーモントは左ききの脳機能が右ききに比べて拡散的であるとする。つまり,左ききの脳は同レベルの視覚認知の仕組みを左右脳にそれぞれもつのに対して,右ききでは機能の左右脳への特殊化が明白なのだとしている。別のいい方をすれば,右ききの脳は機能が特定の部位に局在している傾向が強いのに対して,左ききの脳はその傾向が弱いということになる。これは決して左ききの脳が劣るということを意味するのではない。右ききの脳が決まったポジションを守って活躍する野球選手のタイプであるのに対して,左ききの脳はどこでも守れるオールラウンド・プレーヤータイプであるというような意味である。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.144-145

ゲシュヴィンド理論の詳細

 少し具体的にゲシュヴィンド理論を紹介すると次のように表せる。すなわち,この理論では,男らしさを決定づけるY染色体上にある遺伝子によってコントロールされるH−Y抗原による男性ホルモン(テストステロン)の分泌が,妊娠中の中〜後期において上昇することで,次のような現象が生じるとしている。

 (1)左脳の側頭平面に近い後頭葉の発達が遅れる。
 (2)右脳の後頭葉の発達が促進される。
 (3)右脳の前頭葉の発達が遅れる。
 (4)免疫系の発達が遅れる。
 (5)神経冠の発達異常がもたらされる。

 それぞれについてさらに少し表現を変えて説明を加えよう。

 (1)左脳の後頭部位の発達の遅れは,左脳を小さいものにし,左脳が正常に発達することを妨げてしまう。つまり,左ききが生じやすくなり,左ききに言語能力の発達遅滞,発達性学習障害などが生まれやすくなる。
 (2)左脳の発達の遅れは,反対側の右脳の対称部位である後頭領野の発達を促進させる。そこで,左ききには数学や造形芸術,音楽など右脳の関与が大きい技能に優れる英才(数学者,芸術家,イデオ・サバン)が生まれる可能性が高い。
 (3)右脳の前頭葉の発達の遅れは社会性の発達を遅らせ,対人適応能力に問題をもつことになる。
 (4)免疫系の発達の遅れは,アトピー,アレルギーをはじめとする思春期以前の免疫障害をもたらす。
 (5)思春期以降の胸腺の発達の遅れは,思春期以降の免疫系の障害を生じさせることになり,感染症やエイズ,リンパ系の障害,偏頭痛が生じやすくなる。
 (6)性ホルモンの受容器が刺激されることは,リンパ系以外の部位でのがんの発生率を低下させる。
 (7)神経冠に発達異常がもたらされることは,神経系を始めとするさまざまな身体部位の形成異常を生じさせる。

 これらの説明から明らかなように,左ききは男性ホルモン分泌上の問題から生じるとするゲシュヴィンド理論からは,左ききには免疫系の病気をもつものが多いとか,天才が多いなど,いくつかの予測をもたらすこととなった。彼の理論は壮大で,複雑で,たいへん興味深いものであるために,現在までに多くの研究者がこの予測の妥当性を検討すべく実験や調査を行ってきた。現時点では,それらの結果は支持するもの,支持できなかったものが混在している状況にある。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.118-120

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