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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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目的は醜態

 かれらのただのサラリーマンという人生行路からみると,教養など無用な文化である。教養はもはや身分文化ではない。かれらはこういいたかったのではないか。「おれたちは学歴エリート文化など無縁のただのサラリーマンになるのに,大学教授たちよ,おまえらは講壇でのうのうと特権的な言説(教養主義的マルクス主義・マルクス主義的教養主義)をたれている」,と。かれらは,理念としての知識人や学問を徹底して問うたが,あの執拗ともいえる徹底さは,かれらのこうした不安と怨恨抜きには理解しがたい。だから運動の極点はいつも教養エリートである大学教授を断交にひっぱりこみ,無理難題を迫り,醜態をさらさせることにあった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.210-211
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大学紛争の不思議

 このようにみてくると,大学紛争の解釈も別様になる。わたしはいまでもあの大学紛争をとても不思議におもう。この点については,別のところ(『学歴貴族の栄光と挫折』など)に書いたが,大事なことなので少し補筆しながらくりかえすことをお許しいただきたい。
 なぜ不思議かというと,紛争の担い手だった大学生は「学問とはなにか」「学者や知識人の責任とはなにか」と,激しく問うた。しかしさきほどみたように,大学進学率は同年齢の20パーセントを超え,30パーセントに近づこうとしていた。大学生の地位も大幅に低下していたし,卒業後の進路はそれまでの幹部社員や知的専門職ではなく,ただのサラリーマン予備軍になりはじめていた。そんな大学生が,知識人とはなにか,学問する者の使命と責任をとことんつきつめようとしたところが腑に落ちないのである。
 あの問いかけは,大学生がただの人やただのサラリーマン予備軍になってしまった不安と憤怒に原因があった。そして,大学紛争世代は,経済の高度成長による国民所得の増大を背景にした大学第一世代,つまり親は大卒でなく,はじめて大卒の学歴をもつ世代が多かったことを解釈の補助線とすると,了解しやすくなる。
 大学紛争世代である団塊の世代(1946−50年生まれ)の高等教育進学率は約22パーセント。かれらの親を1916−20年生まれとすると,この世代の高等教育進学率は約6パーセント。そこで,大まかな計算ではあるが,つぎのように試算をしてみよう。1916−20年生まれの高等教育卒業者とそうでない者との子供数が同じとし,高等教育卒業者の子供がすべて高等教育に進学したと仮定すると,団塊世代の大学進学率22パーセントのうち6パーセント,つまり大学生の27パーセントは,親が高等教育卒業者ということになる。そして,73パーセントの大学生は,親が高等教育を経ていない高等教育一世になる。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.208-209

学歴上昇感

 1960年代半ばころから,大卒者の人生行路は,しだいにただのサラリーマンになりはじめていたのだが,まだ特権的な「学卒」という言葉もあった。大学生にとっての教養知識人の物語と大学生の実人生に距離が広がりはじめていたが,亀裂にまではいかなかった。そして,このころの大学生の保護者の学歴は義務教育か,せいぜい中等教育程度である。ほとんどの大学生の親は高等教育を経験していない。大学に進学すればそれだけで大きな上昇感を抱くことになった。そうした上昇感がそれ(学歴上昇感)に見合った身分文化への接近を促す動機づけになった。大学生の身分文化こそ教養主義だったのである。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.203-204

インテリになること

 地方人の東京での文化衝撃は,なにも明治時代だけのことではなかった。昭和戦前期はいうまでもなく,1960年代前半までは,地方人が上京したときには,都会の建物や人ごみの多さに「驚く」だけではなかった。都会人の言葉づかい,服装,知識,通ぶり,機知,洗練さという「趣味の柔らかい権力」に晒され,「ひけめ」を感じ,わが身を振り返り自信を失うのが常だった。
 したがって,こうした時代の農村の若者にとって,高等教育に進学して,「インテリ」になるというのは,単に高級な学問や知識の持ち主になるというだけではない。垢抜けた洋風生活人に成り上がるということでもあった。インテリといわれる人の家には難しそうな本や雑誌とともに,洋間があり,蓄音機とクラシック・レコードがあった。紅茶を嗜み,パンを食べる生活があった。知識人の言説は,こうしたかれらのハイカラな洋風生活様式とセットになって説得力をもった。知識人が繰り出す教養も進歩的思想も民主主義も知識や思想や主義そのものとしてよりも,知識人のハイカラな生活の連想のなかで憧れと説得力をもったのである。経済的に貧しく,文化的に貧困な農村を「地」にして図柄である教養知が「自由な美しいコスモポリタンの世界」として輝いた。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.174

戦前の農村

 教養主義の輝きを,農村を後背地としながら,そこからの広闊な世界への飛翔感にあると述べた。だが,戦前において都市と農村の文化格差がどのようなものだったかは,いまとなっては想像しにくいものである。文化人類学者祖父江孝男の筆を借りてみておこう。
 祖父江は1935(昭和10)年ころの都市と農村の姿を生き生きと描いている。祖父江の父親は東京の下町で医院を開業していた。往診用に当時としては珍しい自家用車があった。安見のときには家族で関東各地にドライブしていた。祖父江はそのころ小学校低学年であったが,よく憶えているのは,田舎道の両側に並んでいる貧しい農家の姿である,という。障子はビリビリに破れ,黒く煤けた紙が垂れ下がっていた。車を止めると,泥だらけの顔をし鼻をたらした和服の子供が駆け寄ってきた。洋服を着た家族を頭の先から足の先までただもう眺め回したのである。
 このころの村の子供たちからみれば,「都会人は遠く離れた別世界からやって来た,顔かたちも服装も異なった,外国人のごとき存在だったのであろう」。また当時,家にいた女中さんのことも書いている。彼女たちはランプと井戸水で生活していた農村からやってきたから,電灯や水道,電話の扱いに慣れるのにかなりの時間を使った(『日本人はどう変わったのか』),と。ついこの間まで都会と農村の間には,祖父江が描いたような大きな経済的文化的格差があった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.172-173

岩波書店と夏目漱石

 それから約半年後,翌年(1914)8月,岩波は,漱石邸を訪れた。『東京朝日新聞』に連載されていた『こゝろ』をなんとか出版したいと,懇願した。漱石はすでに著名作家である。これまでの小説も春陽堂や大倉書店などの有名出版社から出されている。『こゝろ』の出版も引く手あまただった。看板揮毫の縁もあったろうが,漱石は,このさい自費出版で出してみてもよいと思うようになった。自費出版となれば,自分でおもいどおりの装丁ができるという楽しみがあったからであろう。さらに,自費出版のほうが著者の実入りがよいという判断もあったかもしれない。
 話がまとまる。最初の費用は漱石がもち,出版費用償却後に利益を折半するという約束だった。岩波は出版が可能になったことで感激した。用紙をはじめ最高の材料を使って立派な本にしようとした。採算を考えない凝りすぎを漱石に何回も注意されるほどのいれ込みようだった。こうして岩波書店は,スーパー作家夏目漱石の作品を出版するという劇的で好運なはじまりをもつことができた。『こゝろ』につづいて,『硝子戸の中』『道草』『明暗』などが出版された。漱石の作品と全集(第1次は1917[大正6]年,第2次は1919年,第3次は1924年)は,岩波書店のドル箱になった。同時に,岩波書店の文化威信を大いに高めることになった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.139-140

教養主義の再生産

 フランスやドイツ,イギリスなどでは,人文教育を受けた者がエリート中等教育学校であるリセ(フランス),ギムナジウム(ドイツ),パブリック・スクール(イギリス)の教師になり,教養と教養信仰を再生産したが,日本の教養主義も文学部卒業生が旧制中学校や高等女学校,旧制高校の教師になることによって伝達された。旧制中学校や女学校などの教師は,高等師範学校や師範学校,私立大学,専門学校出身の教師が多かったが,旧制高等学校になると,教師の半数以上は帝国大学出身の文学士だった。文学部卒の教師によって感化された学生が旧制高校や文学部に進学し,その後教職について,教養主義を再生産するという循環も成り立っていた。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.96

文学部の比率

 しかし,文学部生の学生全体に占める割合はそれほど多くはなかった。戦前の帝国大学で文学部があったのは,東京帝大と京都帝大だけである。東北帝大と九州帝大においては法文学部として存在しただけである。しかも,学生数全体に占める文学部生の割合も少なかった。東大の場合は,1918(大正7)年までの文科大学卒業生数2061人。法科大学卒業生(7557人)の3分の1にも満たない。東大全体(1万9200人)の11パーセント弱である。同じことは京大についてのいえる。文学部生の割合は京大卒業生の8パーセント弱にすぎなかった。
 私立では,文学部は,早くから東京専門学校(早稲田大学),哲学館(東洋大学),國學院などにあったが,そこでも法,商,政治,経済などの社会科学系が圧倒した。文学部系学生の割合は少なかった。1918年(大正7)年の私立専門学校在学生の専攻割合は,63パーセントが法律・政治・経済などの社会科学系である。文学系の在学生は8パーセントにすぎなかった。
 戦後,新制国立大学の創設や私立大学の創設,新設学部の設置があいついだ。とくに1960−75年の高等教育の拡大は目覚ましかった。このころもっとも設置数が多かったのは文学部である。それは,女子の高等教育進学率の増大による受け皿になったことや文学部の設置基準が他の学部に比して緩い基準だったことによる。しかし,文学部の設置は,新設大学や単科大学,女子大学に多かった。小規模大学に新設されることが多かったのである。だから,大学生全体に占める文学部生のシェアはそれほど伸びたわけではない。1965年でみると,4年制大学生数全体(約90万人)の10パーセント程度のものだった。しかし,学生数全体に占める割合がそれほど大きくなくても,いや大きくなかったからこそ,文学部はアカデミズムや教養主義の奥の院だった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.88-89

大学生の革新政党支持

 当時の大学生の革新政党支持は,京都大学に限らなかった。1952(昭和27)年に,慶応義塾大学政治学会で「今回の選挙で何党に投票したか」という調査をおこなっている。2年生でみると,自由党25パーセント,改進党6パーセント,右派社会党19パーセント,左派社会党16パーセント,共産党5パーセント。革新系が40パーセントであるときに,保守系は31パーセントにすぎない(『三田新聞』1952年10月10日号)。
 だから,大卒を採用する企業は,いまからみれば過剰なほど赤化学生を警戒した。1950年代の入社試験問題には,「社会主義とわたしの立場」とか「イールズ声明(左傾教授学外追放に関する声明)について所見を述べよ」「吉田首相はキョウサンシュギ国に対しどんな考えをもっているか,あなたはどんな考えをもっているか」「対日講和と安全保障について論ぜよ」というような論文試験問題が出題されている。これは知識をためす試験ではない。いわんや思考力をみる試験でもない。試験という名のもとにおこなわれる思想調査である。このような就職試験がおこなわれたことは,さきに触れた当時の大学キャンパス文化からして企業が赤化学生をいかに恐れ,避けたいとおもったかの現れである。1955(昭和30)年の就職ガイドブックのなかで食料品関係の有名企業は採用方針をつぎのように書いている。「思想関係と同時に健康を重視し,入社直前にも身体検査を行なう。学問の基礎をしっかり身に着けた学生が好感を持たれ,いわゆるアプレ的な性格の持主は歓迎されない。むしろ地味な感じのする学生の方がよい」(『大学篇就職準備事典 昭和31年版』)。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.68-69

学生運動の温床

 専門学校や大学は,専門教育機関である。就職を控えている場所である。それに対して,高等学校は,大学までのモラトリアム期の学校だった。モラトリアム期間は,学生運動の温床になりやすい。第二次大戦後の新制大学で,学生運動が1−2年生の教養課程で活発で,専門課程に進学すると一部の学生しか関与しなくなり,沈静化したように。
 しかし,左傾活動が高等学校を中心としたものであったことをモラトリアム空間・時間のせいだけにはできない。せいぜいが必要条件である。ほかならぬ左傾活動への水路づけを説明したことにはならない。マルクス主義を呼び込む文化的条件が必要である。旧制高校のそれまでの教養主義が呼び水になったのである。
 マルクス主義が知的青年を魅了したのは,明治以来,日本の知識人がドイツの学問を崇拝してきたことが背後にあった。しかしそれだけではない。マルクス主義は,ドイツの哲学とフランスの政治思想,イギリスの経済学を統合した社会科学だといわれた。合理主義と実証主義を止揚した最新科学だとみなされた。したがって,マルクス主義は,教養主義にコミットメントした高校生に受容されやすかった。受容されやすかったというよりも,マルクス主義は教養主義の上級編とみられさえしたのである。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.50

教養主義

 ここで教養主義というのは哲学・歴史・文学など人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度である。東京帝大講師ラファエル・ケーベル(Raphael Koeber 1848-1923)の影響を受けた漱石門下の阿部次郎(1883-1959)や和辻哲郎(1889-1923)などが教養主義文化の伝達者となった。『三太郎の日記』や『善の研究』が刊行されることによって,旧制高等学校を主な舞台に,教養主義は大正教養主義として定着する。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.40

教員かマスコミ

 就職は,マスコミを第一志望としていたが,難しいから,一般企業も探さなければならなかった。しかし,当時,教育学部や文学部の学生に受験機会をあたえる大企業はほとんどなかった。あたりまえのように指定学部制がとられていたのである。教育学部や文学部は教員になるか,あるいはマスコミなどに就職するものであって,企業に就職するなど世間の人も当の学生もほとんど考えていなかった。大学の学部は進路と重なっていたのである。そのせいだろう,わたしが入学したころの教育学部や文学部は,法学部や経済学部と比べれば格段に入学しやすかった。卒業すれば就職難が待っているのだから当然だろう。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.20-21

総合雑誌と教養

 昭和戦前期の(旧制)高校生や大学生の教養は,高校や大学の授業などの公式カリキュラムだけではなく,総合雑誌や単行本,つまりジャーナリズム市場をつうじて得られていた。しかも,総合雑誌のクオリティが学会誌などよりも高くさえあったといわれていることにも注意したい。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.14

最小がよいのか

 経済は何でもありで,政府は最小限しか関わらないのがベストで,政府のルール設定も本当に最小にとどめるべきだと考える人々がいる。かれらとわれわれの根本的なちがいはここにある。そのちがいは,経済に対する見方がちがうために生じている。もし人々が完全に合理的であり,完全に経済的な動機だけで行動するなら,われわれだって政府は金融市場にほとんど口を出すなと思うだろうし,総需要水準を決めるときにすらあまり手を出すなと考えるだろう。
 だが実際には,こうしか各種のアニマルスピリットが,時に応じて経済をあっちに押しやりこっちに押しやる。政府が介入しないと,経済は雇用の大変動に苦しむことになる。そして金融市場だって,ときどき大混乱に陥ってしまうのだ。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.263

実際の上昇

 貨幣錯覚もまた,住宅がすばらしい投資だという印象の一部を構成しているようだ。われわれは,はるか昔の住宅購入価格を聞かされる。人々は,それが50年前のことでも,自分が家をいくらで買ったか忘れない。だが,それをはるか昔のほかのものの値段と比べたりはしない。だから今日でも「第二次世界大戦から帰還したとき,この家を1万2000ドルで買ったんだ」などという発言が聞かれる。これを聞くと家を買ってすさまじく儲かったような印象を受ける——だが当時に比べると,消費者物価そのものが10倍にもなっているのだ。この間の住宅価値は,実質では倍増したくらいかもしれない。つまりは年率1.5%ほどの価格上昇でしかない。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.230

文脈の重要性

 こうした結果を一般化してみると,貯蓄を決めるに当たっては,文脈や観点がきわめて重要になってくるのは明らかだ。心理的な枠組みを考えれば,学生たちやハーバード大学の助教授が何を考えているかも見当がつく。両者の貯蓄に対する反応は自分がどんな存在であるべきかという目下の見方を反映している。新任のハーバード大学助教授を考えよう。博士課程を(やっとのことで!)終えたので,当然ながら誇らしく思っている。しかも職場はハーバード大学——世界の大学の頂点だ。考えるのは何よりも,ハーバードに採用してくれた期待に応えることだ——はるか将来の,こともあろうに引退後の話を云々している書類書きなんかどうでもいい。学生たちも似たようなことを内心で考えている。かれらが考えているのは,世界に華々しく打って出ることだ。その時点での思考の枠組みだと,貯蓄率について考えるなどというのは何か変なのだ。キャリアが始まってもいないのに老後を考えるなんて不適切に思えるわけだ。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.184-185

インフレへの反応

 経済学者と一般人はまた,インフレについてどのくらい心配するかという点でも大いに意見が異なる。以下の分に賛成する一般人は86%だが,経済学者だとたった20%だ。「今後数十年で大学教育の費用が何倍になるといった予測を見ると,不安を感じる。こうしたインフレ予測を見ると,自分の所得はこういう費用ほどは上がらないんじゃないかと思う」。一般人と経済学者は「賃金が上がったら,その分だけ物価が上がった場合であっても仕事にやりがいを感じる」という文についての反応もちがう。経済学者の90%はこの文に賛成しないが,一般人だと反対するのは41%にとどまる。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.170-171

弱い相関の中で

 そして統計はまさにそうした関係を示している——しかもかなり強く。経済学は,弱い相関がやたらに出てくる分野だ。国民所得や雇用に関するいちばん優れた経済モデルでも,明日の所得は今日の所得にトレンド調整をかけたもの(つまり所得はトレンドに対して「ランダムウォーク」),といういい加減な予測に比べて,ほとんどましにならない。教育と経験を併せても,週給差を比較的わずかしか説明できないのも知っている。だがそれに対し,失業が増えると,辞職ははっきりと経る。辞職と失業の間の単純相関だけで,変動の4分の3が説明できてしまう。失業が1パーセントポイント上がると,従業員100人当たりの辞職数は1.26件減る。この辞職率の変化は,失業がまさに市場の捌ける(市場が均衡する)金額を超える賃金によって生じているのだとわかる。これはもちろん,効率賃金理論の予測とずばり対応している。この見方によれば,失業が上がれば労働の需給ギャップが増す。既存賃金で働いている人々は,自分がラッキーだと悟る。転職したら給料がどうなるかがわからないから,いまの仕事をなかなかやめようとは思わない。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.156

機会費用

 その他あらゆる商品の需要と同じく,この需要も収入だけでなく,商品の価格やコストにも左右されるはずだ。ここでのコストとは「そうした(無利息の)当座預金を持っているコスト」ということになる。経済学者の大少なお話によると,人々はときどき(無利息の)銀行預金が多すぎたり少なすぎたりしないか考えるのだという。持ちすぎだと思えば,証券とかその他のものを買って銀行預金を減らす。そして少なすぎたら,お金を借りたり支出を抑えたりして,残高を増やす。この検討の頻度は,お金を手元に持つコストに依存する。そのコストとは何か?無利息で銀行に入れるかわりに何か持っていたら稼げるはずのお金が,そしてそれがまさに利子率——お金を手元に置くことによる機会費用だ。利子率はお金を保有することの「値段」なのである。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.114

天才だと思う

 1920年代に起こったのはそういうことらしい。多くの人は本当に,自分たちの成功は自分が投資の天才だからだと信じていたようだ。それが単に,市場全体が上がっていたので何を買っても儲かっただけのことなのははっきりしていたはずなのだが。天才投資家の物語があっさり信じ込まれた。サミュエル・インスルは,当時の伝説の投資家だった。かれの会計士はのちにこう述べている。「銀行家たちは,雑貨屋が主婦にご用ききするみたいな感じで電話してきて,お金を押しつけようとしたんです。マッケンローさん,今日はいいレタスが入ってますぜ。インスルさん,今日は新鮮な緑のお金が入ってますぜ。1000万ドルかそこら投資なさりたい物件があるんじゃないですか?という感じで」。インスルが一見した成功をおさめたのは,多額の借入れによる投資のおかげだったので,大恐慌でそれが崩壊するとかれも破産した。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.98

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