忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

協力拒否の理由

 ナショナル・ジオグラフィック協会のジェノグラフィック・プロジェクトは,DNA分析で明らかになった移住パターンに基づいて世界の人々を分類しようとしているが,現在障害にぶちあたっている。DNAから得られる証拠が,人々の人生に深い意味を与える物語と矛盾する場合があるのだ。たとえば,各種の先住民族たちは,自分たちが時の始めからある場所に住んでいたという信念から意味を引き出している。だからかれらの到来時期を確定して,かれらが実は遺伝的には混血であり,まったく気にもかけていないような人々と遺伝子を共有しているという報せは,ひどい幻滅をもたらしかねない。北米の主要部族のほとんどはこのプロジェクトへの参加を断ったし,世界の他の部分でも先住民たちが大きく抵抗している。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.77
PR

腐敗や背信行為がなくならないのは

 新手の腐敗や背信行動がときどき生じてくるのはなぜか?答えの一部は,そうした行動への罰に対する認識が時代とともに変化するということだ。政府による大規模な腐敗摘発の記憶はだんだん薄れる。腐敗活動が広まっている時期には,多くの人はそれでも逃げおおせられるんだという印象を抱く。みんなもやっているのに,罰なんか受けないじゃないかと思えるのだ。ある意味で,そうした時期に原則順守を怠るのは,完全に合理的な行動なのだ。ある時代で原則が堕落するのは,社会的な浸透の反映もある。たとえばラージ・サハが記録したように,ある種の犯罪に対する罰の可能性についての情報が,個人的な知り合いの網の目を通じて広がったりする。こうしたプロセスは安心乗数の一部かもしれない。腐敗がさらなる腐敗へとフィードバックされるからだ。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.56

資本主義の欠点

 だが資本主義の収穫には少なくとも1つ,欠点がある。それは人々の本当に必要とするものを自動的に作りだしてはくれないということだ。資本主義が作るのは,人々が必要だと思っているものだ。みんなが本物の薬に喜んでお金を出すなら,資本主義は本物の薬を作る。でもみんながガマの油に喜んでお金を出すなら,ガマの油を作る。実際,19世紀のアメリカではインチキ特許による製薬が一大産業となっていた。1つだけ例を挙げると,ジョン・D・ロックフェラーの父であるウィリアム・ロックフェラーは巡業詐欺師だった。かれは馬車で町に乗り込み,ビラをまき,呼び込み屋を雇って自分の到来を告げ,町の広場で自分の奇跡の治療について講演を行い,ホテルの部屋で顧客に謁見した。ロックフェラーの父親には詐欺の才能があったようだ。かれの息子はその遺伝子をもっと建設的なものへと向けた。その事業もまた毀誉褒貶激しいものではあったが。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.38

安心

 経済学者は安心という意味について独特の解釈をしている。多くの現象は,2ゆ(あるいはもっと多く)の均衡を持つのが特徴だ。たとえば,ハリケーン・カトリーナの後でだれもニューオーリンズの家を再建しようとしないなら,それ以外のみんなだって再建しようとはしないだろう。ご近所もいないし店もないというのに,だれがそんな無人の荒地に住みたいだろうか?でももし多くの人がニューオーリンズの家を再建しようとしたら,それ以外の人たちも再建をしたがるだろう。ということで,ここには2つの均衡がある。1つは再建が行われる良い均衡だ。われわれはこれを安心がある状態だという。もう1つは,再建が行われない悪い均衡だ。これは安心がない状態だ。この見方だと,安心というのは予測でしかない。この場合は,他の人が家を建てるかどうかという予測となる。安心のある予測は,未来がバラ色だという予測だ。安心のない予測は,未来が暗いというものとなる。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.14-15

よくあること

 こうみてくると,国家主義イデオロギーは,「共感」や「盲信」などの内面化というよりも,建前用語と建前文法として手形が切られ流通し,物象化してしまった面が大きい。公的立場の人々の同調についても受験生の試験における対応策と相同な構造がみられる。公人は,国家主義の建前尊守のために公的言説をすることを盲信者たちから強く要請される。時局柄ということで,とりあえず国家主義的言説を演説などで披露する。
 ところが,公的立場の者がいったんそうした言論を口にすると,つぎは,その言説を盾に実践との食い違いを追及される。言説の同調から実践の同調を迫られる。政敵や論敵を窮地に陥れるために,こうしたイデオロギーを武器にするということもおこった。あるいはまた,皇室関係の記事に間違いがあるとでかけていき,国家主義の建前から金品をせびるというゆすり行為,また皇室の名前が入っている品物を学校に売りつけようとする暴力団の脅迫まがいの行為がはびこった。買わないのは教育者にあるまじき行為だというのである。内面化の有無にかかわらず,儀礼的・戦術的同調実践をつうじてイデオロギーはますます猛威を振るったのである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.186-187

入試科目へ

 国体明徴の言説は論壇や出版界だけでなく,入学試験にまでおよんできた。昭和9年に官立高等商業学校校長会議は,「入学試験ニ際シテハ試験科目中ニ『国史』を加フルコト」を決定し,翌年から,官立公立高等商業学校で国史が入試科目になる。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.183

誠実だからこそ

 中西は話に熱中すると,吸いかけていた煙草をよく消さないで洋服のポケットに入れて,ポケットから煙が出てしまうというほどのいわゆる「アブセント・マインデッド・プロフェッサー」(考え事に熱中して他のことをすっかり放念する教授の意)の典型だった。学問が好きな愛すべき誠実な教授だったが,とても気が弱いハムレット教授だった。ハムレットだからこそ,ひとつの派閥で筋をとおせなかったのである。慢性派閥病の経済学部の中で苦悩し,階段でたたずんでいたことも一再ならずの逸話が残っている。
 そういえば昭和40年代の全共闘運動がキャンパスを席巻したときに,中西教授のような誠実なハムレット教授がよくいた。全共闘運動が勇ましいときには,全共闘運動シンパとなり,落ち目になると秩序派に変わった教官である。たしかに,あとになってそうした教授の動きだけをみると,機会主義者のようではあるが,当人の主観世界に寄りそってみれば,事情はまったく反対であった。かれらはきわめて「誠実」な教授だったから,そのときの空気に正義を感じてしまう。空気が変われば,新しい空気に馳せ参じなければいけないとおもう。誠実であればこそ状況に振り回されてしまうのである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.180-181

みな仲間外れはイヤ

 こうしたキャンパス文化のもとでは,マルクスやレーニンを知らないのは言語道断。いくらかでも異論を唱えればバカ者扱いされた。戦後の大学に昭和初期のキャンパス文化が再現されたのである。だから,保守派教授は,学識いかんを問わず,無能で陋劣な教授にみられがちだったし,左派に同情的な教授はそれだけで話のわかる良心的教授だった。左翼に媚びているとおもわれる教授も少なくなかった。いまとなってみれば,「仲間はずれになるのがいやだった」のは学生だけではない。教授たちも同じ圧力にさらされていたのである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.144-145

多数に流れる

 そして,杉森は当時の高等学校の左傾的雰囲気に追随した自らの心理をつぎのように分析している。こうした雰囲気では,共産主義に疑問を感じていた者でも,激しい嘲笑と罵倒をおそれて沈黙せざるをえなかった。左翼の英雄気取りの指導者に違和感と疑問を覚えながらも,正義を御旗にしたかれらに反抗することは,「時代を理解しない頑固者」というレッテルを貼られることになる。革命がくるにちがいないとおもったことはたしかだが,他方では「仲間はずれになるのがいやだったのだと思う」と。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.142

派閥の温床

 大学教授の仕事は研究室や教室という独立王国の中でおこなわれる。日常的コミュニケーションの必要と機会が少ない。にもかかわらず人事は選挙だからたえず同僚間の票読みをしなければならない。自分にかかわる人事であれば,票固めもしなければならない。誰が賛成したか,白票を投じたかは無記名投票だからわからない。疑心暗鬼が生まれやすい。陰謀(集団)の存在も「妄」築されやすい。
 学者という,いささか偏屈な,ということは思い込みの強いキャラクターとあいまって,大学は派閥菌繁殖の温床なのである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.125

じょて

 助手は事務職員から「じょて」と呼ばれる場合さえもあった。戦前は技師(技士)の補助職に技手(正式名称は「ぎしゅ」)という職種があったが,その呼び方を真似て助手が「じょて」と呼ばれたのである。
 戦前の技術職の身分階層は,帝大卒が「技師」,高等工業専門学校卒が「技士」であり,「技手」は工業学校などの中等教育卒業者から補充された下級技術職だった。だから「じょて」と呼ばれると,「多分の軽蔑のよび方としか思われませんでした」(大河内一男『暗い谷間の自伝』)といっているのも,下級補助職の「技手」を連想したからであろう。もっとも明治25年までは帝大の「助手」の官名は「技手」だったから,「じょて」という呼びかたは助手のもともとの呼称からきていたのかもしれないが。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.62

私語の問題と連動するのは

 学生の私語が問題となったのは,たしかに大学の大衆化と消費社会がはじまる時代だったが,複写機の普及があり筆記学問がなくなり,他方で,休講をよくないことだとしはじめた時代——多くの大学で休講の理由を掲示板に記載するようになり,休講をした場合は補講をしなければならなくなった時代——と対応していることに着目したいものである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.50

私語が少なかった理由

 私語のない(少ない)秘密が大学の講義がいまよりも魅力があったからではないことは,これまでみてきたとおりである。それでも昔の大学教授が私語に悩まされなかったのは,高等教育進学率が同年齢のせいぜい数パーセント以内という超エリート高等教育の時代だったことや,勤勉や忍耐が美徳であった時代背景によるものであろう。しかし,理由はそれだけではないだろう。なにか仕掛けがあったはずだ。案外,休講の多いことが退屈な授業の緩衝材になっていたのではないだろうか。
 私にもおぼえがあるからである。よく休講する教官がいたが,また来週休講かとおもえば,せめて,開講されているときはしっかり聴いてノートをとっておこうという気になったからだ。
 しかし,昔の大学に私語が少なかったもっと大きな理由は,日本の大学の授業形態が,教授が教壇でいうことをひらすらノートに筆記する「口授筆記」だったからだろう。
 こういう講義形態や学問伝達については,学生を「筆耕生」や「タイプライター」「筆記労働者」に対する「講義筆記」や「筆記学問」と呼ばれ,批判されていた。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.47-48

当然の開講の遅れ

 そもそも,学生便覧に書いてある授業開始日よりも実際の開講日が1週間程度遅れるのは,ヨーロッパの大学の慣習にしたがったのだという説もある。アカデミック・カレンダーのDates of Termと実際に講義のあるDates of Full Termのちがいで,両者のズレの期間は教官と学生が講義と受講のための気構えをふくめた準備の期間なのだという説(小野山節「教官の開講日と授業開始日のズレ」『京大広報』557号,平成13年)である。しかし,私の京都大学の経験では,第1回目が休講になるどころか,2回目からはじまる授業もまれだった。4月終わりから,なかには5月はじめに第1回目がはじまる授業さえあった。
 これは京都大学だけの傾向だけではなく,東京大学でもそうだったようだ。敗戦後の女子東大生のパイオニアであった影山裕子(昭和29年東大経済学部卒,もと日本電電公社本社経営調査室調査役)は,入学して教授の休講が多いのでびっくりした。「1年を平均すると,3分の1は休講だったように思う。休講でない時も,30分遅く来て20分早く切り上げて帰る」,と当時の休講模様について書いている(『わが道を行く』)。
 だから学生は開講日の掲示をよくみる必要があった。京都大学の新学期の掲示が開講日方式でなくなった時期は,学部によってちがったようである。私の学んだ教育学部では,昭和60年に私が教官として赴任してきたときにも開講日を掲示する方式だった。私立大学講師から転任してきた私には開講日方式の告示に奇異な感じがしたことを覚えている。京都大学教育学部で開講日方式がなくなったのは平成に入ってからだったとおもう。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.45-46

二文字学部

 ところで,この時代の大学関係者は,経世済民からとった経済という言葉に馴染みはあったにしても,「法」科大学や「農」科大学で一文字学部名称に慣れていたから,「経済」学部という二文字学部名称をやや奇異におもったかもしれない。軽いイメージももったかもしれない。
 第二次世界大戦後は「社会」学部や「教育」学部など二文字学部は自然になる。「政治経済」学部や「獣医畜産」学部のような四文字学部も多くなってくる。それでもいまから20年ほど前,四文字学部は全体(四年制大学)の2%にすぎなかった。当時は五文字学部がひとつあっただけ(「人文社会科」学部)。
 ところがいまでは,四文字学部どころか,「国際文化交流」学部や「情報社会政策」学部のような六文字学部もある。「ソフトウェア情報」学部のように,カタカナと漢字が混じり,相当長い学部名もある。四文字以上とカタカナ混じり学部は四年制大学全体の17%(平成11年)も占めるにいたっている。いまや二文字学部は「奇異」や「軽い」とおもわれるどころか,伝統的あるいは守旧的な学部名称になってしまった。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.38-39

知識階層のマルクス主義

 マルクス主義や社会主義は,明治時代から紹介され,知られてはいた。しかし,河上肇などの一部を除けば,まだまだ大学人の思想にはなりえていなかった。明治38年,河上肇は『読売新聞』に「社会主義評論」を連載したが,当の学生たちは,この論文の東京帝大教授攻撃——1章でみた七博士が対露関係で政府を批判しながらも,大学教授の椅子にしがみついていることへの非難(「京童のいへりき,本郷の大火事。火炎万丈天を焦がさんとするの勢ありしも,文部の一ポンプ容易く之を消防し得たりと」)——を痛快がるだけで,「議論の本質たる社会主義に共鳴するものは殆どなかった」(吉野作造「日本学生運動史」)。森戸辰男も大正時代半ばまでの社会主義研究についてつぎのように顧みている。当時,社会主義の研究は,「民間の『主義者』によるのであって,大学を中心とする公の学界からは,ほとんどタブーとされていた」(「経済学部発足の頃」),と。
 したがって,大正時代半ばまでの社会主義者やマルクス主義者は,しばしば「ごろつき」や「無頼漢」の代名詞だった。せいぜいが,「労働者あがり」の教養や社会運動とみなされがちだった。マルクス主義が大学生や旧制高校生を中心に学歴エリート集団にひろがりはじめたのは,大森の第一高等学校卒業前後の大正時代半ばからだった。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.30

東京の中学校

 当時,東京府には私立中学校は28校もあったが,府立中学校は4つしかなかった。府立一中(東京府立第一中学校,麹町区,日比谷高校の前身),府立二中(北多摩郡,立川高校の前身),府立三中(本所区,両国高校の前身),府立四中(牛込区,戸山高校の前身)である。大森が進学したころの各中学校の入試倍率は,それぞれ6.8倍,1.1倍,3.6倍,5.3倍。この入試倍率にみることができるように,名門校は府立一中,府立三中,府立四中だった。下町の秀才校が三中で,山の手の秀才校が一中と四中だった。
 大森が中学校を卒業した年の(旧制)高等学校進学者の割合を大きい順にみると,府立四中(39%),府立一中(29%),府立三中(4%),府立二中(2%)である。一中と四中は卒業生の3分の1が当時の最難関校である高等学校に現役進学している。一中と四中が神学名門校であることがわかる。大森は自宅から近い四中に進学した。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.28

左傾

 ここで当時の用語である「左傾」について説明しておこう。「左傾」は,評論家新居格(1888〜1951)によって大正時代につくられた語である。「左傾」は「赤化」と同じように,マルクス主義などの「左」翼思想に「傾」ことである。したがって左傾教授(学生)とはマルクス主義などの左翼思想にコミットした左翼教授(学生)のことである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.15

バナナの有機栽培

 有機栽培は,環境と労働者(とりわけ有害な化学薬品を扱わなくてよくなる人々)にとっては好ましいが,これはバナナ産業がもっとも早急に克服すべき“生き残り”という課題の答えにはならないだろう——それが実情である。広大な農場が開ける低い土地では,有機栽培でバナナを育てるのは難しい。仮にそうした土地で育つとしても,ブラック・シガトカ病や他のバナナの病気に感染した土地から隔離し,清浄な土壌に植える必要がある。バナナ会社が何十年も繰り返してきたように,新たな森の開拓なくして,それを実行するのは難しい。だが,グロスミッチェル時代に新しく開かれたプランテーションがそうだったように,最後には病気にかかるだろう。抵抗力の弱い果物の世界では,オーガニック・バナナはその本質からして分が悪い。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.317

バナナの遺伝子組換え

 バナナはまた,バイオテクノロジーの反対者がよく口にする,“自然はあと戻りできない”という問題とも関係がなさそうだ。遺伝子組み換えをした食品を自然環境のなかに解放すると,野生に奇妙な変異が発生し,将来的な健康への悪影響や環境破壊が懸念される,という問題がある。だが実際,そのような懸念はバナナとは無縁だろう。バナナは不稔である。子どもができない。食用のために遺伝子組み換えが行われたバナナは,種も花粉もない。道をはずれた作物が自然界に流入して,受精により旧来の作物を汚染するようなことは,バナナの世界では起こりえない(一方,世界じゅうの多くの場所で,トウモロコシにこの現象が起こっている。その地域の作物が交配によって雑種となり,もはやオリジナルの種を見きわめられなくなっているほどだ)。こうしたリスクが除外できるのなら,遺伝子組み換えバナナは,とりわけアフリカのような地で,どれだけの恩恵をもたらしうるのだろう。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.292

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]