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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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右脳と左脳

 また右脳と左脳についてのお話も,脳の単純化の良い例です。左脳は論理的思考に関係していて分析的な働きをするのに対して,右脳は直感的な働きに関係しており,包括的にものごとを捉える働きをする,というのが現在の通説です。そして理屈っぽい人は左脳型,直感的な人は右脳型といいます。あるいは細かい点にこだわり正確さを求める人を左脳型,ものごとを大局的に捉える人を右脳型といいます。巷では右脳と左脳と書いて,ウノウとサノウと呼ぶそうですが,脳の研究者は決してこのような妙な読み方はしません。普通にミギノウとヒダリノウ,より正確には右大脳半球と左大脳半球といいます。
 モノが2つあったらその違いを見つけ出そうとするのは人の常です。ですから右脳と左脳を対比させたお話が単純化されるのは当然の人の心理ともいえます。また左右大脳半球を優位半球と劣位半球と読んできたこととも関係しているかもしれません。左脳のほうが優位でこちらのほうが大事だ,論理的で知的な脳だ,というわけですが,あまりこのような表現を使われるとそこは判官びいきといいますか,劣っていると表現されてしまった右大脳半球が実は大事なのだというお話をすることが逆にインパクトをもってきます。ここには知能一辺倒であった社会の価値観に対するアンチテーゼといったものも含まれているのかもしれません。でも右脳は直感的分析に優れているといいう表現も,類型的なものに過ぎません。
 大脳半球の働きの左右差は確かに存在します。でも実際に健常人の脳においては左半球と右半球で信号をやり取りしながら手を取り合って働いています。右脳と左脳の働きの違いは十分に科学的研究の対象となるものですが,話を単純化してしまってラベルを貼り,それ以上の思考を停止してしまったのではなんの意味も見出せません。血液型性格判断と同様に読み物としてはおもしろいのかもしれませんが,少なくとも「脳科学による証拠」とはいえません。たとえば右脳訓練法にしたところで,右脳が左脳よりもよく鍛えられるという証拠はどこにもありません。右脳訓練とは,論理的思考だけでなく直感的思考の訓練もしましょうね,という表現以上のものではありません。「右脳」は脳科学用語ではなく修飾語に過ぎないと認識してしまえば,右脳訓練法そのものを批判する必要はないのかもしれませんが……。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.155-156
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良いのか悪いのか

 実際には情報発信をする人の恣意的な表現選択が行われます。たとえば前頭葉が大事な部分であると信じている人にとって,ゲームをしているときに前頭葉が活動していなければ,これは前頭葉が活性化していない,だから悪いのだという主張につながるわけです。でも,将棋の羽生善治さんが将棋を指しているときに前頭葉があまり活動していなくても,このようなときには「活性化していない」という表現は使いません。単に前頭葉が活動していないと中立的な表現を保ち,前頭葉が活動していなくてもこんなにすごい「神の手」を指せるのだ,というお話ができてしまうのです。ここではその人の主張したい内容に応じて表現を変え,聞いた人の印象を変えてしまうという操作が加えられているのです。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.146

脳の善玉・悪玉

 「前頭前野は知性をつかさどる」
 このような表現は一般向けの情報発信の場だけではなく,論文や総説にもしばしば登場します。前頭前野を研究対象とする研究者たちは,前頭前野こそが脳の最高経営責任者であり,脳の活動の中で最も「偉い」領域だと主張します。そして前頭前野は,その他の脳全体の領域すべての活動を制御し,ひいては私たちの身体,思考,そして意思をコントロールしていると考えられています。おかげで前頭葉を中心に研究している私は,なんだか大事なところを研究している人ということになって,ちょっとうれしいような気もしてきます。
 前頭葉が大事な働きをしていること,そして高次な思考メカニズムに必要な領域であること,また人間でとくに発達した領域であること,これはある程度以上の確からしさをもっています。ですがこれは脳の中での価値付けの基準にはなりません。研究者の中ではさすがにこのようなことはないものの,一般向けにはそれぞれの脳領域が善玉か悪玉かという見方で捉えられてしまいます。
 脳の中で欲望に関係する領域である大脳基底核がよく悪玉にされます。一般向けには大脳基底核などという堅苦しい表現はあまり使わずに,原始的な脳の部分,あるいは爬虫類脳などと表現されます。ネーミングからして悪玉になっていますね。そしてこの原始的な,野蛮な,恐竜脳を制御して,文明化され,社会性をもった人間として振る舞うようにさせているのが善玉の前頭前野というわけです。
 脳領域に扱いの格差が生まれると,今度はその脳領域の活動にも価値付けがなされるようになります。前頭葉がよく活動しているということは,すなわち脳の中で最も大事な部分を使っているのだからこれは良いことだ,というように説明され,皆も納得してしまうのです。前頭葉は人で最も発達していて知能にかかわる部分なんですよ,ここをよく使えば,鍛えられて素晴らしい人間になれますよ,とまでは言ってませんが,暗喩としてこのような論理が展開されていることが多いように思われます。ここでは脳領域,あるいはその働きが善悪で語られるようになっています。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.144-145

脳活動の低下とは

 また特定の人物の脳活動が,他の被験者に対して「異常に」低下していたとしても,これは脳の働きが異常であることを意味しません。脳の使い方は,とくに複雑な思考になればなるほど個人差が大きくなります。脳活動パターンが他の人と異なっていることが異常ということにはなりません。異常かどうかの判断は課題の成績として他の人にくらべて大きく下がっていた場合に使うものです。たとえば,数学の問題を解いているときの脳活動を測定したとしましょう。20人の被験者のうちで1人だけ,前頭葉の活動が「異常に」低下していた人がいました。でもこの人は実は数学専攻の大学院生で,この実験でテストされた問題はすべて楽々と解けていました。この場合,彼の脳活動は「異常」だと言えるでしょうか。むしろ前頭葉をほとんど使わなくてもこの程度の問題など解けてしまう,と解釈されるでしょう。
 「異常」という言葉は,「常と違う」という意味ではなく「悪い」という意味で使われてしまっています。脳活動だけで,良い,悪い,という判断はできないのと同様に,正常か異常かを判断することもできません。また,結果としてテストの成績が悪かったからその脳活動の結果としてテストの成績が悪かった,という因果関係を証明しない限り,このような考えは独りよがりの憶測に過ぎないのです。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.129-130

確率による色付け

 そして通常のfMRIを用いて得られた脳画像では,脳活動の大きさではなく,統計的にどれぐらいその活動が確かであるかをもとに,脳活動部位を色づけして表示しています。よく使われる表示法では,5%の水準で活動したと言える部分を暗い赤で,より確からしい1%水準で活動したと言える部分は橙色で,さらに確からしい0.1%水準で活動したと言える部分は黄色というようにグラデーションをつけて脳活動部位を示します。このような色つきの図を見ると脳のどの部分が有意な活動を示しているのかがよくわかります。ここでいう「強い脳活動」とはその活動の絶対値が大きいことではなく,統計的により確からしいことを示しているのです。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.120-121

「何もしないでください」

 また別の問題もあります。何もしていないときにくらべて,人がある問題を考えているときには脳のこの部分が活動している,ということが脳画像で示されたとします。でもこの脳領域の活動が,その問題にとくに関係しているという証明にはなっていないのです。たとえば人が画面上に提示された数式を計算しているときに脳のさまざまな部分が活動するというデータが得られました。でもこの活動は,計算に関係した領域だということはできても,計算だけに関係しているとは言えません。何か他のことをやっていても同じ脳領域が活動するかもしれません。事実,数式を見せて計算をするという行動には,さまざまな要素が含まれています。たとえば画面に提示された数字を見るだけでも後頭葉にある視覚領域は活動します。さらに数字として認識するだけでも側頭葉は活動します。また計算そのものだけではなくて,なんでもいいから一生懸命努力しているときには前頭葉が活動します。
 計算そのものについて関係している脳領域を同定するためには,画面上に同じように数式を提示し,計算と同じぐらいの努力が必要な別の課題を行ってもらったときの脳活動も測定し,これを計算しているときの脳活動と比較することで,計算しているときだけに活動する,あるいは計算しているときにより強く活動する脳領域を見つけ出さなければなりません。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.117-118

脳活動は相対値

 脳活動計測といっても実際の脳活動の絶対値が計測されるわけではありません。動物実験などで,1つ1つの神経細胞の活動を記録する場合には,平均して1秒間に何回,神経細胞が電気的インパルスを発したかという数値を示すことができます。そして神経細胞が活動していない場合にはこの値はゼロになります。ところがfMRIやNIRSといった脳画像による脳活動計測では脳の血流を測定しているのです。脳は当然生きている細胞の集まりなわけですから,何もしないでいても脳の中を血が流れています。そこで脳画像研究では,何かをしているときには,何もしていないときにくらべて脳のどの部分が活動しているか,というデータが示されます。
 ここで問題があります。何もしていないとき,というのはどんな状態でしょう。何もしていないでじっと静かにしていてください,と被験者に指示しても,被験者が何を考えているかはわかりません。いくら何も考えないでじっとしていてくださいと被験者に言っても,やっぱり何か考えてしまいます。夜の星空を眺めているようなつもりでリラックスしてください,という指示がひと昔前にはよく使われていましたが,これもなんだか作為的ですし,実際そのようにしているときにも脳の特定の部分が活動していることでしょう。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.115-116

動物と人間

 また動物実験にもとづく研究では,その論文の導入部分で人間の行動にことよせた説明がされることがよくあります。「人間はこのような状況でこのような振る舞いをする。どうしてそうなるのか,そのメカニズムが動物実験で明らかになった」というような説明です。「でも結局のところサルじゃんか。人間の行動がサルと同じなのかなあ。えっ,なんだ,ネズミの実験かよお」。こんな気持ちで論文を読むこともしばしばです。動物実験を行い,これによって人に対する生物学的理解を深めようとする研究には,基本的な神経回路のメカニズムは人でもサルでもネズミでも同じであろうとの認識が背景にあります。そして動物を通してしかなしえない,脳科学の真理に対する厳密なアプローチは,脳と心の関係の理解には必須であるとともに本質的なものです。
 けれども,論文などで時折見かける「だって,ほら,人間のデータでも同じような結果が得られているじゃない」という議論は,動物実験にもとづく研究のレベルの高さを自ら貶めるもののように聞こえます。そしてもし動物実験の結果と人間を対象とした実験結果が異なっていれば,「人間だからね,やっぱりちょっとは違うよ」というお話になってしまうわけです。当然,逆のパターンもあります。人間のデータの論文に,動物実験のデータでうまく合うものだけを引用して自説の根拠とするわけです。動物実験と人を対象とした実験が同じ土俵で正当に議論できるようになるには,まだしばらくかかることでしょう。だからといって議論しないでいるのはもっと悪いことでしょう。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.110

脳と心の因果関係

 またもう1つ重要な点は,脳と心の因果関係です。これまでの研究は,ある心の状態,ここでは痛みを感じているという状態にあったときに脳のどの部分が活動するかということを明らかにしてきました。脳のその部分が活動しているときにはその人は痛みを感じている,ということは示されていないのです。逆は必ずしも真ではないのです。なぜかといいますと,脳の1つの領域はたった1つの働きをしているわけではないからです。脳の前頭葉内側部は計算問題を一生懸命に考えているときや,心の中に葛藤があるとき,新しい手順を学習しているときにも活動します。少なくとも現在の時点では,脳のある領域が活動しているからといって特定の心の状態を推測することはできないのです。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.67

神のヘルメット

 このような例として「神のヘルメット」があります。カナダの「脳科学者」であるマイケル・パーシンガー氏は,ヘルメットに磁気ソレノイドをつけて弱い磁場(コンピューターモニターから出るのと同じ程度)を発生させて,右大脳半球の側頭葉に磁場を与える装置を考案しました。このヘルメットをかぶった健常人被験者の80%以上が,「神に会った」,「亡くなった夫に会った」などといった不思議な体験をしたのです。そしてこれは右半球の意識が本来の左半球の意識に流れ込むことによって生じたのだと主張されました。この「成果」はCNN,BBC,ディスカバリーチャンネルで放映され大きな反響を呼びます。パーシンガー氏はその後,同じメカニズムで動作する携帯型ヘルメットを開発し,霊的体験を深める装置として販売しています。
 いかにも怪しげな内容ですが,全く根拠がないわけではありません。脳の側頭葉にてんかん発作が生じると霊的体験や神秘的体験をする患者さんの報告は多数あり,また時に至福感に満たされる,神と出会った,宇宙とつながっている感覚が得られた,などといった報告もあります。ですから脳科学的にはあり得るお話なのです。「右半球の意識」や「本来の左半球の意識」という仮説には証拠は一切ありませんが,そのように解釈しようと思えばつじつまを合わせられる研究報告を集めてくることはできます。
 「神のヘルメット」による霊的体験はその後,別の研究者の追試により否定されました。あまりにも初歩的な問題なのですが,パーシンガー氏の実験ではダブル・ブラインドで行われていません。つまり被験者は全員,神のヘルメットによって磁場を与えられていました。ですので彼らの体験は暗示によるものである可能性を否定できないのです。追試実験では「神のヘルメット」をかぶった被験者のうち半数は磁場を与えられ,他の半数は磁場を与えられていません。そしてどの被験者が磁場を与えられたのかは実験者も被験者もわからない状態で実験が行われたのです。何人かの被験者は霊的体験を報告したのですが,そのうちの半数は磁場なしのヘルメットをかぶっていたのです。もともと霊的な話を信じる傾向にあった人が,それっぽいヘルメットをかぶったことで霊的体験をしたのだと考えられます。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.52-53

確証バイアス

 もちろんこのようなゲーム脳論を主張する人たちには,嘘をついて人をだまそうという意図はありません。その学説の主張者は,あくまでも科学的に正しい研究と発見であると本心から思い込んでいるのです。このような強力な信念が先走った論者に対しては,その誤りを正すことは非常に困難です。ここには確証バイアスという心理メカニズムが働いています。一度こうだと決めてかかるとその仮説に拘束され,仮説にもとづいてしか実験結果を認識できなくなってしまうのです。そしてその仮説に合致しないデータは無視して自身の仮説を守り抜こうとします。もちろん社会をより良いものにしたいとの熱意はわかります。ただこれは科学ではありません。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.47

脳トレの作り方

 これを脳の年齢に換算するところが脳トレのオリジナリティーです。この脳年齢は,20代から70代までの各年代の被験者20人,計120人から得られた課題成績データにもとづいています。年齢に応じた被験者の成績の変化を最もよく表すような曲線にもとづいて,いまのあなたの成績は何歳相当かを求めることができるわけです。脳年齢という用語を使うことによって,「脳が鍛えられた」と印象付けることに成功しているのです。
 脳の働きについては知能指数というすでに確立された(といわれている)検査法があります。知能検査でも,脳年齢測定の場合と同じように記憶課題や認知制御課題,反応速度などの課題が用いられています。脳年齢測定とは知能検査の内容をより簡便にしたものと言えるかもしれません。ただし知能指数測定は数千人以上のデータをもとにして,世界各国でも評価されたものです。データ数が多いために年齢ごとの平均得点とばらつきを算出することができます。知能指数はこの平均とばらつきを加味したうえで算出されるわけです。これに対して脳年齢を求めるための基礎データのサンプル数は十分とはいえません。ゲームの点数を脳と関連付けただけであってそんなに目くじらを立てる必要はないのかもしれませんが,脳年齢は学術的な裏付けがあるものではないことは銘記しておいてください。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.27-28

前頭葉

 でも実際には,脳活動計測実験をしたときに,たいていの場合,よく活動するのが前頭葉なのです。ちょっと複雑な課題を被験者に行ってもらうだけで,前頭葉はしっかりと活動します。前頭葉といった場合には,脳の表面の前半分を占めている広大な領域ですから,前頭葉のどの部分でもよいのであればここを活動させることは簡単なことです。さまざまな課題を行ってもらい,そのときの前頭葉の活動レベルを比較するという研究は簡単に成り立つのです。前頭葉研究といっても,比較的手軽にできてしまう脳活動計測実験においては,その研究としての質に大きなばらつきがあります。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.24

重み付け

 多くの人はこのことを理解していない。2つの対立する見解を提示する記事を新聞で読んだ場合,両方とも有効な視点なのだろうとわれわれは推測し,一方を封じてしまうのは間違いだと思う。しかし,一方の意見を提示しているのはたった1人の「専門家」だけ,あるいはこの物語で見てきたように,せいぜい1人か2人ということも多い。地球温暖化に関しては,サイツ,シンガー,ニーレンバーグ,およびその他少数の人たちの見解が,IPCC全体の集合的な知恵と並置されたことを見てきた。IPCCは,国籍も気質も政治的信条もさまざまに異なる数千人の気候科学者の見解と研究を包含する組織だ。このことから,もう1つの重要なポイントが浮かび上がる。それは,現代の科学は集団によって推進される事業だということだ。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.262

誰が要約するか

 もちろん,評価報告書を全部読んでくれると期待するのはバカげている。だから誰かが要約して伝える必要がある。ここにもう1つの困難が生じる。科学者は知識を生み出す能力を高度に磨き上げた専門家だが,広く一般の人々にどうやって伝えたらいいかという点でほとんど訓練を受けていない。豊富な資金を背景に決然と攻撃を仕掛けてくる人々から科学研究を守る方法については,なおさら訓練ができていない。自分にはそういう才能がなく,趣味にも合わないと思っている場合が多い。最近までほとんどの科学者は,研究内容を広く伝えることに時間を割こうとは特に思っていなかった。彼らは自分の「本当の」仕事は知識を生み出すことであって,知識を広めることではないと考え,この2つの活動は互いに相容れないと思っていることが多い。一般の人々に研究内容を伝えようとする同僚を鼻であしらい,「通俗化」にかまける者として軽んじる科学者もいる。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.252

科学的著作ではない

 『環境危機をあおってはいけない』の中でロンボルグは,いまではもうおなじみの主張を繰り返している——レイチェル・カーソンはDDTについて間違っていた,地球温暖化は深刻な問題ではない,森林がうまく対処してくれる,と。一般に,生活はほぼすべての人にとってずっと良くなっており,「将来について思い煩う必要はない」という。それなら,環境保護論者たちは何のために騒いでいるのだろうか?
 ロンボルグの本は,統計の御用の典型的な例だと批判されている。2002年に『サイエンティフィック・アメリカン』で4人の指導的な科学者が,ロンボルグの計算は4つの点で「誤解を招く」ものだと述べた。デンマークではこの本をめぐって論争が起き,ロンボルグは科学的に不誠実だと攻撃された。ついにはデンマークの科学・技術・革新省が裁定に乗り出し,ロンボルグを科学的に不誠実だとは言えないとした。なぜなら,『環境危機をあおってはいけない』が科学的著作だと証明されていないからだという!

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.242

複雑なダンス

 科学者が沈黙する1つの理由は,科学の中で行なわれている個人とグループの間の複雑なダンスにある。科学者は大きな発見をして得られる賞賛と威信に強く動機づけられている。しかしそれと同時に,科学者は自分自身が脚光を浴びるのをしばしばためらう。その理由には2つの面がある。まず,現代科学の成果はほぼ例外なくチームワークによって生まれるということがある。この点については後でまた触れる。そしてもう1つ,たとえ1人の人間の天才あるいは創造性から生じていても,知識が科学の一部になるのはそれが専門家たちの意見の一致を反映している場合だということがある。現代の世界において科学が飛躍的に前進するのは,数十人,あるいは数百人の研究者の集合的な努力の結果であることが普通だ。現在のIPCCは数千人の研究をまとめ上げようとしている。前に出て同僚たちを代表して話す科学者は,すべての栄誉を独り占めにしようとしていると非難されるリスクを犯すことになる。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.251

鏡の間の世界

 それは200年前のことだ。現在,状況はずっと悪くなっている。ラジオ,テレビ,さらに現在ではインターネットの普及によって,正しくても間違っていても,思慮深くてもバカげていても,公平でも悪意に満ちていても関係なく,誰でも自分の意見を主張でき,その意見が引用され,繰り返されていく可能性が生じているように見える。インターネットが作り出した情報の「鏡の間」では,どんな主張も,たとえどれほど非常識なものであろうと,際限なく増殖していく。そしてインターネットでは偽情報も消えることがない。「電子的な野蛮」と,ある解説者は呼んだ。帆ばかりあって碇のない船のような環境。制御不能に陥った多元主義だ。
 その結果を見るのはたやすい。米国人の3分の1は,9・11同時多発テロの背後にサダム・フセインがいたと思っている。4分の1近い米国人は,いまでも喫煙が死を招くという確実な証拠はないと考えている。そして2007年になっても米国人の40パーセントは,地球温暖化が現実に起きているのかどうか,専門の科学者たちがまだ議論していると考えている。誰が非難できるだろう。どこを見ても,誰かが何かに疑問を投げかけている。今日の重要な問題の多くは,あの人はこう言った,この人はこう言った,誰に分かるだろう,と,そんな話に矮小化される。誰であれ,混乱するのは無理もない。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.208-209

パナマ運河の事例

 ほかにも触れておく価値のある事例がある。それはパナマ運河だ。この運河の建設計画は,(スエズ運河の建設も指揮した)フェルディナン・ド・レセップスの指導を受けて,1882年にフランスの会社によって始められたが,黄熱病とマラリアの影響もあって変更された。1889年までに2万2000人以上の労働者がこれらの疫病に倒れ,建設はいったん放棄された。
 1904年に米国政府が計画を引き継ぎ,米国の新しい指導者は軍医のウィリアム・クロフォード・ゴーガスを衛生管理責任者に任命した。ゴーガスは,昆虫がこれらの疫病を媒介するという,当時としては大胆な仮説を信じていた。ゴーガスは沼地や湿地の水を抜き,建物の周りの水たまりを除去したさらに,蚊の幼虫を油で殺し,建物を燻蒸するチームを派遣した。ゴーガスはまた,建物——特に作業員の宿舎——に網戸を設置した。1906年から運河が完成した1914年までに黄熱病の患者は1人しか出ず,1906年に1000人あたり16.21人だった死亡率は,1909年12月には1000人あたり2.58人へと激減した。ミュラーがDDTの殺虫効果を発見する31年前に,黄熱病は根絶された。マラリアは黄熱病よりも厄介だったが,多くの地域では同じような方法で抑制された。歴史の教訓は明らかだ。DDT単独では昆虫が媒介する病気を根絶できなかったが,一部の地域ではDDTをほとんど,あるいはまったく使わずに,これらの病気を抑制できた。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.182

室内残留性噴霧

 病気を根絶するために殺虫剤を使う場合,最も効率のいいやり方は建物の中で使うことだ。WHOはほとんどの場合,この「室内残留性噴霧」に頼っていた。この使い方だと1年間は薬剤が残るため,DDTは特に効力を発揮する。最も重要なのは,蚊の多くは建物の中に入ってこないためDDTに触れることがなく,耐性がそれほど急速に生じないという点だ。室内残留性噴霧は,家の中に入って人々を刺し,病気を媒介する恐れのあるごく一部の個体だけに影響を及ぼすので,個体群に対する淘汰圧はそれほど高くない。たいへん理にかなった方法だ。
 ところが広い農場に殺虫剤を撒くと個体群の大部分が死ぬ。しぶどく生き延びた個体と交配するのは,やはり逆境を生き延びた個体だ。すぐ次の世代にも耐性が生じるかもしれない。農場で広く使えば使うほど昆虫が急速に耐性を獲得する可能性が高まり,病気を撲滅する目的で必要になったときには,殺虫剤の効力が低下しているかもしれない。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.180

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