忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ゲシュヴィンド理論

 ゲシュヴィンド理論は大規模なために段階を分けて説明しよう。まず,次の3つがゲシュヴィンド理論の骨子である。

 (1)きき手を含めたラテラリティは,大脳皮質の解剖学的非対称性を直接反映している。
 (2)人口の70%は右ききで,左脳が言語機能を担う「標準的ラテラリティ」であり,残りの30%は左ききで右脳あるいは左右両方の脳が言語機能に関係する「変則的ラテラリティ」である。後者が遺伝によってのみ生じることは稀であり,妊娠中の中〜後期の非遺伝的な要因つまり環境要因によって生じる。
 (3)環境要因としては,性ホルモン,とくにテストステロンが中心的な役割を果たし,妊娠中〜後期の胎児に影響する。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.117-118
PR

左ききは10%程度

 まず,台湾人のきき手についての研究では,強い左ききは男子で2.0%,女子で1.0%,弱い左ききとされたのが男子で4.0%,女子で2.0%であった。日本人よりも左ききが少ないといえそうである。
 イタリアはカトリックがもっとも一般的な宗教であり,左手への禁忌が強い国として知られている。このイタリア人成人を対象にした調査結果では,右ききが63.6%,左ききが6.4%であった。残りは両手ききであり,性差は認められていない。両手ききが日本人よりもずいぶん多い様子がうかがえる。
 宗教上,左手への禁忌がカトリックと同じように強いのがイスラム教である。ペインはイスラム教の国である北ナイジェリアできき手の調査を行っている。大学生を対象に実施されたこの調査では,9.7%が左ききということで,結構多いという印象をもつが,これは実際に使う手を聞いたもので,どちらの手を使うのが望ましいかを尋ねた結果では,左ききとする人は1人もいなかった。望ましくないとは感じつつも左手を使う大学生が少なくないという事実は,大学生という恵まれた特別な階層の若者では宗教上の禁忌が弱まっていることを示している。それと同時に,宗教上の圧力がない場合に生物学的に生じる左ききは10.0%程度である可能性を示唆するように思われる。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.71-72

時代による利き手の変化

 じつはわが国では,時代により左ききの割合が変化しているのである。1993年の調査では,20年前に行った同じきき手テストを再度実施して,日本人のきき手の割合の変化を検討した。表3−1がその結果である。この表から明らかなように,女子に限ってであるが,20年間に非右ききが統計学的にも有意に増加したのである。男子の場合には大きな変化はない。1973年の調査対象となった大学生は,その親のほとんどが戦前の生まれであるのに対して,1993年の調査対象学生の親は大部分が戦後の生まれである。わが国は第二次世界大戦を境にして,親の養育態度が大きく変化した国である。このような,いわゆる西洋化した社会的態度が,女子に見られた変化をもたらしたおもな原因ではないかと考えられる。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.67

左ききは特別器用ではない

 一般成人の場合,片手での粗大運動はきき手のほうが非きき手より速く,片手での追跡運動課題での正確度も高いが,単純選択反応時間ではきき手と非きき手の間に統計学的な有意な差がないことが報告されている。この選択課題での反応時間,すなわち,手と目の共応機能について右きき群と左きき群を比較したのがイギリスのラビットである。10回に1回程度の割合で点灯するランプに,明かりがつけばできるだけ速く反応せよという課題での反応時間は,右ききの右手が474ミリ秒,左手が496ミリ秒であった。一方,左ききの左手での反応時間は466ミリ秒,右手は486ミリ秒であった。きき手によって反応時間に統計学的に有意な差はなかったために,左ききが器用という仮説は認められなかったことになる。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.27

左ききは器用?

 さて,「左ききは器用」という俗説の真偽は如何なものなのであろうか。
 一般に器用という表現を用いるのは,たとえば,裁縫が上手とか工芸細工に長けているとかを指している。こうした動作を心理学では「感覚運動共応技能」と呼んでいる。つまり,手と目との共応動作のことである。
 直接的にこのような疑問に答える研究は意外にも少ない,というかほとんど見あたらない。これは,一般的な単語である「不器用さ」を科学的な用語で定義することが容易ではないことに理由がある。かつて,「不器用さ」に対応する英語「clumsy」を表題にした論文を書いたことがあり,そのときも苦労した記憶がある。その論文では,「箸をきちんともてない大学生は不器用である」という仮説を検証したいと考え,片手の箸で豆をつまんで移動する課題,押しピンを指定された箇所にできるだけ早く次つぎと刺していく課題,片手でボルトにナットをはめ込む課題,片手で靴ひもに結び目をつくる課題の4種類を用意した。箸をきちんともてない学生は,豆の移動と靴ひも課題で有意に成績が劣るという結果であったが,この研究で用いた課題がすなわち器用さを測定する課題と断定する自信はない。器用さを測定する課題を探すのは簡単な話ではないのである。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.26-27

フロイトと宿命論

 フロイト説はよく幼児期宿命論という批判の的になっている。しかし,筆者にはそれはフロイトの生きた時代を忘れすぎた偏りであるように思われる。フロイトはむしろ,神経症は遺伝的・生得的とするより強固な宿命論に対して1つのアンチテーゼを提出した。神経症は一種の発達障害であり,この過程を懸命に制御することができれば,また,専門の精神分析医の導きにより神経症の源泉をつきとめることができれば,救いの道が拓かれるのである。
 しかし,フロイトの発達論では,肝要な年代は5,6歳までのいわゆる幼児性欲期に限られてしまう。人間を動かす根源的動力としてのリビドーは,本性上動物的・生得的なものであり,その発達の秩序も予め仕組まれた生物学的機構,現代風にいえば「成熟」によって定まる。性的欲求が一時休止する6歳くらいまでが焦点となるのはこの立場からすればしごく当然であろうし,また,リビドーないし成熟という単一次元のみを扱えば足りるので,その発達も自ら単純なものとなる。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.202

フロイト説について

 フロイト説は鋭い考察により,思い設けぬ視野を切り拓いてみせる。ベッテルハイムが観察方法としての精神分析学にもっとも高い評価を与えているのは,もっともである。この方法が巧妙に適用されるとき,常識的な外見の裏に潜む別の世界像が次第に梅雨を払って現われでるような不思議な魅惑に襲われる。夢判断は,もっとも典型的な例証をなす。
 しかし,反面,動的心理学や人格心理学としての理論化・体系化には数々の疑問が残る。フロイトは,当時の最新科学思想たる力学的自然観の信奉者ブリュッケを慕って生理学を専攻したほどであるから,通常想像されるようなロマンティストではなく,厳密な科学主義者であった。心身両面を通じての一次元的エネルギーであるリビドー概念の創出や,いったん生起したリビドーはけっして消失せず抑制しても神経症候その他に変形して再現するという一種のエネルギー保存の原則などは,フロイトにおける力学的自然観の影響をよく示しているというべきであろう。また,当時の自然科学者らしくフロイトは決定論にこだわったようにみえる。多元決定などと一方では唱えながら,大筋としては幼児期の外傷体験や欲求不満がほぼ一元的に神経症候を作るとされ,後に幼児期宿命論の批判を浴びるもととなった。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.179-180

親愛と非難

 アイブル=アイベスフェルトなどの文化人類学者は,多くの文化に共通する表情として2種類の笑い——親愛の意味を表わす微笑と反対の非難・排斥を表示する嘲笑とが混在することを指摘している。後者は,唇の端がかすかにゆがんでいることで区別される。微笑と嘲笑,先にみたこの対比はかなり普遍的にみいだされるもののようである。
 一見同種の表情が,なぜかくも対立的な意味を帯びるのだろうか。これについて想いだされるのは,いわゆる動物の微笑である。この現象はダーウィンのウマの表情の分析以来動物研究者の注目を惹いてきたのだが,P.レイノルズは,微笑とみられてきたものは実は攻撃—逃避という相反する動機の葛藤の表現であるという。動物の微笑とみえるものは,上唇をまくり上げて前歯を現わし,同時に口の角を引くという2つにより特徴づけられるのだが,これらの先をトゲウオの葛藤反応の例にみたように,歯をむきだす攻撃的欲求と口角を後に引く逃避的動機との同時的表出とみることができる。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.142

創造過程

 創造過程については,なお興味深い多くの問題が残っている。創造者とは,個性的で偏狭な人間嫌いと思われていることが多いのだが,それは必ずしも当っていない。まさしく発見が成し遂げられたと信ずるとき,創造者はきわめて強い伝達の欲求を感じるという。前述したように,インスピレーションのさい,答の正しさは直観的に確信されるのだから,証明は本質的には無用な作業——というのがいいすぎであれば二次的作業にすぎない。検証は,これもすでに指摘したように,直感的な発見を論理の大道に乗せて公共化することにほかならない。いいかえれば,他者あるいは自己を納得させる作業である。このことに創造者が熱中する理由は,1つには自己確信の強化でもあろうが,より主要なものはやはり共感への熱情,ひいては超越的な普遍者への参与の感覚とでもいった動機に基づくとしか考えようがない。決闘前夜,死の危険を予感したガロアが自己の発見をなぐりがきにしたというエピソードは,たんなる名誉欲などではとても説明はできない。とすれば,創造者は,その気難しい外見の底にむしろ人恋しい共感への欲求と創造を通じての普遍化への願望を秘めているのだろうか。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.100

拡散的思考

 しかし,その点でもっとも衝撃的な影響を与えたのはJ.P.ギルフォードによる収束的思考対拡散的思考の二大別である。彼は第二次世界大戦中アメリカ陸軍の戦略局に動員され,そこで臨機応変の対処能力,ひいては思考の流暢性とは何かの研究に携わったことから,上の概念に到達したといわれる。当初から,彼の発想は定型的ではない課題解決過程に指向していた。
 収束的(convergent)とは,さまざまな刺激状況が常に同一の目標反応に結びつく事態を指す。拡散的(divergent)は,反対に,同一の刺激状況が多様な目標反応に結びつきうる事態である。収束的思考とは,したがって,正答が一通りに定まっているような課題状況における思考様式を指し,拡散的思考は逆に型通りの解決が与えられていない課題,解決やそこに至る通路そのものを構想しなければならない事態,極端にいえば問題そのものがまだ現前していない状況下で未然にそれを感得する事態等々における思考様式を指すことになる(以上の説明では簡略にすぎて誤解を生むおそれがある。正答が一通りに限られていても,解決過程は多様である場合は数学などによくみうけられるし,逆に多様な回答はありえても自ずと良い解決が定まるという事態は作文などに典型的に認められるだろう。この点もう少し議論の必要があるのだが,前述のハイムなどを参照して欲しい)。
 この語を用いるなら,知能テストは収束的思考の能力を測るテストの典型だということが分かる。では,拡散的思考の能力を測るにはどうすればよいか。
 以後,この要請に応えて,創造性テストと呼ばれるものが続々と作りだされていく。その代表は,ギルフォードによる日常的事物の用途をできるだけたくさん案出させる用途テスト,連想の豊かさやかけはなれた連想能力をみる連想テスト,二本の線を与え,これにかき加えて意味のある図形を作る描画テストなどであるが,その他にもたとえば抽象的な線描のパタンに対してできるだけ多くの意味づけを与えるパタン意味づけテストなどいろいろ考えられよう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.82-83

知能は思想

 現行の知能概念が,人間にのみ生得的理性が賦与され,したがって自然界は知性の優劣により秩序づけられるという神人同型説を出発点としているかぎり,グールドが厳しく告発するように,常に人種差別的合理化の企てとして機能してきた一面はとうてい否定し難い。このような事情に日本の研究者はあまりにも無知であり,知能やIQをたんに理論的・抽象的概念として,また探求に値する真理としてしかみてこなかったのは素朴に過ぎることだった。知能とは——イギリス学派の実体観とはうらはらに——まさしく一種の思想であり観念である。ある社会階層の利害の代弁者という意味でなら,イデオロギーと呼ぶにふさわしい。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.79-80

一次元いろいろ

 このようなリストをとり上げればまだきりもなく続くことであろう。しかし,これらを一般知能因子説への決定的異論とみなすことができるだろうか。サーストンのような多因子説は,1つには因子分析の技法上のちがいからもたらされるものであり,みようによっては一般因子の下位分類ととれないでもない。C.バートやP.E.ヴァーノンらは,スピアマンの一般因子説を発展させ,たとえばヴァーノンはG因子に次ぐ群因子として言語・数・教育に関する因子,機械・空間・運動の因子の2つを分けるという階層構造を考えた。サーストンも,因子が相互に関連をもつ場合(斜交回転)のさいの高次因子という1種のGを認めているから,両者は似ていないとはいえない。その他の分類,たとえばキャテルの区別は古くからの形式対内容の別を思わせるし,これに通じる言語性対動作性知能の対立も,その意味では常識を多くでていない。これらの動きは,知性一次元という大枠のなかでの小波とみなせるだろう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.74-75

1つの数値で

 最後にもう1つ,知能テストの重要な特性を付け加えておかねばならない。パーソナリティ・テストは,ことの性質上当然,その結果を1つの数値で表わすことはできない。オールポートにきくまでもなく,個性や人格特性は多様なものだから,因子分析その他の技法によってどんなに結果を簡約化したところで,たとえば支配性はきわめて高いが,社交性は低いのように,いくつかの特性値の組みあわせ,たかだかある類型として記述できるだけである。まして,人びとを1次元に序列化することなどは不可能である。
 これに対し,知能テスト結果は終局的には知能指数というたった1つの数値によって表示しうる(と信じられている)。むろん,ウイスクのような言語性と動作性のIQをそれぞれ別々に算出するテストもあり,また,各下位テスト結果をそれなりに問題にすることもできるが,ふつうは総体としてのIQだけを指標にする。あたかも,それぞれの下位能力は結局みな同じ知性の一環にすぎないかのように扱われるのである。スピアマンは,Gという知能の一般因子を仮定したが,知能は人間の基本的かつ普遍的な特徴をなすというパラダイムが,この観念を強化している。
 そうして,この点で知能検査の実用性はパーソナリティ・テストより格段に高まる。たった1つの数値によってある人の知的能力をあますところなく知りうるとしたら,これほど便利なものを人間性について他に考えうるだろうか。しかも,人間にはかの有名な「兵隊の位」で象徴されるように,人間の上下を一本に序列化したいという素朴な願望もまた根強い。偏差値競争の源泉の1つは,ここにも潜んでいる。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.69-70

相対的知能観というアイデア

 近代の心理学は一時根強い本能論に支配されていた時代があったのだが,これは人間と動物との連続性を主張し,したがって人間にも本能,動物にも知能を認めるダーウィンの影響——直接的にはH.スペンサーの影響を受けたためであると考えられる。このように,当時の人文系諸科学一般に進化論の影響は大きかったのだが,ことの性質上発達研究の領域ではことさら深いものがあった。たとえば,ビネーが知能テスト作製に成功した理由の1つは,それまでのF.ゴールトンその他のように,知能の絶対値を直接計測しようとする企てを捨てて,年齢が増すほど課題解決能力ひいては知能も比例して高まっていくという相対的な知能観を採用したところにある。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.58-59

一面の継承

 問題はその先であり,オールポートは科学的・分析的方法以外にも臨床的診断の意義を重視しているのに対して,アイゼンクのような純粋化学主義者はそうした了解的方法の価値を認めない。彼は,マンセルの色票系の例を引いて,人間は三百万にもおよぶさまざまな色の個性を識別しうるけれども,それらは明度・彩度・色調という色の3次元上での変量の組み合わせとして表現しうるという。必要なのは,パーソナリティの次元分析と各次元上での計測であり,オールポートのいうような絶対的な意味での個性や独自性,ひいては個人的頚性などを仮定する必要はなくなる。現在の科学的パーソナリティ研究は,おおむねその方向に志向しつつあり,オールポートの一面のみを継承しているといえよう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.41-42

個性とは

 個性とは,元来これ以上分析できないものの意であるという。ヨーロッパでは,このような人間の総体としての独自性や統一性は自明の原理とみなされ,すべての性格学説に多少とも内包されている。この観念の具象化の典型がいわゆる類型学である。したがって,研究の手法も,あるがままの全体を直観的に把握しようとする了解心理学的方法が根強く信奉されている。一方,アメリカ的学説には,行動主義に典型的に認められるような要素主義が強いから,したがって分析と総合という科学主義の正当な手法が盛んにとりいれられることになる。後述の特性論にみる諸特性の列挙,因子分析によるパーソナリティ次元の究明などはその好例をなす。アメリカのパーソナリティ研究は,実験心理学との結び付きが相対的に強いといえるだろう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.28

機能主義

 パーソナリティ研究のもつ第2の特色は,それゆえ,まず機能主義的方向を目ざす点にある。いいかえると,生活体の適応という主題に常に最大の関心が払われている。実験心理学者が,感覚を一種の「モノ」とみなし,人間の心を感覚的要素から組み立てられた寄せ木細工なみに扱っていた時代に,フロイトはすでに,運動・感覚麻痺という身体症状を前面に押し出しているヒステリーという病気が,けっして器質的な障害などではなく,通常の手段によっては対処できなくなったために発動された過剰な適応過程にすぎないことを見破っていた。物忘れやいい損ないも同じようにみることができる。つまり,ある行動を説明しようとするとき,「いかに」というメカニスティックな説明原理と並んで,「なぜ」そのようなふるまいがとられるのか,その裏に潜んでいる動機は何かを探求するというもう1つの原理のあることが知られる。パーソナリティ理論家は,行動を支配するメカニズムよりは,それを制御する目標や動機の力に,より多くの関心を払う。「いかに」よりは「なぜ」「何のために」に注目するのである。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.13-14

異端者

 第1は,パーソナリティ研究が,実験心理学を主流とする心理学の発達史のなかで,常に異端者としての役割を果たしてきた点である。19世紀後半に,心理学は大学の学問分野のなかに初めて公式の市民権を認められることになるのだが,その心理学とは実験心理学の謂にほかならなかった。実験心理学は,英国経験論その他によって与えられた認識論的な課題を,物理学をモデルとする自然科学的手法を借りて解決しようとする一種の境界領域として誕生したとみられる。その開祖であるW.ヴントやアメリカ心理学の始祖W.ジェームズが,いずれも感覚心理学についての基礎的素養のうえに生理学教室内に心理学実験室を創設し,後年はむしろ哲学者として正名をはせたことは,この事情を象徴的に物語っていよう。
 ジェームズは,しかし,実験心理学のもつ冷い抽象的性格にあきたらず,次第に別の途を求めていったけれども,ヴントの主導した実験心理学の本流は,純粋に理論的関心とりわけ方法論的要請に左右されて,その問題領域を定めたのであった。あえていうなら,綿密な実験的分析に適し数量的測定の可能な事象が心理学のまず第1の対象とされ,それ以外は実験心理学の領域からは疎外されていった。さすがにヴントは,それのみでは十分ではないことをよく知っていたが,彼の創りだした流れをもはや止めることはできなかった。物理主義を正面に押しだした後の行動主義への転回は,けっして偶然の所産ではなく,その布石は実験心理学の生誕とともに準備されていたとさえいえるだろう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.12

芸脳人

 実際のところは,このような人生指南を語るにあたって「脳」は必要ないのではないでしょうか。脳科学風な生活の知恵や人生指南は研究成果の情報発信ではなく,脳にことよせた1つの文学に過ぎないのではないでしょうか。このような脳科学風の「語り」をする人たちのことを「脳文化人」と呼びます。さらに脳研究で明らかになったことのうち面白い側面ばかりを強調し,ウケをねらうことばかりを考える「芸脳人」もいます。もちろん「脳文化人」たることも1つの生き方であり,また一般の人々がこのような形の情報発信を求めることも否定されるようなことではありません。また脳文化人の著作には文芸書として見た場合,質の高いものもあります。ただし科学ではありません。「脳科学による証拠」にもとづいた教条主義が,文化的な香りをまとって現れただけのようにも思えます。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.195-196

わかりやすく?

 では研究者による情報発信が成功しているかというと,疑問が残ります。何年も実験と思考を積み重ねてきた研究成果を数百字,あるいは数分で「わかりやすく話す」過程でかなりの情報が抜け落ちてしまうことは十分予想できることでしょう。自分の研究内容を数分で語ることができなければならない,またそのように大学院生を訓練する,というのは研究者の間では定番の教育方法ではありますが,これはあくまでも同業者に対するものです。一般の人に「わかりやすく」話すということは「わかった気にさせる」こととは全く別のことだと思います。やさしくわかりやすくという一次元の価値観で科学研究の情報発信のあり方が評価されるのならば,これは近いうちに知的活動とはかけ離れたものとなってゆくことは明らかでしょう。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.179-180

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]